4.勇気ある者はいない
二人が歩いていく方向にはこの時期にしては珍しく人だかりができている。日常の中ではやや異質な雰囲気も発せられている。だが、二人は自分の感情にとらわれていて、だいぶ距離が詰まるまでそのことにちらとも気づかなかった。
「あれ。なんでしょうね」
「なんだ? 何かあったのかな」
立ち止まった蕎麦屋の前で向こうの様子を伺っていたところ、店主らしき人間が客と何やら声を潜めて話しているのが耳に入ってきた。
「最近はおとなしいかと思ったが」
「一はまだ帰ってこないのかねえ」
「毎度のことだが……二や三はいったい何をしているんだろうねえ」
「今日はもう商売にはならないな。かといって今店を閉めたら奴らに因縁をつけられるかもしれないしなあ」
難しい顔でため息をついた店主、そして客が、ちらりと、とある方向を見やった。
それにつられて視線を動かした二人の前で、人だかりに偶然隙間が生じた。
「なっ……」
目に飛び込んできた光景に二人の思考が瞬時に固まった。
人だかりの中央では一人の幼子が空中に浮かんでいた。
背の高い男が幼子の衣を襟元で掴んで片手で持ち上げていたのだ。
やけに筋骨隆々とした体からも、その顔つきからも、この男が加虐的な嗜好を持ち合わせており、かつ理性的ではないだろうことは容易に想像がついた。
丸太のごとき太い腕によって空中で乱暴に揺らされている幼子は五歳くらいだろうか。顔面蒼白で泣く寸前になっている。だが実際には泣いていなかった。声を出すどころか泣くこともできないほどの恐怖にとらわれていたからだ。
「ほれほれ、さっきの威勢はどうした」
男のそばにはいかにも同類といった感じの男が二人いて、幼子に意地悪い笑みを向けている。
「ああ? なんとか言ってみろよ」
「……やめてくださいっ!」
女――いや、少女だ。
珪己よりも年若いであろう高い声がした。
人の群れで見えないが、その少女は男達のすぐ近くにいるはずだ。
「弟を放してっ!」
「何を言ってやがる。お前の弟が俺達にぶつかってきたんだろうが」
「弟は生まれつき足が悪いんです! ゆるしてくださいっ……」
群衆は付かず離れずの距離でこの四人を取り囲んでいる。とはいえ無体な男どもを誰一人制止しようとしないのは、彼らとて怖いのだ。弱き者が悪しき者になぶられる様など、誰だって見たくないし関わりたくない。これはそういった部類の事件だった。
だが誰もが離れることができずにいる。それもまた人ゆえのことだった。人が有する正義感、または同じ街に住む運命共同体としての仲間意識ゆえに、離れることができずにいる。中には第三者的な、そう、観察者としてこの刺激的な事件を味わおうとしている者もいるはずだが……いずれにせよ全員の心理状態や留まる理屈を理解することなど不可能だろう。
狼藉者達による一方的な行為は続いている。
「謝ればなんでもゆるされると思ってるのか。ああ?」
憤っているふりをしながら相手を見下すことで己を上位に置こうとする――その言い草はまさに悪人特有のものだ。
「弟を放して……!」
姉は弟を取り返そうと、とうとう弟を捕らえている男の裳(下半身に巻くスカートのようなもの)を掴み揺さぶりだした。第三者から見れば男達に振り回されているだけなのだが、人質をとられている弱者側にとっては必死にならざるを得ないのだろう。
なんてことのない力で揺さぶってくる姉に、にやりと笑った男達が視線をすいと交わした。『餌』がかかったことを確認し合ったのだ。
「放してほしいか」
「当たり前でしょ!?」
「だったらお前が弟の代わりに償うか?」
「えっ……」
不思議なことに、これをきっかけにして群衆が共有していた緊張の糸が――切れた。
周囲の空気に一筋のほころびが入ったことが、珪己や空也のいる側にまで伝わってきた。
「……かわいそうに」
珪己と空也の後ろでは先ほどの店主と客が会話を再開していた。
「あの姉弟は運が悪かったな」
「そうだな。災難だったと諦めるしかないな」
「どうしてそんなことを言うんですかっ?」
急に振り向いた妊婦――珪己の形相がやけに険しく、二人は驚いたものの、ぱっと見で珪己がよそ者であることを見抜くと懇切丁寧に説明した。
「あのちび達はこの街で一番の悪党にからまれるようなことをしてしまったんだから仕方ないのさ。しかもあいにくなことに、あいつらを抑えられる一の奴らが今は不在だからな」
「一?」
「お前さん、一番隊のことも知らないのか? どこの屯所でも一といやあ最強の部隊のことを言うだろう。さ、お前さんもさっさとここを離れた方がいい」
「どうしてそんなことを言うんですか⁈」
興奮気味の珪己に、「見てみな」と客の方が顎をしゃくった。
「他の奴らも同じことを考えているよ」
確かに――集まっていた人々が四方八方へと緩やかに散り始めているではないか。
一人、二人とその場を離れていく。
その離脱した人間から何か引力のようなものが発せられているのだろうか、あれほど微動だにしなかった群衆にほころびが生じた途端、一気に崩れていった。
やがて――人垣が消えたことで問題の場面が珪己達にもはっきりと見えるようになった。
幼子は今も泣くのを懸命に堪えている。その下では姉である少女が手を放すよう必死で乞うている。だが男達はこのお涙ちょうだい的な状況に感化された様子はない。それどころか表情は下卑たものへと変わっていくではないか。反対に、少女の威勢がみるみる弱くなっていくのが手に取るように分かった。
幼子の首根っこを掴む男は、全身を見れば回れ右をして逃げ出したくなるほど立派な体つきをしている。同類の残る男二人と揃うと、その威圧感は恐ろしいほどだ。
しかも彼らはその腰に長剣を携えていた。
この国で、往来において堂々と剣を携えられる人間は皇族と武官しかいない。
当然、彼らは皇族ではない。武官に決まっている。武官の証である茶一色の衣を身に着けていないから非番なのだろう。なのに剣を携帯しているあたり、職に対する誠実さに欠けていることがうかがえる。
ぶらさがる長剣からごく近い距離で弟のために必死に食い下がっていた少女は、その時には何も見えてなかったのだろう。しかし今、冷静になってあらためてこの状況を俯瞰できるようになり、真っ白な顔をうつむけていた。まるで奴隷に堕とされたかのように。
人々が引き潮のように離れていくうちに、男達と姉弟の応酬は最終局面を迎えようとしていた。
「手間をとらせるんじゃねえ」
「あっ……」
「さっさと来いっ!」
抵抗虚しく、細い二の腕を掴まれた姉が強引に歩かされ始めた。
「……姉ちゃん!」
突如、空中で幼子が暴れ出した。
半ば死んだようにおとなしくしていた、いやせざるを得なかった幼子が、姉の危機をきっかけに突如覚醒したのだ。だが幼子の抵抗など彼らにとっては子猫同然、なんら痛くもかゆくもないようで、
「さあて。行くか」
「んだんだ。隊長がお待ちだ」
「お前ら、たんと遊んでもらえよ」
がはは、と高笑いをあげながら往来の中央を堂々と闊歩していく。
その道を誰もがそっと譲っていく。
目の前に立ちふさがり子供達を救おうとする勇気ある者は一人もいない――。