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3.女とは難しい生き物

 珪己の顔を見るや喜色満面で出迎えてくれたのは番台に座る親父だった。


「おおっ。嬢ちゃん、元気になったんだな」


 この親父は常にここにいる。


「おおーい! 母ちゃん! 嬢ちゃんが来たぞ!」


 言い終わるかどうかといったところで、番台の後ろに掛けられた暖簾をくぐって女将が出て来た。


「あんた、それだけ大声で言えば厨房にまで聞こえるよ!」


 右手に包丁、左手に大根を握った状態で親父を一睨みした後、


「おやまあ! だいぶ元気になったようだね」


 こちらも花が綻ばんばかりの最上級の笑顔で出迎えてくれた。


「お久しぶりです。あの……私のことを探すのを手伝ってくださってありがとうございました。お見舞いにも来てくださったのに、あれから直接お礼を言うこともできずにすみませんでした。それと差し入れも……」


 これまでの不義理を補うために、立て続けに言葉を重ねていく珪己のことを「ああもう、いいってことよ」と女将が笑顔で制した。


「顔色もいいね。見舞った時はあんたの寝顔だけ見て帰ったんだけどさ、あんまり頬がこけていたから心配になって餅をこしらえたのよ。でもよかった。安心したよ」

「そうだったんですか……」


 語尾が消えそうになったのは、無防備な寝顔を見られた恥ずかしさと、この夫婦の優しさに感じ入ったからだ。


「本当に、本当にありがとうございました」


 腹が邪魔だが、珪己は限界まで頭を深く下げた。そうすることでしかこの感謝の気持ちを表すことはできなかったから――。


 これに夫婦そろって困ったような、照れたような表情になった。


「とはいっても、うちらも全然役に立てなかったしねえ。結局最後はあんなことになっちゃったし」


 女将が最大限ぼやかした言い方をしたのに、親父の方はこの発言に触発されて率直に問いかけてきた。


「旦那の方の体調はどうなんだ? 空也と一緒ってことは、まだ歩くのは無理なのか?」

「こら! あんた!」

「おお、うるせえ。なんだよ、急に耳元で怒鳴るなよ」


 顔をしかめてみせた親父に、「ほんとあんたは馬鹿だよ」と女将がさらなる追い打ちをかける。しかし当の本人はなぜ怒鳴られたのかまったく理解していないようで、


「ふへっ。年取った女は感情の起伏が激しくてかなわないや」


 口の中でのつぶやきは女将には聞こえていない。


 だが若い二人にはしっかり聞こえている。


「晃飛さんも家の中では杖を使って歩けるようになりましたよ」


 吹き出しそうになるのを堪えつつ、そういえば晃飛は夫ということになっていたなと思いつつ、珪己が答えていく。


「念のため、折れた骨がきちんとくっつくまでは家で養生することになっていますけど。でも最近はいい湿布をもらえてだいぶ楽になったみたいです」

「そうかい。やっぱり若いと回復が早いなあ。怪我したばかりの頃はさ、そりゃあひどい有様で見られないほどだったからな……って、いってえ! 何すんだ! あ、俺の頭を大根で殴ったな⁈」


 その瞬間を目撃していた二人は口がぽかんと開いている。


 折れた大根の根本、緑がかった方は今も女将の手にきつく握られたままだ。


「そうだよ。馬鹿は殴るしかないだろ?」

「なんだってえ⁈」


 とうとう二人を無視して夫婦で口喧嘩の応酬が始まった。


「……やっぱ女って全然弱くないのな。それともあれか、俺の周りには強い女しかいないのか?」


 あっけにとられた空也がそんなことを呟くものだから、珪己はとうとう笑ってしまった。


 *


 二人は女将の手料理を昼餉にいただき、それから宿を後にした。


 久しぶりに氾兄弟や晃飛以外の人間と密な時間を過ごし、珪己は強い充実感に満たされていた。


 思い起こせばこの街、零央へと来てから、関わる人間はごく限られたものとなっていた。それは致し方のないことだったが――異なる人間と関わる時間の大切さは、こういう時だからこそ身に染みて分かるというもので。


「なんか、すごくすっきりした顔してるな」


 そう言う空也も同様の顔つきになっている。


「また今度行こうぜ」

「はい!」


 親父と女将からも「また顔を見せに来な」と気安く言われている。それが去り際の客にかける常とう文句ではないことは、誰に訊ねなくても二人には分かっていた。


「でも今度は兄貴も誘わないとな。俺らだけで行ってたらずるいもんな」


 そういう空也の手には、家にいる空斗と晃飛へのお土産――川魚の煮付けを包んだもの――がある。これもまた夫婦の心遣いだ。


「だったら今度行く時は私達も何か料理を作って持参しませんか?」

「おっ! それいいな」


 だったらちょっと市に寄って食材でも見ていくか、と盛り上がった結果、家路へと向かいかけていた二人の足はさらなる経由地へと方向転換していた。


「疲れてないか?」

「全然平気です。さっきまで座ってましたし。それに韓先生も雨渓さんもたくさん歩けって言ってましたから」


 韓も雨渓もちょくちょく診察に来てくれている。


 そのたびに珪己が口をすっぱくして言われていることが――。


「私、これ以上太ったらいけないんです……」


 妊娠初期から珪己の心身を乗っ取っていた存在――それが取り払われた今、食欲のままに食べれば体重も増えていく、いわゆる普通の体に珪己は戻ってしまっていた。以前との違いについて珪己は意識していないが、過保護な晃飛や世話好きな空也、自身の仕事に実直な空斗に囲まれているこの状況ではどうしたって太らざるを得ず――。


 なのに韓や雨渓は珪己の顔を見るたびに『これ以上は太るな』と苦言を呈してくる。


 しかし、栄養はしっかり摂れと矛盾したことも言われている。


「えー? そこまで太ってないと思うけどなあ」


 のんきな空也に、珪己が強く言い返した。


「前に比べたら太ったんです」

「そうなのか?」

「ほら、この二の腕見てくださいよ。たぷたぷしてますよね」


 冷気をものともせず、外套をまくり、上衣の袖までまくって生身の二の腕を晃飛に見せつける。


「……そうか?」

「筋肉が減っちゃったし、全体的にやわやわしてきちゃったんです。ううう」

「やわやわ? ぷぷっ」


 嘆く珪己には悪いが、空也には珪己が太っているようにはまったく見えなかった。


 開陽ではぶ厚い肉を全身にまとう人間を幾人も見かけたことがある。それこそもう、猪や豚のような体格の人間を。思い出すだけで吹き出すほどの珍獣的人間を。


「あ、笑いましたね。今、笑いましたよね?」


 真剣に悩んでいるからこそ、ゆるせない。


「怒りますよ!?」

「分かった、分かった。ごめんって」


(そういえば……先輩の誰かが言ってたな)


 目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら空也は思い出した。女に『太った』は禁句なのだということを。


 代わりになんて言うべきか、というと――。


「今でも十分かわいいぜ」


 これに珪己がうつむいた。


 もしや感動して泣きそうになっているのかと思ったら、鬼のような形相できっと睨まれた。


「なな、なんだよ。おっかねえな」

「……女心が分からなすぎですっ!」

「ええーっ」

「ふんっ」


 肩をいからせて先へと進んでいく珪己のことを、空也はあわてて追いかける。


「ごめんって」


 だが正直――。


(なんでかわいいって言ったのに怒るんだ? わけ分からん)


 女とは実に難しい生き物だ、と嘆息していた。

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