2.犬よりも猫
ついつい何度も振り返っていた珪己だったが、後ろから晃飛も空斗もついて来ないことを確信すると、ようやく肩の力を抜くことができた。
「二人とも追いかけてこないんですね」
これに隣を歩く空也が「来るわけないよ」とやけに自信ありげに答えた。
「あの二人が一番気にしてることを突いてやったんだぜ? ちょっとかわいそうなことをしたとは思ってるけど、でもあれくらいでちょうどいいんだ」
兄・空斗に対する常日頃の鬱憤、それに対するささやかな報復も兼ねていたのだろう。とはいえ、そういう空也も珪己によく似た表情をしている。それに先程晃飛のことを説得しようと試みてくれたのはその空斗だ。だがすぐに気分を切り替えてきた。
「せっかくの時間を無駄にしたらもったいないよ。あの婆さんの言う通り、俺達は変わるべきなんだ。変わるって決めたら今すぐ変わるべきなんだ。だろ?」
これに珪己は「はい」と満面の笑みで同意した。
確かに晃飛にも空斗にも悪いことをした。二人はただ純粋に、それぞれの相手を慈しみ大切にしたいと望んでいるだけだからだ。他人でしかない自分達へそのような無償の想いを抱いてくれること自体は非常に尊いことで、光栄でもある。とはいえ、過ぎた干渉はよくないとも思うのだ。自分にとっても、相手にとっても。健全な関係を続けたいのであれば、余計に。
雪が溶けた部分がぬかるみになっているところを、大きな腹をものともせず珪己がぴょんぴょんと飛び越えていく。
「ああ、気持ちいい! 自由に空の下を歩くことができるのって、こんなに気持ちよかったんですね!」
空の青さと高さは、限られた区域で過ごしていた時とは比べものにならないくらい素晴らしい。足取りの軽さには珪己の内面が率直に表れている。外出すると決め、楽しむと決めたのは自分達だ。ならば今は全力で楽しもう、と。
珪己の後ろを空也はほのぼのとした気持ちでついていく。
(そういや、同年代の女の子とこうして歩くのって初めてだな)
幼少の頃のことは記憶から抜け落ちているし、あの年頃にとって性の違いは何ら意味をもたらさなかった。そういったことに空也の意識が向くようになったのは、武官となって開陽に住みだしてからのことだった。
『お前ら新人でも行けるような店を紹介してやるよ』
とある夜、都の構成員で酒楼を出た後、小指をたてた先輩がちょっと気味の悪い笑みを浮かべてこう言ったとき、正直空也には意味が分からなかった。理解もできなかった。
さっきしこたま飲んでたじゃないか?
まだ腹に入るのか?
だがそれを口にする雰囲気ではなくて、『眠いんでやめときます』『先帰りますね』と店の前で別れたのだが――次の日になって疑問は解けた。
先輩は十分すぎるほど飲んでいたし、もう腹に酒が入る余地がなかったのは推測通りだった。満たされた男が次に行きたくなる店というのは妓楼だったのだ。――それが空也が女や性を意識するようになったきっかけだった。
だが武官とは、この時代忌み嫌われる職業の一つであり、禁軍所属とはいえ禄はそれほどでもなく――空也は恋をするどころか、女人と私事で知り合う機会すら退官まで一度も持ちえなかった。
それは都に所属する誰もが同じで、だからこそ皆はたまの妓楼通いを自らへのご褒美としてゆるしていたわけだが、空也が他の誰とも違う点が一つだけあった。
恋とは憧れであり、女人もまた憧れの対象だったのだ。
「いつか恋をしてみたいんだよね」
二人は団子屋の前に設けられた長椅子に隣り合って座っている。路面に向かって団子を食べながらだと、どうでもいいことから真面目なことまで語りやすい効果があるようだ。
「そういうのずっと忘れてたけど、珪亥に会って思い出した」
「私に?」
「ああ」
冬特有の寒気の中にいるというのに、二人は寒さをまったく感じていない。天から降り注ぐ陽光のいつにない暖かさ。親しい異性との腹を割った会話。先日の雪山での強硬下山の経験、共有。美味い団子。監視の目がないこと。そのどれもが二人を浮き足立たせていた。
「俺の地元、流行り病で女ばかりが大勢死んじゃった時があってさ。特に年の若いのが全滅! あ、村自体は今も成り立ってるんだぜ。外から嫁をもらったりはしているからさ。でも俺くらいの年齢の奴は同年代の女とは会話もしたこともないのが普通だったんだ」
串を持つ手を止めた珪己に、「気にしないで」と空也は笑ってみせる。
その笑みは無理したものではなく、実際、空也はそんな幼少時代の自分を不幸だとは思ったことはなかった。高齢者やその後生まれた赤子の半数は普通に異性だったし、武官となるために故郷を離れてからは年の近い異性も数えきれないほど見かけている。
「でも……女と話す機会は全然なかったんだよなあ。開陽に住んでる時も」
空也の打ち明け話は続いていく。
「かわいい子がいるなって思うことはしょっちゅうあった。でも、どうやって話しかければいいかが分からなくてさ。緊張しちゃうし挙動不審になっちゃうし。近づきたいけど、でも近づかなくてもいいとも思ってた。変だろ? 矛盾してるよな。……でも今思うとさ、俺、女のことを偶像化していたんだと思う」
今もそうなんだけどね、と、すべての団子を食べ終えた串を咥えて空也が困ったような表情になった。でもこちらはわざとらしく作ったものだ。
「でも珪亥と過ごして、女も俺と同じなんだって分かったよ」
「同じ、ですか?」
「ああ。同じ人間なんだなって分かった。それと女って言っても人によって違うことも分かった」
これは何も姿かたちだけのことではない。顔の造りや言動、好みや思想――それぞれが人によって違っていることを総じて個性と呼ぶことを以前から空也は知っていた。だが、『女』とは男に比べて絶対的に弱い存在で、だからこそ、どれほど妙齢の女性でもかわいく見えるのだと信じていたのだ。
けれど空也の隣に座るこの少女は違う。
確かに雰囲気は少女そのものだし、明らかに『女の子』なのだが……けっして弱くない。武芸の腕という意味でも、意志を貫く心の持ちようも、その内面に抱える熱情も――。
何もかもが『強い』。
でも決してかわいくないわけでもない。
平凡にも見える容姿だが、短くない時を共に過ごせば情がうつる程度には愛着が持てる容貌をしているし、やることなすことが必死で、まっすぐで、そういうところはとてもかわいいと思っている。
「俺、珪亥相手だと不思議と緊張しないんだよなあ。なんでだろう」
出会った当初からすらすら会話ができている。変に敬語になることもないし、挙動不審になることもない。
(妊婦だからかな?)
(それとも武芸者だからかな?)
空也の隣で珪己も考え込んでいる。
そこから無言で団子をすべて食べ終えたところで、珪己が分かりやすく閃いたといった顔になった。
「もしかして空也さん、犬が好きじゃないですか?」
ぽんと手を打ち、図星でしょと言わんばかりに瞳を輝かせた珪己に、「生き物全般は普通に好きだよ」と空也は答えた。
「でも。どうして犬?」
「あのですね。実は」
そこで珪己の声が潜められた。
「晃飛さん、犬が好きなんです」
「そうなの?」
「はい。でもって晃飛さん、女の人が苦手なんですよね」
「……そうなの?」
「でも私のことは平気なんです。妹にもしてくれてますし。その理由が、私が犬っぽいからなんですって」
「え? 珪亥が犬?」
思わず距離をとって上から下までじっくりと眺める。
実は空也は珪己のことを猫のようだと思ったことがあった。それは雪山にいた頃のことであり、まだ珪己が正気を取り戻した頃のことだ。今もあらためて見れば、犬というよりも猫に近い。成犬には逞しさや利発さがつきものだが、成猫には永遠の愛らしさが備わっていて、それはまさに空也の考える女人の特性そのものだった。
(女相手に犬にたとえるって……)
(梁さんってやっぱりちょっと変わってるよな)
とはいえ雇い主を否定する気にはならず、「そっか?」と曖昧にごまかすにとどめる。
「でも晃飛さんは私が犬みたいだから平気なんだって言ってて」
「へえ」
「空也さんには私が犬に見えませんか?」
「ちなみに珪亥は自分のことを犬みたいだって思ってるの?」
「いいえ?」
そこはすっぱりと否定する。
「動物にたとえられたのは初めてでした」
「だよね。全然犬っぽくない」
「えー。全然ですか」
自ら否定してみせたとはいえ、こうもはっきりと断言されると、それはそれでもやっとする。
団子屋から離れて歩き出してからもこの会話は尾を引き続けた。
「なら、空也さんが好きな動物ってなんですか」
「そうやって改めて訊かれるとなあ」
腕組みをし、それなりに真剣にこの問いに向かい合っていた空也だったが、やがて面倒になって匙を投げた。
「どれでもいいや」
「なんですか、それ」
「どれでもそれなりに好きってこと。優劣はないってことだよ」
「ああ。博愛主義なんですね」
その言葉が意味することを正確に思い描けず、ここで空也が会話の転換をはかった。
「それよりさ。まだ元気なら杜々屋まで行ってみないか」
「ええっ。いいんですか?」
晃飛の家から杜々屋までは少し距離があるのではなから諦めていたのだが、「せっかくだから行こうぜ」と誘われれば、珪己には断る理由はない。
こうして珪己は長く世話になっていた宿――杜々屋へと、実に半年ぶりに訪れたのであった。