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1.俺達はもう子供じゃない

 珪己が無事に臨月を迎えた、その日。


 ここ零央から遥か遠い開陽では、李侑生は持ち前の器用さと有能さで幾多いる吏部侍郎の中でもさっそく唯人ならない成果をあげ始めていた。逆に彼に仕えていた二人の若き枢密院事のいら立ちは沸騰する寸前でなんとか留まっている有様だった。楊玄徳は新しい部下、枢密副史の徐を気に掛けつつ、自らの職務に常のごとく真摯に、淡々と取り組んでいた。そこには一人娘の安否を憂う父としての顔は一切見えなかった。


 皇帝は今も公の場に姿を見せることをせず、後宮ですら皇帝のおなりが絶えて久しく――淑妃である胡麗これいも皇女である菊花も、各々の沈んだ心持ちに同調するかのような冬の曇天を見上げてはため息をついていた。しかし、趙龍崇は違った。彼一人だけはこれまでの己が失態を挽回せんと異母兄である英龍の代理に奮闘していた。


 開陽から西へ二日ほど進んだ船の中では、侍御史の習凱健が遠ざかる首都に背を向け、己が任、己が疑問に静かに思いを馳せていた。


 逆に零央から南西の方角一帯に連なる山岳地帯では、一人の男が険しい山道をものともしない健脚で下っていた。


 そして――零央ではこの日、歴史的な反乱のきっかけとなる種火が落とされたのである。



 *



 春節が過ぎてしばらくたつと、わずかながらも寒さが和らぐ日が増えてきたことに気づきだすもので、この日はいつになくうららかな陽光に春の息吹を確信できるほどだった。


 なのに珪己はといえば、この家に戻って以降、またしても監禁のごとき生活を送っていた。監禁というと語弊があるが、家から出られず外気に触れることができるのは縁側に面する庭だけ、とくれば、ひと月もたてば息がつまってきても仕方がないだろう。


 様々な事情を鑑みればここから出ない方がいい。


 分かってはいても、こうして竹垣で囲まれた敷地から一歩も外へ出れないというのは心理的にくるものがあるわけで……。


 だから寒くてもつい庭に出ている自分がいる。


 とはいえ、深緑の葉がわさわさと生えている畑も、手を入れたらそれだけで指先が凍りつきそうな小川も、隅の方で群れる名前もよく知らない雑草も、石ころも、乾いた土も――何もかもに見飽きてしまった。


「……外に行きたいなあ」


 思わず呟いた珪己だったが、


「今、外にいるじゃん」


 予期せず背後から声をかけられ、必要以上にびくりとしてしまった。


「く、空也さん! いつからいたんですかっ?」


 これに空也が目を丸くし、やがて腹を抱えて笑い出した。


「なーに言ってるんだよ。俺、さっきからずっとここで掃除してたんだぜ?」


 手に持った雑巾を顔の横で振ってみせる。

 濡れた廊下は表面がつやりと輝いて見るからに清潔そうだ。


 と、その雑巾をぽいっと隅に放り投げて、空也が縁側まで出てきた。


「じゃ、俺と散歩に行こうぜ」


 でも、と言いかけた珪己のことを空也が片手をあげて制した。そして「誰だっけ?」といたずらっぽい瞳を珪己に向けた。


「今すぐ山から下りるんだって決死の形相で訴えかけてきたのは珪亥だろ? やりたいことがあるんならやればいいじゃないか。今すぐ」

「でも……」

「でもなんだよ」

「晃飛さんが心配するから……」

「そんなの、山を下りるって決めた時には気にしてなかったくせに」


 図星に「うっ」と声がでた。


 確かに……あの場に晃飛がいたら力づくで止められていただろう。


 事情を全部は知らないけど、と前置きをして空也が言った。


「そんなふうに誰かのせいにしてくすぶっているのって珪亥らしくないと思う。珪亥はわがままなんだろ?」


 確かに……そう言ったのは珪己自身だ。


 この家でひと月ほど暮らし、平穏な時の流れに身を任せているうちに、あの雪山での決心を失念しかけていたことに珪己は気づいた。こうやって空斗に指摘されるまで、身を護ることと晃飛に心配をかけないことばかりに意識がいっていたのである。


 つい自分自身を後回しにしていた……。


(だめだだめだ! こんなんじゃだめだ!)


 こんな思考のくせがついてしまってはいけない。些細なことだからと、今だけのことだからと、自分さえ我慢すればいいのだと、そんな風に思ってはいけない。『今すぐ』と空也が言ったとおり、間違いに気づいた今こそ己の言動を見直すべきなのだ――。


 だから珪己はその足で居間へと向かった。


 晃飛はまだ杖は手放せないものの、家の中ではそれなりに自由に動けるようになっており、機能回復のために日中は居間で過ごすことが多くなっていた。もちろん、珪己や氾兄弟の姿が見える場にいることでこの家の中で起こっていることをつぶさに観察するためでもあったが。


 晃飛はいつになく急いた様子で近づいてくる珪己におやと思った。


「どうしたの」


 なんとはなしに目つきが鋭くなったのは本能ゆえだ。


 その目に見つめられた瞬間、珪己は発しかけた言葉を飲み込んでいた。この目を見ると、決まって身構えてしまうのだ。以前ならば何かいたずらされるかもしれないと怯えていたのに、今では申し訳なさで心がしぼんでしまうのである。


 だが珪己は耐えた。


 ぐっと息をつまらせたものの、即座に宣言した。


「私、これから散歩に行ってきます」


 散歩に行ってもいいですかとお伺いをたてるわけでもなく、散歩に行かせてくださいとお願いするわけでもなく、決断事項を一方的に告げたのである。


 当然、晃飛は目を丸くする。


「……は? 何言ってるの?」


 晃飛の正面に座っていた空斗も、わずかに目を見開いている。


「だから。散歩に行ってきます」

「いやいや。訊き直したわけじゃないからね。君が何を言ってるのか理解できないってことなんだけど」

「どうして分かってくれないんですか」


 苛立ちのままに声音が低くなった自覚はある。


 これに晃飛が尖った声を発した。


「はあ?」


 あわや喧嘩が勃発する寸前で空斗が止めに入った。


「あんたは散歩に行きたいんだな?」と、珪己に確認する。

「そうです」


 次に晃飛に向き直る。


「だがあんたは外出すること自体が不安なんだよな?」

「そりゃあそうだろ!」


 晃飛がひときわ大きい声を出した。


「誰がどこにいるか分からないんだよ? だいたい君さ、その体で何かあったらどうするつもり?」


 また矛先が珪己に向かっていく。


 これに「待てよ」と空斗が再度割って入った。


「過保護になる気持ちも理解できるが、あんたの妹はもう子供じゃない。本物の家族でもないのにそこまで行動を管理する権利はないんじゃないか」

「はあ? 部外者は黙っててくれない?」


 そこにもう一人が会話に加わってきた。


「そうだそうだ!」


 空也だ。


「俺がついていくから大丈夫だって。これでも元武官だぜ?」

「元武官だろ。現役でもないくせに偉そうなことを言わないでくれる?」


 すぱっと切り捨てた晃飛に、「でも梁さんは武官になったこともないんだろ」と空也がやり返した。


「少なくとも俺は本物の闘いを経験しているからな」


 敵に一矢報いることすらできずに斬られてしまったが――。


 それでもぐだぐだと否定的なことばかりを言い続ける晃飛に、空也がたまらずといった感じでため息をついた。


「……なんでそうやって過保護な人間は悪い方にばかり考えるのかな」


 ちらりと空斗を見て、そのまま晃飛へと視線を移す。


「危ない。怖い。そっちに行っちゃだめだ。それはしたらいけない。そんなことばっかり言ってたら何にもできない人間になるぜ、俺達。それでいいのか?」


 俺達、と自分のこともそれとなく加えて。


「俺達、もう子供じゃないんだ」


 黙りこんだ年上二人を代わる代わる見比べつつ、諭すように語っていく。


「心配かけて悪いとは思ってるよ。それは本当。でも止まり続けたらよくないってことも分かってるんだ。兄貴や梁さんには理解しがたいのかもしれないけど」


 てなわけで、と空也が珪己の片手をすくい上げた。


「俺達、ちょっとでかけてくるから。じゃ!」


 空也の明るい表所を確認するや、珪己は「行ってきます」と頭だけを小さく下げた。


 それから二人はそれぞれの保護者を残して家を出たのであった。

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