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4.さながら加点方式のように

 その夜、氾兄弟が帰宅したのは月が頭上に昇りきる直前のことだった。


 予定よりも帰りが遅れたのは、彼らいわく「片づけに興がのってしまった」からだそうだ。


「立つ鳥跡を濁さず、だよな? 兄貴」


 芙蓉の持参した祝い膳の残りをつつくのは空也で、手酌で酒を飲みつつうなずいたのは空斗だ。


「おっ。これすげえうまい。梁さんのお袋さんの店は随分いいものを出してるんだな」

「そりゃあ零央一の妓楼だからね。といっても弟君には無縁の場所だろうけど」


 晃飛は氾兄弟の夜食兼晩酌につきあっている。ただし、まだ全快していないので白湯を飲んでいるだけだが。そして酔っていなくてもこういうことを平気で言えるのは、晃飛という人間本来の気質によるところが大きい。


 これに、小馬鹿にされたことは承知の上で空也が言った。


「うん。梁さんの言うとおりだな」


 空也が半分重くなった瞼で正直な気持ちを述べていく。


「俺はそういうのはまだいいや。他にやりたいことがあるし、そんなことに大金と時間をかける気にはならないしさ」


 俺と同じだ、と晃飛は思った。


 が、軽く見下した発言を投げかけた手前、その一言は胸の奥にしまっておく。


 さながら加点方式のように、晃飛はこの兄弟への格付けを日々実行していた。ちなみに減点はめったにしない。はなから他人に期待しない性質だから、と言えば理由は分かるだろうか。


「そういえば。けっこう持って帰ってきたよね」


 晃飛が顎で示したのは部屋の隅の方で、そこには二人が山奥から持ち帰った物が仮に置かれていた。食料や着替え、薄い掛布など、残しても無意味なものはなるべく持ち帰ってきたそうだ。その中には二人が都に勤めていた証ともいえる黒い鉢巻もあった。


 今、それは三人が囲む机の上で披露されている。


「これが一番欲しかったんだ。元禁軍だって分かると喜ばれるところもあるからさ」


 確かに、老人には元武官という肩書きは受けがいい。三百年余りつづいた戦国の世、十国時代の終焉期を生きてきた人間にとって、武官とは国と自分とを護ってくれた尊敬すべき人種なのである。それと肉体労働全般でも歓迎される。


 だから「年寄りとかね」と晃飛が相づちを打ったところ、「また別の場所で介護の仕事をするときに便利かもしれないと思ってさ」と、思った通りのことを空也が得意げに言った。


(便利かどうか……それは謎かな)


 介護される側にとって、介護者が男というだけでも物珍しいのに、しかも元武官、元禁軍所属ときたら逆に緊張しないだろうか。弱った体を触れられることに不安を覚えないだろうか。


 そんなことを思った晃飛だったが、これについても何も言わずにおいた。


 前向きで楽観的なのは悪いことではない。


 空也の晩春の怪我の原因を珪己から聞いたばかりの今だからこそ、空也の明るい性格にどれほどの価値があるのか分かるのだ。痛みと恐怖にくじけてしまう方がよっぽど楽なのに、そういう楽な方向に流されずにいられる芯の強さは尊敬にすら値する。晃飛自らも同様の経験をしているがゆえの称賛だった。


「そういえば。どうして武官を辞めたんだっけ?」


 晃飛が急に思いついたように訊ねると、二人は物思う視線をお互いに投げかけ合った。


「う……ん。まあ、梁さんになら言ってもいいか」


 若干言葉を濁しつつも空也が言った。


「実は俺が怪我して剣を持てなくなったのが理由なんだ」

「怪我? そんなにひどい怪我だったの?」

「ああ。肩から背中までずばっと一気に斬られてさ。あ、背中見てみる?」

「いやいい。男の裸なんか興味ないし」


 女の裸にも興味はないが、こう言うことで会話が必要以上に重くならないように敢えて冗談を混ぜると、「えー。残念」と空也の方も特に残念そうでもない、どうってことのない様子で笑ってみせた。


 その表情は透威とうい――仁威の弟――にどことなく似ていた。


 透威もまた、ならず者に斬られて大怪我を負ったというのに笑みを絶やさなかったから――。


 そうまでして我が身を護ってくれた友人に対して、晃飛は直接礼を述べなかったことをあらためて思い出す。


 お前は確かに斬られたよ。

 大怪我を負ったよ。


 だが俺は愛犬を失ったんだ。

 お前のために愛犬を死なせてしまったんだ――。


 二つの苦しみ、二つの悲しみを天秤にかけて、どちらがより重いかを比較した結果、晃飛は透威に対して感謝の気持ちを抱く機会を自ら手放してしまった。


 そして透威は若くして死に――後悔だけが今も心に残っている。


 一度も感謝の気持ちを伝えることもできずに、取返しのつかない後悔だけが残ってしまったのである。


「……大変だったね」


 ぽつりと零れ落ちた言葉は、せめてこれくらいの言葉をあの友人にかけてあげたかったからだ。


 大変だったね。

 痛かったね。

 怖かったね。

 でも勇気があったね。

 すごいね。


 ――そんな人として当たり前の感情を共有することくらい、してあげればよかったな、と。


「お、おう」


 空也が照れたように頬をかいた。


 隣では兄の空斗が我が事のように笑みを深めている。


「梁さんもさ」

「え?」

「大変だったね。でも俺、そういうのすごく偉いと思うよ」


 まっすぐに晃飛を見つめてきた空也が、言うや慌てだした。


「あ、ごめん。第三者の評価なんてどうでもいい人なんだろうなって分かってたんだけど……つい」

「別にいいよ」


 本当はちょっとどころでなく嬉しかったが――これも言わない。


 この世で一番大切なのは自分自身だからこそ、褒められればまんざらでもなくなるのだ。


 目を細めて白湯に口をつける晃飛に、ややあって空也が言いづらそうに問いかけてきた。


「あのさ。俺達ってそんなに信用ならないか?」

「なんだって?」

「……いや。だからさ」


 口ごもった空也が乞うような視線を兄に向けた。


 これに空斗は小さくため息をつきつつも代弁してやった。


「あんたとあの娘の関係、それにあの娘が偽名を使う理由。この辺りはやっぱり気になるな」

「分かってると思うけど、俺とあの子は義兄妹なだけだよ。偽名を使うのはあの子が面倒な人間に執着されてて身を隠すためにしていること。これでいい?」


 真実の半分も語っていないが、現状の核となる部分がとうとう兄弟に伝えられた。


 まだこの兄弟と知り合った当初は、こんなちょっとしたことでも打ち明けるつもりはさらさらなかった。だが伝えたのは――。


「少しは信用してるのかもね」


 これに尽きる。


「えっ」


 少し、という冠をつけてはいるものの、他人に対して「信用」なんてこそばゆい言葉を使うのは初めてだったかもしれない。これまでの自らの発言すべてを覚えているわけではないが……物心ついて以来、晃飛は使ったためしはなかった。


 それは知り合って間もない二人にもなんとなく察しがついていて、それゆえ非常に驚いた顔になっている。


 好奇心に満ちた目を向けられ、晃飛は「ああもう!」とわしわしと頭をかいた。


「君達がここにいてくれて正直助かってるってことだよ。俺もまだ体調が戻らないし、あの子もああだし。俺一人の問題だけど十番隊の奴らも油断ならないし」


 これはすべて真実だ。


「でもここにいるってことは、君達にも危害が及ぶ可能性はなきにしもあらずだから伝えることにしたってわけ」


 危害、という発言が出た瞬間、空斗の頬がぴくりと動いた。


 対する弟の方はこれが一大事になるとは露とも思っていないようだ。


「伝えるって……まだ全然教えてもらった気はしないけど」


 苦笑しながら「まあいいよ」と言った。


「梁さんや珪亥のことを置いてどこかに行くなんてこと、できるわけないしな。な、兄貴?」

「あ、ああ」


 半拍遅れて曖昧に返事をした兄に、「おいおい」と空也が顔をしかめた。


「もうそういうのいいから。あの婆さんが言ってたとおり、俺も兄貴もそろそろ変わろうぜ。変わるって決めようぜ。な?」


 空斗がためらいながらもうなずいた。


「あのばばあは君達にどんなことを言ったの?」

「それは……」


 晃飛の問いに、空也は少し考えるといたずらっぽく笑ってみせた。


「もっと信用してもらえるようになったら教えてやるよ」


 一生かかっても無理かもしれないな、と思いつつ、これについても晃飛は口に出さなかった。

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