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3.親じゃなければ惚れている

 韓が退去した後、晃飛が庭へ出向くと、珪己は畑の作物を熱心にいじっていた。


 深い緑が生い茂る葉物ばかりの畑で、子供のように夢中になって作物を観察している。


 積雪がまだ残っている地面からでも冬野菜はたくましく育つ。そのことを知らなければ、この白一色の地に芽生える緑の存在が不思議に思えても仕方がない。この街に来て成長目覚ましい妹ではあるが、こういうお嬢様らしい一面もまだまだ垣間見える。


 こらこら、とたしなめかけて、晃飛は寸でのところで口を閉ざした。


 つい過保護になってしまいそうになるが、韓の言うことが正しければ珪己は適度に体を動かすべきなのだ。それに生まれ育った田舎でも妊婦の女はあくせく働いていた。よっぽど体調が悪くない限り、これまでどおりの日常生活を送っても差し支えはないのだ。


 と、晃飛の気配を察知して珪己が顔をあげた。


「あ、晃兄」


 やはりというべきか、その表情は無邪気なものだった。


「だからその呼び方はだめだって」


 苦笑しながら近づいていく。


「すみません。つい」


 ぺろりと舌を出す仕草はこの少女らしい。


 そんな珪己の様子を見ていたら、「俺がこの子を護らなくちゃ」とあらためて思えてきた。


 実は珪己は自分の妻ではない――その事実を韓に伝えたばかりの晃飛であるが、当事者である珪己にはまだ伝えるつもりはなかった。


(俺の嫁ということになっている……そう勘違いしてくれている方がいいだろうし)


 それは特に実の母である芙蓉を念頭に置いた判断だった。この嘘がばれたら、どう考えても面倒なことになるに決まっているからだ。どうしてそんな嘘をついていたのか、自分以上に珪己が追及されてしまう可能性も高い。そんな面倒事はまっぴらごめんだ。


 同じ屋根の下に住んでいる氾兄弟には見抜かれているようだが、彼らは嘘だと察しているがゆえに『わけありだから触れないでおこう』と判断してくれている。いい意味で空気を読むことのできる奴らだ。だが芙蓉にはそれは通用しない。こういう時、実の親というものは面倒くさい。


(でも腹の子の父親が誰かなんて、口が裂けても言えないしな……)


 誰にも言えない。


 いや――ただ一人、この事実を伝えるべき人物はいる。袁仁威だ。妊娠発覚時と違って、珪己本人にも事実を伝える覚悟はできている。その覚悟のほどを示す前段階として自分に打ち明けたのだろう、そう晃飛は徐夕の夜のことを分析していた。秘密とは、一度誰かに打ち明ければ二人目以降は容易になりやすいものだからだ。


 もちろん、その一人目に選ばれたこと自体が光栄なことだ。それだけの信頼を得ているのだろうし、頼られているのだろうから。


(仁兄はいつ戻ってくるかは分からないけれど……最悪の事態を想定すれば、まずは妹の出産が終わるまでは平穏に暮らしていたい)


(とはいえ十番隊の奴らや芯国人のことも気になるし……状況次第ではこの子を零央から出した方がいいんだろうな)


 まだ珪己がこの家に戻ってから大して日が経っていないというのに、晃飛の意識はそのようなことにまで向いていたのだった。


「晃飛、さん?」


 だいぶ考え込んでいたのだろう、首をかしげた珪己がこちらを伺っている。


「どうかしました? もしかしてどこか体の調子が悪いとか……」

「いいや、なんでもないよ。冬でも野菜が成長するってこと知らなそうだったから、さすがはお嬢様だなって驚いていただけ」


 内面を見せることなくからかうような口調で応じると、案の定、「んもう!」と珪己がむくれた。


「私だって食べたことくらいあります!」

「食べたことはあるんだね」


 あははと笑ってみせながら、晃飛は頭の中で最近癖になっている考察を進めずにはいられなかった。


(産後どのくらいで旅ができるようになるのかな)

(それまでに、少しでも旅費を稼いでおかないと)

(この家の借金は……最悪、家を売却しちゃえばいいか)

(今のうちに買い手を探しておくべきか?)

(もしも仁兄がここに戻らない場合は……)


 にこやかに笑ってみせながらも、晃飛は内心ではひどく焦っていた。



 *



 だからその日の夕方、芙蓉の突然の来訪は今の晃飛にとっては願ってもないものだった。


「久しぶりだね」


 随分元気になったね、というのが、珪己と晃飛を一瞥した芙蓉の感想だった。

 だがその短い言葉には深い安堵の感情が含まれていた。


「あの二人は今日は出かけるって言ってたから」


 と、手に持った正方形の包みを掲げてみせる。


「まだ祝い膳は食べていないんだろう? これ、うちの人間に作らせたから食べなよ」


 三人で居間に移動し、風呂敷を解き、艶のある漆黒の漆の蓋を開ければ、そこには御馳走がぎっちりと詰め込まれていた。


「うわあ。美味しそう!」


 開陽で食した祝い膳を彷彿とさせる品数、色合いだ。


 感嘆の声を発した珪己に、芙蓉がまんざらでもなさそうに小さく胸を張った。


「だろう? うちの料理人は腕は確かだからね。夕餉にでも食べとくれ」

「ありがとうございます」


 この女二人の打ち解けた様子を見るに、珪己は自分の嫁だと嘘をついていることは間違っていないと、晃飛はあらためて確信した。


 お茶を淹れてきますね、と珪己が席を立ったところで、晃飛は芙蓉に心からの礼を伝えた。ありがとね、と。珪己が喜びそうなものを作ってきてくれたのだと察しはついている。


 晃飛から礼を言われ慣れない芙蓉は、風呂敷をたたむ手を止めてその涼やかな瞳を小さく見開いた。


「……なんだよ」


 じっと見つめられることにも、その表情の意味にも不愉快さしか覚えない。


 むっとした晃飛に「いや」と芙蓉は言ったものの、やがてさりげなく訊ねてきた。


「腹の子の調子はどうなんだい?」

「ん? ああ、順調だよ」

「そうかい。あんたも調子良さそうでよかったよ」


 その言い方がいつもと違ってすっきりとせず、


「なんだよ。何か言いたいことでもあるのかよ」


 そう晃飛がつっかかると、これに芙蓉が曖昧な笑みを浮かべた。


「いや……。もうあんたは立派な大人なんだなあって、そう思っただけさ」

「はあ?」


 だいぶ前にも芙蓉に似たようなことを言われた。あんたはもう立派な男だ、と。だから自信を持ちな、と。


「わざわざ手土産を持って来たのは喧嘩を売るためかよ。たいがい暇だな」


 だが芙蓉の方は晃飛の挑発に乗るつもりはなく、微妙なため息を漏らしただけだった。


「なんだろうねえ……。あの子がいない方があんたにとってはいいように思ってたんだけどさ、やっぱりそれは違うんだなって思っただけさ。そういうことが分からない時点で、私はあんたの親失格なんだろうねえ」


 芙蓉のこの感情の揺れ動く様は、まだ珪己が行方不明の頃、晃飛が高熱にうなされている様子にたまらない思いを抱いたことが発端だった。どうしてそんな思いをしてまであの娘に関わろうとするのか、と。あの娘は晃飛にとって厄にしかならないのではないのか、と。


 その後、珪己は無事にこの家に戻ってきたが――芙蓉は真正面から訪問することができず、とうとう今日に至ったのであった。その懺悔の印がこの豪勢な料理だ。それもあくまで、珪己ではなく晃飛の機嫌をとろうとしたもので……。しかし二人が何の邪推もなく喜んでくれたものだから、芙蓉は自分の器の小ささを思い知らされる結果となっただけだった。


「あの子がいると、あんたすごくいい顔するんだね」


 少なくとも、もう子犬なんかじゃない。


「そっか?」

「自分では分からないだろうけどさ。私が親じゃなければまず間違いなくあんたに惚れてるよ」


 それぐらいいい顔をしている、そう伝えたかったのに、晃飛は両腕を抱いて体をすくめてしまった。


「そういう寒気がするようなこと言わないでくれない?」


 とはいえ、内心では晃飛も芙蓉の言葉に鼻が高くなっていた。芙蓉はこういうことで嘘をつくような女、母親ではないからだ。だがそれを素直に顔に出せる性格でもなく、晃飛は「さむさむ」とわざとらしい大声をあげてみせたのだった。


 そんな息子のことを、芙蓉は一抹の寂しさを覚えつつもどこか誇らしく眺めたのだった。


 子供というものはあっという間に成長するものだと、成長すれば親元から離れていくものだと知っていたら……あんな風にうたかたの恋に自ら飛び込むような真似はしなかったのかもしれない。子の成長をよすがとして、あの村でずっと暮らしていられたのかもしれない。


 しかし、親はなくとも子は育つことも事実で――それが自分の子であれば、感慨深さもひとしおだったのである。


(……これは私が子離れしなくちゃいけない時期なのかねえ)


 どうやらこの短期間での出来事は、神様が気まぐれに与えてくれたとっておきの時間だったようだ。だがそれも永遠には続かない。


(……新しい男でも作るかねえ)


 寂しさを埋める相手がほしい、と思った。


 自分のことをこんな風に大切にしてくれる男がほしい、と痛切に思った。


 そんなことを思うのは随分久しぶりのことだった。

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