2.あらたまることで護れるならば
白髪の老人――韓は、久方ぶりに会う珪己におやと思った。
目力が増している。
表情がはつらつとしている。
いい意味で生命力にあふれた妊婦に、韓は今まで接してきた同一人物との違いを強く実感したのであった。
だが医師としても人間としても、妊婦の見せた変化は喜ばしいものでしかなく、余分なことは何一つ言わず診察をすすめていく。
「ふむ。何も問題はなさそうだ」
何も、のところを強調したつもりが、それが晃飛には気に入らなかったようだ。
「なさそう? 医師のくせにそんな適当なこと言わないでくれる?」
「ああ、悪い悪い。だが症状に絶対的なものなんてないからな。妊娠というものは特に」
そろそろ臨月という妊婦に「絶対に大丈夫」などと言い切れる医師がいたら、それは医師として不誠実だ。
そんなふうに言うと、晃飛はおとなしく口を閉ざした。
(旦那の方も変な気は抜けたみたいだな)
だがこちらについても口には出さない。
「ああ、太り過ぎないように適度な運動はした方がいいがな。なあ、お前さん。ちょいと食い過ぎていないか?」
「えっ。そんなことはない……と思うんですけど……」
「だが前に診てやったときからえらく太っているぞ。肥満は難産や母子の生死にも影響するからほどほどにしておくんだな」
「は、はい」
韓の指示に珪己が青ざめた。体重管理の重要さを知ったことで恐ろしさを感じずにはいられなかったのである。女という性を有する者であれば常識中の常識だが、八歳で母を亡くし、かつ同性の友人もいなかったから、どうにも知識に偏りがある。とはいえ、知らなかったで済む話でもない。
ただ、この反応に韓だけはまた一つ満足を覚えた。
胎動がしなくても平気そうだった女子だったのになあ、と。
「とはいえ、ある程度は食えよ。必要な栄養はしっかり摂ってもらわんとな」
これに珪己が難問を前にした時のように難しい顔になったが、それもまた韓にとっては喜ばしい反応だった。
「じゃあ次は梁先生の方を診るか」
笑みを浮かべたままで晃飛に向き直る。これに神妙な顔で立ち会っていた晃飛が目を丸くした。
「え? 俺?」
晃飛の怪我は芙蓉が手配した普通の医師に診てもらっている。もちろん、費用のすべては芙蓉が負担している。
「俺は必要ない」
無駄な出費をすることもないので固辞すると、「いいんだよ。金はとらない。ついでだよ、ついで」と韓が言うので、「だったら」と診てもらうことになった。
「今はどこが痛い?」
「痛みなんてないよ」
「そうか。ああ、すまんが嫁さんは出ていってもらえるか」
急に話を振られた珪己が反射的に立ち上がった。
「分かりました!」
優等生のごとく声を張り上げてぴんと立つから、男二人は一瞬あっけにとられたのち、笑ってしまった。
「じゃあ、ちょっとお庭を散策してますね」
「それがいい。いい空気をたんと吸ってこい」
頬を赤らめて退室する珪己を笑みを浮かべて見送った二人は、その姿が見えなくなった途端に真面目な面持ちになった。
「で、どうしてあの子がいたらいけなかったの?」
「いや。先生とは腹を割って話しておきたいと思ってな」
「俺はそんなのしたくないんだけど」
晃飛の嫌味を気にも留めず、「痛みは本当にないんだな?」と韓が再度問うと、晃飛がその視線を無意識に右に動かした。
しばらくして、その虹彩がようやく韓の方を向いた。
「……殴られた左の目に少し違和感がある。たまに視界がちかちかするっていうか」
「なるほど。ちょっくら診せてもらうぞ。熱は?」
両頬に触れ、さっそく目を覗き込みつつ質問を重ねていく。
「もう平熱だよ」
「そうか。とはいえまだ働くのはよした方がいいな。特に頭や眼球付近への衝撃は避けることだ」
「はいはい」
「食欲は?」
「前の六割くらい、かな」
「口を開けてみろ。……おお、歯は無事だったんだな」
「基本、顔は守ったからね。左目は不意を突かれたけど、その一発以外はくらっていない」
「さすがは武芸者だな」
「いや。本物の武芸者ならこんなことにはならなかったと思うよ」
韓が精神論も含めて称賛したことは分かっているが、晃飛の口はついへりくだったことを述べてしまう。
「この耳なんてちょっと切れたし」
「ここはうまい具合に縫われているから問題ないだろう。ちなみに骨はどこをやられたんだ?」
「あばら骨と、あとここ」
晃飛が座った状態で右足を上げ、脛を指で示した。そこは分かりやすく添え木をして布で固定されている。
「見せてみろ」
言われた通りに晃飛が布を解いて添え木をはずすと、内出血が治りかかっている最中の独特な肌色があらわになった。
「ふむ。どうだ、こうすると痛むか?」
医師特有の微妙なさじ加減で、患部に軽い力やねじりが加えられていく。
これに晃飛は素直に「いいや」「それはちょっと痛い」と答えていった。
「……なるほど。まあ、もう少し様子を見る必要があるな。これまで通り無理はせずにおとなしく過ごすことだ」
そう言って韓が持参した袋から取り出したものは、内包を開けた途端、強烈な薬品臭を放った。
「これは儂がこさえたものでな。よく効くぞ」
深い緑を交えた褐色に染まった布の切れ端――湿布――が患部にそっと載せられる。複雑な香りを放つそれは、肌上に載った瞬間、ちりちりとした微細な感覚を晃飛に伝えてきた。
「これ、高くないか……?」
いつも使う安物とは感触からして違う。
「だから金はとらないって言ってるだろう。梁先生は心配性だな。ほれ、上も脱げ」
そう言って韓は肋骨にもお手製の湿布を贅沢に貼りつけたのだった。
晃飛が上衣を羽織り直したところで、片付けをしながら韓が言った。
「……悪かったな。十番隊の奴らが」
「どうして謝るの? あれは韓先生には関係のないことだよね」
「そうは言ってもなあ。あいつらは俺の顧客だから」
これに晃飛は苦笑いを浮かべた。
「だからって……。まあでも、いいや。じゃあ今日のこの診察と湿布代でゆるしてあげるよ」
冗談で済ませようとしたところ、韓の表情は余計に深刻なものとなった。
「さっき言った話だがな。もう梁先生は屯所で働くのはやめたほうがいいんじゃないか? あいつらとは関わらないほうがいい」
「そうだね。俺もそう思う」
こういう状況でも屯所で働き続けることを選ぶ人間はただの考えなしだ。逃げることは悪いことではないし、武芸者にとってまず検討すべきこととは、闘わずに済む道を模索することだからだ。流血行為はあくまで手段であるべきで、それ自体が目的となってはいけない。
(収入は減るけど、仁兄が戻れば……。しばらくはあの女から金を搾り取ってもいいし)
腹黒いことまで考えつつ、
「よかったら韓先生の方で辞める手続きをしてもらえないかな」
と晃飛が頼むと、韓は「ああいいよ」と快く了承した。……というより、晃飛が素直に忠告を聞き入れてくれてほっとしたというのが正直なところだろう。
「ところで。十番隊の奴らは今どんな感じ?」
「昼間っから仕事をさぼって飲んだくれてるよ。まだ一番隊が開陽から戻ってきていないこの時期は決まってこうだ。はてさて、鎖のつながれていない狂犬っていうのは恐ろしいものだよなあ。儂は実は、街の人間のように春節を素直に祝う気にはなれなくてな」
「韓先生でもあいつらが怖いんだ」
「恐怖を感じない人間なんてこの街にいるか?」
「俺は違うって言いたいところだけど……そうもいかないな。俺はいいけど、あの子のことを護らなくちゃいけないし」
「嫁のことか」
これに晃飛が困ったように笑った。
「ごめん。実はあの子、俺の嫁じゃないんだ」
この突飛な発言に韓が目を見開いたから、晃飛は申し訳ない思いになった。
だが韓はその表情をすぐに打ち消した。
「じゃあ父親は誰なんだって訊きたいところだが……それは焦点じゃないんだろ?」
「ああ」
話が早くて助かる。
「まだあいつらが俺のことを狙ってたらまずいと思ってさ。だってそうでしょ? あいつら、俺に嫁や赤ん坊がいるなんて知ったら……」
自分が年末に十番隊に襲われたのは偶然によるものだ――そう晃飛は思っている。
彼らは街の人間に煙たがられているから、街の一部の人間しか知り得ていなかったこと――つまり、晃飛が行方不明になってしまった嫁、しかも妊婦を必死で探していたなどとは知らなかったはずで。
だから、たまたまふらふらと街を歩いていたところを、同じくふらふらと街を徘徊していた彼らに見つかってしまった……そう思っているのだ。
ならば。
彼らがそのことを知ってしまったら――?
こんな風になってしまうくらいに大切な存在がいることを知ってしまったら――?
「ああ。分かった」
皆まで言わせない、と韓が言葉を継いだ。
「もしもあいつらがそういう話をしているところに出くわしたら、梁先生とは無関係だとそれとなく言ってみるよ」
これに晃飛がほっとした顔になった。
「うん。そう。よろしくお願いします」
「なんだ。あらたまって」
「あらたまることで護れるんだったら安いものだよ」
冗談を言っているわけではないことは晃飛の表情から一目瞭然だ。
ふと、韓は既知の知り合いのことを思い出した。
(あいつは元気にやっているだろうか……?)
八年前から連絡がつかなくなってしまった親友、武芸者である一人の男のことを。
晃飛はどことなくその男に似ていた。