1.最悪の未来予想図
さて、話の舞台は零央に戻る。
年末に珪己が戻り、かつ新たに氾兄弟が住み着いたことで、あれほど暗く陰っていた晃飛の家はたいそう明るく賑やかになった。このまま孤独に年を越すものと信じて疑わなかった晃飛だが、本人もまさかの急展開である。
とはいえ、珪己の深い事情を知ったことと他人を二人も私的な空間に招き入れてしまったことで、家主である晃飛の精神的な負担は増し、時にぴりぴりとした雰囲気を発するようにもなった。だが、容態が回復するのと連動するように、晃飛は次第に落ち着きを取り戻していった。やはり心配の種であった珪己が戻ってきたことが大きかったのだ。
ただ、
「あいつら、意外といい奴らだよね」
珪己と二人でくつろいでいる時、晃飛が何気なくつぶやいたこの台詞もまた本心だった。
田舎出身で武芸経験があり、かつ同年代。そんな共通項だけではなく、兄弟ともに実直で働き者――これに珪己の恩人だという事実も加味すれば、もはや晃飛とて彼らを疎んじる理由はなかったのである。
珪己が行方不明になって以来、晃飛がようやく心の安寧を得られるようになった理由の一つに、氾兄弟の存在も確かに関係していた。
その氾兄弟だが、この日は朝から不在にしていた。春節特有の騒がしさは濃霧が消えるように失われ、街にはすっかり日常が戻った、そんなとある日を選んでのことだった。
まだ暗い時分に出立した二人が目指すは、彼らが年末まで住んでいた山だ。自慢の健脚で夜にはここに戻ってくるらしい。
春が来るまで、二人はあの家のことを放っておこうと考えていた。だが、平穏と日常を数日味わったところで、「やっぱり気になるから」と、本来の持ち主に家を返却できる状態にするために旅立ったのである。
この日帰りの旅のために、兄弟は事前に入念な準備を行った。家の持ち主との調整――賃料の精算はもちろん、どの程度の荷物を残して立ち退いても大丈夫かの確認など――や、最後となる登山のための準備もそうだし、二人が不在の間に晃飛や珪己の生活に支障がないよう、かゆいところまで手はずを整えた。
たとえば。
洗濯物は昨日のうちにすべて片付けられているし、室内は塵一つ見当たらないほど清められている。今日、珪己と晃飛が食べるための朝昼晩の食事も作り置きされているし、台所の甕には新鮮な水が縁まで汲み入れてある。しかも医師である韓が往診にやってくる段取りまで済ませていた。兄弟二人とも年齢の割には地に足がついているというか、生活することそのものについては非常に優秀なのである。
そして今も、残された晃飛と珪己は暖房の効いた部屋で優雅に昼餉を終えたところだった。
「あいつら、料理もけっこう上手だよね」
満足気に膨れた腹をなでる晃飛に、素直じゃないなと思いつつも珪己は何も言わずにほほ笑んだ。
ちなみに珪己の体調はほとんど回復しているが、晃飛の折れた足の骨はまだ完全にくっついておらず、いまだ杖は手放せないでいる。とはいえ、あれほど痛々しかった外見のひどさは、注視しなければ気づかない程度には失せてきていた。顔色もよく、回復傾向にあるのは明らかだ。
そんな緩やかな中に心地よさも感じられるひとときを、「晃飛さん」と、珪己の硬い声が乱した。
「ん? どうしたの?」
食後から珪己の雰囲気がなんとなく変わっていたので、何か話したいことがあってその機会をうかがっていることに晃飛はさっきから気づいていた。あの気のいい兄弟がいたら話せないことなのだろう、と。
「実は……ずっと言えなかったことがあって」
思ったとおりの前置きから始まった。
これに晃飛が神妙な表情になったところで。
「空也さんのことなんですけど」
「……はい?」
予想していなかった名前が出てきて、晃飛が間の抜けた声をあげた。
「なんでそいつ?」
「なんでって……。あの、話を聞いてもらっていいですか」
若干呆れた珪己の肩から力が抜けていく。
過剰に張り詰めていた体が緩まることで、珪己は話を進める勇気ときっかけを得たようだった。
「空斗さんと空也さんが開陽で都に所属していたことは知っていますか?」
「うん。兄の方から聞いてる。弟の方が怪我をして、それがきっかけで辞めたんだってね」
「それなんですが……。空也さん、芯国人に斬られたそうなんです」
「芯国人? ……って、まさか」
「はい」
珪己が神妙にうなずいた。
「私が王子の元から逃げた夜に一晩泊まらせていただいたお寺があるんですけど、そのお寺で事件が起こったそうなんです。空斗さんと二人、私の警護を命じられたんだって……そう言っていました。でも二人は、私を捜しに来た王子と運悪く遭遇してしまって……」
運悪く、と言ったそばから、珪己は自分の発言に嫌悪を抱いた。
自分の身にこれまで降りかかってきた数々の出来事を、そんな風に「運」という言葉で表したくなかったからだ。
たまたま、とか、偶然、という言葉では陳腐すぎるが、かといって運という言葉を使ってすべてを受け入れたくもなくて――。
「それと……空也さんには私が枢密使の娘であることは言えてないんです」
正確には「言えない」ではなく「言わない」だが。
この家に戻った直後、こういったことは軽々しく話したら駄目だと晃飛に口止めされた珪己であるが、たとえ禁じられていなくても容易に言えたことではなかった。「俺の人生をこうも変えたのはお前なんだな」と強く責められたら、一体どう謝罪すればいいのだろう。……いいや、空也はそういう人間はない。兄の方は分からないが。
いや、そうではないのだ。そうではなくて――打ち明けることで氾兄弟との関係が変わるのが怖いのだ。きっと今までどおりではいられなくなるから。
それに――。
「この話を聞いて……すごく驚いたんです。王子の元から逃げた後、まさか無関係の人にまで危害が及んでいるなんて思わなかったから……。だから……」
すごく驚いて、申し訳なくて――それに『怖い』。
だから珪己はこの家に戻り、心身ともに落ち着いていくのと引き換えに、独りで悶々と考えこむようになっていた。理性と本能がせめぎ合う中、これから自分はどうするべきなのかをずっと考え続けていたのである。
この家に戻ってくることができたことは、嬉しい。そして今は、ただひたすら仁威との再会を待ち望んでいる。この恋が叶うかどうかよりも、ただ今は仁威に会いたい。それだけを強く願っている。
でも、仁威と再会できたら――その後自分はどうするべきなのだろうか?
いや、やっぱり自分のことは後回しにして王子とのことを最優先に片づけるべきなのかもしれないのでは――?
そういったことを考えていたのである。
だが結局は袋小路に迷い込んでしまい、結論は出ず――ようやく今日、この件について晃飛に相談する機会を得たのだった。
晃飛はというと、口元に手を当てて思案顔になっている。
しばらくして「なるほどね」と晃飛がつぶやいた。
「やっぱりそいつ、伊達に王子やっていないね」
「……え?」
「一晩で宿泊先を特定するなんて普通無理でしょ? しかも異国で。そいつの話を聞くたびに実感するんだよなあ、仁兄や君が警戒する理由が……」
涼やかな目をいったん伏せた晃飛は、次に真剣な眼差しで珪己を見上げた。
「となるとそいつはいつここに現れてもおかしくないね。この国は確かに広いけど、人がそれなりにいて、お嬢様の君が住めて、かつ隠れ住むことのできる街なんて限られているだろうからさ。君のことは、君が行方不明になった時に街の人にいくらか知られちゃったし」
ここで、やや申し訳なさそうに晃飛が頭をかいた。
「その年恰好で素性のよく分かっていない女が俺の家に住んでいるってことがばれたのはまずかったかもしれないな。俺の嫁ってことにはなっているけど、きっとそいつはそんな形式的なことなんて関係なく、君を捕らえるつもりなんだよね。でしょ?」
こちらに向いた晃飛の狐目に、珪己はどきりとした。
その目が不穏な未来を予言する源のように錯覚してしまったからだ。
たとえるなら占者が用いる水晶玉のような――。
「その可能性はあると思います。……それともう一つ」
「もう一つって?」
「私を殺すために探しているのかもしれません。逃げたことへの罰、制裁として」
衝撃的な発言によって長い沈黙が生み出された。
「……それは仁兄についても、だよね?」
ようやく晃飛が述べたのは新たな視点からの最悪の予想図だ。
これに珪己はうなずいた。
多分、と前置きをして。
「王子は人を傷つけることとか命を奪うことへの抵抗がないんだと思います」
間違っているかもしれませんが、と付け加えてしまったのは、自分でもよく分からなくなってしまっているからだ。いろいろあったが、王子とは実質二日しか関わったことがない。
だがこれに晃飛は緩く首を振った。
「いや。君がその目で見てそう感じたんなら、そういう人間を相手にしていると思ってこっちも構えている方がいいんだと思う。でも君はその子の父親に頼るつもりはないんだよね?」
その子の、と言う際に、晃飛の視線がつい珪己の腹へと下がっていった。
これに珪己は迷いなく「はい」と答えた。
「どうしても、という状況になったら頼るかもしれませんが、今はそのつもりはまったくありません」
このことに関しては珪己には迷いはなかった。
いろいろと迷ってはいるが、皇帝の妃になり後宮で生涯を終える人生だけは選びたくないのである。
どうして、などと今更つまらない質問を晃飛はしない。ただ、強い意志を浮かべた珪己の顔を見つめ、あらためてこの義妹や義兄と関わるための覚悟をきめたところで。
「おーい、来てやったぞー」
玄関が開けられ韓が入ってきたことで、二人の秘密の会話は終了したのだった。
休養期間をいただき、ようやく再開できましたm(_ _)m