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1.下山

 山を下る二人はほとんど会話をしていない。


 先頭を歩くはん空也くうやは新雪をならしながら歩くのに体力と神経を使い、その後ろを歩く楊珪己は慣れない山道と大きな腹に苦戦を強いられていた。


 あたりの雪を拾い、巻き込みながら、二人のそばを幾度も冷風が駆け抜けていく。そのたびにわずかに外気にさらされている肌が鋭い痛みを感じた。だが寒さや痛みを都度感じたのは最初だけで、ややすると痛覚が麻痺し何も感じなくなってきた。


 やがて狼の咆哮のごとき風がやみ、代わりに雪がちらほらと降りだした。


 ふわふわと舞う雪は、一面の雪景色と相まって、さながらおとぎ話の世界の小道具のようだ。確かに、このような時間にこのような場所にいること自体が常軌を逸しているのだが……まるで今、この時この場所が現実ではないような錯覚を二人に抱かせた。それはもう、過去に起こった大きな事件、災厄、そういったものに紐づく感慨に他ならなかったのだが。


 純白の衣をまとう大樹の連なりは神秘の儀式に集う神官のようで、体躯の大きな彼らに見下ろされながら、二人は果てしない道を歩き続けた。


 歩く珪己の表情は険しい。


 今の珪己には希望や活力こそが必要だった。だからこそ、余分なことは頭から追い出し、『街に帰りたい』と、ただそれだけをひたすら念じていた。


 寒いとか疲れたとか、そういった負の方面については努めて意識しないようにしている。あとどれだけ歩けばいいのだろうか、無事に山を下りられるだろうか、そういったことも一切考えない。過去も現実も未来も、心の重しになるようなことは何も考えない。


(絶対に帰るんだ……!)


 ただ一つ、その願い、その意志だけを胸に秘めて歩いている。


 幸い降雪のほどは下山を遮るほどのものとはならず、斜め向こうの方から陽光がにじみ出てくる頃には、二人は二割ほどの道のりを踏破していた。


 ふいに視界がひらけた。


 木々ばかりの鬱屈した光景が終わり、広大な雪原が二人の眼前に広がった。


 日の出特有の強い陽光が向かいから放たれ、その眩しさに珪己はとっさにきつく目を閉じた。


 やがてこわごわと薄目を開けると、そのわずかな時間のうちに陽光の強さは幾分和らいでいた。


 辺りは早朝らしい明るさに染まり始めていて、陽光を反射する雪の結晶が小さな星のようにきらめいている。天空を覆う星空を写し取ったかのような、細やかな輝きが満ちた雪原は、二人がこれまで目にしたことがない部類の絶景だった。


「すごい、ですね……」

「ああ……」


 二人はこの素晴らしい光景に見入り、そしてお互いの大切な人のことをあらためて思い出した。どれほど素晴らしかったか、あの人に伝えることができたなら……と。


 太陽の光を浴びながら、珪己は清涼な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「気持ち、いい……」


 陽光が触れる皮膚から、体内に熱がぐんぐん吸収されていく。徐々に蓄積されていく熱によってキンキンに冷え切った頬や鼻がゆるやかに溶かされ、軟化していく。かじかんだ心が少しずつ緩んでいく。清らかな光景が尖りきった心を癒していく。


(ああ、きっと大丈夫……)


 じわじわと力がみなぎってくる。


(大丈夫。きっと戻れる……!)


「よし、もう少し歩くぞ。あの向こうに休憩できる場所があるんだ」


 空也の掛け声で二人は下山を再開した。





 どこまでも続くかと思われた雪原は、しばらくすると突然終わった。


 あの獰猛な生き物の咆哮に似た、太く低い音が再び聴こえたと思ったら――空也のすぐ目の前を勢いのある風が大量の雪ごと天空に吹き上げていったのだ。


「うわっ!」


 慌てて後ろに飛びのいた空也の視線が一瞬鋭くなったと思ったら。


「こっちだ!」


 有無を言わせず珪己の腕を掴み、さらに数歩下がった。


 と、先程まで二人がいた足元が崩れ、下方の暗く巨大な穴に音もなく飲み込まれていった。


「あっぶねえ……」


 額をぬぐう仕草は本能がさせたのだろう。ここが極寒地でなければ、まず間違いなく嫌な汗がにじみでていたはずだ。急峻な谷の目前にまで迫っていたことはよく目を凝らせば分かることだったが、疲労とつかの間の油断が空也の判断を狂わせたのだった。


 ぱん! と小気味いい音が響いた。


 空也が自分の両頬を自分で叩き、喝を入れたのだ。


「よっし! 油断するなよ!」

「はいっ!」


 そこから進路を右へ変え、さらに歩くと、二人はまたも木々の生い茂る中へと入っていった。途端にあれほどの陽光も雪の輝きも周囲から失われた。薄暗く寒い、陰鬱な空間へと逆戻りしたのである。


 雪原に入ってから消していた松明を空也があらためて付け直し、その灯りだけを頼りに夜の再来のような山道をすすんでいく。


 朝から昼に移行しているはずなのに、ここに来て体感気温が明らかに下がってきた。だが歩む道の幅が広がり傾斜が緩くなってきたことから、いくらか街に近づいていることは実感できた。


 しかしここにきて、珪己は足の指の感触が鈍くなってきたことに気がついた。いくら雪道用の沓を履いていても中に雪水が沁みてくるせいだ。それに全身に言いようのない悪寒を感じ始めている。


 だが珪己は気づきながらも何も言わなかった。ここで歩みを止めることはできないのは自明の理で、それならば何も言わない方が同伴する空也の負担にならない。


 黙々と、延々と歩き続けたのは半刻、もしくは一刻程度か。突然、何も風景の変わらない闇の中でなぜか空也の足が止まった。


「あそこで休むぞ。もうちょっと頑張れ」


 空也の指さす方向に、木々に隠れて洞穴が見える。あれが先ほど述べていた休憩地点らしい。


 そしてようやくたどり着いた洞穴の入口は、平均的な背恰好の空也がやや腰を折らなくてはならないほど狭かった。つづく奥の方はさらに暗くて狭い。だが空也はさして警戒することなく奥へ奥へと進んでいった。そういった場所が苦手な珪己であれば、一人では絶対に入らないであろう場所へと……。


 やがて到達した最奥には小さな家の居間くらいの空間がぽっかりと広がっていて、それでようやく珪己は騒ぎ出していた胸をほっとなでおろすことができた。狭く暗い場所への抵抗感は、なかなか簡単には払しょくできないようだ。


 中央には火をおこした跡があり、隅の方には薪が二山積まれてあった。


「ここは前に兄貴と二人で見つけたんだ。昔は熊が住んでたみたいだけど、けっこういい場所だろ?」


 薪は秋のうちに二人がかりで用意しておいたものらしい。


「あの時はこんなにいるわけがないって思ってたけど、多すぎて困ることはないからって言ってた兄貴が正しかったな。感謝、感謝」


 両手を合わせるや、空也が手慣れた様子で火をおこしはじめた。

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