4.季節外れの竜胆
浪は皇帝からの命を受け、この半年ほど芯国の王子・イムルを捜索する指揮をとっている。そのために直近まで海南州――王子が少年期に密かに滞在していた地――に滞在していたのだ。だが、それとは別に、枢密使からの依頼で近衛軍第一隊の元隊長・袁仁威についても並行して捜索していた。
いや、実際には後者は捜索ではなかった。ただ、『こういう人物をみかけたら教えてほしい』と玄徳から内々に懇願されているだけだ。袁仁威はおそらく十代後半の女人と共にいるはずで、どこかに身を潜めているはずだ、と。
しかし、それ以上の詳しい説明を浪は何一つ聞いていなかった。なぜ探す必要があるのか、共にいる女人とは一体どういう人物なのか、といったことすら。
とはいえ、浪はその女人の素性に一つの確信を持っていた。
なぜなら、崇高な魂でもって枢密使を務める玄徳が、他の誰でもない、既知の自分にのみこの依頼をしてきたからだ。この話を受けた日も、そして今も――玄徳の表情は常になく苦し気で、そこには枢密使としての理念を超えた何か、玄徳個人が追い求める何かがあるとしか思えなかったのである。
「もう少し私には心をひらいてもいいのですよ」
だが玄徳はそれについても答えようとはしなかった。かぶりを振ってみせるくらいには気丈だった。それが玄徳にとっての、いや枢密使としての矜持なのだ。
だがその伏せられた目から匂い立つ感情は――。
この愛弟子を救ってやれない自分の無力さを、浪は今更のように痛感した。
「私の方でももう少し部下にきちんと捜すように言っておきますから」
それくらいしか言ってやれない。
だが、これも玄徳は「いいえ」と頑なに固辞した。
「浪先生にそのようなことまでしていただく必要はありません。ありがとうございました」
謙虚なその態度もまた痛々しく、浪はあらためて八年前の事変のことを連想した。
「あの時も……あなたはそんな感じでしたね」
声音だけで何について語っているのかは察したようだ。
「……そうでしたか?」
「ええ。そうやって自分一人で抱えていました。人を憎まず、ですが決して悪を憎むこともせず……」
涙一つ見せず、癒やしきれない傷を抱えて仕事にまい進する様には揺らぐことのない信念が見えた。決して私情を挟まず、公務のために粉骨惜しまず――そうやってこの愛弟子が人間を超えた存在になりつつあるのを、浪はやりきれない思いで見守る他なかった。
それからの玄徳は枢密院を改革するための提案を次々と上奏し、実績を重ね、皇族も含めた多くの人間の信頼を勝ち取っていき――とうとう枢密院における最高位、枢密使に着任してみせたのである。
「あなたのような官吏がいる枢密院は、この国は幸せですね。……ですがあなたは幸せですか? あなたの愛する者は幸せですか?」
浪の問いは乾いた空気の中で空虚に響いた。
感情が届かないということに、浪が虚しさと悲しみを覚え始めたころ、玄徳が言った。お願いしたいことがあります、と。
「もしもその男を見かけたら……」
「見かけたら?」
「彼のやりたいようにやらせてあげてください」
絶句する浪に、「もしも幸せそうにしていたら」と玄徳が続けた。
「その幸せを壊さないであげてください」
「……それだけ、ですか」
御史台の手引きがあれば、玄徳の探す者達を極秘に開陽に連れて帰ることもできる。内密に書簡を交わせるよう仲介することもできる。なのに玄徳は「それだけです」と言うと口をつぐんだ。そして小さく頭を下げると、静かにその場を去っていった。凛とした紫袍の背中は、まるで季節外れに咲いた竜胆のようだった。
誰もが幸せになれる世界を作りたい――そう願っていたはずの玄徳がこのように意固地になってしまう時は、きまって追いつめられている時で……。追いつめられているからこそ、冷静な判断ができかねるからこそ、身近な者を故意に疎かにしてしまうわけで……。
浪はそういう玄徳の悲しい性を知っていたから、十日後、任地へと戻る直前の口の堅い部下数名を集めて一つの指示を出した。
捜索対象である袁仁威を見かけたら――。
幸せそうであれば見守るにとどめること。
しかし、逆の場合は惜しみない助勢を与えてやること。
それは袁仁威だけではなく、彼の周囲の人間に対しても同様であること。
特に十代後半の女人についてはよくよく気をつけてやること。
「とにかく、彼らの幸せを最優先にしてください」
「かしこまりました」
その中には習凱健の姿もあった。
この日、浪の口からから直接語られたことで、この捜索がただの枢密院のお遊びではないことを、凱健はようやく実感したのである。
実はこの集められた官吏の中で、凱健ただ一人が仁威の居所を知っていた。それはもちろん、環屋で用心棒をしていた、今は行方不明のあの男のことだ。
そして彼のそばに常に十代後半の女人がいたことも知っていた。
これまで浪に報告しなかったのは、この男女の捜索は皇帝の勅命によるものではないからだった。御史台の官吏はあくまで皇帝の手足でなくてはならない――その組織理念を骨の髄まで叩きこまれた生粋の官吏、それが凱健という男だったのである。組織とは頂点に立つ人間の理念に基づいて存在するべき――そう凱健は確信していたのだ。たとえこの尊ぶべき上司の意に逆らおうとも。
だから零央にて、浪からの書簡でこの任について知った際にも、凱健は何の感慨も覚えなかった。それどころか、枢密院のくせに御史台を動かそうとは生意気な、と憤りを覚えた。特に浪は聖人君主を地でいく清廉な官吏であるからなおさらだった。浪のことを尊敬する官吏は多く、凱健もまた右に倣えだったのである。
だが、命じる浪の口調や表情から、これは浪にとって『非常に』重要なことなのだと分かり――。
困惑する仲間をよそに、凱健は浪の言葉通りに実行することを心に誓ったのであった。
これには零央で出会った青年、梁晃飛の事件のことも強く影響していた。
「しかし……幸せを最優先にするとはどういう意味だろうか」
凱健のつぶやきは周囲で頭を垂れる同僚の誰の注意もひかなかった。
試験勉強があるので五日間ほど連載を一時停止しますm(_ _)m
次話からはまた舞台は零央に戻り、このまま最終話まで突っ走りたいと思います。