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3.清らかさだけを有する人間などいません

 雪は踏みしめるたびにさくさくと小気味いい感触を足の裏に伝えてくる。飽きることなく新雪が降るこの時期、開陽は文字通り白一色に染まってしまうが、それは宮城も例外ではなかった。


 そのような色味のない場所に高位に就く官吏がいれば目立ちそうなものだが、彼らの散策は意外にも人々の注意をひかなかった。目を凝らさずとも姿を確認できる程度には目立つ存在だが、彼らは阿吽の呼吸でもって他者の目が入りずらい方へと進んでいったからだ。


 とはいえ『どこに行く当てもなく散策している』という体は続いている。


「雪を見ないと開陽に戻ってきたという気がしないのですよね」


 白い息を吐きながら、浪は笑みを絶やさず歩いていく。浪のまとう年季の入った袍衣の肩に小さな綿のような雪がいくつも付着していくのを、玄徳は一歩後ろから眺めていた。玄徳は浪よりも高位にあるが、二人きりともなると、つい後ろに下がってしまうのだ。


「ああ、寒い。ですが冬はこうでなくてはいけませんね」


 生きることは時として厳しく、冬はその最たる例だろう。だが、浪はそういう時でもささやかな幸福を見つけることができる男だった。そして笑みを決して絶やさない。


「先生は相変わらずですね」

「あなたも変わりがないようで何よりです――玄徳」


 一瞬だけのことではあったが、視線を交わせば、悠久の時を経て二人の間に築かれてきた絆がまざまざとよみがえってくるようであった。


 浪は玄徳の学問の師匠であり、玄徳をこの道に誘った恩人でもあった。


 武に通じることなく軍政に関わる覚悟を玄徳が決めることができたのは、同じく武に疎いが御史台の官吏を長年務める恩師の存在なくしては語れない。


「あなたの探している人物のことですが」


 浪が再度歩き出した途端、その話題が始まった。


「海南州ではそれらしい異人も武人も見つかっておりません」


 通りすがりの人間が見れば、二人はただ雪景色を楽しみ、既知の者同士でたわいもない雑談をしているとでも思っただろう。彼らの口元に浮かぶ笑みは、本来そういった時に現れるものだ。


 さく、さく。


 誰も通った形跡のない、穢れのない積雪が眩しい方へと浪が歩みを進めていく。


「他の場所についてもいまだ目撃情報はありません。……さて、どこに行ってしまったのか」


 その後ろを玄徳は無言でついていく。

 ただ、その肩は先程よりも若干下がっている。


「気を落とさないでください。きっとあなたの探し人は無事ですよ」

「あ……はい」


 こちらを振り向いてもいないのに感情を推察してくる浪に、玄徳はやや背を伸ばした。これにも浪は振り向きもせずに苦笑した。


「年寄りのなぐさめなど無意味でしょうけれど」

「あ、いえ。そのようなことは。決して」


 やや慌てる玄徳に、浪はくすりと笑うと足を止め、振り返った。目じりの皺が一層深くなった笑みの下、羽毛のように軽そうな白いあごひげが風に吹かれてふわふわと揺れている。


「異人に関しては今宵のうちに丹から黒太子に報告されるかと」

「そうですか……。体調のお悪い陛下の耳にはあまり入れたくありませんね」

「何を申すのですか。悪い情報こそ、即伝えるべきでしょう。それこそが忠臣と心得てください」

「……その通りです。申し訳ございません」


 玄徳が今、官吏の鏡と讃えられるほどの人物となれたのは浪の影響によるところが大きい。枢密使となり、自分より高位となった部下に対しても、今日のように言いにくいことをはっきりと言うことができる浪は、玄徳にとってかけがえのない存在であった。


 素直に教えを受け止めた玄徳に、浪は笑みを深め、それからわずかに打ち消した。「ところで」と、真摯な瞳が玄徳に向かう。


「そろそろ教えていただきたいのですが」

「はい」

「なぜあなたはあの武人を捜しているのですか」


 あの武人とは、袁仁威のことだ。


 そして、浪のこの発言は冷酷さからくるものではなかった。


 以前玄徳が浪に説明したこと――彼は異人に命を狙われているので枢密院として早急に保護してやりたい――がすべての理由ではないことに、浪が当初から気づいていただけだ。


 もちろん、仁威が消えたことは近衛軍にとって大きな損失だが、たかが武人一人が欠けたところで成り立たなくなるほど脆弱な国、組織でもない。だから、たとえ仁威が命を狙われていたとしても、わざわざ国を挙げて護る必要はないのだ。他にも重要かつ急を要する仕事は多々あるのだから。


 玄徳は迷った。だが結局無言を貫いた。


 これに浪が「やれやれ」と眉を下げた。そしてまた「玄徳」と名を呼んだ。


「あなたのその高潔さが時として気になります」

「……先生」


 ほうっと、玄徳の口から白く重い呼気が漏れた。その表情は叱られるのを待つ生徒のようだった。これに浪は一人の青年のことを連鎖的に思い出した。先日、浪が春節の宴の折に垣間見た隻眼の青年の姿が、なぜか――。


 御史中丞という相当な高位にありながら、派遣先に滞在していることが多い浪であるが――この五年、玄徳のそばに李侑生という名の部下が常にいたこと、その部下と玄徳の一人娘が婚約したこと、しかも彼が破格の出世を遂げて中書省に異動したことは知っていた。


 だが、それらの情報の一つとして玄徳からもたらされたものはない。玄徳はそういった自分に近いこと――私事といってもいい――については師に何ら語らないのだ。報告どころか、相談をすることもない。それは八年前の事変についても然りだった。


 公私の区別をつけることを厳格に守らんとする玄徳の意志を尊重し、師である浪は玄徳の内面には立ち入らないようにしてきた。だが、今日は違った。


「清らかさだけを有する人間などいませんよ。あなたも、私も」


 玄徳が困惑気味につぶやいた。


「私は……」


 ため息交じりの白い吐息の漂う様に、浪の目が柔らかく細められた。そして諫めるつもりはないことを言外に示しつつ、一つうなずいた。


「ですがそれがあなたなのでしょう。そうすることであなたは『そこ』に立っていられるのでしょうから」

「……すみません」

「謝ることなどありません。あなたはあなたらしく生きればいいのです。ですが苦しくはないのですか」

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