2.何かを選べば何かを捨てなくては
若き二人の枢密院事が賑やかに去っていくのを、李侑生は遠目から眺めていた。
二人が通りかかったことに気づいたのは偶然で、見かけるや、気安く声を掛けそうになった。だがやめた。
雪の舞う中、二人の枢密院事の背中は次第にぼやけ、やがて見えなくなった。その瞬間、二人とのこれまでの縁までもが幻となってしまったかのように思え、侑生はやり場のない悲しみに目を伏せた。長いまつ毛の上、雪が触れて溶け、雫が頬を伝っていった。それはあの夏以来、一切流していない涙のようだった。
はなから分かっていたのだ――何かを選べば何かを捨てなくてはならないことは。
侑生にはどうしても共にいたい人物がおり、護りたいものがあった。だから吏部への異動を決め、最愛の部下を捨てた。それだけのことだ。
今日も吏部侍郎としての立場を優先して、徐に対して不満をあらわにする二人のために何もしてやれなかった。いや、できなかった。
(いいや、これでいいんだ。私はそうすると決めたのだから)
きびすを返した侑生は昇龍殿へと足早に戻っていった。
「あ、吏部侍郎だわ!」
「ほんと素敵な方……!」
通りすがりにきゃあきゃあと華やいだ声をあげた女官吏に、侑生は軽く笑みを浮かべて応えてやった。だが内心では喜びどころかうっとおしさを感じていた。ここはいつでも騒がしい。まだ異動して数日だというのに、すでに男ばかりの武殿が恋しくてたまらない……。
*
そんな侑生のことを、礼部侍郎である馬祥歌は偶然目撃していた。
愁いを帯びた侑生の視線の先には彼のかつての部下がいて――祥歌にしては珍しく、この新しい同僚に慰めの言葉を掛けたくなった。だが結局は掛けなかった。
祥歌は今、非常に忙しかった。中書省五部の中で、この時期もっとも多忙を極めるのは礼部だからだ。多数の儀式を執り行うのはもちろん、国内外の訪問客やしかるべき部署との合議の設定など、人手はいくつあっても足りないのである。
と、いうか。
周囲の女官吏の目が気になってしまい、声を掛けるのがわずらわしくなったというのが正直なところだった。
「李侍郎は人気がありますなあ」
祥歌と共に歩く部下、郎中――侍郎の直属の部下――の男が苦笑いを浮かべながら話しかけてきた。
普段、壮年のこの部下は無駄を嫌悪する上司を理解するがゆえにこのような世間話はしてこないのだが、それをしたということは、祥歌が侑生に気をとられていたことに気づいている証だ。
「ですがこういう夢のある人事はいいですなあ。新しい風が入ってくるというか。しかもあれほどの美形、優秀な人材! 将来が楽しみな若者が育つ様に立ち会えると思うと、年寄にとっても嬉しい限りですわ」
齢五十過ぎのこの郎中、すでに昇進には興味なく、祥歌を含めた次世代の育成に心をくだいている。この男にかかると、自分よりも若い人間は誰もが我が子のように思えるのだとか。
やや顔を赤らめた祥歌が、こほん、と咳をした。
「もう行きましょう」
「おやおや。馬侍郎が赤くなっておいでだ。これは明日は雪がやみますかな」
「……姜郎中!」
ふんっと、子供じみた態度で逃げるように去っていく祥歌の背後で、男――姜はからからと笑い声をあげた。
*
枢密院の長官、枢密使である楊玄徳は、この日は林という名の枢密副史を一人連れて御史台の重鎮が集まる合議の場に出席していた。
御史台はその多くが極秘の任務を抱えており、そのほとんどが国内外に派遣されていることから、年に一回、春節の際に可能な範囲でここ開陽に一同に会すこととなっている。そこで報告された諸々については、最終的には御史台を統括する皇帝に報告することが定められていて、その場に中書省と枢密院の官吏もわずかながら同席がゆるされていた。
中書省からは長官である中書令・柳公蘭、それに吏部尚書となったばかりの蘇藤固が出席している。
ちなみに枢密院・大理寺の長である大理卿や、中書省・刑部の尚書はこの場には同席していない。どちらも御史台同様に罪や罰に深く関わる組織だが、三組織の独立性を保つために直接的に関わることを禁じられているのだ。だが実情はやや違っていて、三組織が三組織ともに己が流儀、信念の下に行動することを善しとしているがゆえの不干渉でもあった。
それゆえ、玄徳や公蘭といえどもこの場では聴衆としてふるまうことを求められる。
そして、これら紫袍をまとう四人以外の官吏――つまり御史台の面々は、皆が薄い黄色の袍衣を身に着けていて、彼らが勢ぞろいする様は圧巻でもあった。ちなみにこの色は月光に似ていることから、彼らの着衣は月袍と呼ばれている。
例年と異なるのは、いつも上座にいるべき黄袍の男――皇帝が不在な点だ。今年は一度も姿を見せておらず、体調不良だと噂されている。
皇帝の代理として今日は異母弟・趙龍崇が出席している。黒太子と称される彼は今日も黒衣に身を包み、一段高い位置で御史台の長官、御史大夫からの報告に淡々とうなずいている。
一刻超の時間を使い、御史大夫の丹による独演会のごとき報告が終わったところで、龍崇が立った。
「ご苦労。では『あれ』については西宮で」
「御意」
『あれ』とは皇帝と御史大夫が二人きりで語らう必要のあることであり、端的に言えば極秘事項のことだ。例年であれば、この後、皇帝と御史大夫は二人きりで東宮にて酒宴をもつ。だがその真の意味を知る者はごくわずかだ。
龍崇が退室するのを、残る全員が頭を垂れて待つ。
黒衣の背中が見えなくなり、皇族の気配が消えれば――今日はお開きだ。
どことなくほっとした空気が漂うのはいつものこと。ここに集う御史台は皆精鋭中の精鋭だが、そんな彼らの人間らしさが垣間見えるこの瞬間が、玄徳は以前から好きだった。
玄徳は林に先に帰るように伝えると、一人の男へと近づいていった。御史中丞――御史大夫の次に位の高いこの男の名は浪という。
「浪中丞」
「おお。楊枢密使」
好々爺とたとえるのがふさわしい笑みを浮かべて白髪の男が応じた。
「お元気でしたか」
「ええ。浪中丞は開陽に戻られたばかりと伺っていますがお元気でしたか」
「はい。海南州の気候は私のような老体にはよく合っていましたよ。このままあちらで新年を越したかったくらいです」
御史中丞と枢密使という高位の者が語り合う様子に、同じく高位にある公蘭が離れた場所から探るようなまなざしを向けている。だが当の二人はといえば朗らかに談笑するのみで、公蘭はやがて諦めたように部下の蘇を連れて退室していった。
「これから皆さんで宴をされるのですか?」
世間話は和やかに続いている。
「もちろんですとも。こういう時でないと思いきり飲めませんからね」
御史台の人間は任務遂行中は飲酒を控える。たとえば零央にて長年駐在する面々――侍御史の習凱健や、監察御史の応双然も同様だ。いざという時がいつ起こるか予測できかねる任務についているがゆえに、年中無休で気の抜けない生活を送らざるを得ないのである。
「少し時間をいただけますか」
玄徳の申し出に「では雪景色を拝みたいですな」と浪が提案した。