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4.希望を掴むよ

 その影の理由が『赤ちゃん』という単語にあることも……容易に察せられた。


 この子が幸福な思いで子を身ごもっているのかどうか、いまだにはかりかねているというのに。「この件については触れないようにしよう」と、ずっと前から兄と決めていたというのに。


 なのに、つい――。


 空也は覚悟を決め、言った。


「もしも珪亥が嫌なら俺達は今すぐにだって出ていく」

「えっ……」

「だから気にしないで正直に言ってくれ。俺達がいない方がいいか? それと赤ちゃんのことも……ごめん」


 謝って、また「しまった」と思った。


 謝るということは、相手についてこちらが自分勝手な推測をしていることを認めることになるからだ。


 そういったことも、今は露見するつもりはさらさらなかったのに……。


 と、見るからにしおれた空也の背中を雨渓がばしっと叩いた。


「なあんも問題はないよおっ!」

「ば、婆さんっ?!」

「悩むこたあない、お前さん達はここにいてすべきことをしていればいいんだっ!」


 これに空也が何か言いかけた。


 だがそれよりも先に「婆さんっ!」と、青ざめた顔で空斗が叫んだ。


「そんな風にこいつの背中を叩かないでくれ……!」


 芯国人に斬られた痕がいまだうずくことを空斗は知っていて、それゆえの訴えだった。


「こいつは春に大怪我をしているんだ」

「兄貴、いいから」


 腕に触れてきた弟の手を空斗が乱暴に払った。


「いいわけがあるか! お前は黙っていろ!」

「おお、おお。それはすまなんだ」


 雨渓がぺこりと頭を下げた。そんな雨渓のことを、空斗は強張った表情のままで睨みつづけている。その隣では空也が所在無げにしながらも無意識で背中を気にしだした。


「すまんなあ」


 雨渓が再度謝った。


 だが急につかみどころのない、曖昧なことを言い出した。


「しかし過去は変えられないし、傷は癒しきれるものとは限らないよなあ」


 兄弟二人の視線が老婆に集中する。


 それは――珪己もだ。急に腹がきゅうっとうなった。


「未来は明るいものとは限らない。痛みは消えるものとは限らない。人は理解し合えるものとは限らない。だがなあ」


 ここで雨渓は兄弟と珪己、三人にそのつぶらな瞳を向けた。


「お前さん方はお前さん方次第で変わることができるんだよお。こんなおかしな世界でもなあ、それだけはお前さん自身でなせることなんだよお。たとえばお前さん。ああ、弟の方さあ」

「お、俺?」

「その傷で失ったものもあるだろうが、得たものもあるんじゃないかあ?」

「え……?」

「できなくなったこともあるだろうが、その傷のおかげでできるようになったこと、知り得たこともあるはずだよお。違うかあ?」


 問われ、空也がまず思い出したことは――今朝がた珪己が伝えてくれた感謝の言葉だった。


 物思うような顔つきになった空也に、雨渓が意味ありげに目を細めてみせた。


「その痛みは『本当に』痛いのかあ?」


 瞬間、空也がびくりと体を震わせた。


 図星だ――そう思ったからだ。


 なにもかもが図星だ――そう思ったからだ。


 確かに怪我をしたことで剣を握ることはできなくなった。武官を辞めるはめにもなった。けれどそれ以外のことは今も一通りできている。握力はおちたし、手が震えることもあるにはあるが、指先の器用さはそこまで損なわれていない。たまに背中が引きつることもあるが、日常生活に特段支障はない。たとえば、昨日の妊婦を伴った下山などは、誰もが容易に達成できることではない。


 金にも困っていない。


 家族とは遠く離れて暮らしているが、義兄弟の契りを結んだ空斗がそばにいてくれるから、孤独ではないし不幸でもない。


 いや、どちらかというと幸せだと思う。


 一日一日が楽しいと思えているし、明日が待ち遠しいと思えるのはその証拠だ――。


 空也の頬に赤みを帯びていくのを、空斗は不思議な思いで見つめている。暴発しかけていた激情はいつの間にか失せている。


「で、次はお前さん。兄の方だ」


 指名され、空斗はとっさに老婆に顔を向けた。


「その不安や不安定さはな、自分だけじゃない、周囲の人間まで黒く染めてしまうぞお。抑えるのが難しいっつうのはよく分かるがなあ。……でもなあ、そうやって不安がっている方が楽だからってことはないかい?」

「なんだって?」

「心根を定めずに流されている方が楽だからってことはないかい?」

「俺はっ……!」

「いんや、いんや。さっきも言った通り難しいのはよく分かっとるんだ。儂も長いこと生きてきたから、そのことはよおく分かっとる。だがなあ、そろそろいいんじゃないかあ?」

「な、なにが」

「ここを分岐点にしてもいいんじゃないかってことさあ」


 決めるんだよ、と老婆がつづけた。


「変わるんだよ、お前さんも。変わると決めるんだよお。ほんとはそうしたいんだろお?」

「……」


 これまた、空斗の心の隙間、急所を正確につく発言だった。それは一昨夜、御史台の官吏との密会の場で空斗が願ったことそのものだったからだ。痛切に願い、彼らに訴えたことそのものだったからだ。


 なのにひ弱な老婆が弟の背中を一度叩いただけで、かっとなってしまった……。


 冷静に判断すれば、老婆の打撃には大して力は入っていなかったというのに、だ。


 黙りこんだ兄弟二人を眺め、満足気に笑みを浮かべた雨渓は、そこでようやく珪己の方を振り向いた。


「さて。娘さん」

「は、はい」


 自分は何を言われるのだろうかと身構えた珪己に。


「お前さんは子供を産めばいいんだよお」


 何を当たり前なことをと思ったが、雨渓の表情は青年二人に向けていたものよりも凛としたものに変わっていた。年配者特有の慈悲深さがにじみでる柔らかな表情からは、諭し導こうとする意志、それに絶対的な摂理を語ろうとする威厳のようなものすら感じられる。


 言葉を失った珪己に、


「お前さんはその子を産めばいいんだよお」


 再度、雨渓が言った。


「儂にも先の細かいことまでは分からん。もしかしたら産むことで大きな厄がその身に降りかかることもあるかもしれん。だがお前さんは希望を掴むよ、その子を産むことで」

「希望……?」

「んだ」


 あれほど青年達には雄弁であったというのに、珪己に対しては雨渓はそれ以上語らなかった。


 ただ、その言葉は不思議と珪己の心に響いた。


 何の根拠もないその言葉が、ともすれば不安に陥りそうになる柳のような体を、添え木のように支えたのであった。


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