3.訪問者
龍がこの地における歴代皇帝――そのほとんどが男――の象徴であるがゆえに、皇族の住居、装飾品などにも権威付けのように龍の意匠が用いられているが、女人の皇族に関してはやや違っていて、特に皇妃――皇帝の妃――は象徴として凰を多用している。そのことを珪己は上級官吏の娘の常識として知っていた。
だが氾兄弟は知らなかった。
「うーん。それってつまり、どういうことなんだ?」
まだこの国には男性優位の名残りがあり、かつ皇帝一人が神と意思疎通できるなどと特別視されていることもあり、龍について理解していても凰について知り得ていないのは、庶民ならば仕方ない。彼らは首都・開陽に数年しか暮らしていないし、皇族が関わるような重要な仕事を任されたこともなかったからだ。
「鳳凰って四神の朱雀のことだよな」
「民草はそんなふうに考えているなあ。だが儂の言う凰は違うんだなあ。鳳は雄、凰は雌さあ。鳳凰ともちと違う。伝説じゃなくて、実際にこの地に住んでおった一羽の鳥のことさあ」
「へええ。そうなんだ。婆さん、物知りだな」
感心する空也は、険しくなった表情を悟られまいとうつむいた珪己に気づいていない。
ひゃひゃひゃ、と雨渓が甲高い笑い声をあげた。
「まあとにかく、娘さんには優しい山だってこった。でもそこから自発的に降りてきたってことは、やっぱり娘さんは一味違うなあ」
意味ありげな視線を珪己に送りつつ、そんな風に話を締めくくった。
「そうだ。珪亥!」
「な、なんでしょうか」
突然大きな声で呼びかけられ、びくりとした珪己に、空也が「あれ?」と顔を覗き込んできた。
「なんか顔色がよくないな。じゃあやっぱり帰ってもらって正解だったな」
「帰ってもらう?」
「そ。昼間に杜々屋の夫婦が来てくれてたんだぜ」
「ええっ? 女将さんと番頭さんがここに?」
「ああ。差し入れ持ってきてくれたんだ。ほら、それ」
見れば棚の上には大葉に包まれた丸い白餅が零れ落ちそうなくらい積まれている。その隣には真っ白な綿の反物も並んでいた。
「赤ん坊の肌着を縫うのに使ってくれってさ」
その意味するところを考えていたら、先に空斗の方から説明してきた。
「杜々屋の二人も行方不明になっていたあんたを捜してくれていたんだ」
あの夫婦にまで妊娠のことがばれてしまっているのか――そう思うと珪己はいたたまれなさを覚えた。夏の時分に彼らの宿に逗留していた頃の自分は随分と子供じみたふるまいをしていたのに、あれから結局挨拶一つすることなく、妊娠までして……。
「二人はあんたのことを軽蔑してはいないよ」
珪己の考えを読んだかのように、空斗が丁寧に言葉を重ねた。
「ただ心配しているだけだ。だから早く元気になれ。な?」
「……はい」
様々なことへの感謝の念に潤んだ瞳で、珪己は空斗をつかの間見つめた。すると、これに空斗がやや難しい顔になった。気を損ねてしまったかと珪己が慌てて涙をぬぐうと、空也が「大丈夫だよ」と笑いかけてきた。
「珪亥は何も悪くないから」
「あの、でも……」
「兄貴さ、女の涙に慣れてないんだ」
「そう……なんですか?」
「うん。絶対そう。涙目で見つめられて照れちゃっただけだよ。な、兄貴?」
変な笑い声を発しつつ兄のことを肘でつつく。
対する空斗はぶすっとしているが、何も言い返さないあたり図星だった。
女を抱いたことがあると弟に打ち明けたことのある空斗だが――その実、女に対する免疫はそれほどないことがこれでばれてしまったわけだ。その理由は以前本人が言っていたとおりで……つまりは「好奇心で近所の人間と致したことはある」けれど、それ以外には語れるような経験はしていない、ということなのである。
「ところで」
耳朶を染めたまま、こほんと空斗が咳をした。
「梁晃飛の母親も来ていたぞ」
「芙蓉さんが?」
「あんたの寝顔を一目見たら、すぐに店に戻ってしまったけどな。この時期は忙しいんだそうだ」
その際、ちょっとよそよそしい態度だったような気もするが……これは言わない方がいいだろうと空斗は判断した。今日初めて会ったばかりの人間のことを断定できるほど賢くないし、人の機微に敏感でもないからだ。
「あ、そうそう!」
空也が弾んだ声を上げた。
「俺達、正式に二人の世話をすることになったんだ」
これに雨渓がずいっと割って入ってきた。
「んだ! 儂が二人のことを推したんだぞお。この二人はここにいるべきだからなあ」
いるべき、という表現の仕方は雨渓にとっては実に正しかった。なにも思いつきであれやこれやと発言しているわけではないのだ。
しかし、この必要以上に強く聞こえる発言を、空也は褒められたと解釈したようだ。
「婆さんがそこまで言うならいいかなって思って引き受けたんだ。芙蓉さん、だっけ? あの人にもよろしく頼まれた。俺達がいれば安心だってさ」
鼻の下をこする空也は随分嬉しそうだ。
「給金もはずんでもらえるみたいだし、ちょうど街で住まいを探そうとしてたから、俺達にとってもだいぶ得な話でさ」
「でも頼られたことが一番嬉しかったんだよな」
仕返しとばかりに空斗が口を挟む。
それを空也は素直に認めた。
「そうかもな。あと、珪亥とまだ一緒にいられるのも嬉しいんだよね。俺、珪亥の産んだ赤ちゃん抱っこしてみたいなあ! いいかなっ?」
うきうきと語っていた空也だったが、ここで「あ」と言葉をつまらせた。
「……ごめん。俺達でいろいろ勝手に決めちゃってよくなかったみたいだな」
珪己の表情に陰が走ったことに目ざとく気づいたからだ。