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1.心からの御礼

 年が明けた。


 だいぶ日が昇ってから起床した珪己が慌てて台所に向かうと、その手前の居間の方から複数人が会話する声が聴こえてはっとした。


 おずおずと戸を開けると、案の状、そこには氾兄弟がいた。彼らは珪己に気づくと会話をやめ、空也の方がいつもの軽い調子で「おはよ」と声をかけてきた。いまだ強い疲労感が残る珪己と違い、見た目は調子良さそうだ。


「おはようございます。……あの、それもしかして」


 珪己がやった視線の先、二人の青年が囲む長机には湯気を放つ椀が置かれている。双方が匙を手にしており、まさに食事中のようだ。


 これに空也がうなずいた。


「うん。俺らで作ったんだ。さ、珪亥も座って一緒に食べようぜ」

「あの……でも」

「旦那さんの分なら、さっき部屋に持っていったから大丈夫だよ。さ、座って」


 旦那とは誰のことを指しているのか。そんなどうでもいいことに意識が向きかけたが、今すべきことは違うと気づき、珪己はすぐに謝罪した。


「すみません、お客様にこんなことまでさせてしまって」


 ひたすら恐縮する珪己に、空也が「いいのいいの」と手をひらひらと振ってみせた。


「なんかさ、兄貴は食事の支度も含めて君の旦那の介護全般を任されているんだって」


 そういえば、昨夜晃飛がそんなことを言っていた。


「だからこれは仕事なの。気にする必要なんてないんだ」


 それでなぜ弟の方まで調理をしたのかは謎だが、その口調からは嫌々ここにいるわけでもなさそうだ。と、いうよりも、兄弟二人、同じ時を同じ場所で過ごせることに満たされているのだろう。そういう表情をしている。


「ささ、座って」


 好意に甘えて食卓につくと、「はいどうぞ」とさっそく目の前に椀が置かれた。麦と少しの野菜を煮込んだ雑炊は、市井の民の一般的な朝食だ。


 開陽にいた頃――年明けといえば朝から豪勢な食事が食べきれないほど並んでいたっけ……。その遠くもない過去、いつまでも続くと信じて疑わなかった光景を、珪己は目の前に出された椀一つで連鎖的に思い出した。


 昨年は例年通りのなんてことない年明けを過ごした。起床とともに家人の手によって新年にふさわしい装いにさせられ、その姿で父に新年の挨拶をし、親子水入らずで食事をし、それから客人を幾人も幾人も出迎え……。珪己にとって春節とはそういうちょっと面倒な行事でしかなかったのである。


 昨年は紅の花が刺繍された薄桃色の絹の衣、それに金糸をふんだんに使った目にも眩しい帯が用意されたが、いつもよりもきつく帯を締められて苦しかったことが一番印象に残っている。普段粗野な娘の貴重な晴れ姿に父が涙目になるのも毎年のことで、それにも例年通り「やめてよ」と苦笑して……。


 なのに、そんなささやかな親孝行すら今年はしてやれない――。


 郷愁的な思いにとらわれかけた珪己だったが、二人の青年に囲まれ、大きな腹を抱えている現実を前に、即座に気持ちを切り替えた。


(うん。昨夜晃飛さんから言われたとおりだ)

(今は考えこむよりも笑っていよう)

(悲しいことではなくて楽しいことを、不安よりも幸福を感じよう――)


「空斗さん。空也さん」

「どうした?」


 問う空也、無言で視線を向けてきた空斗――二人の顔を交互に見つめながら、珪己は自然と笑みを浮かべていた。


「私、二人に出会えてよかったです」


 これに空也が咀嚼していた麦の粒をいくつか吹き出した。


「なな……! なんだよ急に」


 口を拭いながらどもる空也のことを、珪己は真心を持って見つめた。


「空也さん」

「な、なんだよ」

「空斗さん」

「お、おお」


 急に話題を振られ、空斗の目が小さく見開かれた。


「私を拾って看病してくださったことから、何から何まで……本当にありがとうございました。二人がいなかったらこの家に戻ってくることはできなかったと思います。無事に年を越すことも、こうやって笑うこともできなかったと思います」

「なんだよ。どうしたんだよ急に」

「だから、あの。これからもよろしくお願いします!」


 机に両手をついて頭を下げた瞬間、圧迫された胃がきゅうっとうなった。こうやって感情的に動くと、腹の大きさにふさわしい行動かどうかがとっさに判断できないことがいまだにあるのだ。


「いたた……」

「おいおい。大丈夫かよ。それよか早く食べろって。冷めちまうぞ」


 空也が照れをごまかすように雑炊をすすりだした。だがこらえきれない笑みで頬が緩やかな弧を描いている。人と関われる仕事をしたい――そう願って武官になった空也だったが、面と向かって感謝を伝えられる機会などあまりなかったから、自分の行いに対して真っすぐな気持ちを伝えてくれた珪己の方にこそ、空也は感謝の念を抱いたのだった。


(やっぱり俺、間違ってなかった)


 これまで通ってきた道、与えられた痛み――そのすべてがここに繋がるためにあったのだとしたら、自分は何ら過ちをおかしていなかったのだと受け止められる。その自信こそがきっとこれからの自分の力になるのだろう――そう空也は確信し、その瞬間、目前に広がる未来、世界のすべてが色鮮やかなものに変貌したように錯覚した。


(これからどこに行っても、何をしても――俺は大丈夫だ)


 空斗は黙って雑炊の汁をすすっているが、弟から伝わってくる喜色になんとはなしに目元が柔らかくなっている。


 と、珪己の表情がやや硬くなった。


「もう一つ、お二人に伝えたいことがあるんです」

「なんだ?」


 にこっと笑ってみせた空也に、珪己は思わずといった感じで視線をさ迷わせた。


「あの……」

「うん」

「私……本当は呉珪亥なんて名前じゃないんです」

「どうしたんだよ、急に」

「……驚かないんですね」

「兄貴が言ってたから。本名じゃないはずだって」


 思わず空斗の方を見ると、こちらは椀の中に目線をやり黙々と匙を口に運んでいる。


 その反応のなさこそが解だった。


「そう……だったんですね」


 だったらどうして、と尋ねかけた珪己だったが、「名前なんかどうでもいいし、君は君だ」と空也が言うものだから、それ以上は言えなかった。


 代わりに、一拍置いて笑いがこみあげてきた。


「ふふふ。そうですよね。確かに名前なんてどうでもいいですよね」

「だろ? それに俺、珪亥って名前けっこう好きだよ。かっこいいじゃん」

「ありがとうございます」

「自分でつけたの?」

「いえ。これは、その」


 つい言葉を濁らせた珪己だったが、その顔が幾分綻んだことに空也は目ざとく気づいた。だが敢えて推理したことを言葉に出すことはせず、


「早く会えるといいね。その大切な人に」


 しみじみと、それだけを伝えていた。


「え?」

「あっ」

「こら。空也!」


 軽く頭をはたかれ、空也が「しまった」という顔になった。


「ごめんっ! なんか色々分かったからつい」

「つい?」


 匙を噛んで押し黙ってしまった空也の代わりに、空斗が口を開いた。


「梁晃飛はあんたの夫でもその腹の子の父親でもないんだよな」


 だよな、と問いかけるような言い方だが、その実、それは事実確認でしかなかった。ただ、言ったそばから弟の強い視線を受け、すぐさま「すまない」と空斗が謝罪した。兄弟二人で失言と指摘を相互に行う形になっている。


「あんた達二人がどういう関係なのか少し気になっていたんだ」

「でもそれは好奇心だけじゃないからな! 珪亥のことが心配なだけだからな!」


 ずいっと、空也が身を乗り出して訴えてきた――ところで。


「……なんか騒がしいと思ったら」


 廊下の方から聴こえた声に三人が視線を向けると、そこには杖をついた晃飛の姿があった。

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