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3.あの日、あの時

 何も言えずにいる晃飛に、突如珪己が頭を垂れた。


「すみません、やっぱり忘れてください」


 立ち上がりかけた珪己の手を、晃飛はとっさに掴んだ。


 そして背中から抱きしめていた。


 抱きしめてみれば、どれほど腹が膨れていようとも珪己の体は細かった。暴風雨の中でたった一人で立ち続けるには華奢すぎる体だった。


「晃飛さんっ?」


 珪己の驚きは、突然抱きしめられたことではなく、晃飛の女嫌いをよく知っているからだ。


 これに晃飛が余計に抱きしめる腕に力を込めた。そうやって自分を気遣ってくれる珪己の心は分かりすぎるくらいに分かったから――。


(ああ、この子はいい家の娘なんだろうけど、武芸者だけど――)

(母親になるんだけど――)


 やっぱり、一人きりで生きていくにはかわいそうすぎる。


 そう晃飛は思ったのだった。


「ごめんね。辛かったよね」


 ようやく言えたその一言に、腕の中、珪己の体がふるりと震えた。


「そんなに大変なことをずっと抱えて……辛かったよね」

「……晃飛、さん」


 ぽたん、と、珪己の体に回した晃飛の腕に温かな涙が落ちた。


「ごめんね。気づかなくて」


 晃飛の方から珪己の顔は見えないが、ぽたん、ぽたん、と温かな涙がいくつも晃飛の腕を濡らしていった。


「迷惑……かけたくないんです」


 うつむいた珪己の頭が、晃飛の顎の高さで細かく震えだした。


「本当は誰にも迷惑をかけたくないんです。誰にも……」


 そのために武芸を習ってきたのだから――。


 それは言葉に出さなくても伝わってきたから、「俺は迷惑だなんて思ってない。驚いただけだよ」と晃飛は言った。


「でも私……っ」

「君はなんでも一人で抱え込みすぎなんだよ。君がそんな風にふるまう理由はよく分かる。でも一人では解決できないことだってあるんだよ」


 自分で言いながら、晃飛は内から沸き起こってくる熱い想いに翻弄されつつあった。


「君のこと……もっと教えて」


 これに珪己は戸惑った。本当は珪己も晃飛にすべてを話すつもりでいたのだが――この件は『本当に』話していいことなのか、今更ながら強い迷いを覚え始めていたのである。


 けれど晃飛の腕はびくともしない。絶対に逃がさないと、晃飛の全身が、心が伝えてくるかのようだった。だから珪己は思い出した。何があろうと君のことを護る、そう晃飛が誓ってくれた近くて遠い夜のことを――。


 その誓いに満たされた自分のことも――思い出せる。


 ならば――。


「……嘘をつかなくても、いいですか」


 訊ねるのには勇気がいった。だが訊ねた。訊ねることで晃飛をこの難しい状況に巻き込むことになってしまう、それが分かっていて……訊ねた。


「話しても……本当にいいですか」


 これに晃飛がうなずいた気配がした。


(……もう晃飛さんには隠し事はできない)

(……ううん、してはいけないんだ)


 山に滞在中から晃飛にすべてを伝えたいと思っていたのは、珪己自身が伝えたかったからだ。晃飛のためではなく、自分のために。だが今は自分が望もうと望まないと関係のない段階へとたどり着いてしまっている。そのことに珪己は今更ながらに気づいた。


 であれば、その身を懸けて守護すると誓ってくれた晃飛に珪己が返せるもの――それは最大限の信頼と安全の保障、そのための情報くらいしかない。


「お腹の子の父親は皇帝陛下なんです」


 珪己がはっきりと言った。


 これに晃飛の体が強張った。


 先ほどの比ではない衝撃を受けた晃飛だったが、それを腹の中にきっちりと収めてみせ、問うた。


「前に君が言っていたとおり、無理やりってわけではないんだよね」

「はい。私がその時望んだことです」


 聞こえようによってはふしだらな発言だ。だが、お互い顔が見えない状態ということもよかったのか、これを皮切りに衝撃的な事実が珪己の口から暴露されていった。


「芯国の王子に望まれたことが発端だったんです……。王子はとても強引な方で、黒太子――陛下の弟君にも私が抵抗できる相手ではないと忠告されるほどでした。だから私はしばらく後宮にかくまわれることになっていたんです。……なのに。後宮入りする当日、私の通っている道場にその王子が現れたんです」

「……それで?」

「王子は私の師匠や友人らを捕らえ、そして私も……。気づいたら芯国の大使館にいました」


 王子の寝所に、と添え、珪己がうつむいた。


 その様子は辛そうで、悔し気で――晃飛は一つの仮定にたどり着き言葉を失くした。


 だがその様子に気づいた珪己によって、その仮定は即座に否定された。


「王子に手籠めにされてはいません。悔しいのは、私が何もできなかったからなんです」

「……なるほどね」


 晃飛は詰めていた呼吸をようやく吐き出すことができた。


「そこに仁兄が現れてそいつをぼこぼこにしたってわけだ」


 わざとくだけた言い方に、張り詰めていた珪己の体が少し緩んだ。


「正確には他にも二人の方が駆けつけてくれたんですけど、確かに王子と闘ったのは仁威さん一人でした」

「やっぱりな。さすがは仁兄だ」


 嬉しそうな晃飛に、つられて笑みを浮かべかけた珪己だったが――。


「……でもその夜、私は皇帝陛下と夜を共にしてしまったんです」


 話の核心に自ら触れた途端、先程以上に珪己の体が強張った。


「してしまったという言い方は陛下に対して用いる表現ではないことは分かっています。私自身も望んだことでしたから。……けれどあんなことがあった日にすべきことではなかった。それでも陛下に身を委ねてしまったのは……」


 間を置き、珪己は続けた。


「一つ目の理由は……恐怖からでした」

「恐怖?」

「はい……。たとえ今回は逃げおおせたとしても、また王子がやってくるかもしれない。その時同じように逃げ切ることができたとしても、また次があるかもしれない……。そう思うと怖くて仕方がなかったんです。それに王子に正当な手段で求められたら断れないことも分かっていました。それは黒太子も同意見でしたから」

「そこまで執念深くて権力のある奴だったんだね」

「……はい。だからその夜、私は恐怖のあまり泣いてしまったんです。いつまでも、いつまでも……」

「泣いた? 君が?」


 仁威から簡単に状況は聞いていた晃飛だったが、珪己の心中を思えば強く同情せざるを得なかった。年頃の少女らしく涙を見せることも多々ある妹だが、恐怖して泣くというのはよほど精神的に追いつめられていたのだろう。


 こくり、と珪己がうなずいた。

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