1.苦悩
【前作までの話】
開陽に隠れ住む少女、楊珪己は皇帝の子を身ごもったがゆえに皇帝の側妃・金昭儀に一時期心を操られていた。
気づけば季節は冬になっており、腹が大きくなっており……あまりのことに心が壊れ、梁晃飛の家を飛び出してしまう。
そんな珪己が発見されたのは雪山で、発見したのは開陽で武官として働いていた氾兄弟だった。
兄弟たちと過ごす時間で、珪己は自分を取り戻していく。
武官としての上司・袁仁威への恋心もはっきりと自覚する。
そして妊婦ながらも山を下りようと決意する。
その頃、袁仁威は零央の街を離れて一人あてもなくさ迷っていた。
妓楼で知り合った桔梗の実家を訪ね終えたところで、これ以上生きていく気力が失せてしまったのだ。
そんな仁威が最後に願ったことは、「珪己に会いたい」、それだけだった。
珪己と仁威、二人の義兄弟となった梁晃飛は、行方不明になった珪己を必死で探す。
だが吹雪の中、力尽きてしまい――。
本作はそんな晃飛が寝込む場面から始まります。
楊珪己が氾空也と下山を決意したその頃――。
珪己と義兄弟の契りを結んだ青年の一人、梁晃飛はひどくうなされていた。
頭の先から足の先まで、晃飛のどこもかしこもが傷ついている。治りきらない多数の傷口には白い布が巻かれており黄色がかった体液が滲んでいるし、打撲による内出血の痕や擦過傷も多数確認できる。半分切れかかった片耳は縫われているが見るからに痛々しく、右足の脛など、折れて添え木を当てられている有様だ。ろっ骨も二本折れている。殴打を受けた際に吐血したので、きっと内臓も傷ついているはずだ。
夏の時分、十番隊が稽古と称した乱暴を袁仁威に施したが、あの時とは比較にならないほどの殴打を晃飛は彼らから受けた。仁威相手のそれは遊戯の一環だったが、晃飛相手のそれは報復だったからだ。晃飛を徹底的になぶり、半殺しにすることを目的とした行為だったのである。
しかも、寒空の下で珪己の捜索を続けていたことでこじらせた風邪は、治るどころか、いよいよもって重篤になりつつある。
「珪、己……」
うわ言を繰り返す晃飛の額の上、濡れた手巾をそっと取り外したのは母親の芙蓉だ。たらいの中、雪がみっしりと入った冷水で手巾をすすぎ、絞り、また額の上に戻してやる。
「珪己……。君は今どこにいる……?」
どこか苦しいのだろう、胸をかきむしるような仕草をした晃飛の手を、芙蓉はためらいながらもとっさに押さえた。下手に力を入れて触れば壊れてしまいそうなほどに晃飛の体は傷ついていた。
しかし、こんな時だというのに芙蓉が発したのは憎まれ口だった。
「あんたさあ、こんなになるまで何してるんだよ」
言っても詮無いことだとは分かっている。分かってはいるが……。
こんな有様になった息子を見るにつけ、芙蓉は相反する感情を覚えるのだった。
息子をこんなふうにした十番隊の奴らが憎い。
だがそれ以上に――こうなるきっかけを作ったあの娘が憎い。
「珪、己……」
繰り返すその名に芙蓉はちくりと言ってやった。
「ほら。意識がなければ名を偽ることもできないくせにさ。何を今までかっこつけてたんだい」
一体あの娘は何様のつもりなのだろう。こんな稚拙な嘘をつかせなくてはならないほどの大事を息子に背負わせ、こんな大怪我まで負わせて。一体どういう領分で他人の家に住みつき、なつき、赤子までこさえたのか。あんな純朴そうな顔をしたお嬢様のくせに、男をたぶらかすのは天下一品ときた。
だが――こうなってしまったことを抵抗なく受け入れている自分もいる。
今、芙蓉は自らが一度は捨てた息子の手に触れることができている。妻子ある身で熱病のような恋にとらわれ家族を捨てた自分が――今また実の息子に触れることができている。
「……こんなことでもなければ、きっとあんたを看病するなんてことはなかったろうね」
十数年ぶりに晃飛と再会した時、芙蓉は嬉しくもなんともなかった。ああ、会いたくない人間に会ってしまった、そんなことを思っただけだった。
晃飛の方も同じ気持ちであったことは言葉が出るよりも先に察せられた。つかの間視線が合っただけで、その素直な感情が伝わってきたのだ。
だが晃飛の心情を察した瞬間、芙蓉はこれまでに覚えのない深い悲しみに襲われたのだった。ああ、故郷や家族を捨てたのは私の方じゃなかったんだ、私の方こそ彼らに捨てられたんだ……と。
そう思ったら、唐突に過去をやり直したくなった。まだ若い頃の自分、幼い子供達に囲まれていたあの頃に。何の娯楽もない村、あの狭くて貧しい家に戻りたくすらなった。
もうこの街に自分の生活は確立されているというのに、何もかもを衝動的に放り出してしまいたくなったのである。
「珪己……」
その名を呼ぶ声にかぶせるように、芙蓉は息子の名を呼んだ。
「晃飛」
手のひらの中、晃飛の手は温かい。固くて節くれだっていて、切り傷や打撲痕が痛々しいが――温かい。
『母ちゃんっ……!』
ふいに幼き頃の晃飛の声が――幻聴が聴こえた。
*
その日の深夜、芙蓉は一人起きると簡単に身づくろいを整えた。恋した男と村のはずれで待ち合わせをしていたからだ。そのまま二人で男の住む西門州へと逃亡する算段になっていた。
決して広くもない一間では子供達や夫が芋虫のように身を寄せ合って眠っていたが、その様子を芙蓉は最後になんの感慨もなく視界に収めたことを覚えている。
これでちんけな世界からおさらばできると、せいせいした気分で戸に手をかけた――まさにその瞬間のことだった。その幼子に呼びかけられたのは。
『母ちゃんっ……』
振り向くと、体を起こした晃飛が不安げな顔でこちらを見ているのが、暗闇の中でもおぼろに分かった。
『どうしたい。母ちゃんはちょっと用事があるんだよ。お前は寝てな』
芙蓉の口から出たのはわざとらしい言い訳だった。
それでも乞うような視線を向けてくる晃飛は、芙蓉の言葉を完全に信じられないようだった。だがそれも仕方ない。芙蓉はいつだって家族に同じような言い訳をして家を抜け出していたからだ。そうやって綱渡りのように恋人との逢瀬を楽しんできた自覚はある。
だが晃飛の視線を受けていたら、ふいに強い怒りが芙蓉の胸の内に沸き上がってきた。
『いいから寝てな……!』
その時の自分の声は、自分でも嫌になるほど刺々しく冷酷だった。
母親の脅しにもとれる命令に、晃飛が跳ねるように横になった。
それが幼い息子を見た最後となった――。
*
物思う芙蓉の回想は、包む手の内の乱暴な動きによって中断された。
「見つけてやるから……。俺が必ず君のこと……見つけて……やる……から……」
睡眠中すら晃飛にとっては安寧の時とはならないようだ。眠りについても二刻もたたずにこんな風にうなされてしまう。昼間、目が覚めている時でも、捜索に行けない我が身を呪い苦渋に苛まれているというのに、だ。苛立ち、悲しみ、時折何かしらに祈りを捧げているというのに、だ。
(一体いつになったら晃飛の心は救われるんだろう……)
そんな晃飛に、なぜか芙蓉は徐々に同化しつつあるのだった。
晃飛と共にこの世の不条理さに絶望し、達観し、それでも何かしらに縋りたくなり、願い、祈り――そして晃飛と強く同調できる自分に甘美な背徳感を覚える。
だがそんな自分を認めたくはなかった。それではいくらなんでも自己愛が強すぎるし、非人間的すぎる。
今、息子は大怪我を負い、風邪をこじらせ寝込んでいるのだ。命に別状はないとはいえ、起き上がることすら容易ではない状態が続いているのだ。外に出ることもかなわず、あの娘を見つけられずにいることに大きな苦痛を感じているのだ。なのに――。
こんな時、本当の親ならばそばいるだけで満たされてはいけないはずなのだ。正しい親ならば、十番隊やあの娘を批判しているだけでは駄目なはずなのだ……。
思わずもう一方の手で晃飛の頭に触れていた。
柔らかな髪質は子供の頃から変わっていない。
髪をなで、お日様の香りのする頭頂部に鼻をつけて思いきり吸い込んであの頃は、もう遠い。もうあの頃には――戻れない。
「晃飛……。私はどうしたらいいんだい……?」
その時、晃飛の閉じた瞼、目尻から涙が一筋伝い落ちた。
息子の涙を見た記憶は芙蓉の中には残っておらず、反射的に握る手に力を込めてしまった。それに晃飛が顔をしかめた――と思ったら、喉の奥から切れ切れにか細い声をあげた。
「仁、兄……」
唇をかみしめ低くうなる晃飛からは、普段のふてぶてしさは一切見られない。
代わりに全身全霊でその男を乞いだした。
「仁兄……。戻ってきて、仁兄……。お願いだよ……」
幾筋も流れ落ちていく涙――。
大の男がとめどもなく流す涙は晃飛の苦しみそのもののようだった。
環屋にて応双然を相手に切々と語る晃飛の姿が、芙蓉の脳裏に突如浮かんだ。
『俺はあいつを護りたいんだ。あいつはきっとそんなことを望んじゃいない、そんなことは前から分かってるけど……。だけどあいつを護りたいんだ』
あの時、芙蓉は心から感動した。実の息子の言葉だからなのかもしれないが、これほどまでに強く心を動かされる言葉は初めて耳にしたからだ。
あんなふうにきっぱりと他人の為に動きたいと言える人間は、この世にどれほどいるのだろう。
たとえば、呉隼平と名乗る男は分かりやすくもそちら側の人間だった。だが晃飛はその真逆に位置する人間だった――芙蓉と同じように。
なのにいつの間にか晃飛は変わってしまった。
人はそう簡単には変われない。自らを傷つけ貶めずにはいられない側の人間にとっては、変わることはより一層難しい。誰だって自分が可愛いし、そんな自分を犠牲にしてまで護りたい存在などそうそう見つけられないからだ。
「俺じゃあ……無理なんだよ……」
あれほど尊大で傲慢な息子が泣いている。泣いて他人に縋っている――。
「見つけて……。帰ってきてよ……。ねえ……」
息子の切なる声を、願いを、芙蓉は呆然と聞いている他なかった。
長らくお待たせしましたm(_ _)m