7 猫なで声
(これは伝達。仕事の一環。そう、これは仕事なの)
紬はそう自分に言い聞かせつつ、震えそうになる手に滲む汗をなるべく意識しなで会社の固定電話で伊倉さんと連絡を取った。たどたどしく用件を伝えた。メンテに斎藤さんと共に来週明けにも来てくれることになった。
通話を終え、どっと疲れが増えた気がした。そんな紬の後ろにやたらニマニマする二人がいることは気が付いていたが、無視だ、無視。
(あー・・・もー今日はめちゃくちゃ疲れたー・・・)
明日からの連休に備えて小説を買いに行きたいと午前中までは思っていたけれど、また再び荒れ始めた天候と、予想もしていなかったとんでもない出来事に精神的に疲れていた紬は、定時で仕事が終わって何処へもよらずに大人しく自宅へと帰ってきた。
伊倉さんにメンテのお願いの連絡を入れた時、最後に付け加えられた「今度はプライベート用に連絡待ってますね」と艶のあるテノールに大ダメージを食らった。受話器越しの彼の声が耳に残ったまま「わ、分かりました」と答えてしまっていた。外見も、声もイケメンの伊倉さん、恐るべし。
そんな状態でとてもじゃないが買い物に行こうという気力が湧かなかったという理由があったのだ。
現実味がないようなふわふわとした気持ちのまま、家の前にある屋根付きの駐車場へとバックで車を入れ、エンジンを止めた。
習慣化された行動だったから特に斜めになることもなく、きっちりと収まった。軽四は小回りが利いて運転が楽。隣にはお母さんの軽四が止まっていて、さらにその隣はお父さんの場所だが、まだ帰ってきていないから空いたまま。
今の時期、四時を過ぎればたちまち辺りは暗くなってしまう。まだ五時台だというのに、ライトを消してしまうとああもう夜なんだと感じた。あちこちの玄関や窓から漏れる明かりや、ぽつぽつとある電信柱の街灯を見てなんだかほっとした。
仄かな明かりの中に見える雪はちらちらとした粉雪なんてものでなく、本格的に積もると言われるドカ雪が車のフロントガラス越しに見て取れた。
口から思わず雪と同じように重いため息が落ちた。
今年の冬はまだ大きな積雪はまだだったが、明日あたりからテレビで大雪の予報が出ていたはずだ。
明日は積もった雪を多分雪かきしなきゃならないんだろうなぁと考えると、さらに気が重くなった。まだ休日だからマシだけれど。これが出勤する日ならば、早起きの上車を出すためにもまず雪かきをし、通勤時間が増えることを考慮してかなり早めに家を出なければならなくなる。通常なら10分程で着くけれど、倍の時間は余裕を見ておきゃならない。雪国だから毎年の事とはいえ、やっぱり大雪は遠慮したい。
「寒っ」
エンジンを切ったとたん、ようやく温まって来た車内の温度は下がり急に冷気を感じた。体がぶるりと震えた。
早く暖かい家に入ろうと助手席に置いた荷物手に取りドアを開けた。降りようと足を地面に片足を付けたところで玄関扉が開き、中からお母さんが紬の名前を呼びながら近づいてきた。タイミングがいいのは、多分車のエンジン音が台所にいたお母さんまで聞こえたから出てきたのだろう。
「紬~。お願いがあるんだけど」
猫なで声。悪い予感しかしない。
「今から買い物に行ってきてくれない~?」
外へと出てくるにはやや薄着な服装で出てきたお母さんは、娘に悪いと思っているのか両手を合わせ拝んできた。
「ええ?今から~?」
そんな声で機嫌を取られても。こんな悪天候で、仕事から帰ってきたばかりでまた出かけるのはめんどくさい。紬は嫌だという感情を前面に押し出して答えた。
「ほらー、今日の夜から今季一番の寒波が来るってテレビで言ってたじゃない。午後から買い溜めに行こうと思ってたんだけど、急に桂木伯母さんが来たもんだから、行けなかったのよ~。今、ありあわせでご飯作ってるから、今日使う分はいらないんだけど」
だからお願い。と重ねてお願いされてしまった。
(あー、桂木伯母さんか・・・。あの人、話し出すと長いんだよね~)
お父さんの姉なのだが、時々お祖母ちゃんに会いに来る。アポなしで。正月に来なかったから、年始の挨拶を兼ねて遊びにでも来たのだろう。きっと3時間以上一人でしゃべっていたに違いない。
そういう理由ならしょうがないか、と諦めていくしかないかと思ったところへ後ろから声が掛った。
「大野さん?」
「「はい?」」
紬とお母さんの声が重なった。
掛けられた声に振り向くと、停めたばかりの車の前に傘を差した伊倉さんの姿があった。