ある異変
*
ーーー空が、紅く染まった。
それは、ある日突然のことだった。
昨日まで青く澄んでいたはずの空がーーもっとも、最近は戦争が恒常化しており、攻撃による煙や立ち上る炎で青空が見える日など久しくなかったがーー通常ではありえないような色に染まったのだ。
当然、彼は恐怖を覚えた。しかし、傭兵稼業のために出向いていた戦場で命からがら逃げ出す最中に味方陣営の傭兵に尋ねたところ、何を馬鹿なことを、口を動かす前に死ぬ気で足を動かせ、と全く相手にされなかったのである。
その言葉に対して、じゅうぶん死ぬ気で足を動かしてるよ! と返した気がするのだが、彼と別れたその後、安否は知れない。
よく考えてみると、確かに空の色の変化に驚いた様子を見せた者は誰一人としていなかった。
だとしたら、自分にだけ紅い空が見えているのか。はたまた、戦場での血飛沫に目が慣れすぎておかしくなってしまったのか。
長く走り続けた足はとうに感覚を失っている。息も絶え絶えに立ち止まると、そこは鬱蒼と茂る森の中だった。どうやら、一時の難局は脱したようである。
「ここは、どの辺なんだろうな……」
ぼろぼろになってしまった外套の胸元から同じくぼろぼろの地図を取り出して眺めた。指でおそらく自分が辿ってきただろう道筋をなぞって現在地の見当をつける。
ふっと地図から顔を上げ、群青色の髪を揺らして見上げた空は、彼の瞳に変わらず紅く映った。
***
彼、カレン・オリヴィエが傭兵稼業を始めて早数年。数々の戦局を切り抜け、生き抜いてくることができたのはひとえに彼の能力ゆえだった。
別に、剣才に恵まれていたわけでも、類まれなる知能を備えていたわけでもない。
むしろ、気付いた時には見えなくなっていた左目を抱えた隻眼の彼が生き延びることはこの世の中では難しいことのように思われた。
しかし、彼には隻眼という限られた視界を助ける超人的な聴力が備わっていたのだ。よって、いち早く敵の襲来に気づくことができた。背後をとろうと忍び寄ってくる敵を仕留めることは容易いことだった。巨大兵器の駆動音を察知し、戦場を逃げ出した直後、背後で爆炎が上がり肝を冷やしたことも一度や二度ではない。
そんな彼が傭兵稼業を始める前はどのような人生を歩んできたかというと。
ーー全く、覚えていないのである。
気がついたら、今と同じように森の中に立っていた。覚えていたのは、自分の名前ぐらい。足元の水溜りに映る姿を見て、顔にかかる群青色の髪を自覚したほどだ。
ひどく狭く感じる視界に、歩こうとすると平衡感覚が揺らぎ、倒れこむ。それによって自分は左目が見えないのだと気づいたのだ。
以来、長く伸ばした前髪で左目を隠している。
どうして、こんなところに1人でいるのか。どうして、左目が見えないのか。どうして、記憶がないのか。
分からないづくしでたどり着いた街で傭兵稼業を選択した。日をますごとに激しくなっていく戦場に赴きながら生計を稼いで、今に至る。
…という、自分が記憶喪失の状態で森を彷徨っていたことが今までもこれからも一番の奇妙な出来事だろうと思っていたのだが。
この世界で生活し始めてから、一度だって昼間から空が真紅に染まったことなんてなかった。なんとも奇妙な話である。
「…まあ別に。生きていくのに不備がないなら構わないんだけどさ…っ」
とは口で言いつつも、戦争は各地で起き、たくさんの人が今日も命を落としている。明日は、自分の番かもしれないのだ。
カレンは頭を振って雑念を消し去り、森を抜けるべく歩き出した。
………と。
歩き始めたばかりのカレンの肩が、ピクリと動いた。彼の超人的な耳が何かの音を察知する。
複数の、足音。木の枝を踏み分けて進む何者か。微かに聞こえる怒号。そして、銃声。
明らかに、誰かがこちらに向かってきている。
「誰か、追ってきてんのか……?」
しかし、雇われ兵の自分など、誰が追ってくるというのだろう。
不審に思いながらも一応走り出す彼だったが、足音たちは着実に迫ってくる。
逃げ切れない可能性を案じた彼は、腰から一振りの剣を抜いた。四方を見渡し、迎撃体制に入る。
「……来るなら、来い」
呟いた直後、銃声が響いた。
思わず身を硬くした瞬間、枝が激しく折れる音がして。上を見上げた彼は、目を見開いた。
「な、ん………っ」
落下してきたのは、見慣れた男傭兵ではなく。また、敵側の鎧を身につけた騎士でもなく。
ーー紫髪を揺らす、少女だったのだ。