宿屋にて2
…明らかに、異質な物音がした。
彼の超人的な聴力は、日々様々な物音を採取している。それは近くで鳴っている音から、遠くで響いた音まで、種類も大きさも多様なものだ。
だが、そのあまりにも大量の情報が全て意識下に入ってきてしまうと、制御できずに彼の耳に繋がる器官が壊れてしまう。
その為、彼は必要不可欠な情報と特に必要ではない情報を無意識下で仕分けする術を身につけている。これは記憶を失い、さまよっていた当時のカレンが生きる為に身につけた術だ。
この術を身につけるまでは、人が生活しているところに少しでも近づこうものなら頭が割れそうなほど痛んでいたが、今では、轟音が鳴り響く戦場であっても生活することが可能になっている。
だから、普通の生活音程度であれば彼の耳はそれを意識下に送り込んだりしないのである。そうでなければ、眠ることさえ叶わなくなってしまうからだ。
ーーーと、するならば。
彼が飛び起きるほどの"音"というのは、明らかに普段生活する際には発生するはずのないような物音、ということになる。
カレンは素早く、外套と身につけていた荷物、それから剣を掴むと部屋から廊下へと踏み出した。
「え、暗い……?」
部屋から一歩踏み出したそこは。
文字通り闇に沈んでおり、彼は戸惑いの声を漏らした。
この廊下の壁には、一定の間隔でランプが配置されている。彼が部屋に入った数時間前にはランプは明るく灯っていたはずだ。
であれば、それからランプが消されたのか。しかし、暗闇を照らすための器具がランプなのではないのだろうか。だとすれば暗闇に包まれる深夜に本領を発揮せずしてどうするのか、彼には疑問でしかない。
ランプが割れている様子もなく、ますます不審ではあるが、この作られたような暗闇と、先程の物音が関係しているようにも思える。
さいわい、夜目はきくほうだ。
カレンは物音を立てないように、滑るように廊下を走り抜けた。
***
「…おい、サルカス! いるのか!」
辺りを見回しながら声を上げるカレン。彼がいるのは、一階、宿屋の宿泊受付である。
先程の物音がした方向のここにやって来た彼だったが、ここも暗闇に沈んでおり、店主の姿を見つけることができずにいた。
「ん、傭兵さんか!? ちょうどよかった!」
ようやく、応える声がして振り向くと、受付の奥から主が足音を立てて近づいてくるところだった。
「なあ、さっき変な音がしなかったか? それに、ランプも全て消えているし……。何があったんだ?」
「それがなあ、困ったことに、俺にもよく分かんねえんだよ。いきなりぶっつり明かりが消えたから、恐らくランプを制御していた管理装置が壊れたのかもしれんが………」
「管理装置が? 何でまた」
「だから分かんねえんだって。なあ、お前何か知ってたりしないか?」
心底困ったように眉を下げて尋ねてくるサルカスに、首を傾げるカレンだったが。
ヒュオッ
「危ないっ……」
空気を切る音がして、彼は向かってくるそのものに高速で手を伸ばした。
「うおおっ……!?」
サルカスのこめかみに触れるような距離に静止したそれは鋭い金属質の輝きを放つ。
「矢……」
カレンは掴んだそれを投げ捨てると、素早く剣を抜いた。
それを合図にしたかのように次々と暗闇から向かってくる何本もの矢が、彼を狙う。
それらを音高く剣で弾きながらカレンは店主に叫んだ。
「逃げろ、サルカス!!」