28話 『白黒の住人』
……いつの間にか、寝ていたらしい。
男の声は聞こえない。
いつものように、煙草の熱い部分を腕に擦り付けられることはない。
だが、頭は痛いし目眩はするし、体の所々が痛む。
……もしかしたら、今日は出かけているのか。
だったらもう少し寝て居よう。
こんな機会は二度とないかもしれない。
*
ガチャ。
奥から玄関の扉が開く音がした。
その音で、私は目を覚ました。
「……クソッ……」
そう、小さい声で聞こえた。
あの男の声だ。
私が寝ている間に帰ってきたらしい。
「な……負け……だよ……」
機嫌が悪いのか、壁を叩く音がした。
「クソッ……!」
また、壁を叩く音がした。
カシャカシャと紙袋を漁るような音も聞こえる。
「チッ……」
……舌打ちが聞こえたと同時にカシャカシャ音が消え、一気に空間が静まり返った。
足音が聞こえる。
こちらに近づいてきているみたいだ。
また、私を嬲りに来るのか。
そう思うと、体が無性に震えてきた。
殴られる、叩かれる、やけどを負わされる。
否。
私は、あの男に恐怖を抱いている。
私の頸に括りつけられた縄が、一層強く締め付けられる。
扉が開くと、あの男が呼吸を荒くして入ってきた。
「おいッ!」
その男は、大声で私を呼んでいた。
その声に驚いて、私は耳を塞いだ。
「聞こえねぇのか! このガキ! クソ、クソ!」
そう言い、寝ている私を何度も蹴り飛ばす。
「はァ……はァ……」
私の制服の上を掴んで引っ張る。
そして、異臭のする部屋に私を連れタンスに背中をつけて座らせた。
隣にはバールのようなもの(バール)が置かれていた。
「……クソ、クソクソクソクソクソ! その目で俺を見るな! その目で……その顔で……俺を見るな!!」
震えた声でそう言い、私の頭に袋をかぶせてお腹を殴った。
黒い袋からは、男の顔は見えない。
『何者かに殴られている』
その情報があるだけだ。
不思議と、苦しくはなかった。
痛いだけ。
感覚が麻痺しているのか、それとも苦しさに慣れてしまったのか。
地面と金属がぶつかるような音が横からした。
次の瞬間、私の左腕に何かが当たり、鈍い痛みが全身に走った。
腕を押さえたが、その痛みは時間と共に増していく。
左腕が動かなかった。
男の荒い息が聞こえる。
私の目の前に、何かが落ちる音がした。
先ほどのバールのようなもの(バール)かもしれない。
男の足音が、少しずつ遠くへ離れていく。
バフッ、と、空気が漏れるクッションの音がして、男がソファーに座ったのだと分かった。
ザザーという音が、静かな部屋に響き渡る。
「なんもやってねぇのかよ……クソっ!」
怒りに満ちた男の声が聞こえた。
息が時々止まる。
胸が苦しくなる。
体が震える。
もう、立てる気がしなかった。
もう、動く気すらしなかった。
もう、生きてる気すらしなかった。
〇
『〇せば? いや、じゃあ私が〇る。ね? だからさ、もうなろうよ。あなたの憧れる、白黒の住人に』
何も考えられなくなり、私はその声に頷いて目を閉じた。
*
一体何があったのか。
私は外にいた。
目の前には、淡く白い火が溢れ出る大きな建物が一つ。
手には、あのバールのようなもの(バール)が持たれていた。
それには血がついていた。
飛び散ったような、黒い血が。
制服にも血がついていた。
私の血か……それとも返り血?
混乱してきた。
私がこの全てをやったのか?
でも、そんな記憶は一切ない。
私じゃない。違う。
あの声がやったんだ。
あの声……じゃああの声は誰なの?
天使か、悪魔か、それとも別の何か?
……燃え盛る炎から逃げるためか、人間がその建物から飛び降りていた。
皆、固いコンクリートに身体を打ち付けて息絶えて行く。
私はこれを望んでいたのか?
私のいるこの世界は、本当にあの白黒の優雅な世界なのか?
全然分からない。
『そう、ここはあなたが望んでいた世界』
あの声だ。
「あなたは誰なの? 何がしたいの?」
『あいつを殺した。あそこから出るために』
「……!」
『手に持ってるので殴って、殴って、殴り殺して、アレを灯油を入れたお風呂場に入れて』
「な、なんで……」
『あそこにいても、何も変わらない。変わるはずがない。私はあなた(わたし)の本心。つまり、【天使】なんだよ?』
「でも、殺すなんて……!」
『外に出たいならそうするしかない。縛り付けられて、嬲られて、そんな日常はもう沢山だったんでしょう?』
…………そう。
きっと、私はそう思っていたのだろう。
ずっと本心を隠して生きていたのだ。
それは悪魔のように、私の心を押さえつけていた。
私は、悪魔だった。
「……うん」
『そう、それでいいの。それで。これからは、あなたも私も同じ穴の狢』
その声は、私を包み込むように優しい声で語り掛けた。
『つまり――白黒の住人だよ』
それから、視界が完全に閉ざされた。
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次話もよろしくお願いいたします!




