地獄のはじまり
「あっつー。はあ、今日のプレゼンマジで嫌なんだけど…。何が『将来のあなたたちのために』だ。予定に書いてないことはすんなよー。」
いつもの風景。何気ない日常。
相変わらす、朝の通勤電車は、無表情なサラリーマンたちで埋め尽くされていて、私たちは、何も変わらない一日の訪れに退屈を感じていた。
「ねえ、れーなー。聞いてる?」
たまたま最寄り駅が一緒だったため、一緒に通っている友達の琴葉。和風の名前のくせに、ちょっとギャルっぽい服装と言葉を使うから、みんなから敬遠されているが、実はピュアで恥ずかしがりやの子だ。
「ごめん、ごめん。あー、今日の3限だっけ?琴葉、プレゼン苦手だもんね。」
「そうだよ。人前で話すのとか、マジ無理。頭真っ白白すけだよ。」
「もう、何それー。」
「ああ、3限なんて永遠に来なくていい…。」
「いさぎよく諦めな。ほら、着いたよ。」
私は、琴葉の肩をポンとたたいて、電車を降りた。元演劇部だった私としては、人前に出ることは、そんなに緊張することでもなく、むしろ人の話を聞いてるときはボーっとできるから、案外好きだったりする。プレゼンがうまくいくよう、奮発して学食のマンプクランチを食べようとか、そんなくだらないことを考えながら、学校に向かう。
「おっはー。」
専門の教科だから、見慣れた顔に挨拶をして、いつもの席に向かう。
「ねえ、玲奈。聞いた?生ける屍のニュース。」
「生ける屍?」
「そうそう、今流行ってるじゃん?新型ウイルス。」
「あ、それ知ってる。」
と、琴葉も会話に参加してくる。新型ウイルス『インフエンス』のことは、ちらっとニュースで見たことがある。何しろ、『インフルエンザ』よりも厄介で、感染率90%、しかも感染したら、ほぼの確率で死んでしまうのだそうだ。といっても、私にはあまり関心がない。だって、『インフエンス』は、アフリカのほうで感染してるだけで、日本にはいまだ入ってきてないし、もし入ってきても、政府が何らかの措置をとるだろう。大体、騒いだところで、私にはなんにもできないのだから。
「実は、そのインフエンス、日本に入ってきてたみたいなの!まあ、政府は内緒にしてるみたいだけど。」
「え?何で。それって、公開しなきゃダメなパターンなんじゃないの?」
琴葉もそこまでは知らなかったみたいで、身を乗り出して聞く。
「これは、おそらくなんだけど、治療薬を作って儲けようとしてるんじゃないかなー。なんせその患者、天下の青山病院に預けたみたいだし?」
日本で最も有名な青山病院。手術の成功率は世界屈指といっても過言ではない。
「それで?その患者は治ったの?」
治ったのだとしたら、相当のニュースだ。
「無理だった。死んでしまったんだって。」
「そっか。それは残念だね。」
「でも話は、それだけでは終わらなかったのだ!」
と、琴葉が楽しそうに続ける。どういうことだろう?
「確かに死亡を確認したのに、数時間後、突然ふらふらと起き上がったんだって。そして、一歩一歩と血を滴らせ…。」
「ちょ、やめてよ。私がホラー嫌いなこと知ってるくせに。」
「ごめんって、でもね、その人看護婦さんにかみついたらしいよ。」
授業が始まり、話はそこで中断になったが、私は友達の言葉が頭に残っていた。
青山病院…か。父さん大丈夫かな。こんな普通の私だが、実は父親は、病院の研究職員という高級とりだったりする。父さんは、滅多に帰ってこない。病院のすぐそばに、マンションを買い、そこで暮らしている。私だったら、夫がそんな生活をしていたら、浮気を疑うが、母はそうでもないらしい。お金をある一定いれてくれれば、死んでもかまわないといっているくらいだ。なんで、2人は結婚したのだろう…
「い、いや、やめて!来ないで!」
2限の講義も終わろうというとき、尋常じゃない悲鳴が廊下から聞こえた。どう考えても、ふざけているというわけではなさそうだ。この悲鳴がもし悪ふざけだったら、プロの女優になれるだろう。
ガタガタ、バタン
という音が聞こえ、一人の女子生徒がかけこんでくる
「に、にげて!化け物が!」
彼女が、そういった、瞬間、ものすごい力で、扉が開かれる。そして私たちの目の前で化け物は、彼女の首にかぶりついた。
ムシャムシャ。
凍り付いた教室に肉の咀嚼音だけが響いていた。そして、その化け物は、しばらくそうした後、次なる獲物を探すがごとくゆっくりと顔を上げた。
「に、逃げろ!」
もはや、誰が言ったかはわからなかった。幸い1階だったからか、無我夢中で窓から飛び出した。混乱して、戦いを挑みにいったものは、一番にかみつかれていた。
「な、なにこれ。」
混乱に陥っていたのは、私も例外ではなかった。映画でしか、見たことのない光景。今もなお、もうすぐ『ドッキリ大成功』という看板を持ったテレビ局の人が現れるんじゃないかって期待してる。
「れな!何ぼっとしてるの!逃げるよ!」
琴葉が私の手を引っ張って、窓のほうへ連れて行こうとした。
「ギャー!!やめろ!やめろー!」
「おい、窓の下にも化け物がいるぞ!」
別の窓から見ると、見知った顔の男子の足にかみついている男の顔が見えた。
「うっ。」
私は、気持ち悪くなって、口元を抑える。これは何?何が起こってるの?
「れな!吐いてる場合じゃない!なんとかして逃げるよ!」
他人が冷静じゃないと、自分は冷静になるというが、琴葉は今その状態なのだろう。わけわからないことに巻き込まれて、冷静なはずがない。私は、目を閉じて深呼吸する。私はこんなとこで死ぬわけにはいかない。
「うん…。窓はダメだから、ダッシュで入口に走ろう!化け物が一体だけだから、振り切れば逃げれる!」
「オッケー。いくよ。れな!」
私は無我夢中で走った。そして、化け物の横を通過し、扉にたどり着いた。
「やった!琴葉逃げ…。」
先に到着した私は、琴葉の様子をみようとゆっくりと振り返った。でも振り返ってみた先には、大好きな笑顔はなかった。
「ご、ごめん…。ちょい無理っぽい…。」
え、待って、いやだ…!琴葉とは大学の入学式からの付き合いで、たとえ1年半だったとしても…、今まで一緒に笑いあってたのに…。これからも友達でいようねって言ってたのに!何で!名前も知らない最初にかみつかれた女にかみつかれてるのさ!
「に、逃げるよ。琴葉―!!はやく振り切って!」
涙が出ていた。琴葉の顔は苦しそうで、心なしかだんだんと顔色が悪くなってきている。
琴葉を食べた女は、ムシャムシャと音を鳴らしながら、咀嚼し、もう用はないとばかりに、琴葉を放した。ドサッと音がして、私は駆け寄る。
「琴葉!琴葉!しっかりして!」
「玲奈…。楽しかった。ありがとう。」
「あぁぁぁぁ。」
声にならない叫びが出た。その悲痛な叫び声は、一時間前まで女子大生だったものの声とは到底思われないものだった。結論から言うと、私は逃げることができなかった。呆然としていた。ははは…。大丈夫だよ。人間、首の肉を少しえぐり取られたところで、死なないよ。強いんだから。ほら、現に最初にこの教室に飛び込んできた女の子だって、こんなに元気そうに歩いてる。琴葉だって、もう少ししたら目を覚ますから。悲鳴や叫び声をBGMにしながら、私はただ願っていた。これが夢であることを……。