27話.四月は旅立ちの季節~grand finale~《中編》
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「こんなに震えて。怖いくせに」
花の甘い香りが忍び込んで来る。
それは、優しく優しくあたしの意識を朦朧とさせた。
視界を埋め尽くす、美しい薄紅の瞳。
「帰っちゃ、駄目だ。贖罪の為だけなら、君を帰せない」
ふるふるとそよぐ、薄い羽。
六枚羽のそれは、妖精の様に。
《あたしの背中》に形を現し始めた。
「…薫桜さ、ん‥何‥を‥?」
「僕の眷属におなり、ユキ。
完全にこちらの者になってしまえば、君はもう寂しくない。優しさ故に君一人が不幸になるのは絶対に許せない」
いいえ、あたしは不幸では無かった。
いつも、いつの日も。
彼が心に掛けてくれていた。
こうなってからも、《彼》が、貴方達が、トールが、ゆうかさんが、
ヤン先生が。
沢山の此処での思い出が、あたしに少しずつ勇気と、優しさと、愛情をくれた。
「だ‥め‥。‥薫‥あた、し、は‥」
「もう何も考えないで。
辛い記憶なら、封じてあげる。
風に乗り、一緒に春を巡ろう」
暖かな指が絡んだ。
「小さな君のまま、いつまでも僕の傍で微笑ってて」
ざああああああああぁぁああああ、ざんっ!!
不意にもう一つ、風が花びらを巻いた。
「────────そんな事はさせんよ」
ふわり、と風に逆巻く茶色の天パの髪が、あたしをかっ攫った。
静かな厳しい顔をして。
いつものカットソー。茶のカラージーンズ。
「…ゆう、かさん‥」
いつの間にか、羽は薄れていた。
意識もやがて、しっかりと戻って来る。
熟女はぽん、とあたしを、後ろに控えたマロ君に渡した。
ふわふわの白い毛が、肌に柔らかく、ざらりとした暖かい舌にペロリと舐められて。
「若君、このなさり様は穏やかでは無いな」
怒りを抑えたゆうかさんの声に、戸惑いの色を含んだ、苛立だしげな抗議で彼は応じる。
「ゆうか、君達は‥君もユキちゃんも、どうして楽になろうとしない。彼女はあの男が傍に居ても居なくても、同じ様に不幸になる。
君だってそうだ、ゆうか」
少年神は尚も言い募る。
「一度した選択に縛られ、重荷を自らに課した。では、何の為の『旅』だ?一年の『世界を知る』旅を《彼》に与えられ、君達は一体、何の為に巡ったんだ!?」
ゆうかさんの小さな背中が、断固とした意思を伝えて来る。
「──────幸せに、なる為に」
彼女は微笑っているだろう。
優しく微笑んでいるだろう。
見えなくとも、同じ《旅人》であるあたしには、分かった。
「君達は、自己犠牲に酔っているだけだ《彼》も僕も、そんな結末は望まない。
それなら、間違った選択肢を力尽くで消すだけだ」
不穏に春の力が集ってゆく。
彼の無造作に上げたその掌に。
「…あんたは人を愛し過ぎる。些か過保護な程にな。それに」
胸元から出した本が、彼がこちらを包み込もうと放った力を霧散させた。
「《書の紡ぎ手》を嘗めるな。姫君を救う物語のヒーローなら、そらそこに、ちゃんと用意しているさ」
翻る蒼いジャケット。
肩までの黒髪が風に遊ばれて。
その人は静かに歩を進めて来た。
「春の若君。引いては戴けませんか?
この事態が、貴方の彼女達を思われての仕業だと、私も知っています。
ですが─────ユキの邪魔はさせません」
指先に色鮮やかな珠が閃く。
薫桜さんの眉間に深い皺が寄った。
「ふ、《物語》の様には上手く行かないよ?魔法医師。僕はその子が気に入った。玉響媛にもあげないよ。大事に大事に、まるで真綿に包む様に、僕が幸せにしてあげる」
薄紅色の瞳が物騒に輝き、風が刃物の様にヤン先生に襲いかかる。
「───────先生ッ!!」
彼を両断するかの様な鋭いそれは、タロットカードから現れた一本の杖に阻まれた。
「ワンドの8。展開」
先生の声に八本に分裂したそれが、春の少年神に猛烈なスピードで迫る。
同じく、杖の得物で全てを叩き落とした彼の間近に迫る、緑の瞳。
「チェックメイト」
空中で砕き、複雑に指先で調合された珠の成分がリング状に展開して縛り、彼の行動の自由を奪った。
いつも余裕のある微笑みを浮かべていた彼が、唇を噛んでいた。
「《幸せ》は与えられるものではありません。例え、誰が不自由の無いもので包もうと、傍から見て、どんなに辛い状況に居ようとも、当人がそう思わないのであれば、何の解決にもならないのですよ」
ヤン先生の言葉は彼に向けたものでは無かった。
「記憶の無い貴女は、幸せになれますか?
……もし、そんな事くらいで貴女が救われるなら、とっくの昔に私がそうしているでしょう。
でも、貴女は大好きな秋の中で言った。
ここに居る自分は『過去の積み重ね』なのだと。
ならば、辛い過去毎、全てで貴女だ。勇気も、愛も、幸せも。ユキ、貴女が掴んで下さらなければ、一つもその手に残りはしないのです」
ぽとり。
ぽとり、ぽとり。
あたしの目から滔々と流れる涙。
「‥でも、本当はあたし、帰りたくないんだよ。だって、だって…」
あたしはいつしか、先生の胸に飛び込んでいた。
「─────先生の傍にいつまでも居たいんだよ!!」
泣きじゃくるあたしの横を、一陣の春風が通り過ぎた。
《一度くらい、我儘を言ってごらん》
薫桜さんの優しい声がして、その気配が消えた。
「貴女を‥ゆうかの様にはしたくありません」
絞り出す様な苦しげな声がした。
「私は曾て、彼女を護り通す事が出来なかった。この世界を維持する為に残る彼女を止められず、今まで無理を強いてしまった。
その時、誓ったのです。同じ轍は二度と踏まぬと」
言葉に反して、先生の腕はあたしを愛しい者として抱き、一時も離さなかった。
「この世界で貴女は愛される事を知らなくてはならなかった。そうして、本当の強さと内なる優しさを学び、愛する事を思い出してくれた。
もう、充分です。貴女は本当の世界で、幸せを掴んで下さい。」
熱が二人を包む。
先生も、泣きそうな顔をしている。
あたしはただただ首を横に振り、大声で泣いた。
嫌だ、と。
「────先生が居ないのに、幸せになんか、なれないよぉ!!」
込み上げる熱い、塊。
頭がガンガンと痛む。
指先まで灯る熱と、心もと無さ。
張り付いた涙の跡を、涙が流してゆく。
抱き込まれ、こめかみに感じる震えるヤン先生の黒髪が。
背中に回る二本の腕の強さが。
彼の想いの強さを表していた。
「寂しいまま、死んでしまいたいのですか!?」
青年は無理矢理、身体を離した。
「ゆうかは死人です」
目を見張るあたしは、彼女を振り返る。
静かに微笑する彼女は、あの時、亀裂に落ちて行った《ゆうかさん》と同じ貌をしていた。
「彼女は元々生理不順で、不正出血をしても気付かず、子宮癌を進行させ、遂には肺にまで遠隔転移してしまいました。
こちらに来た時には、もう手の施し様が無かったのです」
現れた幻は一月の《ゆうかさん》。
二十代前半の、多分、一番幸せだった頃の。
困った顔をしたヤン先生の手を引いて、悪戯っぽく、明るく笑って。
「彼女が生前、世に出した一冊だけの本。それが、《クレヨンの扉》でした」
そうだ、見覚えのある《世界の書》の厚さ。
あれは…あれは。
「あの時、握っていた‥、あたしのお気に入りの──────」
事故の直前まで読んでいた。
繰り返し、繰り返し、何度も。
「そう。貴女は、彼女の本の、最後の愛読者だったのです」
懐かしい、世界。
何処か、見覚えのある。
当たり前だ。
空想の中ならば、何度もなぞった。
大好きな素敵な人達。
その中でも、お気に入りは‥あたしの、‥
「ヤン、先生?」
魔法医師は頷いた。
不可思議な世界で魔法を揮う、万年青年医師。
小さな助手と大きな猫が、いつも傍に居て。
綺麗な花が咲く、アーチのある家に住んでいた。
「貴女が死に掛けた時、走馬灯の様に思い出したのは、不幸な出来事ばかりだった。
普通、人は死の間際に幸せな思い出を反芻するものなのに。
貴女はそれで、自らに死を納得させようとしていました。これは仕方の無い事なのだと」
「それが、《彼》に食指を動かさせたのです」
魂が、離れる瞬間に、こちらに移したというのか?
そんな事が出来るなんて。まるで。
「《彼》って…、誰なの?」
思わず漏れた呟きに、先生が応えた。
「貴女方のいう意味ならば、《神》でしょうか。全てを超越する者。そして、見守る者。
世界の創り手でもあります」
小さな赤ん坊のあたしが誕生して、立ち上がり、幼稚園に通い、中学の制服を纏って。
数多の存在の、たった一つを《彼》は見過ごさなかった。
「貴女が道端で見つけた、一本の不思議なクレヨンは、貴女の命そのもの。
それに気付くか、気付かないかは彼の賭けでした。そして、貴女はそれに勝ち、この世界を訪れた。
【選択】とは、《生》か《死》か。
この世界に留まり、肉体の死を迎えるか‥再び、現実に立ち戻り、命を生き直すかを、【決断】する事にあるのです」
右手に《生》があり、あの人の心を闇に落とさないあたしが居る。
左手に《死》が煌めき、愛する人達と共に笑い合う、あたしが居た。
「選べない、選べっこないッ!!どうしたらいいの、あたしは、どうしたら‥」
「しっかりなさい、ユキ!」
両肩を、大きな暖かい掌が掴んだ。
「貴女は選べます。─────さあ、ごらんなさい」
ヤン先生が空中に放った物。
それは、九月、ガウェインさんの庭で貰った、銀色のリンゴだった。
『どんな未来をお望みですか?』
老紳士の質問に、あたしは答える事が出来なかった。
リンゴは空で銀色に解け、一つの《声》が聞こえてくる。
『美雪は大きくなったら、何になりたいの?』
それは母の声。
涙が出るくらい懐かしい、生前のままに伸びやかに。
『あのねぇ…あたしは、「物語を書くのよ」』
小さなあたしの声を、自然に今のあたしが引き継いだ。
「物語を書くのよ。皆が楽しくなる様な。
誰かが辛い事も哀しい事も、読んだら忘れてしまえる様な、ちょっぴりの勇気と、力が湧いてくる、─────そんなお話を」
思い出したわ。
ゆうかさんの本を見つけた時、14歳のあたしはあたしなりに毎日が辛かった。
だから、主人公の活躍や、先生やトールとキャティの一挙一動に心動かされて。
いつしか、夢中になって読んでいた。
『さあ、行きましょう。今日が昨日と同じである筈が無い。さあ、私の手を…』
ヤン先生の言葉を胸の中で復唱して、あたしはいつも少しだけ毎日の元気を貰った。
「貴女には、夢がある。たった一人には決してならない。私が、させない」
先生が示す空の果てに、一つの扉が現れた。
それは、唯一つの帰り道だ。
あの向こうに、23歳のあたしが待っている。
「でも、寂しくて苦しいわ。先生」
それは【決断】した故の甘えだった。
そう、あたしは再び生きる事を選んだ。
この一年の旅を無駄にしたくなかったから。
「大丈夫。この世界は貴女に優しかった。
─────そうでしょう?ユキ」
「ええ」
ヤン先生の優しい声に、あたしは頷いた。
そう。誰も彼も、あたしに優しかった。
まるで、身内の様に。
「子供を持てなかったゆうかにとって、この【物語】の世界は子宮でした。
そういう意味で貴女は、彼女の子供だったのですよ。羊水の中は暖かく、とても居心地が良いものでしょう。しかし、やがて誰もが一人で、狭く苦しい産道を通り、生まれて行くのですよ」
先生は、泣いていた。
泣きながら、微笑んでいた。
「…せ、先生…ずるい、よ‥」
視界が歪んだ。
キラキラと、キラキラと、虹の如く煌めき、伝う涙。
「さあ、生きましょう。
今日が昨日と同じ日である筈が無い。
さあ、私の手を取って」
ふわり、と浮き上がる身体。
空に浮かぶ扉に向かって。
いつの間にか、キャティとトールがそこに居て。
目に光るモノを浮かべて、大きく手を振っている。
ゆうかさんが微笑んで、3匹の猫さんと片手を上げた。
さよなら、さよなら。
優しかったクレヨンの世界。
空はゆっくりと黄昏て、やがて薄闇が交わり、鮮やかなオレンジがラベンダーに食べられていく。
疲れたあたしの心を、何もかも癒した。
「…先生…」
小さくなる、あたしの、あたしの‥先生が……。
少し哀しそうに、それでも優しく、暖かい微笑みを浮かべて。
あたしを見つめ続けていた。
「せんせぇえええええ──────えええッ!!」
大声で叫んだ。
届け、あたしの想い。
こんなに、愛しい想いが溢れ、こんなに満たされて。
ええ、大丈夫。もう、大丈夫。
先生、貴方の『ユキ』を信じて。
大きく、黄緑色の扉が開き、あたしは光の中に吸い込まれて行った。
~後編に続く~




