26話.四月は旅立ちの季節~grand finale~《前編》
いよいよ旅の終わりが来ました。四月は前編・中編・後編の三話構成となっております。
皆様に春の恵みが降り注ぎますように!さあ、grand finaleです。
最後のクレヨンは桃色をしていた。
ちょっと淡く、処により濃く。
綺麗な、女の子が大好きな色だった。
~grand finale~
「やっぱり、ハートかな?」
あたしは始まりの場所に立っていた。
クレヨンを拾ったあの散歩道。
帰り道でもあるそこに、このクレヨンは落ちていた。
草で出来た小さな輪の中に。一本だけのクレヨン。
黄緑のクレヨンの白い包み紙には、不思議な模様が描かれていた。
触ると仄かに暖かく、胸がワクワクしたそれは、もう包み紙に包まれた小さな欠片でしか無かった。
粗大ゴミに混じった古い襖。
やや黄ばんだそれを、あたしは懐かしく見つめた。
あたしは何処かに行きたかった。
泣いても誰にも見られない処にずっと行きたかった。
だって、あの人とは居られなかったから。
見られていない様で、あの人は見ていた。
目が腫れていたら、直ぐに気付かれてしまう。
一緒に住んでいて、十年近くも傍に居た人に隠し事なんか出来る筈も無い。
大きく襖にハートを描くと、ゆっくりとあたしはそれを押した。
─────────ゆっくりと。
一歩踏み出した先に、獣の感触。
「にゃん」
「あれ?」
それは羽を生やしたキャティの背中だった。
こちらを見ているのは、猫さんの手綱を握る、なんとそれはトール。
「‥今日はトール直々にお出迎えなんだ?」
微笑むあたしに、思い詰めた顔の少年は、懐から何かを取り出すと、
「リバース」
と、短く唱えた。
そのキラキラと輝く瓶の中の液体は、空気に触れると粉末になり、あたしに降り注ぐ。
同時に腕を引っ張られ、猫に跨がる彼の前に横座りに抱き込まれ、
「え?」
おかしい。
今のあたしはトールより大きくて‥小さくなってる!?
驚きながら、自分の身体を見回せば、この一年間見慣れた14歳のあの時のあたし。
「どうして、戻らなければならないんです」
少年の銀髪が風に靡く。
菫の瞳が苛ただしげに陽を弾く。
「あちらに戻っても、貴女は辛いだけじゃないか。─────泣いてばかりだったじゃないか」
トールの顔が厳しく、哀しく。
何かを堪える様に唇を噛んだ。
「知っていたのね?トール」
あたしの真実を。
緋煉さんが言っていた『三重存在』。
乙姫も、四季の神々も、清風さんも、ゆうかさんも。
皆、黙って子供のあたしを受け入れてくれた。
見守って居てくれたんだ。
「先生がやらないのなら、僕が貴女を幸せにする。
あんな男の下に戻すくらいなら、誰の手も届かない処へ連れて行きます」
左手で、痛いくらい抱き寄せて、胸に押し付けられた。
優しい、優しいトール。
貴方はいつも優しかった。
信じられないくらい、優しかった。
「ありがとう。─────本当に大好きだよ、トール」
泣きそうに歪んだ、その端正な顔を左手で包んだ。
「あたしの大好物、いっつも用意してくれて。
君は大事に大事に扱ってくれたね。
アーチを一緒に潜って、勇気を分けてくれたんだ」
一年の間、いつも傍らに彼が居た。
寂しくない様に、哀しくない様に、いつもいつも見つめていてくれた菫色の瞳。
「‥貴女は本当はあのアーチを潜るのを恐れていた。誰かに拒絶されるのを死ぬ程、怖がっていたんだ…」
手を繋いで、ドアを開けて。
────────扉を開けて。
『望むか?』
青い空を引き裂く、鈴の音の様な、涼やかな《声》。
『旅人よ、【選択する者】よ、─────如何なる結末を望むや?』
伸ばされる少年の腕。
猫さんから落ちてゆくあたし。
まるで、最初の時の様ね。
呑気に微笑うあたしに、叫び、届かぬトールの涙が煌めいた。
目を閉じて、そして開けると、そこは冷たく固い地面では無く、桜の並木道だった。
現実では直ぐに途切れてしまうのが残念だったけど、ここは違うみたい。
延々と見渡す限りの桜。
八重に枝垂れに、ソメイヨシノ。
そうね、あたしは花が大好きだったけど、とびきりお気に入りなら、桜とコスモス。
「うん。君はいつも綺麗に咲いているか、散ってしまった後に来て、散り際の桜吹雪に出くわした事が無かったよ。
この季節にいっつも、唇を尖らせては文句言ってた」
ざあああああああああああああぁぁぁああああ。
音がして、薄紅色の花吹雪。
現れたのは春の少年神だった。
「────────薫桜さん」
「うん」
萌黄色の髪を軽く結わえて、ピンクトルマリンの様な瞳が愛しい色を湛えてる。
「あたしは救わなきゃ、ならない」
目頭が熱くなる。つぅ、と涙が溢れる。
喉が風邪を引いた様。
手足が小さく震えて、あたしは花天井から覗く青空を見つめた。
「…………うん」
ざああああああああああぁぁぁあああ。
春風があたしを包んで、花びらが髪を飾って。
「事故を起こしたあの人の奥さんが、脳に損傷を負って、植物人間になって。あたしはあたしで家族を全て失って。
よく、ショックで口が利けなくなった、とか、記憶を失ったみたいな話はあるけど、あたしはそんな風にならなかったみたいで‥だからこそ、全てを覚えてて、お悔やみにも返事しなきゃならなくて」
残ったモノは莫大な保険金。
父と、母と、兄の分。
「父は末っ子で、そんな命のお金は欲しくても、あたしを本気で引き取りたい程、子供の欲しい人は居なかった。
あたしはそんな醜い争いに巻き込まれる前に、白羽の矢を立てたの。あの人に」
突然現れたあたしに、あの人は面食らっていた。
奥さんの医療費の援助を餌に、幼いあたしは無表情に切り出したのだ。
──────貴方があたしを護るのよ、と。
沢山の騒動。幾多の報道。
そんなものもいつしか、時が風化させる。
一年、あたしはろくに口も利かなかった。
二年、あの人が作ってくれたお弁当の中身はいつも空。だって、公園のゴミ箱に全部捨ててたから。
三年、あたしは高校にも行かなくなって、その頃ポンタが死んでしまった。
五年、あの人の奥さんも、遂に逝ってしまった。
病院の暗い廊下。
深夜に呼び出されたあの人は、ただそこに項垂れて座り込んで居た。
『別れ話の最中だったんだ…。
詩織は泣いて嫌がって、でも、もう互いにどうしようもない処まで来ていたから……納得すると思ってた』
呟く様に零れた、震える声。
いつも、返事しなかった。
『おはよう』『お帰り』
『行ってらっしゃい』
『おやすみ』。
優しい微笑みと共に繰り返されるそれにも、あたしの心は凍っていたから。
『どうしたの?』
『食べなきゃ駄目だよ』
『眠れないの?』
『今日はどう過ごした?』
それでも繰り返し打ち寄せる波の様に、彼は言葉を掛け続けた。
その時、あたしは初めて、自分から彼の傍に歩み寄った。
『僕は、出来ない子供なんかより、君が好きだった、と伝えれば良かった。彼女は寂しい誤解をしたまま、死んで─────死んでしまったよ』
嗚咽を交えた、振り絞る様な、声。
自分でも、気付かなかった。
ただ、この寂しい人を一人にしたく無かっただけだった。
あたしの二本の腕は、柔らかく抱く様に彼の項に回った。
いつも、返事をしなかった。
彼は、疎む事も、卑屈に媚びる事も無かった。
笑顔で、手を差し伸べてくれていた。
振り向きもしないあたしに。
その日、あたしはこの人が、まだたった26歳なのだという事に気が付いたのだ。
「二十歳の誕生日。
あたしはお祝いをしてくれるあの人に切り出した」
薫桜さんは黙って聞いてくれていた。
「─────恋人になって、って。‥だって大人になったら、もうあの人を縛るモノが、何一つ無いんだもの。
あたし、一人に───────」
桜天井が不意にぼやけた。流れる熱い涙。
「そうね、卑怯だったわ。あたしは、本当はあの人を愛していたのかすら、もう分からないわ。ただたった独りに戻りたく無かっただけなのかもしれない。
同じ痛みを抱えた、優しいあの人を手放してしまう事が恐ろしかった」
プレゼントはいらないから、これからもずっと傍に居て。
あの人は何処か寂しそうに頷いた。
開いた掌に落ちた花びらを、そっと握る手に、暖かい手が重なった。
見上げると、春の神が心配そうに覗き込み、残る手で優しく頭を撫でてくれた。
「あたしはきっと、あの人の心を殺し続けていたの」
自分の全てがあの人になった。
そんな重荷に人が耐え続けていける筈が無い。
嫉妬し、束縛し、あの人以外の何者をも顧みなかったあたしに突き付けられたモノ。
それは今まで、《奥さんの治療費》という名目で、
《生活費》という理由で、彼に渡していたお金を全額積み立てた、春日美雪名義の一冊の通帳。
『もう、お互いを解放しよう‥美雪。このままじゃ、二人共駄目になる』
そうして、一度だけ強く抱き締めて、彼は去って行こうとした。
出来なかった。
道の向こうの彼の名を呼んで、赤信号にも拘わらず、あたしは歩道を飛び出した。
閃光。
そして、衝撃。
アスファルトが冷たい。
叫ぶ、あの人の声。
近い道端の緑の匂い。
ああ、あの人が戻って来た。
触れるぬくもりに、あたしは微笑んだ。
あたしの、もとに、もどってきた。
「そこまでが覚えている、全ての事よ」
14歳の子供に似つかわしくない、静かな微笑みを浮かべて、あたしは顔を上げた。
桜の花びら。
桜の花びら。
ひらひらと
はらはらと。
もう戻れない。あの頃の様には笑えない。
だって、あたしは大人になってしまった。
こんなにも。
「─────あたしは、あの人の心を、解放しなくてはならないわ」
胸が、痛んだ。
~中編に続く〜




