25話.三月は卒業シーズン!格安ツアーは内容を良く吟味して?《後編》
長いお話が終わろうとしています。読んで下さっていらっしゃる方々に感謝を。
キキキキキキキィイイイッ!!ドンッ!!!ガシャアアアアアッ、グシャッ!!
閃光、衝撃。
上も下も無い錐揉み状態で、確かにあたしは自分をシートに押し付ける母の手を感じていた。
ブ─────────────ッ…
長く尾を引くクラクションの音、隙間無く埋め尽くすエアバックの生地。
だけど、お父さんはシートベルトをしていなくて、助手席に投げ出されていた。
横倒しになった車の中で、あたしは何かが自分の下で、クッションになっているのに気付いた。
何だろう、コレ。
熱く何かで濡れてくる自分の手を不思議に思いながら、あたしはその物体を手で確認した。
ヒトだ。
ひとだひとだだれだ、だれだ。
二人しか、居ない。
兄と母だ。
「は、はあッ、お、おニイチャン、オカアサンッ!?」
どんどん濡れてくる。
それは月明りに赤黒い染みに見えた。
足の柔らかな温もりが、どんどん消えて行く。背中に当たる感触は心持ち固い。
叫べど叫べど、返事は、無い。
そうして知った。
声など、出てはいなかったのだと。
どうしてだ。
あたしは、あたし達は恒例の、一泊二日の家族旅行の帰りだった筈だ。
お父さんが、高校生のお兄ちゃんを説得して。
『ガキくせぇ、今年が最後だからな』とか言いながら、温泉宿の寂れたゲーセンで、格闘ゲームに夢中になったり、お母さんは、ぶつぶつ文句垂れても温泉を楽しんでいた。
お父さんはリストラでクビになったけど、再就職先が直ぐに決まって受かれてて。
あたしはお気に入りの本を読んでいた。
助けて、助けて────────せい。
貴方が────なら、この場所からあたしを連れ出して。
そして光。
騒がしい人の声。
機械の音。
「女の子はまだ息があるぞぉっ!」
安堵に包まれたのも束の間、力強い腕があたしを引き上げる際に、見てしまった。
窓に打ち付けられた、見開いた虚ろな…
オニイチャンノ、メ。
《どうじゃ?其方に戻る場所など在りはしなかったろう?》
雪ン子の声は優しく、優しく優しく、心に忍び込んで来た。
《だが、安心するがいい。我が一緒に居てやる故に。ここで、ずぅーと遊ぶのじゃ》
あたしは目を瞑って、暗闇に身を任せた。
光は怖い。
光は嫌なモノを見せる。
嫌だ、
イヤダ、
ナニモミタクナイ。
《そうだ、そのまま眠れ。我ならば気にしないからな》
ナニヲ?
《其方が半分、死人であっても、だ》
ぱきぃいいいいいいぃ
んんんん!!
何かが割れた音がした。
それは【記憶の卵】。
ぱらぱら、と音を立てて剥がれ、艶やかな表面を見せるかと思いきや、ドロリと地に墜ちて、融けた。
ポチョン、ポチョン、
ポタン、ポタン…
トテ、ポタ、ポタタン、
ポチョン、ポチョン…
それは《あたしの内部に響く》点滴の音らしかった。
病室に一台のベッド。
寝かされている、その女性に見覚えがあった。
何本ものチューブ。
機械に繋がれていて。
その傍に誰かが居た。
古代図書館で、《夢幻階段》で、彷徨った時に見た、あの男の人だった。
疲れた様に項垂れて、パイプ椅子に腰掛けて居る。
「────もうすぐ、一年になるよ。美雪」
彼は《あたし》の額に掛かった髪を、そっと撫で付けた。
「君はあの時、死のうとしたのかい?」
いいえ、死ぬつもりなんか、無かったわ。
ただ、貴方を引き止めたくて。
その一心で。
…いえ、死のうとしていたのかもしれないわ。
絶望して、カラッポな中身に、
この手に何一つ残らなかった自分に。
《そう、生きていたって、ナニヒトツ、イイコトナンテナカッタ》
ぱりぱり、ぱりぱり…
殻が、落ちてゆく。
誰かが起こそうとしているの?
やめて、そのままにしておいて。
あたしは手だけを伸ばして、入り込もうとした光を防いだ。
暗闇がいいの。
生まれたくなんか、無いわ。
此処に居たいの。
外は辛い事ばかりで、光は酷いモノばかりを見せつける。
──────本当に?
忍び込んで来た【考え】が、矢の様にあたしの心に突き立った。
愛した家族は喪われ、愛する男性はあたしを捨てたわ。
愛も幸せも何もかも、全てがあたしを見捨てた。
残ったのは穏やかな虚無だけ。
─────んせいだって、あたしを助ける事なんて出来はしなかったっ。
その《思い》は何故か自分を傷付けた。
手がもう、上げていられない。
──────当たり前よ、嘘つき。
ちゃんと、《あのヒト》は来てくれたじゃないの。
閃く光が青空に溶けて。
あたしに向かって突っ込んで来る、それは。
巨大な燕に付けた手綱を片手で掴んだ、黒髪の青年だった。
褪めた蒼のスタンドカラーのジャケットが、まるでチャイナ服の様で。
彼が大きく、残る片手をあたしに差し出した。
『助けに来ました!!』
そうだ。
彼は、間に合ったのだ。
ガシャ、ガシャ、ガガガガガゴゴゴゴガシャアアアアアアーンッ!!
鏡の様に硬質な氷は、全て壊れる。
それは、一本の杖に因るものらしかった。
「な、何奴じゃッ!!」
狼狽した、少女の声。
尻餅をついた琴凪が、誰何の声を投付けるが、返答は無い。
代わりにふわり、と優しい暖かな空気が流れ込んで来る。
それは人ならぬ冬の眷属には、毒にしかならない。
「……琴凪ちゃん、だったっけ?
なるほど、上手く出来たもんだ。
【琴】は【リズム】に通じ、【凪】は【停止】を意味する。
君は今、過去の記憶に付け込み、ユキちゃんの鼓動を止めようとしたね?」
異空間を壊し、二人を引き戻した一本の杖は、彼の手に戻った。
「──────は、春の若君ッ!?」
十代後半に見える少年は、ピンクトルマリンの様な薄紅の瞳を眇めた。
口許にはまだ、微笑みがある。
しかし、纏う雰囲気が違う。
萌黄色の髪も優しげな美貌も、雪ン子にとっては今や恐ろしいだけのものだった。
「《人》の姿を取ってはいても、所詮、雪の塊。箏雪、君の秘蔵っ子も大した非情さだよ。
平然と記憶の傷口を掻き毟り、命をも奪おうとした」
その声に、琴凪ちゃんは彼の後ろを凝視していた。
そう。
哀しげな貌をして、冬将軍は佇んで居た。
二頭の冬狼を従えて。
「ち、違うのじゃ箏雪ッ。我は、友達が欲しかっただけで‥何も《嘘》は見せておらぬぞ。
全ては真実のみじゃ。いずれ知る事なら、我が道標になったとて、不都合はあるまい?」
必死に言い繕う彼女を最早、一顧だにせず、薫桜さんはあたしの傍に来た。
「ユキちゃん。…いや、《旅人》よ。全てを思い出したのかい?」
あたしは優しい問いに頷いた。
「ええ。何もかも、全てを」
【覚醒の時、来たれり】
遠く‥彼の、声がした。
そう、これは約束されていた事。
《旅人》は如何なる形を取ろうと、一年の旅を終え、《覚醒》し、《選択》しなければならない。
「‥ひぃ、箏、箏雪ッやめて、消さないでッ!?」
見れば、今まさに、冬将軍が養い子に剣を振り降ろさんとしていた。
何も考えてはいなかった。
ただ、足が地を蹴り、彼女の前に手を広げていた。
「そこを退いてくれ、ユキ。琴凪はどんな理由があろうと君を害しようとした。俺が君を無事に帰すと約束したのに」
白髪の青年の瞳が厳しさを増した。
「俺は冬の長として、けじめをつけなくては─────」
「あたしは生きているわ、箏雪さん」
彼の動きが止まった。
「あたしは、《悪意の無い悪戯》がどんなものか、知っているわ。──────彼女は知らなかった。
だからこそ、安易に存在を消さないで。
教えてあげて欲しいの。それが、……どんなに痛いものなのか。どんなに人を傷付ける事なのか」
あたしは濃紺の瞳をひた、と見つめた。
「それが、《人》になる事だと、あたしは思うわ」
冬将軍の青年にはどうしても人間に肩入れする、曖昧な季節を司る二柱の気持ちが分からなかった。
だから、人形を拵え、命を吹き込み、知る限りの人間の感情と、思考の仕組みを詰め込んだ筈だった。
「人間───────人に間の在る者。
そうか、俺が造ったモノは、似て非なる者だったのだな」
人間は、《人》に非ず。
心も身体も育ち、育てる事により、本当の人になり得るのだと。
そう、この世界で学んだ。
ただ、その優しい背中で、この心を守ってくれたから。護ってくれたから。
彼は剣を鞘に収め、琴凪ちゃんを抱き締めた。
「ありがとう、ユキ。養い子を無くさずに済んだ‥君のお陰だ」
彼女はその強い抱擁に、事の重みを知り、泣きじゃくった。
ごめんなさい、箏雪。
ごめんなさい、ユキ。
繰り返される呟きに、あたしは心から微笑んだ。
春の風があたしを包んだ。
優しい、優しい風だった。
「──────どうして、泣いているの?薫桜さん」
若君は、その美しい薄紅色の目から滔々と涙を流していた。
それは、透明なビー玉となって、地を撥ねてゆく。
「君が美しくて、人が美しくて。────そして、哀しくて、愛しくて」
春の華が咲き乱れ、あたし達はその花びらに包まれて、冬の領域から離れて行った。
大きく手を振る雪ン子と、慈愛に満ちた瞳で見上げる冬将軍に見送られ、空を翔けて行く。
「ああ、世界は美しいわ‥」
薫桜さんはしっかりとあたしを抱えたまま、そっと見つめた。
「あたし、思ったの。あたし一人くらい、世界から居なくなっても、きっと何も変わらない。何一つ、変わりはしないんだ、って」
涙が、あたしの目からも流れてゆく。
風に千切れて、透明な雫が飛んでゆく。
「違うのね。
世界は愛するあたしを無くすのね。
そうして、いつか待っている誰かをあたしは無くしてしまうのね。
何て、事を‥あたしは‥‥あたしはしようと‥」
若君は指の腹で、優しく熱い涙を拭う。
「君の所為じゃない。君だけの所為じゃない。
頑張った、頑張ったよ。
一つ、糸を掛け違えてしまっただけだ。
泣いていいんだ、誰にも止める権利は無いんだ。もう、自分を許してもいいんだよ」
そう、あたしは許せなかった。自分を。
だからあの時、絶望して、その存在を消してしまおうとしたのだ。
意識もせずに。
《人》になろうともしないで。
あの人を傷付けたままで。
「許されるのかしら。
許してしまってもいいのかしら。
愛しくて、憎くて、辛くて哀しくて、あの人の心まで殺してしまおうとしていたあたしを」
子供の姿が明滅する。
そうして、あたしは生まれ変わる。
23歳の大人の自分に。
しなやかなその姿は、もう偽れなかった。
子供に戻りたかった。
しょうもない親が居て、面倒臭い兄が居て、跳ね回る犬が居たあの時間に。
何の屈託も無く、泣き、笑えたあの時間に。
「あたしはあたしに許されるずっと前に、世界に許されていたのね」
風が優しかった。
神が優しかった。
濡れる雨さえ、人の目からあたしを隠してくれていた。
そんな慈悲すら、あたしは当たり前だと見過ごして、自分の悲しみにだけ囚われていた。
恩知らずの娘にも、変わらず世界は傍に居てくれたのに。
誰が居なくても、四季は訪れ、光は降り注ぎ。死の瞬間までも、見捨てはしなかった。
今もこうして、春の神が強く抱き締めてくれている。
それを学ぶ為に、あたしはこの一年を旅して来たのだ。
旅して来たのだ。
花吹雪の中、木蓮のアーチの前でずっと待っていてくれた人は、優しく微笑って大きく手を広げて、大きくなったあたしも抱き締めたくれた。
トールは傍で何処か哀しい目をして、アーチを潜って行ってしまった。
「思い出したんですね。
ユキ」
「─────思い出したわ、何もかも」
三月、《覚醒の時》来たれり。
もう、あたしを待つ家族は居なかった。
ただ、抜け殻の身体にあの人が囚われている。
《決断》があたしの心に重くのし掛かって、軋ませる。
だけど、今は、何もかも忘れて。
この抱擁に身を任せたかった。
~四月に続く~




