弟のジジョウ (5)
ヒナはしっかりとした足取りで、シュウとカイ兄ちゃんの前を歩いている。道なんて全部判ってるって感じだ。ホントに?大丈夫なの?
シュウは手をつないでいるカイ兄ちゃんの顔を見上げた。カイ兄ちゃんの表情は暗い。悔しさと、悲しさ。カイ兄ちゃんのそんな顔を見ていると、シュウもつらくなってくる。
ごめんね、カイ兄ちゃん。シュウが探検しようなんて言ったから。ごめんね。シュウの気持ちも沈んでくる。
「ヒナ姉さん、すいませんでした」
カイ兄ちゃんが、ヒナの背中に向かって謝った。
「ん?カイが謝ることじゃないよ」
ヒナがこちらを振り返る。後ろ向きのまま歩いてる。ええ?危なくないの?全然転んだりぶつかったりする様子はない。道から外れているので、足元はデコボコだし、その辺から枝が張り出しているのに。なんで?
「俺がシュウを誘ったんです。こんなことになるなんて、考えが足りてませんでした」
カイ兄ちゃんは悪くないよ。カイ兄ちゃんは一生懸命だった。カイ兄ちゃんは、ちゃんとシュウのお兄ちゃんだった。シュウはヒナに訴えたかった。でもカイ兄ちゃんの顔を見たら言葉が出てこなかった。
「カイも男の子で、お兄ちゃんって感じだね」
ヒナは楽しそうに笑った。
「カイは考えすぎだよ。もっとカイのやりたいようにやっても良いんじゃない?シュウなんかやりたい放題だし」
なんだよ、なんか文句あるのかよ。ヒナだって好き勝手してるじゃんか。
「大丈夫だよ。何かあっても、私やハルが助けてあげるから」
カイ兄ちゃんが、一際つらそうな顔をした。
ヒナは解ってない。カイ兄ちゃんは、ハル兄ちゃんに負けたくないんだ。ハル兄ちゃんに助けられたくなんてないんだ。シュウも、カイ兄ちゃんに負けてほしくない。頑張ってほしい。シュウの、お兄ちゃんになってほしい。
「カイ兄ちゃんだって」
思わず声が出た。ヒナとカイ兄ちゃんがシュウのことを見る。次の言葉が出てこない。何を言えばいいんだろう。カイ兄ちゃんのために、言いたいことは沢山あるはずなのに、どう伝えれば良いのか解らない。これは、シュウが子供だからなの?
「カイ兄ちゃんだって、頑張ってる」
悔しい。
カイ兄ちゃんのこと、ヒナにもっと解ってほしい。それなのに、どうすればそれが伝わるのか、解らない。カイ兄ちゃんにも解ってほしい。シュウは、カイ兄ちゃんのこと大好きだ。カイ兄ちゃん、負けるな。シュウの本当のお兄ちゃんになって。
シュウは子供だ。ヒナは高校生。ハル兄ちゃんも高校生。カイ兄ちゃんも、六年生。シュウだけが子供で、みんなと違う。みんなと同じになりたい。せめて、シュウの気持ちを、みんなに解って貰えるようになりたい。シュウの思っていることを、ちゃんと言葉に出来るようになりたい。
涙が出てきた。男の子は泣かないのに。小学校に入ったら泣かないって、お母さんと約束したのに。シュウの意思に反して、涙が止まらない。シュウは悔しい。もっと、みんなにシュウのことを知って欲しい。
「シュウ」
ヒナが、いつの間にか歩みを止めていた。シュウの前に屈んで、そっとシュウの身体を抱いた。ヒナは柔らかい。暖かい。お母さんみたいな、ちょっと甘くて良い匂いがする。
「ごめんね。カイ兄ちゃんが頑張ってるのは、お姉ちゃんも解ってる」
本当に解ってる?カイ兄ちゃんのこと、本当に解ってあげてる?
ハル兄ちゃんに負けたくない。ハル兄ちゃんと比べられたくない。ヒナといる時のカイ兄ちゃんは、いつも苦しそう。ヒナが、ハル兄ちゃんのことばかり話すから、カイ兄ちゃんはいつもそこにいないハル兄ちゃんを意識している。させられてる。
ヒナ。
カイ兄ちゃんのこと、見てあげてよ。シュウのお兄ちゃんのこと、ちゃんと見てよ。
「カイ」
ヒナがカイ兄ちゃんを見上げた。
「ありがとう、シュウのために頑張ってくれて」
そうだ、カイ兄ちゃんは頑張ってる。シュウのため。ううん、それだけじゃない。
「いえ。まだうまくいかないことばかりです。すいません」
カイ兄ちゃんの返事を聞いて、ヒナはにっこりと笑った。シュウはまだ心がもやもやする。これでいいのかな。カイ兄ちゃんは我慢している。本当は、ヒナに言いたいこと、伝えたいことがあるんじゃないのかな。
シュウの視線に気が付いて、カイ兄ちゃんは小さく笑った。ぎゅっと、シュウの手を握ってくる。言わないでほしいんだ。そうだよね。口に出したら、壊れてしまいそうだもんね。
ヒナはシュウの頭を優しく撫でた。こういう時、シュウはヒナのことをちょっとだけ素敵だと思う。お母さんみたいで、でも違ってて、それでもとっても心地良い。お姉ちゃん、って感じがする。いつもこうなら良いのに。
「さ、もう少しだからね」
再び、ヒナが先頭に立って歩き始めた。シュウがカイ兄ちゃんを見上げると、カイ兄ちゃんはシュウの頭を撫でてくれた。
「ありがとう、シュウ」
シュウはカイ兄ちゃんの味方だもん。カイ兄ちゃんのこと、よく解ってる。よく知ってる。多分、カイ兄ちゃんが思っているよりも、ずっと。
黙って歩き続けた。ヒナが自信ありげに真っ直ぐ歩いているから、もう迷っているという感じはしなかった。これで実は適当に歩いてました、とか言われたら流石にショックがデカ過ぎる。
もちろん、そんなことは無かった。ヒナはちゃんと目的地に向かっていた。三人の前に、その場所が見えてきた。
今までずっと雑木林の中だったのに、ぽっかりと開けた空間が現れた。森の中に穴があるみたい。空から太陽の光が差し込んで、緑の下草と青いビニールが映えている。
誰かが作った、ブルーシートのテントだ。
昔見たサーカスのテントの小さい版って感じ。何枚かのブルーシートが組み合わされていて、針金やロープで木材の柱に縛り付けられている。木材も綺麗なものではなくて、その辺に落ちてる曲がりくねった枝や、折れた樹木を使っている。本当に、この辺りにあるものを組み合わせて作られているみたい。
シュウとカイ兄ちゃんは、そのテントを見て足を止めた。いや、だって、これは見るからに誰かが住んでいる家だ。中に住んでいるのは誰?このまま家の前まで歩いて行って平気なの?
ヒナは二人を置いてずんずん進んでいく。ちょっと待って、ヒナ。どういうことなの?
「ヒナ姉さん」
カイ兄ちゃんが声をかける。大声を出すとテントの中の誰かに気付かれそうなので、小さいけど、はっきりと聞こえるぐらいの声で。ヒナは首だけこちらに向けると。
自信ありげに頷いた。
「大丈夫。ちょっと待ってて」
何が大丈夫なの?
誰もいないの?誰もいないって判ってるの?だとしても、今誰かがやって来たらどうするの?
そのテントに何があるの?誰だか解らない人が住んでいるんだよ?ヒナに何かがあったらどうするの?
怖い人がいて、ヒナに何かするかもしれない。ヒナが怖い目に遭うかもしれない。
ヒナが、殺されてしまうかもしれない。
ヒナが、いなくなってしまうかもしれない。
ヒナが。
やだ、いやだ。
嫌だ!
「お姉ちゃん!」
シュウは叫んだ。
ヒナは振り返らずに真っ直ぐ進み続けて。
テントの中に、姿を消した。
中に入って最初に思ったのが、臭いってこと。ああ、なんか色々腐ってる匂いがする。大丈夫かな、臭い移らないかな。
ブルーシートに包まれた内部は、薄暗くて青黒い色彩に沈んでいる。まるで深い海の底。
ヒナは迷わずに奥に進んだ。そういえばシュウが何か叫んでいた。なんだろう。まあ、ヒナが一人で入って行ったから、びっくりしたんだろう。カイも驚いたかな。ごめんね、ヒナ、もうお腹すいちゃって。
横を見る。青白い顔をした、髭もじゃの男が立っている。カイとシュウには見えなかっただろうが、実はずっとヒナの横を歩いていた。ぼろぼろになった服、伸び放題の髪と髭。何処も見ていない瞳。
このテントの住民。だった人、と言った方が良いか。残念ながら、彼はもうこの世の人ではない。ここではない何処かで、命を落としてしまった。
この場所に、彼は強い未練を残している。その未練が、この場所に近付いた人間を閉じ込めている。
ナシュトによると、こういった死んだ人間の強い未練は死霊と言うらしい。人には霊魂がある。魂は思考、霊は記憶。死んだ人間の記憶は、すなわち死霊。
よく地縛霊なんて聞くけれど、それは大体こういった死霊だ。未練のある場所にとどまって、助けを求め続けている。未練が強ければ強いほど、周りに影響を及ぼす。今回みたいな、困った状況を作り出す原因になる。
銀の鍵の力なら、死霊なんて簡単に消し飛ばせる。中学時代のヒナならそうしていた。死んだ人間とかどうでもいい。生きている人間の邪魔をするなって感じ。大体、死んでる人間の言うことは自分勝手なことがほとんどだ。問答無用。
最近、ヒナはようやく死霊の訴えについて寛容になってきた。生きている人間も身勝手であることに変わりは無い、という考えを持つに至ったからだ。むしろ、死んでまで生きていた頃の問題に振り回されるなんて、哀れで、可哀相にすら思えてくる。
もちろん、その内容によっては叶えることを断念せざるを得ないが、話だけは聞くようにしている。死んで忘れられないほどに、何を願ったのか。その願いを叶えることで、どんな平安を得ることが出来るのか。死霊たちに触れていると、人の心の奥深さについて考えさせられる。
「で、あなたは何を願うの?」
ヒナの問い掛けに、男は奥の一角を指差した。大きな檻。大型犬用のケージか。中で何かが動いている気配がする。動物、生き物が入っている。
ヒナは、はぁ、とため息を吐いた。この空間の臭いの源の一つは、間違いなくそこだ。どれくらいの間放置されていたのかは判らないが、物音がするということはまだ生きている。それにしても、無事でいてくれているのかどうか。エサや水を与える人もいなかっただろうし、開けた瞬間大変な目に遭うのはヒナだ。
「あれを出すの?」
思わず訊いてしまった。男の死霊は頷いた。はいはい、ですよね、デスヨネー。もう、解りましたよ。開けますよ。開ければいいんでしょ。うう、やだなぁ。
一応銀の鍵の力と、ナシュトにも聞いて危険が無いとは判っている。でもヒナだって女の子だ。怖いものは怖い。もしハルがこの場にいたら絶対に代わって貰ってる。こういうのは頼もしい彼氏様のお仕事だ。
しかし、残念なことに、ここにいるのはヒナの他にはカイとシュウの年下男子のみ。弟たちにこんな危なっかしいことはさせられない。しかも大見得を切って一人で入っておいて、今更「助けて」とかどの口が言うのか。お姉ちゃんとして、そんなカッコ悪い姿は絶対に見せられない。
はあ、ハル。ヒナは今頃になってハルと一緒にここに来なかったことを後悔しました。先立つ不幸をお許しください。
ケージの扉に手をかける。鍵は付いていない。ストッパーだけだ。かちり、という音がして簡単に外れる。ケージの中で暴れ回る音がする。今出してあげますよ。頼むから、大人しく出てきてね。
ヒナは一息に扉を開け放った。
ばばばばばばば。
すごい音がして、テントが激しく揺れ動いた。何かがテントの中で暴れている。ただ事じゃない。
「ヒナ姉さん!」
カイはシュウの手を離して飛び出した。シュウ、何かあったら逃げるんだ。そう思ったが、シュウもカイを追いかけてきた。ヒナ姉さんのことが心配なのは、シュウも一緒だ。解った、二人でヒナ姉さんを助けるんだ。
テントの前までやってくる。中の様子は暗くてよく判らない。何かが暴れ続けている。テント全体が揺れている。
これは。
「あーもう、出口はあっちだってば」
ヒナ姉さんの声がした。そして。
数羽のハトが、テントの中から飛び出した。
ばさばさと羽ばたく力強い音。ぐるぐるという鳴き声。虹色の光沢を反射する灰色の羽根。
鳩たちはテントの上を周回する。何かを探すように、待つように。
見上げているカイとシュウの頭の上をしばらく舞ってから。ハトたちは空高く飛び去った。眩しい太陽の下に。
※ ※ ※
全てを失って、何もかもを無くして。
この場所で、生きていこうと決めた。死ぬ勇気は無かった。どんな場所でも、生きていくことだけはやめたくなかった。
その気になれば、社会の中で生活することは可能だった。しかし、もうその意思がない。人と触れ合うことはしたくない。関わり合いたくない。言葉なんて、無くしてしまいたい。
朝日を浴びて目を覚まし、星を見て眠りにつく。どうしてだろう、今まで感じたことが無いくらい、生きていると思った。自分は生きている。ただ寝て起きるだけなのに、生きていると思う。
生きている以上、食べる必要がある。食べ物はいつも問題だ。木の実は常に手に入るとは限らない。草も、食べられるものとそうでないものがある。魚を獲るには道具がいる。動物は更に難しい。
動物の肉は、食べる前に血抜きがいる。店で売っている肉は、全て処理されているものだ。そんなことも知らないで、ここで一人で生きていこうとしていた。可笑しかった。生かされていた事実を改めて知った。
一番簡単な食べ物の入手方法は、ゴミを漁ることだ。結局社会から切れては生きていけない。どうしても逃げられない、生かされているという事実が、いつまでも付きまとう。
公園の水飲み場で水を飲む。これもまた、生かされているということ。泥水でも飲めばいいのに、清潔な水を求める。逃げられない。どんな時でも、いつまでも。
鳥が飛んでいるのを見た。自由なようで、よく見ていると不自由であることが判る。鳥の中にも序列がある。小さな鳥、大きな鳥。カラスはいつも我が物顔で、ずる賢い。弱くて小さい鳥は、群れて自分を大きく見せる。良く出来ている。不思議だ。
ハトがよく寝床にやってくる。おこぼれを預かりに来る。自分たちでエサを見つける気はないのか。人間に養われて、生かされて、お前はそれで良いのか。
そして、ようやく気が付いた。ああそうか、お前も、同じなんだなって。
生かされている。そうじゃない。お互いにただ生きている。あるものをあるがままに受け入れて、生きている。
誰かがこぼしたものを、そこにあるものとして受け入れて、自分のものにする。そうだ。それだけなんだ。ハトを見ていると、自分がそうやって、自分で自分を縛っていたことに気付かされた。
生かされてるなんて、おこがましい考えだ。ただ生きていくのなら、何も考える必要は無い。目の前にあるものを、生きるために使う。それだけなんだ。
ハトは宝物だった。大事な先輩だった。お前の様になりたい。お前の様に生きたい。あるがままに、自然のままに、ただ生きていたい。
ハトと一緒に暮らす。朝は空に放つ。日が落ちる前に、ハトは帰ってくる。ケージの中に入って、眠る。ハトを見ていると心が安らぐ。生きているって気がする。
何もいらない。本当に、何もいらない。
ただ、生きていたい。お前たちと一緒に。言葉も、何もないままに。
あるがままの世界で、あるがままに生きる。たったそれだけのこと。それだけのことが、こんなに難しい。こんなに楽しい。
ケージの中にいるハトを見て思う。こうやって閉じ込められて眠るハトを見て。
ああ、まだ自分は人間で。
失くしたくないものがあるから、こうして閉じ込めるのだな、と。
あるがままに生きることは難しい。本当に、難しい。
※ ※ ※




