弟のジジョウ (3)
図書館から出ると、外の空気が身体に絡みついてきた。ああ、暑いな、もう夏が来るんだ。
借りていた本は一通り返した。新しく入った本で読みたいものがあったが、残念ながら一足遅かった。予約登録だけして、お預けだ。今日はついてない。こんな日もある。仕方がない。
これからどうしようか、とカイは少し考えた。予定らしい予定はない。サッカーチームの練習が、色々な事情で潰れてしまった。何というか、降って沸いた休日になってしまった。読みたい本も入手出来なかったとなると、本当にぽっかりと一日が空いてしまった感じがする。
毎日根を詰め過ぎているのかもしれない。何かしていないと落ち着かない、というのはもう性格だと思う。ハル兄さんにも、真面目過ぎると言われる。ハル兄さんの場合は、もう少し真面目であってくれた方が良いと思う。お互い様。どうにもバランスが悪い。
たまには目的も無くゆっくりとしてみようか。それに決断が必要な辺り、無目的とも思えないが。小さく笑ってみた。うん、悪くない。
自分でも面倒な性格だと思う。いちいちきっちりしてないと気が済まない。言い逃れさせてもらえるなら、これの半分はハル兄さんのせいだ。ハル兄さんは何をするにもいい加減、適当、その場しのぎ。それで酷い目に遭ってきたから、こうして考える癖がついてしまった。
ハル兄さんは母さんに似ているのだという。確かにそっくり。顔、というよりも行動原理。考える前に動く、衝動的、野生動物みたいだ。カイは父さん似だ。父さんはいつも難しい顔をして、沈思黙考している。大事なことを、シンプルに要点だけしっかりと伝えてくる。父さんに似ていると言われるのは、カイにはとても嬉しい。カイは父さんのことを尊敬している。
カイは父さんのようになりたいと常々思っているが、その上で、ハル兄さんの行動力にはいつも驚かされる。カイが悩んで動けない時、ハル兄さんはひょいっと走っていってしまう。考える前に手が出る、足が出る。カイには出来ないことで、正直うらやましい。
あの時もそうだ。ヒナ姉さんが家出をした時。ハル兄さんは雨の中、ヒナ姉さんのことが心配だと言って家を飛び出していった。カイはまだ小さかったから、細かいことは記憶していない。ただ、ハル兄さんがヒナ姉さんを背負って帰ってきたのを見て、強い衝撃を受けたのを覚えている。
ハル兄さんは凄い。
母さんがヒナ姉さんの怪我を見て、着替えさせて、病院に連れて行こうとした。その際、ヒナ姉さんはハル兄さんの手を握って離そうとしなかった。母さんは何を思ったのか、そのままヒナ姉さんとハル兄さんの二人を車に乗せた。
「カイ、父さんとお留守番しててね」
母さんも大概に衝動的に行動するタイプだと思う。その日はたまたま父さんが家にいたが、いなかったらカイは一人で留守番させられていたかもしれない。いや、流石にそれはないか。確かその頃カイはまだ四歳だ。無茶を言うな。
その後のことは記憶が薄い。二人が返ってきたのは、カイが寝てしまった後なのかもしれない。次の日の朝には、いつものように家族みんなでご飯を食べた気がするので、多分そうだったんだろう。
カイは、ハル兄さんがヒナ姉さんを背負っている姿を、とにかく鮮明に記憶している。ハル兄さんの身体に、一生懸命にしがみついているヒナ姉さんのことを覚えている。ハル兄さんの手を必死に握り続けるヒナ姉さん。その横で真っ直ぐに母さんを見つめるハル兄さん。あの時の二人の姿が、カイの中では色褪せない。
というよりも、消えてくれない。
多分、二人の絆はその時に産まれたのだと思う。今でも二人は仲が良い。ハル兄さんの友人から漏れ聞こえた話では、いよいよ男女交際を始めたということだ。それはとても良いこと。ハル兄さんの良いところを象徴しているような、素敵な話だ。
・・・カイは、そう思おうと努力している。理屈は通っている。通っているはずなのだから、納得は出来るはず。
納得出来ないのだとすれば、それはカイの中にある問題だ。
ハル兄さんはいつも衝動的だ。あまり物事を深く考えていない。ヒナ姉さんは、そんなハル兄さんのことが好きなんだろう。深く考えてない代わりに、その分真っ直ぐで、解り易い。ハル兄さんの、ヒナ姉さんのことが好きで大切にしたいという気持ち。それを、ヒナ姉さんは真っ直ぐに受け止めている。ああ、やっぱりお似合いじゃないか。
高校生になったヒナ姉さんは、凄く綺麗になった。お世辞じゃなく、最初に見た感想は、綺麗、だった。髪をほどいただけって言ってたけど、多分何か心境の変化とかもあったのだろうと推察する。中学時代のヒナ姉さんは、なんだかちょっと思いつめていた時期があった。だからこそ、尚更だ。
二人が仲良く話をしている所を見ると、カイは胸が苦しくなる。ショッピングモールで買い物をした時、ハル兄さんはヒナ姉さんのことをとても気遣っていた。「疲れたか、ちょっと座るか?」「ああ、あそこの店見たいのか」「ほら、それ持つから」「いいよ、シュウと行ってきな」カイがどうしようかと悩んでいる間に、そんな言葉がすらすらと出てくるハル兄さんがうらやましかった。「うん、ありがとう」って応えるヒナ姉さんが眩しかった。
ヒナ姉さんは、カイにも優しくしてくれる。本当の弟のように接してくれる。「カイ、シュウと仲良くしてくれてありがとう」ヒナ姉さんにそう言われるのは嬉しい。シュウは実際可愛い弟分だし、大切なヒナ姉さんの弟だ。
いずれ、ヒナ姉さんは、義姉さんになる。多分そう。きっとそう。
シュウには、本当のお兄ちゃんになって欲しい、と言われたこともある。シュウはカイにとても懐いてくれている。そうだね、シュウ。カイもシュウと兄弟になりたい。でも、そのなり方はまだ他にもあるって、そんな可能性もあるって、信じてちゃ、いけないのかな。
風が生ぬるい。足に任せていたら、河川敷を見下ろす土手の上を歩いていた。
一級河川、とは言ってもこの辺りの川幅はあってせいぜい二十メートル程度。深さも二メートルといったところか。国が管理している広い河川敷があって、その外側を更に高い土手が囲っている。土手の上には舗装された道路があり、ジョギングやサイクリングにと愛用されている。土手自体も緑で覆われていて、見た目にも心地よい。
土手の下に広がる河川敷の芝生は、カイのいるサッカーチームの練習でも使われる。綺麗に整地されている区画には、他にも野球のグラウンドが何面もある。今日も草野球チームがいくつか試合をおこなっている。そうそう、その辺りの使用許可の調整が原因で、今日の練習は潰れてしまったのだった。
この広い河川敷は、全部が全部綺麗に整備されている訳ではない。草木が伸び放題で、うっそうと茂ったジャングルみたいな雑木林が沢山広がっている。むしろ、そういったほったらかしの部分の方が大半だ。たまに火事なんかが起きると大騒ぎになる。山火事と大差が無い。河川敷なのに水が近くに無いとか、なんだか矛盾している。
これだけの土地のメンテナンスには、それなりのコストがかかるのだろうから、ある程度放置状態なのは仕方が無い。そうは思うが、具体的な問題だって孕んでいる。地域住民として、割と困っていることは幾つかある。
まず、野生動物が棲みつくこと。一昔前なら野犬。狂犬病とかあまり洒落にならない。一時期に比べて野良犬はだいぶ減ったということだが、ペットブームのせいで捨て犬の数はまた増え始めているという。
犬だけでも結構な問題だが、最近ではもっと厄介な生き物を放つ人もいる。ペットの飼育にはもっと責任を持って欲しい。下手に環境適応されてしまうと、生態系を狂わせるだけでなく、近隣住民に深刻な被害を及ぼすことになる。カミツキガメとか、サッカーやってる所で出くわしたら大変だ。
捨てる、と言えば不法投棄も問題の一つ。大量の古タイヤや、大きな故障した家電などが山積みに捨てられている所を、カイも見たことがある。雑木林の中ならあまり目立たないし、広いから見つからないと思うのだろう。街灯の幾つかに監視カメラが設置されたと聞いた。のんびりと緑を眺めて気持ちを安らげるとか、そんな長閑な風情とは無縁な感じだ。なんだかもったいない。
そして最大の問題。人間そのものが棲みつく、ということ。
カイから見えている雑木林にも、ちらほらとブルーシートの一部が見え隠れしている。雨風をしのぐための急ごしらえの住居。たまに消えて、また増えて、ということを繰り返している。こればっかりは、いつまで経っても無くならない。
生きていく上で、誰もが恵まれた生活を送れる訳ではない。そんなことくらい、カイにも解っている。住む場所を失っても、今日の次には明日がやって来る。止めることは出来ないし、人生をリタイヤする勇気を持たない人もいる。いや、そう簡単にリタイヤなんてするべきじゃない。それなら、生きていくしかない。
昔、カイはハル兄さんに連れられて河川敷の雑木林を探検したことがある。連れられて、というよりは引きずられて、という方が正解か。ハル兄さんは基本的に優しくていい兄だとは思う。ただ、やることが衝動的でいい加減だ。確かに行ってみたいと言い出したのはカイだったが、まさかあんな奥まで入り込むとは全く予想していなかった。今ならオチまで全部想像出来るから、迂闊にそんなことは口に出したりはしない。
おっかなびっくりで二人は雑木林の奥にまで入り込み、薄汚れたブルーシートで覆われた住まいを目の当たりにした。人の気配は感じられない。それでも何処に何が潜んでいるか判らないので、こそこそと隠れながら進んでいく。折れた枝で垣根が作ってあったり、小さな畑があったり、人が生活している、生きているって形跡があって、カイはとてもショックだった。
そのまま雑木林を突き抜けて、二人は川辺まで出た。そこで、誰もいない河原に釣竿が立っているのを発見した。針金か何かで固定されていて、糸が川の水の中に垂れている。釣りのための仕掛けだろう。
やめておけば良いのに、ハル兄さんは釣竿に手を出した。「何か釣れてるかもしれねぇぞ」たとえ釣れていたとしても、人のものに手を出したらアウトでしょう。カイは止めようと思ったが、時すでに遅しだった。
ハル兄さんが竿に手を触れた途端、ガランガラン、というけたたましい音が鳴った。釣れた時に解るように、竿には別な糸が結んであって、空き缶の束に繋がっていた。今思えばそりゃそうだ、としか思わない。本当に、ハル兄さんはもうちょっと良く考えてから行動して欲しい。
その後はもう、一目散に逃げた。走った。後ろの方で誰かの怒鳴る声が聞こえた。怖かった。捕まったら食べられると本気で思った。実際食糧にされててもおかしくなかった。いや、流石にそんなことは無いか。酷い目にはあっただろうが。
雑木林を抜けて土手の下まで来て、ハル兄さんは楽しそうに笑った。「びっくりしたな、カイ」それどころじゃないでしょう。
でも、悔しいけど面白かった。楽しかった。こんなにどきどきしたことは無かった。カイもハル兄さんと一緒に笑った。ハル兄さんは、カイに出来ないことをやってくれる。やらかしてくれる。迷惑で困ってしまう。
本当に、どう足掻いても勝てそうにない。
懐かしい思い出に浸っていたところで、カイはその雑木林の入り口に、ひょこひょこと動く黄色い帽子の姿を見つけた。目立つようにと被せられてる帽子は、見事にその役目を果たしてくれている。やれやれ、何をやっているんだか。カイは土手を降りると、スパイごっこみたいな動きをしているシュウに近付いた。
「シュウ、何やってるんだ?」
黄色い帽子に水色の水筒、お出かけスタイルのシュウが、くりくりとした目をカイの方に向けてくる。この目と、柔らかい癖っ毛はヒナ姉さんそっくりだ。
「カイ兄ちゃん、カイ兄ちゃんだ!こんにちわー」
はい、こんにちわ。出会って最初に挨拶することを教えたのはヒナ姉さんだ。シュウはすぐに自分のことばっかり話し始めるから、挨拶して落ち着いてからしゃべること。いい教えだ。ハル兄さんの小さな頃に伝えてやりたい。未来のカノジョの言うことなら流石に聞いてくれるだろう。
「えっと、僕、今日は探検隊なんだ。探検しようと思ったんだけど」
ああ、シュウはそこまでハル兄さん化が進んでいるのか。それはかなり困ったものだ。カイはシュウにハル兄さんみたいになってほしくない。まあ、ここで躊躇ってくれてる分、まだ大丈夫なのかな。
河川敷の雑木林は、実は小学校で立ち入りが禁止されている。色々な危険があるから、ということだが、一番の理由はやはり不法に棲みついている人間とのトラブルを避けるためだ。よく考えてみると、そんな注意をされる原因を作ったのはハル兄さんかもしれない。釣竿に触った話は、あの後結構噂になってたし、可能性としては十分にあり得る。ハル兄さんはまったく。
シュウがへっへぇ、と笑う。カイを慕ってくれるシュウは可愛い。ヒナ姉さんの弟だから、ということを差し引いても、カイにとってシュウは大切な弟分だ。本当の弟のように思っている。うん、シュウが義弟になることには何の疑問も無い。むしろそれは、望ましいことだ。
「この辺りの雑木林は立ち入り禁止だ。学校でそう習っただろ?」
実際にトラブルが起きた、という話は聞いたことが無い。ハル兄さんの件はちょっと例外。学校としては何か問題が発生してからでは遅い、という判断なのだろう。今時子供を狙った犯罪は後を絶たない。神経質になる気持ちも解る。
「そうなんだけどさ」
シュウは好奇心の塊だ。いつもじっとしてられない。ハル兄さん化、とは言っても、カイも数年前まではそういう時期があった。色々なことに興味を持つことは大切だ。それに、シュウはお父さんがあまり家にいないという家庭の事情もある。もっと世界を広げてあげられれば、とも思う。
カイは雑木林の方をちらりと窺った。虫の声が聞こえる。他は静かなものだ。小さなけもの道が、ぽっかりと開いた暗がりへと続いている。妖精の小路の先には何があるのだろう。確かにちょっとわくわくする。ハル兄さんなら、「行こうぜ」って言ってる気がする。
「シュウ」
ハル兄さんに負けたくない。その気持ちは昔からある。どんな時でも、どんなことでも。カイはいつもハル兄さんの背中を追いかけていた。
ハル兄さんになりたい訳じゃない。だから、ハル兄さんとは違うことをしてきた。サッカーをしているのもそうだ。ハル兄さんがバスケなら、カイはサッカーをやる。違うやり方をするようにしてきた。ハル兄さんが考える前に動くなら、カイは動く前に考える。カイはハル兄さんとは違う。そして、ハル兄さんよりもずっと大人に、ずっと賢く。
ずっと、強くなりたい。
「一緒に行ってみるか、探検」
今はもう、カイはハル兄さんには負けていない。あの時のハル兄さんよりも、ずっと大人で、ずっと賢くて。ずっと強い。シュウを、弟を守ることだって出来る。
「うん!」
シュウが元気に返事をする。
言ってから責任の重大さを感じたが、自信はある。そもそもそんなに奥まで行く必要はない。シュウが満足すればそれで良い。方向感覚を見失うような動き方をしなければ、早々道に迷うこともない。広いと言ってもたかが知れている。
カイはシュウの手を握った。シュウも強く握り返してくる。さあ、行こう、探検だ。
お兄ちゃんと一緒に。