弟のジジョウ (1)
ヒナが八歳、小学三年生の時。弟のシュウが産まれた。
ヒナのお父さんは仕事が忙しくて、いつも出張で家にいない。優れたエンジニア?だかなんだか。お父さんがスゴイのは嬉しいんだけど、家にいてくれるお父さんの方が、ヒナは好きだった。
シュウが産まれたら、家の中にはお母さんと、ヒナと、シュウの三人になった。赤ちゃんのシュウに、お母さんはかかりっきり。ヒナはもう三年生だから、なんでも一人で出来るって、そう思われてたのかな。
展覧会の日、午後から強い雨が降り始めたあの日、ヒナは寂しさに耐え切れなくなって家出した。
雨の中、黄色い雨合羽と、ピンクの長靴を履いて、自転車に乗って走り出した。何処かに行ける訳じゃない。何かが出来る訳じゃない。ただ、お母さんに構ってほしかった。心配して欲しかった。探してほしかった。それだけだったんだと思う。
そして、ヒナの乗った自転車は崖から落ちて、ヒナは足に怪我をして動けなくなった。
泣いて助けを呼んだ。雨の河川敷には誰もいなかった。大きな雨音に、ヒナの声はかき消された。ヒナのことを、誰も助けてくれない、探しに来てくれない。ヒナは孤独に押しつぶされそうになった。
全てに絶望したヒナを助けてくれたのは、幼馴染のハルだった。
ハルにも、弟のカイがいる。「お兄ちゃんだから」、そう言われて、弟のために色んなことを譲ってきたハルには、ヒナの気持ちが良く解った。その日も、展覧会の時のヒナの様子を見て、ずっと心配していた。
雨の中、ハルはたった一人ヒナの所に駆け付けてくれた。ヒナが怪我をして動けないと知ると、ヒナの身体をおんぶして、そのまま崖をよじ登った。
ヒナにとって、それまでハルは仲の良い幼馴染の友人だった。
でも、ハルの背中で、ハルの身体にぎゅっとしがみ付いて、ハルの体温を感じて、じっと目を閉じている間に。
ヒナは、ハルのことが好きになった。恋をした。
あまりにその印象が強すぎて、ハルに助けられた時の、他の細かい所に関する記憶はあやふやだ。ハルは頑張ってヒナをハルの家まで運んだのだと思う。ハルのお母さんがいて、ヒナの濡れた服を着替えさせて、色んな所に電話して、ヒナはハルと一緒に車に乗せられて病院に行った。
足の怪我は、大きいだけで深くは無かった。ただの擦り傷。べろーんって皮がむけた感じ。深くは無いとは言っても、高校生になっても跡は残ってて、そこだけちょっと肌の色が違う。他には特に何の問題も無かった。ヒナは意外と頑丈だった。
大きなガーゼと包帯で、見た目だけは痛々しい。しかし実際には、痛みはほとんど感じなくなっていた。病院から出る時にはもう普通に歩けてたし、凄く痛くて立つことも出来ない、というのはどうやらヒナの思い込みだったみたい。ショックで動けなくなるとか、あるもんなんだね。
・・・そういえばこの時保険証ってどうしてたんだろう?わあ、今度ハルのお母さんに謝っておこう。
その後、ヒナはまた車に乗せられて、ヒナの家に帰った。そうそう、これだけは覚えてる。ハルの家で車に乗って、病院に行って、治療を受けて、また車に乗って、っていう一連の流れの中で。
ヒナは、ずっとハルの手を握っていた。
だって、ヒナはハルに恋してしまったから。ハルのことが大好きになってしまったから。
ハルは、ヒナの光。ヒナの希望。ヒナの唯一の居場所。
そんなヒナを見て、ハルのお母さんは笑ってた。今思うとちょっと恥ずかしい。ハルはずっとヒナと手を繋いだままでいてくれた。ハルはいつでも、ヒナに優しくしてくれる。
ヒナの家に着いて、お母さんがシュウを抱っこして玄関から飛び出してきた。泣いていた。ヒナにしがみ付いて、怒ったり、謝ったり、色々なことを言っていた。ヒナは「ごめんなさい」って言って、ハルの手をぎゅっと、強く握った。
ハルのお母さんの「じゃあ、これで」という声が聞こえて、ヒナはハッとした。これで、なんだろう。ハルの手を強く意識した。ハル、帰っちゃうの?嫌だ。嫌だよ。
「嫌だ、私、ハルと一緒がいい!」
そんなことを叫んだと思う。ハルの手を引っ張って、ヒナは家の中に飛び込んだ。ハルは、黙ってヒナについてきてくれた。本当にごめんなさい、ハル。あと、ありがとう。
階段を上って、自分の部屋に入って、ドアをバタンと閉めた。足の怪我が少し痛んだ。でも、そんなことは気にしていられなかった。部屋には鍵が付いてないので、ドアに寄りかかって座り込む。ハルの手は離していない。ハルも、ヒナの横に並んで座った。くっついているハルの身体の温かさが、とても心地よかった。
子供っぽいわがままだと、今では思う。だけど、その時ヒナはどうしてもハルと離れたくなかった。一度離れてしまったら、もう二度とハルと一緒にいられないとか、そんなことを考えていた。ふふ、そんなことないのにね。
ドアの外で、お母さんと、ハルのお母さんが話をしているのが聞こえる。どうもすみません、いいんですよ、でもご迷惑を、ヒナちゃんが落ち着くまでハルを貸しときますから。貸すってなんだ、ハルはもう、ヒナのものだ。ヒナの独占欲が強いのは昔からだ。
シュウの泣き声が聞こえた。赤ちゃんのシュウは、周りがうるさくするとすぐに泣く。ばたばたとドアの前から気配が消えた。やれやれ、おむつ替えて、おっぱいあげて、寝かしつけるまでは静かかな。
ヒナはハルの様子をそっと伺った。今更気が付いたが、ハルのことなど全然考えていなかった。勝手にハルを部屋に連れ込んで、勝手にヒナのものにするって、なんというか、とんでもないことをしたものだ。そういうのは良くない。ハルのことが好きなら、ちゃんとハルのことも考えないと。
ハルはわんぱく、というか、ちょっとやんちゃな所がある男の子。ヒナとは、幼稚園の頃から家族ぐるみで付き合いがある幼馴染だ。運動が好きなので、男子の間ではそこそこ人気者、女子からはお調子者としてあまり良く思われてない。
まあ、ハルの口がちょっと悪いのは確かだ。返事は大体「はあ?」で、普通の会話は「なんだこら」が頭について、「ざけんなよ」が後につく。そんな感じ。確かに聞いてていい気分はしないかな。その会話風景を見ただけで泣きそうになっちゃった女子もいる。
とはいえ、ハルは誰に対してもそんな態度を取るわけじゃない。年下とか、女の子相手だとむしろ優しいくらい。ヒナは昔からの友達だから良く知ってる。ヒナはハルに嫌なことをされた思い出が無い。ハルはちょっと誤解されやすいのかも。
他の女子に頼まれて、ハルと話をする際に間に立たされたこともある。みんなが何でそんなにハルのことを怖がるのか、ヒナにはよくわからない。うーん、確かにちょっと普段の印象は良くないかも?いや、男の子って大体こういうものなんじゃない?
ハルが、ヒナの視線に気が付いた。ハルは昔から日焼けしにくい体質で、肌の色が白くて手足も細い。運動はしてるから、筋肉はしっかりと付いてる。こうやって近くにいるとよく判る。がっしりしていて、男の子って感じ。あ、またドキドキしてきた。ハル、どうしよう?ヒナ、ハルのこと好きになっちゃった。
思わず目を逸らして、うつむいてしまう。ハルの顔がまともに見れない。どうしたんだろう、こんなこと初めて。手は離したくないのに、顔は見れない。意味わかんない。ハル、ヒナなんだかちょっとおかしい。自分のこと、良くわからない。
ハルの手が、ヒナの頭に触れた。雨で濡れてくしゃくしゃになった癖っ毛。いつもはもっとふわふわで可愛いのに、今はタオルで拭いただけだから、べったりと肌に貼り付いてる。でも、ハルの温かさは、ちゃんと感じられる。ハルは、ヒナのことを優しく撫でてくれてる。
「大丈夫だよ、ヒナ」
ハル。
ヒナの目から、ぽろぽろと涙が流れた。雨の河川敷で、もういっぱい泣いたのに、まだ泣くんだって思った。「うん」って頷いた。ハルの言うことなら信じる。信じられる。ハルが大丈夫って言うなら、きっと大丈夫。
今、この手を離しても、ハルは何処かに行ってしまったりしない。
ずっと繋いでいた手を離して。
ヒナは、ハルの身体にもたれかかった。ヒナを背負ってくれたハル。ハルの頭と、ヒナの頭がこつん、と触れる。ヒナは、ハルのことが好き。ハルは、ヒナの居場所。ハルはヒナを探してくれる、見つけてくれる、わかろうとしてくれる。
ヒナは、ハルに全部を預けます。
しばらくそうしていたら、ようやくヒナは落ち着いてきた。落ち着きたくなんかなかったが、物凄く恥ずかしくなってきてしまったんだから仕方が無い。あわわわわわ、何やってんだ、って感じだ。
ハルとぴったり身体がくっついたまま、ヒナはどうしていいか解らなかった。これは落ち着いたって言って良いものなのかどうか。急に離れるのも変だし、かといってずっとこのままとか耐えられないし。えー、どうしよう。顔が熱い。熱い。
「ヒナ、もう平気?」
ハルの声は冷静で、それがちょっと悔しかった。うう、ヒナはハルに恋しちゃってるのに、ハルはちっとも動揺してないのかな。ハルはヒナのこと、どういう風に思ってるの?
とりあえずゆっくりと身体を離す。ハルのぬくもりが消えて、なんだか急に寒くなった。もっとくっついていたかった、なんて考えてしまう。ハルのこと好きなんだなぁって、胸の奥が、きゅってなる。
まあ、ハルの顔を見たら、それどころじゃなくなっちゃったんだけどね。
ヒナは上目づかいに、ちらっとハルの方を見て。
本当に、心臓に矢が刺さったみたいな衝撃を受けた。
ハルは、話し方がぶっきらぼうで、すぐにふざけて笑って、いつも大声でしゃべってる。男の子だし、それが普通。ヒナはそう思ってた。
今目の前にいるハルは、そんなハルとは全然違った。ヒナが今までに見たことが無い、初めてのハルの表情。多分ハル自身も、誰も知らない。暖かくて、優しくて、ヒナのことをそっと包み込んでくれる、素敵な笑顔。
世界でたった一人、ヒナのためだけに向けられたハルのその笑顔を、ヒナは見てしまった。
理解した。ヒナは良く解った。そうだよね、何とも思ってない子のために、雨の中探してくれたり、おんぶして運んでくれたり、わがままに付き合って一緒にいてくれたりとか、しないよね。
うん、ハルのこと、信じます。ヒナは、ハルのこと、安心して好きになれます。恋に落ちます。ヒナの全部、ハルに預けるから。ヒナのこと、大切にしてね。
ハル、大好き。ヒナは、ハルのことが好き。ハルの気持ちに触れたと思ったこの時から、ヒナはハルのことをずっと好きでい続けている。
籠城から明けてみれば、お母さんとハルのお母さんは居間でお茶なんか飲んでた。ちょっとムカ。何もかも見透かされてるみたいで面白くない。ハルもすっかりウチのお母さんに信用されてるんだね。まあ、ヒナもハルのこと、とっても信頼しているよ。
玄関で靴を履いた後、ハルがヒナの方を振り返った。
「ヒナ、弟のこと、シュウのこと好きか?」
うーん、お母さんのことを独り占めされるのは正直つまんない。
でも、別に嫌いではないよ。可愛いのは確かだし。何より、ヒナの弟。家族だもん。
「シュウはまだ赤ちゃんだからさ、自分のことはまだ何も出来ないんだ。お母さんや、ヒナが助けてあげないと、普通に生きていくことも出来ない」
そうか。
シュウは一人だと、ご飯もトイレも出来ない。誰かがシュウについていてあげないと、シュウは何も出来ない。助けてって泣くことだけが、シュウに出来る唯一のことなんだ。
そう考えたら、ちょっとシュウのことが可哀想になった。守ってあげなきゃって、思えるようになった。
「シュウを助けてやれ、譲ってやれ、好きになってやれ」
この時のハルの言葉を、ヒナは良く覚えている。
お父さんの受け売りなんて言ってたけど、それをちゃんとヒナに伝えられるんだから、ハルはやっぱりカッコいい。
「ヒナは、お姉さんになるんだから」
大好きなハルにそう言われて。
ヒナは、自分がお姉さんなんだって、強く自覚した。