犬っころ
難しい顔を見せつつ歩む男なんぞ、すれ違う者らにとって迷惑なものにしかならぬ。見るからに浪人という風体なら、尚さら迷惑千万な輩であった。
二本差しなど役立たずとは言え、お腰の物に触れぬよう避けるのは当たり前。難癖なんぞつけられては、寒い懐は尚さら寒くなる。
下手をすると泣きっ面に蜂よろしく、瘤のひとつも頂戴する落ちとなる。
余人には判らねど、当の浪人のさらに悩ましい有様。
刀を抜いて銭を得ることなんぞ、もはや大道芸くらいのもの。抜かずして稼ぐより外に道はないのであった。
どこぞの用心棒にでもありつけたなら、飯の種には困らない。されど手先の巧みなら、小間物なんぞ拵えるのも悪くない。
棒振り稼業はまっこと飯の喰えぬもの。浪人は吐息とともに足を早めた。
足を棒にした日はいつも、長屋へと戻る前に寄り道する。水路の奥にひっそりと、小唄の師匠の住まう家あり。
この女、歳の頃は三廻りまでは行かねど、大年増の婀娜な女ぶり。どこぞのお大尽の囲い者との噂あり。
裏路地の垣に破れのあるを知りながら、庭先で水を使う日もあるのだ。好き者との噂の絶えぬ有様である。
今日も盥を用意して、汗を流すしたくは万端。女は打ち掛けにした長襦袢の裾をひらひらさせつつ、ゆったりと歩みを進める。
「ねえ旦那。いつもそこからで足りてるんですかい?」
不意に声を掛けられ、男は内心驚けど無言を貫く。
「もそっと内へと入ったら、愉しゅうなるとは思いませんか?」
女の招きを断る理由はなかった。
半刻後、男は床の上に下帯ひとつで俯している。女はその横に乱れた肌襦袢ひとつで、仰向けに横たわっていた。
「旦那様に悪いとは思わぬのか?」
その声には何の色もない。
「月にひとつも渡って来ない、薄情なお人に操を立てる気はございませんよ。それに……」
女は意味ありげな流し目を送る。
「犬っころを飼うのは勝手と言われております」
「ふっ……ははは」
男は思わず吹いてしまう。その右手は女の懐の内へと潜り、柔らかい胸乳と戯れていた。女の乳は嵩があり、触れているだけで心安まる。
女はその手を静かに退けると、体を起こして立ち上がる。濡れ縁から庭先へ下りると、肌襦袢を脱ぎ捨て、腰巻きひとつで水を使い始めた。
女の乳を伝い落ちる水の流れを横目に見ながら、男は食い扶持にありつけたことを安堵していた。
情夫というほど惚れられたわけもなく。なれど心張り棒がわりに女の床へと入る。月の半ばは長屋を空けるようになった。
犬っころなればおまんまに選り好みはせぬ。女の握る結びに満足している。
この女、噂に違わぬ好き者と思いきや、煮売り屋にも負けぬ煮付けを拵えたりする。存外よい御新造になり得た女やも知れぬ。
尤も、毎度ありつけるわけでもなく、今日は根深汁と結びのみであった。
「他の犬は飼わぬのか?」
「おや。餅を焼くにはまだまだ早うござんすよ?」
女はそう返すと、艶然と微笑みつつ男の口許についた飯つぶを拾い、己が口へと放り込む。
男は女の情の濃さに搦め捕られた己を知った。
神仏の加護なんぞ願うたこともない男にとり、社の石畳は縁日の賑わいにこそ要るものである。
されど女の稽古の日には、どこぞで畳の目を読まねばならぬ。人も疎らな社は打って付けなのだ。
懐手でぶらりぶらりとしていると、いかにも香具師の配下といった、着流しの目配りの利いた男が寄って来る。
「旦那。ちいとばっかよろしゅうござんすか?」
香具師の腰は低い。なれど振る舞いに隙はない。
「何用」
男は懐手のまま、首のみ香具師のほうへと向ける。
「ええっと……つまり旦那はあの女の情夫なんでございやすか?」
香具師は手揉みしつつ愛想笑いを浮かべながら、単刀直入に問うてきた。
「犬っころだ」
「は?」
さすがに思いもつかぬ返答であったらしい。口を半開きに目を剥いている。
「餌を貰う犬っころよ」
男はそう噛み砕いてやると、袖より手を出し、左手で鞘を捩って寝かせつつ、腰に引き付け力を溜める。下段の抜き打ちの構えを見せたのである。されど親指は刀の鍔に掛かったままであった。
「おおっと、勘弁しておくんなせえ」
香具師は大袈裟に手を振りつつ、大きく二、三歩飛び退いた。
「抜かぬ。抜かぬよ。抜くわけも無し。されど――」
男は香具師に向け笑みを作ると、ゆったりと続けた。
「抜かねばならぬなら、是非も無し」
香具師は顔を引き攣らせつつも尚ねばる。
「旦那の腕っ節を購うには、いかほど入り用で?」
「間におうておる。今は誰にも合力せぬ」
「左様で……」
香具師は身を屈め、愛想笑いを浮かべつつ頭を下げる。なれどその目に笑みは無し。
男は懐手でぶらりぶらりと歩いて行く。その面持ちは曇るばかりであった。
女を狙う輩あり。されど女郎屋にも売れぬ大年増。果たしてどなたの差し金やら。女の旦那か、さもなくば、小唄の弟子の商人辺りかその御新造か。
悋気の焔は恐ろしや。面倒事にならねばよいが。
男は兄弟子の言葉を思い出していた。
『抜いてはならぬ。先に抜かば負けよ。されど抜いたなれば必ず斬りませい』
兄弟子は居合にとり憑かれた男であった。そうして果たし合いに敗れた。
男にはさほどの拘りも無し。抜かねばならぬなら、抜かずばなるまい。躊躇うつもりも無し。
女に確かめねばならぬのは気が進まぬ。なれど備えは入り用と見た。あの香具師の男は侮れぬ。
女は高笑いするのみであった。
「ホホホホ、お前さん、心配かえ?」
女は男にしな垂れかかると、人差し指で男の頬を突く。
「あたしゃ嬉しいんだよう。年下のかあいいお前さんに心配されて……」
そう言うと男に抱き着き、肩に顔を埋める。匂い袋の香りは嫌ではない。されど鬢の香りや女の匂いのほうを好いていた。
床の中の女は臈長けた魔性の生き物であった。その柔らかく豊かな肉置きに埋もれるのは極楽である。
女は男の力強さを悦ぶ。されば男は、ただただのめり込むのみ。床上手な女であった。
我が身に降り懸かる火の粉ならば、ただ一心に振り払うのみ。なれどこの女を狙うのなら、必ず阻止せねばならぬ。
男は女のそばに居続けることにした。稽古の日には後れをとらぬよう庭の隅に隠れている。
女は大層喜び、夫婦のように世話を焼く。さりながら水を使うのを止めぬのは、男の悋気の焔を煽るどこぞの花魁が如し。
ある日、飯屋へと出掛けた帰りのこと。わらべ共の群れ駆け寄りて、男の周りをぐるぐる廻る。
「こらっ。止めぬかっ」
男の声など聞こうとせず、囃し立てつつ輪を作る。女は笑いながら先へ行く。
いかん。
男はわらべ共を蹴散らすと、女の後を追うて角をまがる。やくざ者らしき男二人と揉み合う女の姿。
左手で鞘を握って駆け出す男。鞘をぐいっと押し込むと、右手を刀の柄へと掛ける。そのまま一気に走り込む。
勢いのまま抜かれた刀は袈裟掛けに、やくざ者の背中を斬り下ろす。悲鳴を上げて地べたを転がるのはうっちゃって、刀を上段へと振りかぶりつつ踏み込んだ。
左手が柄を握る。体の力が全て刀へと乗って行く。慌てて踵を返したやくざ者の腰目掛け、さらに踏み込み止め太刀にて振り下ろす。
ざんっと鈍い音とともに、刀はやくざ者の腰の肉を断ち割る。そして切っ先を跳ね上げた。
悲鳴を上げつつ堀へと転げ落ちるのを見送り、取って返すと地べたを這う者を蹴転がす。そうして俯せに踏み付けると、首筋に切っ先を当てた。
「暴れるでない。死ぬるつもりか?」
やくざ者は悲鳴を飲み込むと、がたがたと震え始めた。
日もどっぷり暮れた頃、女の家を訪う者あり。件の目配りの利いた香具師であった。
晒しでぐるぐる巻きのやくざ者を引き据え、男は香具師を招き入れる。女は男の背中に隠れていた。
「旦那。そいつを返しておくんなせえ」
香具師の物言いは剣呑ではない。腰の低さは相も変わらず。
「手を引け。さすれば何事も起こらぬ」
「旦那。あっしにも面子ってもんが……」
香具師はほとほと困り果てたという渋い面持ち。口許に苦い笑みを浮かべている。
こうして改めて見れば中々の色男。なれど目許の厳しさに色気も褪せる。
「おぬしの面子など知ったことか……と思うたが……」
男は静かに話しを進める。
「今度のことは、この女も肝を冷やした。脅しには充分であろう? 落とし処とは思わぬか?」
香具師は口をへの字に歪める。
「これより尚続けると申すなら、町方も、あれもこれもを巻き込んで、思うさま相手になる所存」
男はそう口にした後、半歩踏み出し腰を落とす。左手は鞘を引き付け、右手は既に柄へと掛かっていた。
香具師は飛び退ることはせず、己が手の平をひらひらと顔の前で振って見せる。
「あっしはねえ、旦那。日暮れ刻に、人様の背中から九寸五分を突き立てるくらい朝飯前でさあ。でもね、二本差しと真正直に斬り合いする気はございやせん」
さも呆れたという面持ちのまま、香具師はため息をひとつ吐く。
「こんな年増のどこに惚れたってんで? もそっと増しなのは、いくらでも転がってるってのに。あっしにお世話さして下さいよう」
香具師は鬱憤をぶちまけるように嘆いて見せた。
女は男の背中越しに舌を出し、あかんべえをして見せる。
「おぬしの知ったことか。犬っころは三日餌を貰えば恩は忘れぬ。犬とは左様なもの」
男は取り付く島も無し。
「わかりやした。うちは手を引きやしょう。ねえ旦那、うちの仕事を請けて下さいよう。旦那のような手練れで頃合いをわかっていなさるお人を、手に入れたいんでございやす。そしたら二度と手向かいしやせん」
今度は眉を八の字にして手を合わす。
「取り引きなど無用。縁があれば、な」
男はにやりと笑いつつ、構えを解いてやくざ者の尻を蹴飛ばす。蹴られたやくざはよたよたと、這い蹲って逃げて行く。
香具師は盛大にため息を吐くと、丁寧に頭を下げて去って行った。
女は腕の中に男の頭を抱き、己が胸乳へと押し付ける。そうしてぼそっと呟いた。
「旦那は今日からあたしの情夫。起請文でも要るのかえ?」
「なんだ。犬っころはもうお払い箱か」
男の言葉はすげない。
「ああん、もうっ!」
女はそんな意地悪に苛つき、男の口を無理やり吸いに行く。
男は笑って身を任せた。
その後、未だなんぞあるやも知れぬと思うていた。二日経ち、三日経つ内どうやら香具師は言葉を違えぬとわかった。
女の寝物語によれば、この女には弟がひとりおるらしい。
「まだ一緒に居られたころは、一所懸命に面倒見てやりましたよ。鼻水たらしてようが、泣いてようが構わず。そんな時分もあったんですよう」
男の胸に頬をつけ、女は問わず語りを続ける。
「今じゃもう、生きているやら、死んじまったのやら……お前さんを見てると、弟を見てるようでねえ……つい構っちまうんだよう……」
男は無言で女の肩を抱く。男の胸板は温かいもので濡れていた。
さらに日は過ぎ、ある日大店の御隠居らしき爺の来客あり。座を外そうとする男を呼び止め、心得顔にて語り掛ける。
「ご苦労さんだったねえ。あちらさんには、きついお灸を据えておきましたよ。もう安心してよい」
「それがしはお払い箱ですな」
生真面目に答える男に、爺は笑いながら応じる。
「ほっほっ、そうもいかぬようじゃ。この女の面倒を見てやりなさい」
男は腑に落ちぬ面持ちにて何事かを思案していた。はたと思い当たる節あれば問うてみる。
「次は御隠居様の飼い犬というわけか」
「ほっほっ、まあ、按ずるには及びません」
爺はそう言い残し、手にした扇子を男に押し付け帰って行った。
扇子の柄は茄子である。
「うまそうだ」
「お前さん、お浸しでも食べに行こうよう」
女は男の腕を抱え込み、抱き寄せると、嬉しそうに微笑んだ。