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染殿后の物語(その2)および染殿内侍の物語

 峯雄はまず、式家に連なる刀鍛冶かたなかじを探すことから始めました。けれども平城上皇がお亡くなりになられてすでに四十年以上も経っておりましたから、棟梁とうりょうは孫の代にまで移っていました。その上、その孫もその数年前に亡くなっており、縁者は各地の刀鍛冶のもとに散らばってしまっていたそうです。

 峯雄はひとりひとりの刀鍛冶に人を遣わし、安殿あての剣の行方を確かめました。そしてひとりの古老から次のような話しを聞き出しました。

 「わしが刀鍛冶の修行をしておった頃、棟梁様がどなたか貴いお方に頼まれなさって、一振りの剣をきたえておられたことは知っておった。じゃけんど、その鍛冶場かじばには息子の鍛冶師かじししか入れんじゃったから、どんな剣かは知らん。ほかの弟子どもは一切、のぞき見ることさえできんじゃった。

 お二人は夜中に、何やら聞いたこともない奇妙な咒文を唱えながらつちを振っておられた。それに、刀鍛冶が鍛冶場に入る前に身を浄めることは当たり前じゃけんど、あの剣を鍛えておった時の身の浄め方は尋常じゃなかったな。それだけでもあの剣には何かいわくがあるのじゃろうと、儂ら弟子たちは噂をしたもんじゃった。剣は普通なら半年から一年ばかりで仕上がるのじゃが、あの剣には二年以上の時をかけて、念入りに仕上げなさった。

 剣の行方、そんなもんは知らん。儂らが知っておるはずがないじゃろう。剣をたずさえた棟梁様が立派な着物を着て、迎えに来た輿こしに乗って出かけなさって以来、あの剣に関する話しはしてはならんことになっておったんじゃ。

 棟梁様は戻ってきてからは腑抜ふぬけのようになりなさって、すぐに息子に棟梁の座を譲ってしまいなさった。確かにお歳もお歳じゃったが、腕はまだまだ息子よりはるかに上じゃったから、弟子の儂らは不思議に思うたもんじゃった。これでこの鍛冶場も終わりかもしれん、などと不謹慎なことを言う者もおった。

 そうじゃ、そういえばその後一度だけ、あの剣のことを棟梁様の口から聞いたことがあった。棟梁様が病でお倒れなさって、儂がずっと看病していた時のことじゃった。棟梁様は儂に、恨みを籠めるような剣は決して作ってはならん、と言いなさった。あの剣を鍛えたことを深く後悔なさっているご様子じゃったな。それからもう一つ。あの剣を譲られた親王様も、きっと不幸な死を迎えられるだろう、とも言いなさった。

 これ以上のことは儂も知らん。棟梁様の息子も孫も死んでしもうたから、あの剣の行方を知っておる者はもうおらんじゃろう。」

 この話しを聞いた峯雄は、安殿あての剣を譲られた親王とは高岳親王たかおかしんのうどの、と見当をつけました。高岳親王どのは平城上皇の第三皇子だいさんみこで、嵯峨帝の春宮とうぐうになられましたが、薬子くすこ・仲成の事件でその地位を嵯峨帝により廃されていましたので、上皇が安殿の剣を譲るにふさわしい皇子でした。けれどもその後出家されて真如しんにょと名のり、御陵の出火の六年前に、すでに筑紫から唐へ渡っておられました。

 峯雄は真如どのの渡唐記録を調べました。もちろん一介の陰陽師が図書寮ずしょりょうの記録を調べられるはずはありません。良房どのがお力をお貸しになったのです。もしも渡唐記録のなかに安殿あてつるぎおぼしき物が入っていれば、真如どのは帰朝できなかったのですから、この剣を手にすることはできなくなります。けれども安殿の剣の名はありませんでした。

 峯雄は次に、真如どののお子たち、在原善淵ありわらのよしふちどの・安貞やすさだどのご兄弟を調べました。陰陽道のせ物探しの修法での探索や、人を忍ばせての直接の捜索がひそかに行われたのです。それでも安殿の剣を見つけ出すことはできませんでした。そなたの話しにありましたように、安殿の剣は平城上皇の第一皇子阿保親王だいいちみこあぼしんのうどのに譲られていたのですから。そしてこの頃、剣は業平なりひらどのの手に移っていました。 


 業平どのは、阿保親王どのから譲られた剣が安殿あての剣と呼ばれる剣であったことは、ご存知なかったようでした。そしてご存知でなかったことが幸いしたようです。

 峯雄は善淵どの・安貞どのご兄弟が剣をお持ちでなかったことから、次に阿保親王どののお身内を疑いました。阿保親王どのはすでにお亡くなりでしたので、親王どののおふたりの皇子、行平ゆきひらどの・業平どののお屋敷を、善淵・安貞ご兄弟の時と同じように探らせました。修法と、人による直接の捜索を行ったのです。そしてやはり見つけ出すことはできませんでした。

 そなたから業平どのがその剣をお持ちであったことを聞き、最初は不思議に思いました。賀茂峯雄ほどの陰陽師の修法によっても探し出すことができないなど、信じられぬ思いでした。けれどもそなたの話しを聞くうちに納得がいきました。

 当時、業平どののお屋敷には、恒寂法親王こうじゃくほっしんのうどのがいらしたのですね。法親王どのはあらゆる咒から業平どのをお守りするために、お屋敷全体に結界をお張りになっておられたのでしょう。もしも結界が張られていなかったなら、安殿の剣の所在が明らかになり、業平どのもそなたも、峯雄に咒殺されていたかもしれません。

 また業平どののお屋敷に忍び込んだ者たちは、安殿の剣は必ずどこか特別な場所に保管されていると考えたのだと思います。知らぬがゆえに、業平どのはほかの剣と同じように、特別な扱いをせず保管をしていたのです。安殿の剣はごく僅かな人の眼にしか触れられていませんでしたので、どのようなこしらえの剣か、捜索した者たちも知らなかったようです。安殿の剣は質素な拵えでした。それも幸いなことでした。

 結局、賀茂峯雄は安殿の剣を探し出すことはできませんでした。良房どのも剣のことはお諦めになりました。峯雄はその後も探していたようですが、帝ご復活の直前に病を得て、剣の件はそれきりになりました。

 すべてが終わったあと、安殿あての剣は業平どのもとに戻りました。わたくしがお返ししたのです。帝が冥界にお戻りになられた時、わたくしの手に残された剣が安殿の剣だったのです。帝は染殿にお姿をお現しになられる前に、惟喬これたかどのと業平どのが籠もっておられた東寺に赴き、安殿の剣をお持ちになられたそうです。そして帝ご自身がお持ち去りになられたことを業平どのに伝えるため、生前お使いになられておられた扇を残して行かれたのです。業平どのはそのことをすぐに理解されました。そしてすべてを御仏にお預けすることになさったのです。

 業平どのは東寺から、恒寂法親王こうじゃくほっしんのうどのに文をお遣わしになりました。そこには、帝が東寺から剣をお持ち去りになられたこと、帝は全てをご存知でおられること、そしてわたくしのことも含めて帝のさまたげにならぬこと、すべてを御仏にゆだねて一切手出しをせぬこと、などがしたためられていました。

 恒寂法親王どのは、わたくしが帝にお会いするため庭に降りていくことをお引止めになりました。けれどもその直後に届きました業平どのからの文をご覧になり、それからはもうすべてを黙ってご覧になっておられるばかりでした。


 帝のご復活の前、良房どのがわたくしを守るためにと金剛山の聖人しょうにんをお連れになった時、わたくしは金剛山の聖人が恒寂法親王どのだったことはもちろん知りませんでした。良房どのは、大天狗に続いて鬼がこの世に現れ、わたくしに害をなすおそれがあるゆえ、わたくしを守るために金剛山の聖人をわたくしのそばに置く、と仰せでした。大天狗がわたくしに憑りついたとき、聖人はわたくしのために働いてくれておりましたので、傍にいさせることに不安はありませんでしたが、真済どののときと同じように、再び修法での闘いがあるのかと、それだけが心配でした。良房どのの仰せの鬼とは文徳帝のこととわかっていたからです。

 魔界からご復活をなさるほどのお力をお持ちの帝が、金剛山の聖人に修法争いで敗れるとは思っていませんでしたが、大天狗から救ってくれた聖人が争いの中で傷つくことも気がかりでした。けれども帝は、金剛山の聖人が恒寂法親王どのであることを、すでに魔界でご存知でした。わたくしの夢の中で帝がお話しになられておられたお方は、やはり法親王どのだったのです。

 帝が東寺から安殿あての剣をお持ち去りになられたのは、業平どのや法親王どのとの無益な争いを避けるためでした。

 帝がご復活をされた夜、帝とわたくしは様々な多くの物語をいたしました。その中で、帝は安殿の剣をお手になさりながら、このようなお話しをしてくださいました。

 「私には皇統を正すという、皇位に就いたものとしての使命がある。良房や、良房のはかりごとに加担した者たちは許せぬ。ちゅうさねばならぬ。誅したとて、動いてしまった時を元に戻すことはできぬが、それでも狂いゆく時を遅らせることができる。そしてそのような私の心を理解する者は、たとえ少しばかりのあやまちがあろうとも、私は許す。恒貞つねさだ業平なりひらたちだ。

 私が東寺からこの安殿の剣を持ち去ったのは、あの者たちとの無益な闘いを避けるため。そなたは知らぬであろうが、この剣には祖父嵯峨上皇を初め、上皇に連なる血筋の者たちへのしゅが、平城上皇と藤原式家により籠められている。

 平城上皇は嵯峨帝さがのみかどに皇位を譲る際、第一皇子阿保だいいちみこあぼ春宮とうぐうにせず、第三皇子高岳だいさんみこたかおかを春宮に立てた。上皇は高岳が時の嵯峨帝によっていずれ廃されると考えていたのだ。そして病がえ、自らの重祚ちょうそがなった時には、第一皇子の阿保をあらためて春宮に立てるつもりだった。しかし重祚の企ては失敗に終わり、高岳は廃され、阿保も大宰府だざいふに流された。

 平城上皇は、阿保あぼが都に戻ることを願いながら、同時に嵯峨帝への恨みをつのらせ、この剣を作らせた。阿保が許されて都に戻った時、この剣を持って再び重祚を企てる計画だったのだ。しかし天長元年七月、上皇は阿保が許されぬままに果てた。阿保が許されて都へ戻ったのはそのひと月後のこと。阿保が入京を許されるのは上皇の死後と定められていたのだ。

 都に戻ると、阿保はすぐに上皇のみささぎに参拝した。そしてその場で安殿あてつるぎを上皇の形見として受け取った。健岑こわみね逸勢はやなり、また藤原式家を中心とした平城上皇に心を寄せる者たちは、阿保がこの剣を手にして嵯峨帝、当時すでに淳和帝じゅんなのみかどに皇位を譲っていたゆえ上皇ということになるが、嵯峨上皇に立ち向かうものと考えた。しかし阿保はもう血気盛んな若者ではなかった。良房を棟梁とうりょうと仰ぐ北家には、健岑・逸勢や式家の力では立ち向かえぬことを知っていた。阿保は嘉智子太皇太后かちこだいこうたいごうにただちに書状をしたため、謀反むほんの全容を報告した。これにより、北家を快く思わぬ者たちは良房によって都から追放された。そして阿保は、同じ北家でありながら良房と対立して謀反に加わり、捕えられて山城に幽閉されていた愛発あらちの密命によって毒殺された。

 阿保にとって安殿あての剣は危険な咒物だった。嵯峨帝の皇統への咒が籠められていることを知っている者はごくわずかであったが、それでもそのことが公になれば、謀反の心ありとしてちゅうされる。さりとて父上皇の形見であるゆえ、破棄もできぬ。そこで阿保は、子供たちの臣への降下の際に、平城上皇から記念にたまわった剣として業平なりひらに譲った。

 本来ならば兄行平ゆきひらに譲るべきものであるが、行平は平城上皇に連なるものでありながら、朝廷でそれなりに出世をしていた。行平が安殿の剣を持っていては皇統に災いをもたらすおそれがあると考えた阿保は、朝廷からうとんじられている業平に譲った。何も知らぬ業平が持っていれば、皇統に災いをもたらすことはないと考えたからだ。

 しかし私が復活を果たす直前、業平はこの剣を持ちだした。そなたを守るためとはいえ、私に対抗するための武器となったのだ。このままでは業平をたおさねばならなくなる。業平なりひらはそなたや惟喬これたかを守るために働いていた。私は恒貞つねさだや業平の命を奪うことは避けたかった。それでこの剣を東寺から持ち去ったのだ。こうすれば業平は私の意を汲み、恒貞にも私に逆らわぬよう働きかけると考えた。業平は思い通りに動いた。これで業平の命も恒貞の命も奪わずにすむ。

 そなたを守るためにこれからも働いてくれるであろう者たちを残すことができたのだ。」 

 わたくしは帝のこのようなお心づかいをとてもうれしく思いました。また恒寂法親王こうじゃくほっしんのうどのや業平どのが、わたくしのために陰になり日向ひなたになりして働いてくれていたこともあらためて知ることができ、ありがたい気持ちで胸が一杯になりました。


 帝がご復活をされた夜のことは、法親王どのの文や内侍ないしの話とは少し違っています。わたくしが染殿そめどのの庭に降り立った時、帝はおひとりでした。辺りには誰もおらず、ひっそりとしていました。部屋におりました時には家人や女官の声が聞こえておりましたが、渡殿わたどのを小走りに抜ける頃には、物音は聞こえなくなっていたように思います。

 帝はわたくしの姿をお認めになられると、真っ直ぐにわたくしをご覧になり、微笑ほほえんでおられました。お亡くなりになられた時のままのお若さで、少しも変わらずお美しく、また気高くお立ちになられておられました。糸のようにほそい月と夜空いっぱいの星が放つ銀色の光を浴びて、帝ご自身も銀色に輝いておられました。いいえ、帝ご自身が、月の光そのもののように輝いておられたのです。そしてわたくしの足元から帝のお足元まで、黄金色に輝く敷物が敷かれていました。

 帝のお傍に駆け寄ろうとしますと、透明な、少し粘りのある薄い膜のようなものがかすかにわたくしを押し返すように感じました。わたくしはかまわず帝のお傍に駆け寄りました。膜を突き抜けますと、わたくし自身も帝と同じように銀色に輝き始めました。そしてその瞬間、帝とお別れした頃の若さを取り戻したのです。

 帝の周りは、銀の星屑を散らしたようにきらめいていました。

 ようやくお会いできたという喜びと、お別れしていた時の寂しさが一気にこみ上げてきて、涙があふれました。帝の胸にすがり付いて、わたくしは子供のように泣いていました。帝は優しくわたくしの肩を抱いてくださいました。お身体からはめた香が馥郁ふくいくと漂っていました。帝のお好きな、帝のみがお使いになれる、蘭奢待らんじゃたいの香りです。わたくしはその香りを胸いっぱいに吸い込みました。体の隅々にまで帝が染みこんでくる気がしました。わたくしは泣きながら、帝にもっと近づきたい、と切なくなるほど感じました。

 帝が染殿にお渡りになられるときにご使用になっておられた御寝所に、わたくしは帝をお連れしました。御寝所にお入りになられても、帝はやはり銀色に輝いておられました。身におまといになられておられた直衣のうしに触れると、水面みなもに月の光が反射するように細かい銀の粒が辺りに舞い、その銀の粒が後光のようにきらめきました。お召し物をお解きするのももどかしく、わたくしは早く帝のお肌に触れたい、と強く思いました。

 信じられぬほどの張りを取り戻していたわたくしのふたつの乳房が、帝のお体の重みをね返していました。

 わたくしは帝のお体の隅々にまで唇を添わせ、帝のお体から立ち上る香りを味わいました。それほどに帝のお体のすべてから、蘭奢待らんじゃたいの香りが溢れていたのです。

 帝は何度も何度もわたくしの中に入ってこられました。そのうちにわたくしの体からも、蘭奢待の香りが立ち上るようになりました。

 わたくしは帝と自分の区別さえできなくなっていました。帝がわたくしの中にお入りになられておられるのか、わたくしが帝のお体の中に包まれているのか、わからなくなっていたのです。わたくしは帝とひとつになっていると、ただ感じるだけでした。

 丸三日の間、帝とわたくしはほんのわずかな時間まどろむことはあっても、眠りに就くことはありませんでした。触れ合い、むつみあい、語り合うことが再会のあかしだったのです。わたくしは帝のお肌のぬくもりをいつまでも感じていたかったのです。

 そして四日目の朝、帝は身支度を整え、御寝所をあとになさいました。

 「私は出かけねばならぬ。いよいよ為すべきことを為す日が来た。

 世の者は黄泉返った私を鬼と呼ぶ。そうだ、私はこれから鬼にならねばならぬ。そなたにも悲しい思いをさせることになろう。許せ。しかし私は為さねばならぬ。世を正さねばならぬ。

 良房を地獄に落とすことはせぬ。誤りを犯したとはいえ、良房にも一条のことわりはある。その一条の理ゆえに良房も救われる。それだけはそなたに約束をしよう。

 私の動きのさまたげにならぬよう、安殿あての剣はそなたに預ける。私が戻るまで誰の眼にも触れさせてはならぬ。」 

 流れる涙もそのままに、わたくしはただうなずくだけでした。帝は蘭奢待の香りをお残しになられ、立ち昇る香煙が宙に溶け入るように去ってお行きになられました。


 帝のおいでにならない御寝所で、わたくしは不安な日々を、ただひたすら御仏に祈りを捧げて過ごしました。

 良房どののために帝はお命を奪われたのですから、良房どのもまた帝にお命を奪われることになるのは致し方のないこととも思っていましたが、それでも、それはわたくしにとって辛いことでした。帝をお慕いする心と父を思う心に引き裂かれ、わたくしは御仏におすがりするよりほか何もできませんでした。

 鴨継かもつぐが内裏の屋根の上で見出されたことが伝わってきたのは、数日のちのことでした。鴨継が帝に毒を盛っていたことはすでに御寝所で帝からお聞きしていましたので、鴨継の死については何の感興も湧きませんでしたが、その死の様子を耳にしたときには、良房どのもこのような凄惨せいさんなお亡くなり方をなさるのかと思い、全身の血が頭に流れ込むような痛みと苦しさを覚えました。

 その後、鴨継の家族の狂い死にの様子が伝わりました。虚空に向かい「太政大臣様のお言葉には逆らえませぬ。お許しください。」と髪を振り乱して叫びながら、小太刀で家の者たちを次々に刺し殺していったとのことでした。


 良房どののご体調が急変したのは、帝が御寝所を離れて七日後の宵のことでした。

 内侍の話の中に、良房どののお部屋にあった大黒天像に火が現れ、さらに部屋が火に包まれたとありましたが、帝ご復活の直前には、良房どののお体そのものが火に包まれたのです。焼け死ぬかとお思いになったそうですが、家人が駆けつけるとたちまち火は消え、お体にも火傷の痕など見受けられませんでした。

 良房どのはその後、ひそかに藤原の菩提寺ぼだいじである興福寺にお移りになりました。そして時折染殿にお戻りになっていました。興福寺ならば鎌足かまたりさまを初めとするご先祖のお力で、帝から守っていただけるのでは、とお考えだったようです。確かに興福寺では良房どのも火に包まれることはなかったようでした。

 帝が染殿にご出現されたのは、良房どのが興福寺から染殿にお戻りだった時です。おそらく帝はそうしたことすべてをご存知でいらしたのでしょう。良房どのとわたくしが染殿にいる時を見計らってご復活をされたのです。

 興福寺に戻ることもできず、良房どのは染殿の一室にお籠もりになりました。部屋の周りには多くの僧を配し、魔を退散させる修法をさせておいででした。三日後の朝、帝のお姿が染殿から見えなくなりました時、良房どのは修法が効験こうげんを現したとお考えになりました。鴨継の死は実際に手を下した者への帝のご成敗で、修法の力で守られているご自分にはたとえ帝でも手をお出しにはなれない、とお考えだったようです。そして僧たちに、さらに一層修法に精を出すように、と仰せでした。

 ところが七日目の宵、急に良房どののお苦しみが始まったのです。召し上がった物はすべて血とともに戻し、耳や鼻からの出血もおびただしいものでした。お召し物は血で真っ赤に染まり、敷物まで赤く染まりました。お体から放たれる熱はお傍に近づけないほど高く、見る見るうちに衰弱していかれました。度々水をご所望になりましたが、水さえ喉を通らないご様子でした。

 熱におかされておられたのでしょうか、頻繁に譫言うわごとつぶやいておられました。

 「道康親王、私にとって親王は・・・

 惟仁親王これひとしんのうのみが帝の・・・。

 なにゆえおわかりになられませぬか。私は帝の・・・

 円仁えんにん、そちは業平なりひら・・・

 恵亮えりょうは捨て・・・

 ならぬ、帝の・・・

 これがまつりごとつかさどる者にとって・・・」

 数日の間高熱が続き、良房どののお体に痙攣けいれんが始まりました。そして痙攣の始まった翌朝、苦しみの中で息を引き取りました。覚悟はしておりましたが、父を失った悲しみはそれ以上のものでした。地獄に堕ちることはないという帝のお言葉だけが、わたくしのただひとつの救いでした。


 帝が再びわたくしのもとにお戻りになられたのは、良房どのが亡くなられて二日後の夕方のことです。

 帝のお姿をお見かけしても、悲しみはえることはありませんでした。帝はそのようなわたくしを黙って抱いていてくださいました。帝から死をたまわった父良房どの。けれどもわたくしの中に、悲しみはありましたが、帝をお恨みする心は生まれませんでした。

 父の死の辛さから逃れるように、わたくしは帝のお肌に唇を寄せました。

 蘭奢待らんじゃたいの香りが優しくわたくしを包み込みました。

 蘭奢待はわたくしの首筋から両の乳房へゆっくりと流れ、背中を這い、脇を撫でながら再び乳房へと戻ってきました。

 何度もそれが繰り返されるうちに、わたくしは虚空に身体が浮かび上がっていくような気持ちになり、体の奥がふっくらと暖かくなってきました。

 蘭奢待はゆっくり、優しく、わたくしのなかに入ってきました。わたくしは喜びと幸せと、そして安心に満たされていました。父の死をも受け入れられる気がしました。

 どれほどの時が経ったのか、帝が庭へ出ようと仰せになられました。わたくしが身支度を整えようとすると帝は、そのままでよい、と仰せになられ、ご自身もそのままのお姿で庭に向かわれました。

 帝のお傍に付き従って庭に面した渡殿わたどのに参りますと、外はもう夕暮れでした。ほぼ一昼夜御寝所に籠もっていたことになります。築垣ついがきの近くの紅葉したかえでに夕陽が射し、真っ赤に輝いていました。

 屋敷のなかにも庭にも人の気配は感じられず、静まり返っていました。どこからか二枚の真っ白なはたが風に舞いながら飛んできて、楓の枝にふわりと落ちました。帝はうなづきながらそれをご覧になられ、その樹の下に向かわれました。

 樹の下の落ち葉は綿を敷き詰めたように柔らかく、帝とわたくしは並んでその上に横たわったのです。蘭奢待らんじゃたいの香りが再び立ち上り始めました。香りは風に流されることなく、帝とわたくしの周りに漂っていました。とても濃い香りでした。

 帝はわたくしの体に優しくお触れになられ、わたくしもまた帝に触れました。御寝所と違い、夕陽を見ながら帝と触れ合っていましたので、わたくしの気持ちはいっそう広々としたものでした。帝がわたくしの中に入ってこられた時も、わたくしは月や星を胎内に抱える大日如来さまになったような心持ちでした。確かにそう感じたのです。帝が小さな星になってわたくしの体の隅々にまで染みこんでこられた、と感じられた瞬間が何度もありました。

 全身で帝を感じながら、わたくしはもう二度と帝とお別れしたくないと思いました。帝が冥界めいかいにお戻りになられるのなら、わたくしも必ずご一緒しようと心に決めたのです。どのようなところでも、帝とともに過ごせるのならば耐えられると思えたのです。

 蘭奢待がわたくしの体から抜けていくと、帝はわたくしの耳にお口を寄せて、舞を舞うよう仰せになられました。帝のお好きな『迦陵頻かりょうびん』です。

 わたくしは帝から身を離して立ち上がると、かえでの枝に掛かっていたはたを身にまとい、『迦陵頻』を舞いました。空のかなたから『迦陵頻』の楽曲が聴こえてきました。わたくしは舞はあまり得手えてではなかったのですが、その時はまるで舞人になったかのように、軽やかに舞えたのです。

 途中から帝も加わってくださいました。お立ち上がりになり、純白の幡を肩にお掛けになられたその時から、帝は天人のお姿にご変身をなさり、純白のすそを長く引いておられました。

 ふたりは中空に浮かび、近づいたり遠のいたりを何度も繰り返しながら舞い続けました。ふたりだけの世界でした。帝にじっと見つめられ、普段は帝を見つめるなどはばかられるのですが、この時ばかりは、帝のお顔やお姿を、心ゆくまで眺めさせていただきました。

 やがて天空の雲の上に、楽器を奏している者たちの姿が現れました。つづみを打っていたのは良房どのでした。わたくしたちふたりを見ながら、天人たちに交じって楽しそうに、踊るように、鼓を打っておいででした。満面の笑み。この言葉がこれほどあてはまる笑顔は、この時のほかに知りません。帝のお言葉通り、父は天人に生まれ変わっていたのです。あれほど幸せそうな、楽しそうな父を見たのは、初めてのことでした。

 

 曲が終わり、奏者たちの姿が消え、帝とわたくしは再び地上に降り立ちました。

 帝は何もおっしゃらず、少し離れてわたくしの前にお立ちでした。わたくしが帝のお傍に寄ろうとすると、わずかにお顔を横にお振りになられて、わたくしを拒絶なさいました。わたくしは不安になり、思わずこのように申し上げました。

 「道康さま、わたくしはもうお待ちするのは嫌でございます。このままいつまでもご一緒しとう存じます。道康さまが冥界にお戻りになられるのなら、わたくしもお供しとうございます。どのようなところであろうとも、道康さまとご一緒ならば辛くはございません。

 惟仁どのはすでに帝としてお立ちですし、惟喬どのもすでに出家され、修行に専念されておいでとのこと。道康さまが望んでおられた世ではないかもしれませぬが、それでも世は治まっております。わたくしのなすべきことはもうありませぬ。

 道康さまがおいでにならない世に、わたくしひとりをお残しにならないでください。どうぞわたくしも連れて行ってくださいませ。」

 帝は少し悲しそうなお顔をなさいましたが、それでもきっぱりとこのようにお話しになられました。

 「ならぬ。そのように思ったこともあったが、しかし、そなたのこの世での仕事はまだ終わってはおらぬ。そなたが惟喬のために力を尽くしてくれたことを私も今は知っている。心から嬉しく思う。だが惟喬にはまだ危険が迫っている。それを避ける手立てを講じられるのはそなただけだ。もう少しこの世に残り、二人を見守ってやってほしい。恒貞と業平は必ずそなたの力になるであろう。

 私は真済しんぜいを連れて魔界へ戻る。そなたがこの世を去る時が来たならば、必ずそなたを迎えに来よう。私の魂魄こんぱくは常にそなたの傍にいる。」

 お話しの途中から、帝のお姿は少しずつはかなく、透明になってきておられました。お別れせねばならぬ時が再び訪れたと思うと、わたくしの心の臓は息もできぬほど速く打ち始めました。

 帝はじっとわたくしの眼を見つめながら、安殿あての剣をわたくしにお渡しになられたのです。剣がわたくしの手に渡った瞬間、帝のお姿は消えてしまいました。そしてわたくしは意識を失いました。

 

 帝と再びお会いした時のことを、わたくしは今でもすべて覚えています。帝がご復活をなさいましたとき、人々は帝を文徳鬼もんとくきと呼んでいましたが、わたくしには鬼には見えませんでした。生前のお姿そのままだったのです。

 ただひとつ不思議だったのは、わたくしが帝とともにおりました時、辺りに人の気配が全く感じられなかったことです。御寝所に籠もっていました時も、その前に大天狗がいたそうですが、その気配すらありませんでした。本当に帝とふたりきりだったのです。

 わたくしにとって、あの思い出は何事にも代えがたい大切なものです。あの事件についてわたくしに語る者がいなかったことを幸いに、わたくしは帝との思い出を胸の中にしまっておいたのです。誰かに話しをすれば、帝との思い出がけがれるように思えました。けれども内侍ないし恒寂法親王こうじゃくほっしんのうどの、業平なりひらどのがわたくしのために力を尽くしてくれたことをあらためて知り、そなたに話す気持ちになりました。

 今は法親王どのも業平どのもお亡くなりになり、語り合う相手は内侍だけになってしまったのですね。

 業平どのがお亡くなりになった時は辛かったでしょう。ともに暮らす約束をしながら、それが叶わなかった内侍の気持ちを思うと・・・。

 業平どのもどれほど内侍に傍にいてほしかったことでしょう。内侍が連れ去られ、もしかするともう命も奪われているかもしれないと思い、生きる気力を奪われてしまったのかもしれませんね。業平どのは本当にお心のお優しい方でしたから。

 わたくしも幼い頃、業平どのとご縁がありました。文などを交わしたこともあったのです。良房どのにわたくしを入内じゅだいさせるお気持ちがおありだったため、業平どのとはそれきりになってしまいましたが、わたくしにとってそれはとても懐かしい思い出になっています。そしてその業平どのと縁の深かった内侍とこうして語り合うことができ、これはお亡くなりになられた方々のお引き合わせなのでしょう。

 恒寂法親王どのと業平どのとはお歳も近く、やはり幼いころからご交流がおありでした。法親王どのが恒貞親王つねさだしんのうとして春宮とうぐうにお立ちでいらした頃、平城上皇へいぜいじょうこうの御孫でいらした業平どのは宮中の様子もよくご存知で、心からご心配をなさっておいででした。

 恒寂法親王どのは嵯峨帝の皇女正子内親王と嵯峨帝の弟君淳和帝との間にお生まれになられた皇子でしたから、仁明帝にんみょうのみかどの春宮にお立ちの当初から、その地位は不安定なものだったそうです。仁明帝も五条后ごじょうのきさいさまも、そしておそらく良房どのも、仁明帝の第一皇子道康さまを春宮にとお望みでした。そのようないきさつがあったので、承和じょうわの変事で法親王どのが廃太子となったのは良房どのの陰謀によるもの、との噂が立ったのでしょう。本当のところはわたくしにもわかりません。

 けれども、恒貞親王に対して、宮中で不穏な動きがあったことは事実だったようです。それを感じ取っておられた業平どのは、親王に春宮辞退の奏上をするように勧めておられました。そして親王ご自身も、何度もご辞退の奏上文を提出しておられたそうです。

 承和の変事ののち恒貞親王が春宮を廃され、道康さまが春宮にお立ちになられたとき、親王はわざわざ春宮御所にお越しになられてねぎらいのお言葉をかけられたそうです。

 「道康殿、良かった。道康殿が春宮にお立ちになること、これが本来のあるべき姿なのです。

 当時、祖父嵯峨上皇と父淳和帝との間の、ある密約により私が春宮に立ちましたが、私は次第に、自分の中に皇位に就く資質があるとは思えなくなっていたのです。けれども道康殿にはきっとありましょう。 

 先頃の変事で春宮を廃されましたが、私があの出来事に本当に関わっていると思っている者は宮中にはいないでしょう。罪に問われることもありますまい。これで私は安心して、好きなように生きていけると思っています。 

 いずれ落ち着いたら、私は出家しようと思っています。御仏に仕えることが、私には最も身に相応ふさわしい生き方だと思われるのです。 

 春宮に立つ一年か二年前、空海が入滅にゅうめつする数年前のことですが、私は嵯峨離宮にて空海に会いました。その時私は幼心にも、空海のように生きたい、と思いました。淳和帝の子であり、嵯峨上皇の孫として厳しくしつけられていた私は、現世にとらわれず、自分の信ずる道を真っ直ぐに見つめて歩いている空海を、うらやましく思いました。

 その思いは今なお変わらない。やはり私には春宮、ましてや皇位に就くなど似合わないのです。どこまで空海に近づけるかはわかりませんが、空海の跡を辿って国中を歩いてみようと思います。

 けれども道康殿、あなたは帝になられるべきお方。くれぐれも身の周りにお気を付けください。

 平城上皇・嵯峨上皇・淳和上皇のお三方はご兄弟とはいえ、それぞれお考えが違っておられた。

 平城上皇の皇子高岳親王みこたかおかしんのう薬子くすこの変事で、また淳和上皇の子である私は嵯峨上皇崩御ののち、この度の変事で春宮を廃されました。道康殿には父帝の仁明帝にんみょうのみかどがご健在でおられますし、また良房という後ろ盾がおり、力になってくれましょうが、くれぐれもご用心なさいますように。今は全ての者が自分の利のために動いています。帝をさえも利用しようとする。

 いつの日か、私のような者の力でも必要になるかもしれません。その時には遠慮なくお声をおかけください。いずこにおりましょうとも、道康殿のために必ず駆けつけましょう。」

 法親王どのは六年後に落飾らくしょくされ、修行のために都を離れられたので、そののち帝とはついにお会いになることはありませんでした。それでも、この度の事件でもそのお言葉を忘れず、あのようにお力を尽くしてくださいました。


 わたくしは帝のお言いつけ通り、帝になられた惟仁どのと、出家されて素覚法親王そかくほっしんのうとなられた惟喬どのをずっと見守っていました。特に惟喬どのには、帝から命の危険があると伝えられておりましたので、信頼のできる臣をひとり、惟喬どのの用人としてつけていました。けれどもその者も小野の里で亡くなりました。業平どのが惟喬どののご遺体として村人の亡骸なきがら荼毘だびに付していた時、それを確認しようとした基経どのの家来衆を止めようとして切り殺されたのです。

 業平どのから、惟喬どのは近江おうみ小椋村おぐらむらに逃げ落ちられたと伺いましたが、それ以降消息が途絶えてしまいました。人をるなど手を尽くしてお探ししたのですが、ご存命でおられるのか、その手掛かりさえつかめません。

 良房どのが惟喬どのの立太子をお認めになっていれば、法親王どのや業平どの、また内侍ないしにも、このような苦労をかけることはなかったでしょう。内侍は命を狙われることもなく、業平どのとともに幸せな暮らしをしていたに違いありません。多くの人が命を落すこともなかったでしょうに。

 内侍、わたくしはこれまで帝の供養くようのみを考えてきました。けれどもこれからは、あの事件に関わったすべての人々への供養をしたいと思います。恒寂法親王こうじゃくほっしんのうどのがお亡くなりになられた今、内侍も大覚寺を引き払い、この染殿でわたくしとともに暮らしませぬか。ふたりで、お亡くなりになられた方々の思い出など語り合いながら供養をしたいのです。心にいつまでもとどめておくこと、それが何よりの供養になると思うのです。




       終の章 (染殿内侍の物語)


 染殿后そめどののきさいさま、后さまがお亡くなりになられて二年、三回忌の法要の日となりました。早いものでございます。今でも「内侍、内侍、」とわたくしを呼びながらお部屋に入っておいでのような気がいたします。染殿にわたくしをお招きくださいまして、本当にわたくしは幸せでございました。生涯でもっとも穏やかな、そして豊かな時を過ごさせていただきました。

 今年は業平さまの二十三回忌にも当たります。お亡くなりになられた日もたったの五日違い。わたくしも六十一になり、そろそろおふたりのお傍に行くことができそうです。

 今年になっていろいろなことがありました。惟喬親王さまのご消息もわかりました。

 先日、都の通りを歩いておりますと、器の市がたっておりました。そのなかのひとつの店の奥に、守り札が貼ってあったのでございます。その札には菊のご紋がされておりました。山の民はしばしば帝に連なる血筋を称することがありますので、この札もそうしたものと思いましたが、何か気になるので店の主に尋ねてみたのです。すると最初は言葉を濁していたのですが、誰にも言わぬという約束でこのようなことを話してくれました。

 実はこのお札は帝のお血筋に連なるある高貴な僧のお札で、そのお方はおよそ三十年前に自分の村である小椋おぐらに住みつかれた、というのです。三十年前といえば、業平さまが親王さまのご遺体と称して村人の亡骸なきがら荼毘だびに付され、また業平さまのご提案で親王さまが小椋村へ落ちていかれたころでございます。

 わたくしの心は騒ぎました。そのお方のお顔立ちやお姿を詳しく話すように申しましたが、主も子供のころのことゆえよく覚えていないと言うのです。何かひとつでも覚えていることはないかとさらに尋ねますと、その僧が村に来てから何度か都の侍が誰かを探して村にやってきたと言います。

 村人たちはその度に僧を深い山の奥にかくまい、その折、自分の父親がそのお方を〝すがくさま″とか〝そかくさま″とかお呼びしていたとのこと。間違いないと思いました。けれども、そのお方は今も小椋村におられるのかと尋ねますと、今から五年前にお亡くなりになられたと聞いているとのこと。后さまがお亡くなりになられる三年前。御年五十四歳におなりですから、天寿を全うされたと言えましょう。基経さまがお亡くなりになられたあとまでご存命でいらしたのです。染殿后さまのお祈りのお蔭だと思います。静子さまとのお約束も果たせたことになります。本当にようございました。静子さまも空の上でさぞお喜びでございましょう。

そ れから、わたくしの体をこのようにした基経さまの側近の若侍、あの者も亡くなっておりました。理由はわかりませぬが、基経さまのお怒りをこうむり、死をたまわったそうにございます。今では恨みも薄れてはおりますが、それでも心が晴れたように思われます。業平さまのお傍に参ります時には、生まれ変わってきれいな体になっていとうございます。

 そうそう、一番大切なことをご報告することを忘れるところでございま

した。

 染殿后さまがお亡くなりになられてしばらくは悲しくて何もできずにおりましたが、ようやく昨年の暮れあたりから、その悲しみにも慣れてきたように思われました。そして今年になってようやく后さまのお部屋の整理をする決心がついたのです。

 后さまの日記や文をひとつひとつ、棚やひつから取り出しては読み

返し、懐かしさに涙をこぼしておりましたそんなある日のことでございます。これまで見かけたことのなかった、螺鈿らでんの美しい文箱ふばこが目に入りました。絹で丁寧ていねいにくるまれ、長櫃ながびつの奥にしまわれておりました文箱でございます。開けてみますと文が入っておりました。染殿后さまと業平さまとの間でお交わしの文でございました。生前染殿后さまが、業平さまとご縁がおありだったとお話しになられておられたのは、このことでございましたのですね。お若い頃のおふたりのこまやかなお心遣いが伝わってまいりました。

 生涯でただひとりの夫であった業平さまと、最後にわたくしを救ってくださった染殿后さまとの間に、このような美しい恋がありましたことを知り、わたくしは嬉しくて涙を零さずにはおられませんでした。染殿后さまと業平さま、そしてわたくしは、やはり強いご縁があったのでございますね。

 文箱から出てまいりましたおふたりのお歌の書かれた文は、今、わたくしの大切な大切な、命よりも大切な宝でございます。わたくしがおふたりのお傍に参ります時には、この文を必ずお持ちいたします。いいえ、もうそれほど先のことではございません。わたくしも早くおふたりのお傍に参りとうございますのですから。

 おふたりにお会いする日が、本当に楽しみでございます。 




                             

                   業平

       筒井づつ井筒にかけしまろがたけ 

             過ぎにけらしな妹見ざるまに



 返し                 明子 


       くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ 

              君ならずして誰かあぐべき




                               (完)



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