尼の物語(その2)
大天狗に再びまみえました時、御門跡さまのお心は澄みきっておられました。すでにお命はお捨てになっておられましたし、少なくとも大天狗と相討ち、とのご決意がおありだったせいでもございます。御門跡さまは、染殿后さまはもちろんのこと、文徳帝も真済さまもどちらもお救いするおつもりでしたが、最後の最後、どうしてもというときには真済さまを諦め、真済さまとともにご自身もお命を捨てて魔界に堕ちるお覚悟をなさっておいででございました。そして染殿后さまのお顔に真済さまの苦悶に満ちたお顔が現れました時、御門跡さまは、これで染殿后さまも帝も、そして真済さまもお救いできる、とご確信をされたのでございます。
けれども御門跡さまが大天狗を魔界に送り返そうとなさいましたとき、御門跡さまに咒を当てられた大天狗が染殿后さまの上に倒れ込み、そのまま染殿后さまを人質にいたしました。御門跡さまはその時即座に、ご自分のお命と引き換えに染殿后さまをお救いするご決心をなさいました。染殿后さまを解き放つならば大威徳明王法を止めてもよい、とお申し出になられたのでございます。そして同時に、もし大天狗とともに魔界に赴くことができれば、そこで帝にご復活をお諦めいただくことができるかもしれない、ともお考えになられたのでございます。
耳まで裂けた口を大きく開けて、大天狗は、実は御門跡さまにこのように語ったのでございます。
「恒貞、承和の変の陰謀によってお前を春宮の地位から引きずりおろし、お前の父淳和の血脈を未来永劫消し去ろうとした良房が憎くはないのか。お前は文徳鬼や乃公の側にいるべき僧なのだ。この明子にしても良房の娘。本来ならば乃公が憑り殺してやりたいが、文徳鬼の寵愛ひとかたならぬゆえ、殺すわけにはいかぬ。だがお前が乃公を滅ぼそうとするなら容赦はせぬ。
乃公は今、この女に咒を送った。乃公が滅びると同時にこの女も死ぬ。楽には死なせぬ。体を巡る血が少しずつ枯れゆき、全身に激痛が走り、悶え死ぬ。魂魄はこの場に残るが、その魂魄も乃公の羂索印で締め付けられている。成仏などさせぬ。枯れ果て萎れ切って、木乃伊のようになった体から逃れることはできぬ。乃公の羂索印の力はお前も知っているとおりだ。そしてその後、お前が結界を解けば、この女の魂魄は即座に魔界に堕ち、燃え尽きる。結界を解かねば、女の魂魄は木乃伊となったおのれの身体に永久に縛り付けられることになる。文徳鬼の思惑とは違ってしまうが、乃公が復活を支えねばいずれ文徳鬼は黄泉返れぬ。この女も不要となる。
どうする。乃公はお前の命などいらぬ。お前の命と引き換えになどせぬ。さあ、今すぐ修法を止めて乃公とこの女を自由にするか、それともこの女もろとも乃公を滅ぼすか。」
御門跡さまは一瞬お迷いになりました。良房さまのお顔も一瞬泛んだそうにございます。この場で大天狗を滅ぼしてしまえば帝のご復活を止められるのです。けれどもそうすれば染殿后さまのお命が奪われる。それも苦しみ悶えてお命が絶えることになるのでございます。
「真済様、染殿后をお放し下さい。真済様が魔界にお戻りになるのなら修法を止め、結界を解き、私が魔界へお供をいたしましょう。私にとって真済様は仏の道の大先達。真済様お一人を送り返そうとは思いませぬ。
争いはこれで終わりにいたしましょう。帝にもお会いしてお話しせねばならぬことがあります。」
御門跡さまはこのようにお話しになり、結界をお解きになりました。すると結界が解かれた途端、大天狗は煙となり、御門跡さまを包み込んだのでございます。そして御門跡さまは闇に引き込まれるように意識を失ってしまわれました。
御門跡さまがお目覚めになられたのは、切り立った高い崖の中ほどの岩棚でございました。周りには同じような切り立った崖を持つ山が、遥か遠くまでいくつも見えておりました。岩棚は畳四枚ほどの広さで、天井は座していなければ頭がつかえるほどの高さしかありませんでした。
周囲は薄暗く、見上げますと、空はどす黒く変色した血の色に染まり、風が崖の下から微かに吹き上げておりましたが、ほかに物音は何も聞こえず、ただただ不気味に静まり返っておりました。そのうちに夜も明けるだろうとお考えになられた御門跡さまは、座して大威徳明王尊と不動明王尊に感謝の祈りを捧げながら、夜明けをお待ちになりました。
一刻ほどもそうしておいででございましたでしょうか、突然狼にも似た唸り声が聞こえてまいりました。空の雲が集まり始め、怒りとも悲しみとも思える表情に満ちたお顔が雲の中に現れたのでございます。文徳帝でございました。御門跡さまはその時、そこが魔界であることにお気づきになられたのでございます。そして不気味な空や景色の理由も、夜が明けるはずのないことも。
帝のお顔はすでに鬼になりかけておいででした。切れ長でお美しかった眼は大きく飛出し、お口には二本の牙がちらりと見えておりました。病気がちでお窶れになられておいででした両の頬も、皮膚の下の力強い筋肉に押し上げられて盛り上がり始めていました。そしてお顔全体が真黒な剛毛に覆われ始めていたのでございます。
帝は低い唸り声を絶えずお漏らしになられながら、御門跡さまを見つめておいででした。
どれほどの時間おふたりが見つめ合っておられましたでしょうか、やがて御門跡さまのお心に帝のお声が届き始めたのでございます。そのお声は生前の帝と同じ、お優しいものでございました。
「恒貞、そなたの言わんとすることは私にはよくわかっている。天狗からも聞いている。愚かなことかもしれぬ。帝の地位にいる者であっても、世の流れに逆らうことはできぬ。それもわかっている。しかし私は、皇統が虚しくなることを認めることはできぬ。
今、帝に世の政を担う力はない。だが帝は、すべての民の心の拠り所なのだ。民の喜びや苦しみのすべてを支えることが帝の役割なのだ。民の喜びをわが喜びとし、民の悲しみや苦しみをわが悲しみとなす。その皇位が虚しくなれば、民は何を拠り所に生きていくのだ。家族を作り、子をなしていく民の幸せを神仏とともに支えることこそが、帝の位に就く者の絶対の使命なのだ。だからこそ、そうした資質を持たぬものが帝の地位を嗣ぐことは許されぬ。
民は皇位に就く者の心は知らぬであろう。誰が皇位を嗣ごうがあずかり知らぬこと。民はそれで良い。だが帝の位に就くものは、民の心を知らぬではすまされぬ。いや、民の心を支える資質を持っておらぬ者が皇位に就くことを、天は許さぬ。そして惟仁にその資質は与えられてはおらぬ。惟仁は神仏に縋ることしかできぬ。それは私には今、はっきりとわかる。
惟喬が帝の位を嗣ぎ、惟仁は仏門に入る。これがあの二人にとっても国にとっても、最も優れたあり方だったのだ。良房は歩むべき道を変えてしまった。
惟喬が皇位に就くことで戦になろうとも、国の将来、民の未来にとっては正しい道なのだ。たとえ戦によって今苦しもうとも、民の心を支える正しい皇統さえ残れば、民は必ず救われる。
政に携わる者は今を見るだけでは済まぬ。今にしか通用せぬ方便で今を乗り越えても、それはのちの世に必ず禍根を残す。私が復活を為そうとする理由もそこにある。
皇統を正さねばならぬ。良房は取り除かれねばならぬ。
そなたや業平は私を魔界から救おうとしている。その心は受け取ろう。だが魔界に堕ちても、私は帝の地位にあった者として、これだけは為さねばならぬ。そのためにこそ、私は魔界に堕ちたのだ。
私はここにきて、生前には知りえなかったことを知ることができた。私はこれから為そうとしていることの結果さえわかっている。それでもなお、いや、だからこそ、私は帝の地位にあった者として、為さねばならぬことを為す。
恒貞、そなたはそなたのいるべき世に戻れ。ここにいてはならぬ。そなたのいるべき世に戻り、そなたが為すべきことを為せ。」
帝のお言葉が終わると同時に、御門跡さまはお目覚めになりました。そこは先程真済さまと修法の争いをした、染殿の東北対にある座敷牢の中でございました。大威徳明王尊の前の香炉からは、まだ香煙が静かに立ち昇っておりました。
染殿后さまは床に伏したまま、いまだご正気に戻られてはおられませんでした。
御門跡さまは染殿后さまのお傍に座し、文徳帝が夢の中でお話になられたことをじっとお考えになりました。帝が鬼となって黄泉返りをされることを止めることはできない、とお覚りにもなられたのでございます。それは良房さまのお命をお守りすることももはやできず、また同時に染殿后さまが帝に連れ去られることをも意味しておりました。
御門跡さまはそれでもなお、それらを防ぐ手立てを必死にお考えになりました。しかしながら、帝が鬼となってご復活をされたなら、そのお力は真済さまとは比べようもないほど大きなものとなられるであろうことは、帝とお会いした御門跡さまにはもうおわかりでございました。
御門跡さまは名案が何も浮かばぬまま、座敷牢を出てお行きになられたのでございます。
円仁さまの入寂という悲しいできごとはございましたが、それでもそれからの何年間かは平穏な日々でございました。大天狗が予言した帝の黄泉返りについても、その兆しが現れませんでしたので、良房さまや良房さまの周りの方々は、すべてが終わったとお考えでございました。
しかしながら御門跡さまは、このままでは必ず帝は黄泉返ると信じておられ、金剛山にお戻りになり、さらに厳しい修行を続けて帝のご復活に備えておられました。
また一方、業平さまは度々良房さまにお会いになり、文徳帝を丁重にご供養なさるようご進言をなさいました。帝の黄泉返りを阻止するには、帝の御霊を鎮める以外に手立てはないとお考えになられておられたからでございます。けれども良房さまは業平さまのご進言を一笑に付し、清和帝の摂政太政大臣として、さらなるご権勢をお振るいになられておられました。
業平さまは、このままでは帝の黄泉返りが現実のものとなり、良房さまの誅殺のみならず、都中が災禍に見舞われるとご懸念されておられました。そして貞観十年秋も半ばのある夜、わたくしは業平さまのもとに呼ばれました。
業平さまはわたくしにこのようにお話しになりました。
「内侍、私は数日のうちに文徳帝の御陵へ出かける。御陵に火を放つのだ。風向きを見ながら近くの林に火をつける。
帝の黄泉返りを阻止するためには、帝への良房様の供養が欠かせぬ。しかし良房様は、法親王殿の努力によって大天狗が染殿から退散したことで、全てが終わったと考えておられる。このままでは帝は必ず御復活なさる。都が火に包まれるやもしれぬ。ここは何としても、大天狗の予言を思い出していただかねばならぬ。帝の御陵に火が現れれば、良房様も否応なしにあの予言を思い出されるはず。
帝の黄泉返りを最も恐れているのは良房様。御陵が火に包まれたと知れば、必ず帝の御復活を信じる。そして帝への供養をなせば、黄泉返りを止められるやもしれぬ。
幸い、私の亡き母、伊都内親王の領地が、旧都長岡の地にある。そこの家人たちを連れて、鷹の訓練と称して御陵の近くに鷹狩に出かける。そこで宵に火を焚いて暖を取り、その火が近くの林に燃え移る。帝の御陵に火を放ったとして責を負うであろうが、そのようなことなど取るに足らぬこと。
私が長岡へ出かけたあと、そなたはこのことを法親王殿に伝えよ。あらかじめ伝えれば、私の身を案じて、法親王殿は必ず反対なさる。構えて私が出かけてからにせよ。」
業平さまが文徳帝と染殿后さまのためにお命を捨てておられることを知り、わたくしは業平さまのために命を捨てる覚悟をいたしました。そしてこのように申し上げたのでございます。
「業平さま、そのお役目、わたくしにお申し付けくださいませ。業平さまのご動向を、良房さまは大層お気になさっておられます。業平さまが都をお離れになられれば、必ずその理由をお探りになられます。
長岡へお入りになり、家人どもを連れて御陵のお近くにおいでになることはできましょう。しかしながら鷹狩には今、朝廷の許可が必要でございます。ましてやそこは御料地。許可なくして行おうとなされば、その時点で捕えられるに違いありません。火を放つことなど覚束ぬと思われます。
良房さまはわたくしのことなどお気になさってはおられませぬゆえ、わたくしが都を離れましてもどなたもお気づきにはなられませぬ。林に火を放つなど、わたくしひとりででもできましょう。またひとりであれば、野守の目を逃れることもたやすくできます。
万が一捕えられましても、業平さまへ類が及ぶことはございませぬ。わたくしと業平さまとのことをご存じなのは御門跡さまなどごくわずか。たとえ野守に捕えられましても、その場で果てますればそれで済むことでございます。業平さまの御身に何かがございますれば、帝のご復活を阻止することはおろか、染殿后さまのご生涯にも大きな障りが出てまいりますでしょう。なにとぞわたくしにお申し付けくださいませ。」
業平さまとわたくしとの間でいくたびか言い争いがございましたが、業平さまは最後にはお許しくださいました。
御陵に向かいましたのは貞観十年葉月二十七日、文徳帝のご命日のことでございます。良房さまに最も衝撃を与えられる日として、業平さまがこの日をお選びになりました。わたくしは人目に立たぬよう物売りになりすまし、都を出て西に向かいました。夜明け前に出立いたしましたゆえ、日の高いうちに御陵の下あたりまでたどり着きました。
この年は天候が不順で夏でも寒く、七月にはもう北からの風が吹き始めておりましたので、山の木々はすでに枯れ果て、無残な骨の姿をさらしておりました。本格的な冬ももう間近と感じられる景色でございました。
野守の目を逃れながら御陵の近くまで参りましたのち、日が落ちるまでと、御陵の北にある林の中に身を潜めたのでございます。山の上から冷たい風が吹き、葉を落とした木々は枝を鳴らしておりました。暖を取ることもできず、低い木の下で風を避けながら、わたくしはじっと夜を待ちました。
粗末な衣服を身に着けただけでございましたので、寒さに全身が強張っておりましたが、それでも辛くはございませんでした。業平さまがお命を賭けてでも成し遂げようとなさっておられるご計画にわたくしも参加しているという思いで心が満たされていたのでございます。いいえ、その時には業平さまのためにはいつでも死ねるとの覚悟もできておりましたし、むしろ幸せな暖かい気分に満たされておりました。
夜になり、辺りが暗くなってまいりましても、野守がいないことを確信できるまで、しばらくの間そこを動きませんでした。帝の御陵の前に参りましたのは、それからさらに一刻ばかり経ったのちのことでございます。御陵の前で手を合わせ、これからわたくしがしようとしておりますことを、帝にお詫びをいたしました。帝と染殿后さまのためとはいえ、帝が眠っておられる御陵に火を放つなどということが許されるとは思えなかったのでございます。
手を合わせたのち、再び林の中に入りました。月明かりを頼りに、風上に当たります場所で辺りに溜まっておりました落ち葉を掻き集め、携えてまいりました油をその上にかけて火を点けました。火はたちまち燃え上がり、風に煽られ、御陵を囲むように燃え広がっていきました。
その時でございます。夜空いっぱいに大天狗の顔が浮かんだのでございます。真済さまでございました。大天狗は大きく口を開け、声もなく笑っておりました。そしてわたくしの頭の中に真済さまの声が聞こえてまいりました。
「よくぞやった内侍。これで文徳鬼の復活は決まった。復活を邪魔立てしようとしている業平とお前の手で道筋がつけられた。お前たちは以前乃公が仕組んだ罠に嵌まったのだ。
墓を燃やし尽すほどの火がなければ、文徳鬼は復活できぬ。そして冥界の住人である乃公は、この世の火は扱えぬ。
この火が墓を辿り、地に潜って魔界の扉を開く。火はこの墓の主であり魔界の王となる文徳鬼のほか、もはや誰にも消せぬ。
帝は間もなく全き鬼となり、この火を辿って黄泉返る。
待っておれ、間もなくだ。」
大天狗はこう言うと、雲が薄れるように消えてしまいました。
御陵を取り囲むように燃え広がっておりました火は、四方八方から御陵の中心にある石塔の頂に一斉に飛び移り、一筋の大きな炎となって夜空高く燃え上がりました。辺り一面が炎を映して真っ赤に染まりました。その姿は、真紅に燃え上がる剣が石塔から立ち上がり、濃い藍色の夜空に突き刺さっているかのようでございました。夢の中の出来事のように美しい光景でございました。そして炎はやがて、石塔の中に吸い込まれていったのでございます。
炎が見えなくなりましたあとの石塔の頂には、童の拳ほどの穴が穿たれておりました。
わたくしが業平さまのお屋敷に戻りましたのは、東の空が少し明るくなった頃でございます。
文徳帝の御陵で起こりましたことを全てお話しいたしますと、業平さまは大きなため息をお吐きになり、肩を落としてこのように呟かれました。
「不覚であった。大天狗にそのような深い企みがあったとは。何もせぬがよかったのか。大天狗の言葉に乗せられたとはいえ、小賢しい真似をしたものだ。
法親王殿にどのようにお話しをすればよいのか。それでもお話しせねばならぬ。お話しをしてこれからのことを考えねばならぬ。」
業平さまはすぐに御門跡さまに文をお遣わしになりました。法親王さまはその日のうちに金剛山をお立ちになり、翌日には業平さまとお会いになりました。はい、わたくしも同席させていただきました。大天狗に謀られたとはいえ、火を放ちましたのはわたくしでございますゆえ、わたくしも何かをせねばという気持ちでいっぱいでございました。わたくしも業平さまのお気持ちと、まったく同じだったのでございます。
業平さまと御門跡さまのお考えは、なかなかまとまりませんでした。御門跡さまはわたくしが火を放ったことをやむを得ない事として何も仰せにはなられませんでしたが、業平さまはご自分の誤りを恥とお感じになられておられたのか、御陵の奥深くに潜った火を消す修法にご執着なさいました。天台ならば、この年の六月に第五代天台座主にお就きになられたばかりの円珍さま。真言なら、聖徳太子の生まれ変わりと称されておりました聖宝さま、とご見当をつけておいででございました。このおふたりのいずれかと御門跡さま、あるいはおふたりと御門跡さまのお三方でならば火を消すことができると、お考えでございました。
しかしながら御門跡さまは、帝のご復活を阻むことはもう誰にもできないとして、染殿后さまをお守りすることに専念するようご主張をなさいました。それは染殿の座敷牢での御門跡さまのご体験に由来するものでございました。また帝の〝為すべきことを為せ〟との仰せは、染殿后さまのために働くように、ということとお考えになられたからでもございます。
おふたりは大天狗の〝間もなく〟という言葉にもずいぶんとお迷いになられておられました。数日とも数か月とも、あるいは数年後とも、どのようにもとれるのでございます。結局帝のご復活にはそれから四年の歳月がかかりましたが、その時のおふたりがそれをお知りになられることはご無理でございました。業平さまは文徳帝の崩御から出火までの時間から考えて数か月、御門跡さまは数日、宿曜に則って七日後とお考えでございました。
御門跡さまはもう日がないと仰せになり、ご自身も真言僧でいらしたので、同じ真言の聖宝さまに事情を話し、おふたりで染殿に赴き、染殿后さまをお守りするとのご決意をお示しになられたのです。そして結局業平さまも日がないことをお認めになり、御門跡さまのお申し出にまずはご同意なさいました。同時に七日後のご復活なき場合は地下の火を消す修法に切り替えることを、御門跡さまにご確認なさいました。御門跡さまはすぐに染殿を訪れ、良房さまにお会いになられたのでございます。
一方、良房さまのご驚愕はひとかたならぬものでございました。燃え上がる炎が夜空に突き刺さっております様を染殿からご覧になられた良房さまのお顔は蒼ざめ、脇の柱を握り締めた手が真っ白になっておられたそうにございます。それは染殿后さまもご存じのことと存じます。
大天狗の予言通り、帝の御陵から、しかも帝のご命日に出火いたしましたのですから、帝のご復活は良房さまの中で揺るぎのない確信となりました。すぐにあちこちの寺に加持・祈祷をお命じになられ、さらに各地の高名な修法僧を染殿にお集めになられて、染殿でも加持・祈祷を盛んに修されたのでございます。しかしながらその加持・祈祷はそれでもまだ、帝の御霊を鎮めるものではなく、ご復活を阻む除魔の修法でございました。
もちろん、もしもその祈りが帝の御霊を鎮めるものであったならご復活を阻むことができたのかどうか、それはわたくしにもわかりません。ただ少なくとも、良房さまのお命はお救いすることができたのではないかと、これは御門跡さまのお言葉でございました。鬼になられ、また大天狗に転生されたおふたりのお心のうちにも、まだ御仏の慈悲の心が残されていると、御門跡さまはお考えだったのでございます。
再び金剛山の聖人に姿を変えた御門跡さまは、良房さまにこのようにお話しになりました。
「太政大臣様、真済の大天狗が予言いたしました通り、文徳帝の御陵に火が現れました。これで帝の御復活は間違いのないものと思われます。帝の御復活の第一の目的は太政大臣様のお命。そしておそらくは染殿后様。帝の御復活がいつであるのか確かなことはわかりません。数日後、あるいは数か月、数年後かもしれません。私は星の巡りから出火の七日後と考えております。
私は幸いにして染殿后さまに憑りついた大天狗を退散させることができました。しかしながら魔界の王として御復活をされる帝のお力は、おそらく大天狗の比ではないと思われます。私の力が及びますかどうか。それでも私はお二人のために力を尽くしたいと思い、ここに参りました。太政大臣様のお許しをいただけますならば、私はすぐにある僧に会い、二人でお二人のための修法をなそうと思います。」
良房さまは金剛山の聖人が染殿を訪れましたことを大変にお喜びになり、すぐに修法を始めるようお言いつけになりました。しかしながら良房さまがご指示をなさいましたその修法は、やはり帝のご復活を阻み、成仏していただくためのものでございました。
金剛山の聖人が、今となってはもう帝のご復活は定められたことで、良房さまと染殿后さまのおふたりをお守りする以外になし得ることはございません、とお話しになりますと、良房さまは大層お怒りになり、ついには金剛山の聖人に修法をなすことをお許しにならず、染殿からお退けになられたのでございます。
業平さまのお屋敷にお戻りになられた御門跡さまは、七日後のご復活ならばもうそれを阻む手立てはないとして、修法はお諦めになりました。そしておひとりででも帝ご復活の際の混乱に乗じて染殿に入り、染殿后さまのお傍で、叶わぬまでも染殿后さまをお守りしようとお考えでございました。帝に殺されるならばそれはそれで良い、と思し召しになられておられたのでございます。
一方、業平さまはご門跡さまがお屋敷にお戻りになられた翌日叡山に登り、円珍さまにお会いになりました。地下に潜りました火を消す修法をあらかじめご依頼なさいますためでございます。
しかしながら業平さまに対する円珍さまのお答えは、このようなものでございました。
「真済の大天狗が染殿に出現してこの方、小僧は文徳帝のお心がいずこにおあしますのか、ずっと気懸りでありました。実は帝がお亡くなりになられて以来、何年にもわたって魔界に咒を送り、帝のお心を探しておりましたのじゃが、しかしその咒はいつも虚しく戻されておりました。何の手掛かりも、何の手触りもなく、咒の先にはただ無限の、広漠とした無が広がるばかりでありました。
ところが、帝のお心はもうどこにもおいでにならぬと諦めかけておりました矢先、帝の御陵が野火に包まれた夜のことでありましたな、魔界から咒が戻されてきよりました。休んでおりました小僧の頭の中に閻魔天の真言〝オン・ヤマラジャ・ウグラビリャ・アガッシャ・ソワカ〟が聞こえてきよったのです。
その声は次第に大きくなり、ついには小僧の全身に響き渡るほどになりよりました。小僧の体は声に圧しつけられ、床から起き上がろうとしても手足の指一本動かせませぬ。しかし床の中でもがいておりますうち突然真言が止み、そしてお懐かしい帝のお声が聞こえてきよりましたのじゃ。
帝は業平殿が小僧をお訪ねなさることも、またその目的もご存知でありました。そして火を消してはならぬと仰せになられましたのじゃ。小僧は護持仏の文殊菩薩様から、魔界に通じる咒を伝えられておりましたから、地下の火を消す修法は存じておりますのじゃ。
しかしのう業平殿、小僧は帝のお心がようわかりますのじゃ。帝がお考えになられておいでなのは、この国の行く末なのじゃよ。小僧にはそうした帝のお心がようわかりますのじゃ。
小僧は生前の帝といくたびも、国の行く末について語りおうておりました。その中で、この世に帝という存在が許されておるのも、帝が国を支え民を支えておるからだと、いつもお話しされておられましたのじゃ。もし国の行く末に誤りが生じると感じたなら、皇位におる者は身を捨ててでも国を正さねばならぬ、とのう。
業平殿、この度の帝の御復活は、そうしたお考えから生じたものだとお思いにはなれませぬかな。小僧にはそう思われますのじゃ。良房様がなされたことは、良房様なりに正しいことじゃったかもしれませぬ。良房様も良房様なりに、政を掌る大臣としてこの国の将来をお考えでござったじゃろう。しかし良房様のお見通しの時間は短すぎたように思いますのじゃ。帝は百年後、千年後の国のあり方をお考えでありました。百年後、千年後の民も幸せでなければならぬとお話しになられておいででしたのじゃ。
もちろん、たとえ帝のお力をもってしても、大日如来様のお決めになられた、国や民の行く末を変えることはできぬこと。それでも小僧は帝の御決心を尊いと思いますのじゃ。
業平殿、そんなわけで、小僧は業平殿の御依頼をお受けすることはできませんのじゃ。申し訳ないと思うております。
しかしながら業平殿、一つお約束をいたしましょう。小僧は帝の御復活についても、御復活のあとにも、帝にお力添えをすることはいたしませぬ。
小僧はこの国の行く末について、大日如来様にお祈りをするばかりであります。」
円珍さまはこのようにお話しをされると業平さまに深く頭をお下げになり、黙って奥に入ってお行きになられたのでございます。
生前文徳帝が深く帰依なさっておられた円珍さまのお力をお借りできず、業平さまは大層落胆なさっておられましたが、それでも、その場から真っ直ぐに東大寺に向かわれました。聖宝さまにお会いするためでございます。
聖宝さまは、先程も申し上げましたが、人々から聖徳太子さまの生まれ変わりと称され、当時はお歳もまだ三十路をいくつか過ぎたばかりでございましたが、そのご法力は世に知らぬ者はないとまで言われたお方でございます。
業平さまは東大寺の別院で聖宝さまとお会いになりました。ところが聖宝さまは驚くべきことを業平さまにお話しになったのでございます。
業平さまは聖宝さまに、文徳帝の御陵が火に包まれた経緯のご説明をなさり、帝のご復活を阻むために聖宝さまのご法力をお貸しくださるようご依頼なさいました。しかしながら聖宝さまは業平さまのお言葉を遮り、このようにお話しになりました。
「業平様がこの僧に何を御依頼なさろうとしておられるのか、それは存じております。しかし私にそれはできませぬ。
数年前、私は師の真雅様のお怒りを蒙り東大寺から追放され、乞食をしながら諸国を巡ったことがございました。そして讃岐に参った時のことでございます。私はそこの小さな寺に逗留しておりました。
讃岐は水に恵まれ、地方と申しましても豊かな土地柄で、また宗祖空海様のお生まれになられたところでもあり、人々の空海様に帰依する心は大変に深い土地柄でございます。修行をしておりました私も、一途に修行に専念できました。
そんなある夜のことでございます。私は六道を巡る夢を見たのでございます。天道から修羅・畜生・餓鬼道を巡り、地獄道にさしかかりました時、そこに冥界を支配しておられる閻魔天様が私をお待ちになられておられました。
閻魔天様は私に、ある童子に引き合わせよう、と仰せになられました。その童子は将来人間界を背負う僧になるべき定めの者、とも仰せになられました。はい、その童子が観賢でございます。そして閻魔天様は観賢を育てさせる代わりに、私に類まれな法力をお授けくださいました。今私がこうしておられますのも、閻魔天様の御守護がありますゆえにございます。私はその閻魔天様に弓を引くようなことはできませぬ。
閻魔天様は修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道といったすべての冥界・魔界を支配されておられます。また文徳帝は魔界で閻魔天様の御眷属になられました。したがって帝に闘いを挑むことは閻魔天様に挑むことでもございます。それはとても私にでき得ることではありませぬ。
むろんのこと、師のお怒りは良房様のお仲立ちにより解けたのでございますから、できうるのならばお力になりたく思いますが、到底私の力の及ぶものではございませぬ。どうかお許しを。」
聖宝さまはこうして業平さまに深く頭をお下げになり、お断りをなさいました。
業平さまにとりまして、円珍さまと聖宝さまは最後の頼みとも言うべきお方でございましたゆえ、おふたりともにお引き受けいただけなかった業平さまは、落胆のあまりお食事も喉を通らぬほどでございました。
それでも業平さまはなお数日の間お屋敷にお籠もりになられ、さらなる手立てをお考えでございました。そしてお屋敷にご滞在なさっておられました御門跡さまに、このようにご提案をなさいました。
「法親王殿、もう手段は残されておりませぬ。染殿后をこの屋敷にお迎えいたしましょう。そして二人で染殿后をお守りするのです。
染殿后がこの屋敷にお入りになられたのち、法親王殿はこの屋敷に結界をお張りください。たとえ帝のお力をもってしても簡単には破れぬほどの強力な結界を。まだ復活には数日残されております。その間にあらゆる修法を用いて、あらゆる仏菩薩のお力をお借りして、結界を幾重にも張り巡らすのです。
単なる時間稼ぎにすぎぬやもしれませぬ。帝のお力がどれほどお強くなられておいでなのかがわかりませぬゆえ、簡単に破られるやもしれませぬ。それでもきっとそれなりの時間はかかりましょう。
また如何に魔界の王といえども、この世に留まることのできる時間は限られているはず。その間耐えられれば染殿后をお守りできる。また冥界・魔界の住人となられておられるのですから、日中はお姿をお隠しになられるはず。一つ二つの結界が破られましても、再び昼に張り直せばよいのです。
ましてや帝には良房様という第一の目的がおありです。まずは染殿に御出現なさるはず。そして染殿にも結界が張られ、また多くの修法僧が控えておりましょう。染殿でも幾日かの時間を取られる。
帝がこの世に留まっておられる時間がどれほどのものなのか、それを知ることはできませぬが、七日か二・七日か、それくらいでございましょう。その間耐え忍べば。
屋敷には私たち兄弟が臣下に下りました折、父阿保親王が平城上皇から賜った剣が一振りございます。法親王殿にその剣に咒を籠めていただき、それを携えて染殿后をお守りいたしましょう。平城上皇は文徳帝の御祖父に当たられる嵯峨帝とは別して不仲でございました。そのことがこの度のことに幸いするやもしれませぬ。」
業平さまは良房さまにこのことを直接お話しなさってもお許しが得られるとはお思いではございませんでしたゆえ、高子さまの時と同じように、染殿后さまを盗み出すお考えでございました。けれども染殿には多くの修法僧が詰めており、お屋敷の周りにも大勢の侍たちが警護に当たっておりましたので、業平さまは染殿に近づくことさえおできにはなれませんでした。夜となく昼となく染殿の様子を窺っておられましたが、結局お諦めになりました。
いよいよ御陵に火が現れて七日目、御門跡さまがお考えでしたその日がやってまいりました。
染殿の周囲には緊張で顔を強張らせた侍たちが、染殿に詰めていた僧によって破魔の咒を籠められた太刀を手にして歩き回っておりました。日が落ち、夕闇が迫ってまいりますと篝火が焚かれ、昼のように明るく照らす中、その緊張はますます昂っていきました。
研ぎ澄まされた空気は、普段は我が物顔で都をうろついております野犬どもでさえ、染殿の近くには寄らないほどでございました。枯葉の落ちる気配、風の音、山奥で鳴く鹿の声、そうしたものを感じたり聞いたりするたびに、侍たちの顔は恐怖と緊張で引き攣りました。
御門跡さまと、剣を携えた業平さまは、宵のうちから染殿の見えるあたりにお出ましになり、一晩中じっと染殿の様子を窺っておられました。何か事が起こればただちにお屋敷の中に駆け込み、染殿后さまのお傍に馳せ参じるおつもりだったのでございます。
しかしながら、夜が更け、寺から後夜の鐘が聞こえるようになりましても、何事も起こる気配はございませんでした。そして晨朝の鐘が鳴り、そのまま夜が明けてしまったのでございます。業平さまにも御門跡さまにも、そして染殿の皆様方にも安堵の色が見えました。
良房さまは一睡もなさらず夜をお過ごしになり、お疲れだったのでございましょう、日が昇りましたのち御寝所にお入りになりました。そしてふと櫃の上に置かれておりました大黒天の像に目を遣りますと、普段は笑顔をなさっておられる大黒天のお顔が憤怒の形相に変わっており、またその全身から激しく炎が立ち上がっていたのでございます。
良房さまは大声で人をお呼びになりましたが、その者たちがお部屋に入りますと、炎は消え何事もなかったかのように大黒天は笑顔で鎮座しておられました。像に触れても、少しも熱くなかったそうにございます。
この不思議なできごとはほぼ十日ごとに起り、やがて良房さまが御寝所の襖をお開けになると、部屋中が炎に包まれるようになりました。しかもこれは必ず良房さまおひとりの時にのみ起こり、良房さまは文徳帝のご復活をさらに強く信じるようにおなりでございました。
この日から、良房さまもさすがに帝のご復活を阻むご祈祷はお止めになり、節季ごとの宴もお控えになられて、ひたすら帝のご冥福をお祈りなさいました。
業平さまと御門跡さまは、良房さまのお屋敷染殿での不思議なできごとをお耳にされ、帝のご復活が間近に迫っているとの思いをさらに強くなさっておいででした。帝に成仏していただくには、ご復活ののちにお心を鎮めていただき、この世へのご執着を取り除くよりほかはないともお考えになられたのでございます。
帝の御陵の出火から四年後、貞観十四年文月の五日あまり、秋に入ったとはいえ、まだ暑さの残る日でございました。
年が改まって以来、各地の山が火を噴き、また大地震や津波、さらには星が落ちるなど様々な異常な転変地異が起き、立秋の日は朝になっても日が昇らず、終日稲妻が光り雷鳴が轟いていました。このような異常な天候をご覧になられた業平さまと御門跡さまは、帝のご復活は今年に間違いはない、と春先から確信めいたものをお持ちでございました。
業平さまと御門跡さまは業平さまのお屋敷で、帝がどのようにしてこの世にご復活なさるかについてお話し合いをなさいました。おふたりは、帝がご復活されるには憑代が必要かもしれない、とのお考えをお持ちになられたのでございます。そして帝が憑代としてお選びになられるのならば、おそらくおふたりの皇子のうちのどちらか、惟喬親王さまか惟仁親王さま。けれども惟仁親王さまはすでに清和帝として皇位をお嗣ぎになられておられましたゆえ、必ず惟喬親王さまが憑代として選ばれるとおふたりはお考えになりました。
惟喬親王さまは文徳帝には特別な思いがおありでございましたし、帝も惟喬親王さまには別してご愛着がおありでございましたゆえ、帝にとりまして、惟喬親王さまは意のままに動かすことのできる最も優れた憑代でございます。しかしながら惟喬親王さまが憑代になられましたなら、おふたりの思いがひとつになり、帝はさらに強いお力を得られることでございましょう。
業平さまは御門跡さまにこのようにお話しになりました。
「法親王殿、惟喬親王が帝の憑代になることは、きっと避けねばなりませぬ。帝の思いと惟喬親王の思いが一つになれば、帝のお力はおそらく限りなくお強くなられます。この世の力の及ぶものではなくなりましょう。
法親王殿、帝の憑代になってはいただけませぬか。惟喬親王には高野山、あるいは比叡山にお籠もりいただく。高野山や比叡山は霊場、全山にすでに強力な結界が張られております。たとえ帝といえども、簡単にはその結界を破ることはおできになれますまい。きっと帝は良房様のおそばにいる者を憑代になさるでしょう。法親王殿は帝のお身内でもあります。帝にしても、法親王殿ならば憑代に選びやすいのでは。
良房様も今では帝の御復活を確信しておられる。法親王殿が染殿にお入りになることを拒むことはないと思われます。不動明王尊を初め五大明王尊の御庇護をお受けになっておられる法親王殿が憑代であれば、多少なりとも帝のお力を制することができましょう。」
「僧が憑代になることは厭いませぬが、じゃが業平殿、帝のお力がどれほどのものになっておられるのか想像もできませぬのじゃ。僧が帝に操られ、反対に染殿后を連れ出すことに手を貸すことにならぬかの。そうなれば僧は悔いても悔いきれぬ。それに惟喬親王、いや先頃出家されて素覚法親王におなりじゃったが、親王が素直に業平殿や僧の言葉に従ってくれるものかのう。帝にあれほど強い想いをお持ちの皇子じゃ。帝の黄泉返りの際に都を離れるなど、受け入れていただけるとは思えぬのじゃが。先頃庵のある小野の里を離れ、都に入られたとも聞いておる。
とはいえ、それに勝る手立てがほかにあるとも思えぬのう。そうするよりほかに仕方がないのじゃろうな。しかし何より惟喬親王の説得、これが最も難しいじゃろう。
そうじゃ、東寺ならばいかがじゃろう。今年はちょうど親王の母君、三条町静子様の七回忌に当たっておる。東寺の一の長者真雅に話しをして、七回忌法要を東寺でも行うようにすれば、いかに惟喬親王といえども参籠せずにはおられぬと思うのじゃが。
すぐに準備に入ればまだ間に合うじゃろう。」
こうして惟喬親王さまは東寺にお籠もりになり、御門跡さまは染殿にお入りになりました。業平さまは平城上皇から賜った剣を携え、惟喬親王さまに従っておられました。けれども帝は御門跡さまのお話しのとおり、葉月二十七日、憑代など必要とせずに黄泉返りを果たされたのでございます。染殿に張られておりました結界も、僧たちの修法も、何ひとつ役に立たなかったのでございます。
文徳帝がご復活なさいましたとき、御門跡さまは染殿后さまのお傍におられ、庭に向かおうとなさっておられる染殿后さまをお引き止めになりましたが、染殿后さまはそれを振り切ってお出ましになられました。御門跡さまは、もうそのお姿を眺めていることしかできなかった、と仰せでございました。染殿后さまの哀しみが御門跡さまのお心に深く染み入ったのでございます。そして帝が果たそうとなさっておられることも、染殿后さまのお命も、すべて御仏のお決めになられたようにしかならぬ、とお覚りになられたのでございます。
一方、業平さまは帝のご復活をお耳にされると、ご本尊大日如来さまの御前に置かれておりました剣を取りに、すぐさま講堂にお向かいになりました。ところが剣はどこにも見当たらなかったのでございます。剣の置かれておりました経机の上には、帝がお使いになられておられた扇が一本あるのみでございました。
業平さまはその一事で、帝がおふたりのお考えすべてをご承知だったことをご理解され、ご本尊の大日如来さまにすべてを委ねられたのでございます。
良房さまがお亡くなりになり、文徳帝も冥界にお戻りになられたのち、世には平穏が戻りました。多くの人々はこれですべてが終わったと考えました。けれども一部の、ある方々にとりましては、事件はまだ終わってはいなかったのでございます。
良房さまが薨去なさいましたあと、藤原の長者の地位をお継ぎになり、また摂政にもおなりの基経さまは、この事件が世に広まることを恐れておられました。良房さまの名誉のためであることは無論のこと、それ以上に、藤原北家の長者としての地位が危うくなることを危惧しておられました。基経さまはお父上の良房さまがお亡くなりになられた原因が文徳帝のご復活にございますことを、何としても伏せておきたかったようにございます。人々にはきつく口止めをなさり、藤原の長者のご命令でございますから、その後長い間おおやけには誰も事件について口にすることはございませんでした。
また同時に基経さまは、帝の黄泉返りの出来事についてすべてご存知の惟喬親王さまのことを、大層お気になさっておいででございました。惟喬親王さまは帝ご復活の二月前にご出家され、素覚法親王となられて小野の里に隠棲しておられましたが、それでも宮中には文徳帝のご意思を継ぎ、惟喬親王さまを擁立しようとする公卿の方々がまだ幾人もおりました。基経さまはそうした動きを素覚法親王さまとともに、すべて葬ろうとなさったのでございます。そして翌貞観十五年、基経さまはひそかに素覚法親王さま殺害のご命令をお出しになりました。
わたくしはそのことをすぐに業平さまにお伝えいたしました。
業平さまはその日のうちに小野の里にお出向きになり、素覚法親王さまにお会いになりました。基経さまからそうしたご命令が出されました以上、法親王さまのお命は尋常の方法ではとてもお守りできぬとお考えになられたのでございます。
業平さまは小野の里にご到着になるとすぐに、法親王さまに歳恰好のよく似た村人の死体をお求めになりました。法親王さまのご遺体に見せかけるためでございます。そして前日に熊に襲われた村人の死体を運よく手に入れられたのでございます。
業平さまはその遺体に法親王さまの法衣を着せ、すぐに荼毘に付しました。基経さまの手の者が数人、法親王さまの庵に駆けつけましたのは、ちょうどその時分でございます。業平さまのご提案で、親王さまが近江の山深い小椋村にむけて旅立たれた直後のことでございました。その者たちは業平さまがそこにおいでで、荼毘をお進めになられておられるご様子を見て、その遺体が親王さまのものであると信じたようでございました。
これで基経さまもご安心なさったのでございましょう、それからしばらくの間は何事も起こりませんでした。しかし猜疑心のお強い基経さまはそれでもご心配が拭えなかったようにございます。いえ、何かの折に、なにゆえ業平さまが素覚法親王さまのもとにおられたのか、とお考えになられたのかもしれません。そしてわたくしと業平さまとのことにお気づきになられたのでございます。
元慶三年弥生、わたくしが住まいしておりました桂川の畔の屋敷に、業平さまがお越しくださいました。業平さまは御年五十五歳、お美しかった御髪にも白いものが目立ち始めておられました。
業平さまは嵐山の桜を眺めながら、しみじみとしたお口ぶりでこのようにお話しになりました。
「内侍、そなたに出会って何年になるかな。長い年月が経ったものだ。そなたには苦労をかけた。これまでは世を憚りながらそなたと会っていたのだが、それももう終わりにしようではないか。残り少ない時をそなたとともに過ごしたい。
文徳帝の黄泉返りからもすでに七年が過ぎた。世は落ち着きを取り戻し、恒寂法親王殿は大覚寺の開山座主になられ、染殿后明子様も平穏な日々をお過ごしになられておられると聞いている。私も蔵人頭に任じられはしたが、基経様から内々に、出仕には及ばぬと伝えられている。これからは母伊都内親王から譲り受けた長岡の領地で、静かに余生を過ごそうと思う。
内侍、そなたも長岡に来ぬか。今日のように花を愛で、また歌を詠みながら、残り少ない余生を二人で睦まじく暮らそうではないか。」
わたくしは涙が出るほど嬉しゅうございました。いえ、業平さまのお顔が見えなくなるくらい涙が溢れました。そして、秋、紅葉が照り映える頃、必ず長岡に参ります、とお約束をいたしました。
けれどもやはり、それは叶いませんでした。
あと数日で立秋という日の朝のことでございます。腹違いの兄、常行どのにゆかりの者と名のる者が、わたくしを訪ねてまいりました。常行どのはその四年前、貞観十七年にすでに亡くなっておりまして、ゆかりの者という言葉に少なからず不審を抱いたのでございますが、それでも中に招じ入れたのでございます。それはその者が、常行どのが残した基経さまに関わる文がある、と申したゆえにございます。
兄は若き頃基経さまと出世を競っておりましたが、良房さまのご出世にともなっての基経さまのご出世で大きく差が生じ、兄は基経さまに妬み心を抱いたまま亡くなりました。わたくしは兄の文の中に、基経さまの秘め事が書かれているのではないかと考えました。
兄は出世において基経さまに追いつきたい一心で、生前基経さまの行状をひそかに調べていたのでございます。業平さまが藤原北家ご一門の方々から常に目の敵にされておられましたゆえ、浅墓にも、そのような文があれば業平さまをお守りできるのではないか、と思ったのでございます。
わたくしはその者が用意してきておりました牛車に乗り込みました。行く先は鳥辺山でございました。山のあちこちから煙が立ち昇る様子を見て、わたくしは突然嫌な気持ちになり、牛車を操っておりましたその男に牛車を家に戻すよう伝えました。男は不気味な笑いを泛べ、わたくしの言葉を無視して鳥辺山に入っていったのでございます。
着きましたのは、鳥辺山の中腹に建てられておりました小さな庵でございました。わたくしが心を決めて中に入りましたところ、そこには三人の侍が控えておりました。侍たちの前には湯が置いてあり、わたくしにも湯が出されました。
少し気が動転していたのでございましょう。わたくしは何も考えずにその湯を飲み干したのでございます。その途端、激しい嘔吐と悪寒に襲われ、目の前が真っ暗になりました。全身に痛みが走り、とりわけ顔は燃えるように痛みました。けれども、意識が朦朧としてきて床に倒れる寸前、わたくしは正面に座っておりました侍が、時折基経さまのもとを訪れる若侍であることに気付いたのでございます。そしてそのまま意識を失ってしまいました。
気が付きましたのはその日の宵のことでございます。村人が着る粗末な着物を着せられ、打ち捨てられた死体の間に無造作に投げ捨てられておりました。多くの野犬や猫、鴉があたりの死体を食い千切る有様は、周囲の、人の肉の腐る凄まじい臭いとともに、地獄そのものの凄惨な景色でございました。
体を起こそうといたしましても、全身の痛みと強い吐き気で起こすことができません。わたくしは死を覚悟いたしまして、小さく般若経を誦しておりました。業平さまとともに暮らすことは叶いませんでしたが、それでもわたくしは充分に幸せな人生だったと思っておりました。ただ、このようなところで誰にも知られずに死んでゆくことだけが、口惜しく思われました。
ところが業平さまのお幸せを念じながら般若経を誦し続けておりましたところ、すぐそばで話し声が聞こえたのでございます。そして少しずつわたくしの方に近づいてくるではありませんか。わたくしは必死の思いで声をあげました。近くの村にある寺の寺男でございました。寺男は村人を埋葬しにやって来て、経を誦す声を耳にしたとのことでございました。通常ならば死体があるだけの鳥辺山でございますゆえ、寺男はこの世ならぬ者がいるのではないかとも考えたそうにございますが、それでも物の怪が般若経を誦すはずはないと、不審に思いながらも近づいてきたのでございます。
わたくしはふたりの寺男に抱えられて鳥辺山を下りました。
その夜は村の寺に留まりました。村人たちの多くはわたくしを遠巻きにするばかりで、近づいてはきませんでした。鳥辺山に捨てられておりましたわたくしを気遣ってくれているのだろうと思っておりました。
結局何日もの間、わたくしは床から離れることができませんでした。十分に食事をすることもできず、ただ眠り続けておりました。わたくしがやっと床を離れることができましたのは、二十日ばかりも経ちましてのちのことでございます。村人たちは相変わらずわたくしの顔をまともに見ようとはいたしません。床を離れ、体を拭いますために村人が用意してくれました桶の水に顔と体を映しました時、わたくしは自分の眼が信じられませんでした。とてもわたくし自身とは思えない変貌でございました。両の眼が半分になるほど瞼が腫れ上がり、顔は爛れ、顔も体も紫の吹き出物に覆われ、額の上の髪はすべて抜け落ちておりました。そしてさらに、残された髪のほとんどが真っ白になっていたのでございます。
「ああ、もうこれでは業平さまにお会いできぬ。」
これがわたくしが最初に思ったことでございました。姿顔立ちが変わってしまったこともさりながら、わたくしにとりまして、業平さまにお会いいたしますことが生きがいでございましたゆえ、お会いできぬということは死ぬほどに辛いことでございました。あのまま死んでしまえばよかった、と思うようになったのでございます。
爛れや腫れは次第に引いてまいりましたが、吹き出物は醜い痘痕となっていつまでも残りました。
当初は生きる気力を失い、食を断ったりもいたしましたが、寺の僧や村人たちの手厚い看病や心配りによって、次第に生きる力を取り戻していったのでございます。
業平さまとお約束をいたしました紅葉の季節はとうに過ぎ、鳥辺山も雪に覆われ始めました。わたくしはこのおぞましい姿を業平さまの御前に曝すより、約束を守らなかった女として業平さまに憎まれることを選ぶ決心をいたしました。そして御門跡恒寂法親王さまが座主を務めておられる大覚寺に参りますことを決めたのでございます。大覚寺にて尼になり、業平さまの余生と後生を人知れずお祈りする覚悟を決めたのでございます。
業平さまはわたくしが長岡に参りませぬことを不審に思い、わたくしの住まいいたしておりました桂川の屋敷に人をお遣わしになられたそうにございます。屋敷には誰もおらず、業平さまは当初わたくしが心変わりをしたとお思いになり、ひどく落胆され、またわたくしを大層お恨みになられました。ところがわたくしが誰かに連れ去られたことをお知りになり、またそれが基経さまのご指示であったことをもお知りになると、お怒りを抑えることがおできにならなかったのでございましょう、基経さまへの咒詛を始められたのでございます。良房さま、基経さまのおふたりに、業平さまは大切なものを次々に、すべて奪われてしまったようなお気持ちになられたのでございましょう。
業平さまは毎夜、糺すの森の賀茂御祖神社にお通いになり、天の逆手をお打ちになられたそうです。けれども業平さまは文徳帝と良房さまの闘いを思い出され、咒詛が虚しいものであるとすぐにお気づきになりました。そしてそれ以後、業平さまは一切の咒詛を止め、賀茂神社にわたくしの後生をお祈りくださいました。
それをお聞きいたしまして、わたくしは涙が止まりませんでした。業平さまのもとに駆けつけ、下働きとしてでも業平さまのお世話をしようとさえ思いました。けれどもこの醜い姿を業平さまにお見せする勇気は、やはり出てまいりませんでした。
業平さまは翌元慶四年、藤の花が咲き始める頃、静かにご薨去なさいました。御年五十六歳でございました。野辺送りの日には、わたくしも陰ながら、お見送りをさせていただきました。
わたくしは業平さまに愛されましたことを、そしてわたくしも業平さまおひとりを思い続けてまいりましたことを、今でも誇りに思っております。
大覚寺で御門跡さまにお目にかかりました時、御門跡さまは一瞬はっとなさいましたが、それでもすぐに普段のお顔にお戻りになり、また何もお尋ねにならずに、わたくしを尼としてお迎えくださいました。おそらくわたくしが染殿内侍であることに、すぐにお気づきだったのでございましょう。それ以来時折わたくしをお傍にお召しになり、さりげなく業平さまのお話しをなさってくださいました。
これでわたくしの存じておりますすべてをお話しいたしました。
業平さまは染殿后さまのことをお話しになる時、いつもどこかほのぼのとした温かいお顔をなさっておいででした。業平さまがお亡くなりになられて四年、わたくしはそのような業平さまを、今も懐かしく、愛おしく思い出しております。