尼の物語(その1)
弐の章(尼の物語)
御門跡恒寂法親王さまはお話しを終えられた翌早朝、安らかにご示寂なさいました。微かに笑顔をお泛べになられ、楽しい夢でも見ておられるかようなお顔でございました。死ぬということは御仏のお傍に参ることなのじゃから決して泣いてはならぬぞ、と常々お話しをされておられましたゆえ、懸命に泣くまいと努力をいたしましたが、やはり涙をこらえることはできませんでした。
わたくしは御門跡さまのご庇護のもと、数年の間お傍で暮らしてまいりました。御門跡さまがお亡くなりになられました今、御仏のほか頼るべきお方もおらず、この世の風が虚しく心の中を吹き抜けているように感じられます。
先程も申し上げましたとおり、わたくしもあの事件には多少の関わりを持っておりました。御門跡さまのお話にはございませんでしたことや、御門跡さまがあえてお話をなさいませんでしたこと、ご存じではなかったことなども少しは存じております。御門跡さまが染殿后さまにすべてをお話ししようとなさいましたのですから、次はわたくしが、知りえましたことを染殿后さまに申し上げようと、存じます。
大覚寺に御門跡さまをお訪ねいたしまして以来、わたくしは身分を隠し、病に侵された市井の女として御門跡さまのご庇護をお受けいたしておりました。しかしながら実はわたくしは、染殿后さまの御父君藤原良房さまの弟、良相の娘でございます。
母の身分が低かったため父良相からは疎んじられ、幼いころからずっと母のもとで暮らしておりました。けれどもそのようなわたくしを、なぜか良房さまだけはお気に掛けてくださいまして、成人してのち二条后高子さまの入内にともない、高子さまのお傍にお仕えするようになりましたのも、良房さまのお声掛かりによるものでございます。
染殿后さまとも宮中で何度かお目にかかっております。さようでございます。当時わたくしは、染殿内侍、と呼ばれておりました。
高子さまとわたくしとは年も近く、あの頃は、同じ藤原の一門でありながらどうしてこのように身分に違いがあるのか、とお恨みいたしましたこともございました。もちろん今ではそのようなことは些細なことと承知しておりますが、そのことがあの事件に更に暗い影を落とすことになってしまったような気もいたします。
さて、わたくしがあの事件についてお話しいたしますには、まずわたくしと業平さまとのことから始めさせていただかねばなりません。
わたくしが初めて業平さまにお会いいたしましたのは、文徳帝が崩御された天安二年の春、五条后順子さまのお屋敷、東五条院でのことでございます。
当時高子さまはまだ入内なさいます前で、業平さまと深い御仲でございました。しかしながらそのことが、将来高子さまを入内させるおつもりでいらした良房さまのお怒りに触れ、良房さまは五条后さまに、高子さまを東五条院にお引き取りになるようご依頼なさいました。けれどもおそらく、五条后さまはおふたりを哀れと思召されたのでございましょう、東五条院にお引き取りになられたのちも、おふたりがひそかにお会いになることにお気づきにならないふりをなさっておられました。
おふたりが五条后さまのそうしたお心づかいにお気づきになっておられれば、おふたりの御仲があれほど早く引き裂かれることはなかったのかもしれません。良房さまは東五条院に詰めておられた基経さまからのご報告によって、おふたりのことをお知りになりました。そして良房さまは即刻、高子さまを染殿にお移しになられたのでございます。
翌夜、業平さまはいつものように東五条院にお忍びになりました。けれどもそこにはもう高子さまはいらっしゃいませんでした。それをお知りになられた時、業平さまは悲しみにくれ、気も狂わんばかりだったそうにございます。業平さまは翌朝から、高子さまの行方を方々手を尽くしてお探しになりました。それでも高子さまの行方はなかなかおわかりにならなかったのでございます。
ようやく高子さまが染殿においでになることを突き止められた時、業平さまは苦しさと悔しさで涙が零れたそうにございます。
ひとつには、高子さまが染殿に移されたのならもうお会いできないのでは、とお感じになられたため。そしてもうひとつは、惟喬・惟仁両親王さまの立太子の修法の折、業平さまは惟喬親王さまの側にお付きでしたため、良房さまにその後のご出世を妨げられ、またこの度も良房さまに高子さまとの御仲を裂かれてしまわれたためでございます。
業平さまは毎夜、染殿のお近くにお出かけになられては、虚しくお戻りでございました。せめてもと染殿のお屋敷の傍で横笛をお吹きになり、ご自分がお傍に来ていることを高子さまにお知らせしようとなさいましたが、その横笛の音が高子さまのお耳に届いていたかどうか、業平さまにはおわかりにはなりませんでした。高子さまのお姿はもちろんのこと、お声さえもお耳にすることはかなわなかったのでございます。
そのようなことが半年ほども続きましたでしょうか。業平さまはお苦しみのあまり、とうとう高子さまとのお別れをご決意なさいました。そして翌天安二年正月十日の宵、東五条院にお出かけになられたのです。
どなたもいらっしゃらないお庭を通り、高子さまがお暮しでございました西対にまでお進みになりました。西対には高子さまが染殿にお移りのあと、どなたもお住まいになられておらず、がらんとしたお部屋に夜風が吹き抜けておりました。業平さまはあまりの哀しさに、板敷きの上にお倒れになってしまわれたのでございます。そしてちょうどその時、わたくしが西対の前を通りかかったのでございます。
業平さまはわたくしを手招きされると、お傍に座るようおっしゃいました。見も知らぬお方の傍に座るなど、はしたなきことと思し召しでしょうが、わたくしはそのようなところにおいででございますお方ですから、ご身分のお高いお方と思い、ご無礼の無きようとのみ考えておりました。同時に、お美しいお方が涙をお零しになっておられましたことに心を魅かれたこともまた、事実でございます。
業平さまは、そのお名前はお口にはなさいませんでしたが、高子さまとのことをわたくしにお話しくださいました。そして、今宵がその方との最後の思い出の日になる、ともお話しでございました。
西対からご退出なさるとき、袂から懐紙を一枚お取出しになると何かを書留め、わたくしにお渡しになりました。そこにはこのような歌がしたためられておりました。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
業平さまのお悲しみとお寂しさが、わたくしの心に染み入るようでございました。
わたくしは夢を見ているような心持ちで、業平さまの後姿をお見送りいたしました。
これがわたくしと業平さまとの初めての出会いでございます。その時に頂いた歌は今も、わたくしにとって大切な宝物となっております。
その夜以来、わたくしと業平さまはたびたびお会いして、物語などするようになったのでございます。業平さまはわたくしが良相の娘で、良房さまの身内であることをお気にされ、わたくしのもとに通っていることを決して他言せぬと仰せになりました。それはわたくしが業平さまとお会いしていることが父良相や良房さまに伝わりますと、わたくしの、家での立場がより一層悪くなる、というご配慮からのものでございました。恋というものは口外いたしますと壊れてしまうと言われておりますゆえ、わたくしにとりましていっそう嬉しいご配慮でございました。高子さまとのこともこの頃にはもうきっぱりと思い切られたご様子で、わたくしの所へまめにお通いくださいました。
ところが水無月の晦日のことでございます。叡山の円仁さまのもとからお戻りになられた業平さまは、このようにお話しになりました。
「内侍、私は高子殿を染殿から盗み出す。私がいまだ高子殿に懸想していると良房様に思い込ませねばならぬ。そなた、力を貸してはくれぬか。」
わたくしはひどく狼狽いたしました。業平さまのお心がわからなかったのでございます。高子さまをなぜ今染殿からお連れ出しになられるのか。どこにお匿いになり、またお匿いになられたあとお二人はどのようになさるおつもりなのか。万が一良房さまに捕えられましたなら、高子さまはともかくといたしましても、業平さまはどのような罰を与えられてしまうのか。
嫉妬や不安交じりの疑問が、いくつも胸をよぎりました。
業平さまはわたくしのこのような問いかけに、ひとつひとつ丁寧にお答えくださいました。
「私はできるだけ早く都を離れ、恒寂法親王殿にお会いせねばならぬ。今病の床に伏せておられる文徳帝に関わることだ。明子様や惟喬親王にもまた関わりがある。でき得るならば、帝のお命の尽きる前に恒寂法親王殿にお会いしたいのだ。
先頃都に戻った行者によると、法親王殿は今、陸奥におられるとのこと。しかし法親王殿にお会いする目的を良房様に知られるわけにはいかぬ。都を離れるやむを得ぬ事情を作らねばならぬ。そのために高子殿を利用させていただく。
良房様は私とそなたのことはご存知ないはず。この業平がいまだ高子殿に懸想しており、恋に狂った業平が高子殿をかどわかしたと思わせるのだ。とはいえあの良房様のこと、生半可な謀では通用せぬ。私は本気で高子殿を盗み出さねばならぬ。そうしてこそ良房様も私の狂気を信じる。
高子殿を連れ出し、どこに匿うかを思いやむ必要はない。連れ出した直後、その夜のうちに追手に捕えられる。高子殿はすぐに染殿に連れ戻される。
ただ一つの懸念は追手に殺されること。そうなれば法親王殿にお会いすることができぬ。それは避けねばならぬ。私は捕縛されねばならぬ。捕縛され、縄目の恥辱を受けて後放免される。これで私は都に居づらくなり、疑われることなく都を離れることができる。
そこで内侍、そなたも私とともに染殿に行ってはくれぬか。そなたは染殿に自由に出入りができ、内部にも詳しい。そなたの手引きがあれば高子殿を連れ出すことはたやすい。」
帝や染殿后さま、惟喬親王さまに関わりのあることとお話しになられましたので、わたくしはそれ以上お尋ねすることはできませんでした。けれども、わたくしは業平さまを心から信じておりましたゆえ、そのお申し出をお引き受けいたしました。
その日は朝から風が荒び、厚い雲が空を覆っておりました。今にも雨が落ちてきそうな、いかにも憂鬱な日でございました。立秋を過ぎたばかりでございましたが、例年ならばまだまだ暑さの残る季節でございますのに、この日は薄物を一枚余分に羽織らねばならないほど肌寒く感じられました。
わたくしは業平さまに先立って染殿に入り、夜を待ちました。業平さまがお迎えにいらっしゃいます、とお話しいたしますと高子さまはとてもお喜びになり、率先してご協力くださいました。
夜に入り、闇に乗じて庭の築垣の脇の木立の陰を辿り、業平さまを高子さまがお待ちになっておられる西対にお連れいたしました。
高子さまは業平さまのお姿をお目にされるとすぐにお立ちあがりになり、何事かをお話ししようとなさいました。けれども業平さまは高子さまのお口を指でそっと押さえ、首を横に振り、黙ってついて来るようにとお示しになりました。
わたくしがあらかじめ用意しておきました地味な女房装束にお着替えになられた高子さまは、黙って業平さまのあとに続き、庭にお降りになりました。その時の高子さまの嬉しそうなお顔は、今でも忘れることができません。
のちに高子さまの女房となってお仕えするようになりました時、わたくしは何度もこの時のことをお話ししようと思いました。けれども高子さまは入内なさってからも、ずっと業平さまのことをお想いでおられたご様子でしたので、どうしてもお話しすることができませんでした。ましてやわたくしが業平さまの妻であるなど、お話しできるはずもございません。わたくしは心のうちで毎日、高子さまに手を合わせておりました。けれども心のどこかに、高子さまから業平さまを奪ったのだという、ひそかな喜びもあったように思われます。今思えば浅ましい心根でございます。
わたくしは業平さまが辿ってこられた道筋を逆にたどり、おふたりを門の外にお連れいたしました。門から少し離れた木立の陰には粗末な女車が目立たぬように置かれており、お二人はそれにお乗りになられたのでございます。その女車には御者もおらず、業平さまがご自身で御者の代わりをなさいました。
牛車が動き始めると同時に、ぽつりぽつりと雨が降り始め、それはすぐに激しい雷雨へと変わりました。
業平さまは牛車を南に進め、山科の辺りまで参りますと、業平さまがあらかじめお決めになっておられた、荒れた小さな、もうどなたもお住まいになってはおられないお屋敷にお入りになりました。そこで追っ手をお待ちになられるおつもりだったのでございます。
お屋敷は街道から草むらを少し脇に入った林の中にございましたが、追っ手が気付くよう牛車を草むらの中、街道からわずかに見えるところにお乗り捨てになりました。
雷鳴が轟き、激しい雨が屋根に打ち付けるなか、業平さまは寒さと不安に震える高子さまを、じっと抱きしめておられたそうにございます。
そうして四半刻も経ちましたでしょうか、街道の辺りから馬の嘶きと人声が聞こえてきたのでございます。高子さまは恐怖のためきつく目をおつむりになり、馬が通り過ぎるようにとお祈りをなさいました。けれども突然お屋敷の門が蹴破られたのでございます。
侍たちが数人、刀を手になだれ込みました。業平さまは太刀をお抜きになる暇もなく、取り囲まれてしまいました。
高子さまはお屋敷の外に連れ出され、再び戻ってきた侍の一人が業平さまに切り付けようといたしました。しかしそれをひとりの侍が止めたのでございます。そのお方は業平さまの兄君、左馬頭行平さまのかつてのご同輩で、検非違使の別当に任じられたこともおありのお方でした。業平さまともお顔見知りでございました。そのお方がこのようにお話しになったのでございます。
「私はおぬしがどこの誰かは知らぬ。このようなところで女と一夜を過ごそうとしたため、女は鬼に食われて死んだ。
女の氏・素性はおぬしも知らぬ。何もなかったことにするほかない。我々が去ったのち、おぬしもここを立ち去れ。」
業平さまは染殿に引き立てられるおつもりでしたのに、何もなかったことにされておしまいになり、この度のご計画が失敗に終わったことをお覚りになられたのでございます。
業平さまはお屋敷にお戻りになられたあと、不首尾に終わった理由を深くお考えになり、再びご計画をお立てになりました。それはこの度のご計画よりはるかに大胆で、また危険なご計画でございました。
業平さまはそのご計画をわたくしにお話しくださいました。
業平さまが二度にわたるご計画を、藤原の身内であるわたくしに包まずお漏らしになるほどわたくしをご信頼くださいましたことに、わたくしは感激し、嬉しく思いました。わたくしはこの時に、染殿に関わる動きをひそかに調べ、そのすべてを業平さまにお伝えしようと心に決めたのでございます。良房さまがわたくしにお掛けくださいましたご厚情に背くことになりますことも、この時のわたくしには些細なことに思われました。もし良房さまがお気づきになり、死を賜りましても悔いはない、とまで思っておりました。業平さまのお力になれますことが、わたくしにとりまして、この上もなく幸せなことだったのでございます。
それ以来、わたくしは業平さまにお会いすることを控えました。良房さまのお屋敷染殿の様子を業平さまにお伝えするとき以外、お会いしない決心をしたのでございます。業平さまは平城上皇の御孫というご身分のためでございましょうか、そうしたことに無頓着で、わたくしの所にお通いになられる時にも、あまりご警戒をなさるご様子はございませんでした。なにゆえ会うことを避けるのか、とわたくしにお尋ねになられたことさえもございましたが、わたくしの気持ちは必ず業平さまにおわかりいただけると信じておりました。
実は業平さまとお会いするようになりましたのち、二月ほどでわたくしは子を宿しました。そしてその年の暮れに、男子を出産したのでございます。その子は業平さまがお引き取りくださり、お育てくださいました。その通りでございます。滋春どのは、業平さまとわたくしとの間に生まれた子にございます。わたくしと業平さまとのことを父良相や良房さまに知られぬようにしてまいりましたゆえ、わたくしはひそかに子を産み、その子をすぐに業平さまにお預けしたのでございます。
業平さまはご長子棟梁さまと同じように滋春どのをお育てくださいました。わたくしは母として滋春どのに対面することはできませんでしたが、業平さまのお計らいによりまして、しばしば成長してゆく滋春どののお姿を垣間見ることができました。それだけで幸せでございました。また業平さまとお会いいたしましたときには、業平さまは滋春どののご様子を、つぶさにお話しくださいました。
今は滋春どのも成人されて殿上にもお上りになっておられ、わたくしといたしましても陰ながら嬉しく思っておりますが、手放しました当初は、乳が張るたびに切なく感じられました。
わたくしが業平さまの間者のようなことを始めましてから、業平さまにお会いする機会がずいぶんと少なくなり、時にはほかのお方から文をいただくこともございました。けれどもわたくしは、自分は業平さまの妻であると心の中で固く決めておりましたので、些かでも心が揺らぐことはございませんでした。
ただ一度だけ、父良相が亡くなった年、貞観九年のことでございます。わたくしが業平さまのために働いておりますことを父良相に気づかれそうになり、源能有さまがお通いになってこられることをお受けしたことがございました。
能有さまはふたりの間にある几帳を度々くぐろうとなさいました。けれども業平さまがわたくしに付けてくださいました女房の機転で、それを避けることができたのでございます。そして十月には父良相が亡くなり、能有さまのことも自然に遠ざけることができました。
それからのちは父への気兼ねもなくなり、どのようなお方のお通いのお申し出もかたくなにお断りしてまいりました。数か月に一度の、業平さまとともに過ごす時間のみを、頼みにして生きていたのでございます。
ところで次のご計画について、文徳帝が崩御されて三月ばかりののち、業平さまはわたくしにこのようにお話しになりました。
「帝がお亡くなりになられてもう三月。急がねばならぬ。恒寂法親王殿とすぐにでもお会いせねばならぬ。いよいよ修法に頼るよりほか手立てがなくなった。円仁殿はご自分で陸奥まで出かけたいご様子であったが、病のためそれもままならぬ。私が陸奥まで出かけ、法親王殿にお会いするよりほかはない。
法親王殿のお近くには手の者を遣わしている。法親王殿が陸奥を離れようとなされば、それはすぐにわかる。もしできることならば都に向かっていただき、途中、駿河辺りでお会いすることができればよいのだが、法親王殿は陸奥を離れるおつもりはなさそうだ。
もう一度私は高子殿を盗み出す。先頃の計画が不首尾に終わったのはそなたの力を借りようとしたため。御仏の御加護を得るには、やはり私一人で行わねばならぬ。私は一人で染殿に入り込む。
高子殿を外に連れ出せるかどうかは問題ではない。連れ出す必要もない。私は染殿の屋敷内で捕えられる。殺されるかもしれぬ危険な方法ではあるが、帝や染殿后をお救いするためにどうしても都を離れる理由が必要なのだ。
良房様に疑われぬためにはこれしか方法がない。 最後の機会になるであろう。」
わたくしは帝がお亡くなりになられたのちも、まだ御門跡さまにお会いしようとしておられることが不思議でございました。また良房さまに知られることを、なにゆえそれほど恐れておられるのかもわかりませんでした。黄泉返りを阻むことが目的ならば、業平さまと良房さまの目的は同じでは、と思ったのでございます。
わたくしがお尋ねいたしますと、業平さまは暗いお顔をなさり、しばらく何事かをお考えのご様子でございましたが、やがてこのようにお答えになりました。
「内侍、そなたは知らぬ方がよいと思いこれまで黙っていたのだが、これからもまたそなたの力を借りねばならぬ時もあろう。だがこの話しはそなたの胸の奥深くにしまっておいてほしい。
帝は今魔界におられ、黄泉返りを図っておられる。黄泉返って良房様を誅されるおつもり。そして私と円仁殿は帝の黄泉返りを阻止するために働いている。陸奥に赴くのも恒寂法親王殿の御法力をお借りするため。恒寂法親王殿の御法力で帝の黄泉返りを抑え込もうと考えている。だが帝が黄泉返って良房様を誅すおつもりでおられることを良房様に知られれば、恐ろしいことが起こるやもしれぬ。
良房様は陰陽寮に属する陰陽師のみならず、多くの外道の咒術師たちとも繋がりがある。そして外道の咒術のなかに、死者の魂をさえ完全に抹殺する修法があると聞く。それはこのようなものだ。
まず死者の血縁の者を殺し、その髑髏を手に入れる。親あるいは子ならば最良とされる。そしてその髑髏を前にして、行者と行者に選ばれた女が繰り返し媾合う。こうして得た行者の精と、女の月の血を混ぜた液を髑髏に何度も繰り返し塗り、その上に金箔を貼る。眼窩には玉石を嵌め込み、薄く化粧を施し、唇の辺りには紅を引く。このようにしてできた金の髑髏を本尊として祀る。
この金の髑髏は冥界とこの世を繋ぐ咒物となり、行者はこれを通じて抹殺したい魂に咒を送る。こうすることにより死者の魂は冥界に緊縛され、枯れ果て、やがて完全に消滅する。
もし良房様が帝の魂魄を抹殺しようと考えたなら、誰の髑髏を手に入れようとなさるか。間違いなく惟喬親王。それゆえ決して良房様にこのことを知られてはならぬ。」
わたくしは恐ろしさに全身の血が固まってしまったかに感じました。惟喬親王さまの金色の髑髏を胸に抱く良房さまのお姿が目に浮かびました。全身に冷気が染み渡り、瘧のように体が震えました。
業平さまが染殿に忍び入る機会はなかなか訪れてまいりませんでした。文徳帝がお亡くなりになられて良房さまも喪に服され、多くの時間染殿にお籠もりになっておられたためでございます。警護も、おいでにならない時よりはるかに厳しゅうございました。
年が明け、正月も過ぎた天安三年如月、新月の夜にやっとその機会が訪れました。業平さまが高子さまをお連れ出しになられて以来、染殿の警護は全体にそれ以前に比べて厳しくなっておりましたが、それも年の改まったこの頃になりますと、多少緩められておりました。またこの夜は、良房さまも内裏にお上がりになられておいででしたので、警護はさらに緩められておりました。
ご計画が不首尾に終わりましたあの日以来、業平さまは染殿のお近くにはお出かけにならなかったのでございますが、わたくしがお話しをしておりましたので、警護のことはすべてご存じでございました。業平さまはむしろ警護が少し厳しいくらいをお望みでございましたが、お屋敷にもお入りになれませぬようではその目的も果たせませぬ。それでやむなくこの時までお待ちになられたのでございます。
夜陰に紛れて染殿にお忍びになられた業平さまは、庭に入るともうお姿をお隠しになることもなく、どうどうと西対へとお向かいになりました。そして西対の前にお立ちになり、お部屋の中にお声をお掛けになりました。けれども部屋からお出ましになられたのは高子さまではなく、基経さまでございました。
染殿后さまもご存じのように、基経さまはすでに良房さまのご養子になられ、染殿でお暮しでございました。そしてその夜は兄君の国経さまと、たまたま高子さまのご機嫌伺いに西対にお越しになっておられたのでございます。
高子さまは基経さまのご指示で、すぐに奥に連れて行かれました。
基経さまと国経さまは業平さまのお姿をお認めになると、大声で家人をお呼びになりました。家人たちは何も抵抗をなさいませぬ業平さまを棒にて酷く打擲し、さらには髻まで切ってしまったのでございます。
染殿のお屋敷の外に放り出された業平さまのお姿は、とても無残なものでございました。髻は切られ、お召し物はあちこち破れて泥にまみれ、お美しいお顔もお身体も傷だらけで、紫色に腫れ上がっておりました。
お望みになっておられたこととはいえ、業平さまは何もお話しにはなりませんでしたが、おそらくご自分でも想像以上のものとお感じだったと思われます。
お屋敷にお戻りになられた業平さまは、数日の間、痛みと熱でお立ちあがりになれぬほどお苦しみでございました。それでも家の者に旅の支度をお命じになられたのでございます。
業平さまが陸奥へ向けてご出立されたのは、翌弥生のことでございました。周囲には、髪が生えそろうまで各地の歌枕を訪ねるとご説明になり、東に向けて旅立たれたのでございます。
お心のうちでは馬を用いてでも早く陸奥へお着きになりたいとお思いでしたでございましょうが、歌の名手と目されておられた業平さまが、歌枕を旅する、とお話しされてお出かけになられたのですから、旅の途中どこからも都に歌が届かぬというのも怪しまれるとお考えになられたのでございましょう、各地から都へたびたび文をお遣わしになりました。
わたくしのもとにも時折文をお届けくださいました。その中にはわたくしの身をお案じくださいました、このような歌もございました。
名にし負はばいざこと問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと
業平さまが陸奥へお入りになられたのは、御門跡恒寂法親王さまのお話しにもございました通り、その年の夏、貞観元年の夏のことでございます。業平さまにお力添えをなさるご決心をされた御門跡さまが、業平さまとともに都へお向かいになりましたことも、御門跡さまのお話しの通りでございます。
わたくしが再び業平さまにお会いいたしましたのはその年の霜月、清和帝ご即位の大嘗会での豊明の節会の折で、業平さまが都にお戻りになられて間もない頃のことでございました。高子さまが五節の舞の舞姫に選ばれ、帳台試のために常寧殿にお控えになっておられた時のことでございます。
わたくしは良房さまの命により、高子さまのお身の周りのお世話をしておりました。高子さまが常寧殿にお上がりになられたのち、わたくしは常寧殿の脇に控えておったのでございます。すると後ろから、懐かしい橘の香りが漂ってまいりました。振り向くとそこに業平さまがお立ちでございました。橘の香りと申しましても、あの香りは業平さまおひとりのものでございますから、わたくしには間違えようのないものでございます。
業平さまは弘徽殿の庇の下から、じっと高子さまを見つめておいででした。わたくしは一瞬はっといたしましたが、業平さまのお顔の表情は落ち着いた、柔らかいものでございましたので、その時わたくしは、自分の心の動きを恥じたものでございます。
業平さまはわたくしに気づくとさりげなく近づいてこられ、お顔に笑みを浮かべながら、今宵、と小声でおっしゃいました。そしてその夜、業平さまはその頃都で起きつつありました事件について、細かにわたくしにお話しくださいました。
業平さまは、文徳帝が惟喬親王さまを次の春宮にとお考えになられておられたことは、もちろんご存じでございました。そしてそれは当然のことともお考えでございました。けれども染殿后さまがご懐妊なさいまして皇子ご誕生ということになりましたのちは、それでも惟喬親王さまが春宮にお立ちになられることが何にもまして正しいこと、とお考えになっておられたわけではございません。良房さまのご権勢があれほど大きなものになっております世に、良房さまのご支持をお受けになれない春宮がお立ちになれば、それは春宮にとってはもちろんのこと、それ以上に国全体に不幸を招くとお考えでございました。さようでございます。戦のご心配をなさっておられました。それともうひとつ。業平さまは、春宮の御息所には女御明子さまが相応しい、ともお漏らしでございました。
業平さまはお身内でもあり、また年齢も近い源融さまをお訪ねになり、このようにお話しになりました。
融さまは歌会などを通じて、業平さまとはご親交の深いお方でございました。また左大臣源常さまの弟君でもございましたので、宮中にも大きな影響力をおもちでした。業平さまは、ご自分の意思を伝えるにはもっとも適したお方、とお考えになっておられたようでございます。
「良房様は春宮道康親王に、惟仁親王の立太子を進言されておられるとか。私もそれが良策と考えます。確かに惟喬親王は正当な皇位継承者。本来ならば惟喬親王が春宮にお立ちになられるべきでありましょう。しかしながら惟仁親王は良房様の御孫でもあり、良房様のお力を軽んじるわけにはまいりませぬ。世の流れに逆らって惟喬親王に春宮にお立ちいただいても、親王が皇位をお嗣ぎになることはおできにはなれますまい。何がしか変事が起き、春宮の地位を廃される。あるいは恐れ多きことながら、場合によってはお命を。」
しかしながら融さまは、やはり惟喬親王さまが春宮にお立ちになられることが皇統の正当性を示すもっとも正しい道である、と業平さまのお考えとは異なったご意見をご主張なさいました。
さらに、惟喬親王さまが春宮にお立ちになられれば良房さまの力は削がれるとお話しになり、その折には嵯峨源氏である融さまご兄弟や、惟喬親王さまに心を寄せる公卿たちが帝や春宮の周りをお守りし、良房さまを近づけることはない、ともお話しになられたのでございます。業平さまは不安をお感じになりながらも、それ以上はお話しにならなかったそうにございます。
その後、宮中でのお話合いで神意を問うことになりましたことを、業平さまは大層お喜びでございました。神意に基づいて惟喬親王さまが春宮にお立ちになられれば、いかに良房さまでもご納得をなさるだろうとお考えだったのでございます。神意を尋ねれば惟喬親王さまが選ばれると、業平さまは信じておられました。また真済さまが惟喬親王さまの修法僧になられたことも、ご安心の理由のひとつでございました。
けれどもその結果は、惟喬親王さまのご敗北でございました。
業平さまは「あの真済でも命を賭けた恵亮の修法には敵わなかったのか。」と大層落胆なさっておいででした。ところが後日、業平さまは円仁さまにお会いして、このようなことをお耳にされたのでございます。
円仁さまのお話しによりますと、良房さまが真如さまに使いを送られた時、恵亮さまはまだご存命でおられたのでございます。全身炎に包まれてはおりましたが、まだ大威徳明王尊の真言を唱えておいでで、意識もかなりはっきりとしておられたそうにございます。
良房さまは恵亮さまがお亡くなりになる前に、真済さまの修法をやめさせようとなさったのでございます。良房さまは恵亮さまの死をさえも利用しようとなさいました。真済さまが修法を中断いたしましたゆえ、恵亮さまのお体から発しました黒い煙が相撲場にまで届き、善男の少将どのの勝ちとなったのでございます。
また円仁さまは業平さまに、恵亮さまのご法力についてもお話しになりました。
円仁さまによりますと、恵亮さまは、大威徳妙王法をお使いになれるほどの修行には、いまだ達しておられなかったそうにございます。
そのことは良房さまもご存知でした。神意を尋ねる修法僧に恵亮さまが選ばれることになりました時、良房さまから恵亮さまの師である円仁さまに事前に、直接お尋ねがございました。その折、円仁さまは恵亮さまのご法力について、恵亮さまも当代一流の修法僧であり、不動明王法ならば経験の差はあれど真済さまと互角。しかしながら万が一、不動明王法では決着がつかず、降三世明王法などほかの修法での争いとなると恵亮さまに勝ち目は薄い、よってでき得るならほかの、より種々な修法に長けた僧をお立てになられるほうがよろしいのでは、とお話しになっておられたのでございます。
良房さまは、修法は不動明王法で行われることになっているゆえ恵亮さまでよいとお答えになられました。実は真雅さまからも、この度の修法はご自分で行う旨のお申し出があったそうにございます。その時も良房さまは、修法僧には恵亮さまを立て、真雅さまは支えにまわるように、とお申し付けになられたとのことでございます。
恵亮さまが最後に不動明王法を捨て、大威徳明王法を用いたことをお聞きになった円仁さまは、内裏の真言院にすぐさま人をお遣わしになったのですが、手遅れでございました。その時すでに、恵亮さまは大壇のなかで全身が真黒に焼け焦げ、手の施しようもなかったのでございます。
良房さまはそこまでお見通しになっておられました。失うのならば、真雅さまではなく恵亮さま、とお考えになられておいでだったのでございます。
円仁さまは修法争いののち、恵亮さまについてお口になさることはありませんでした。あの修法争いが話題になりましても、まるで真雅さまが修法をなさったかのお口ぶりでございました。
それからもうひとつ。業平さまは奇妙なことをお話しになりました。恵亮さまがお倒れになったことを良房さまに報告した天台の僧の姿を、あの日以来見かけないと。やはり円仁さまには何か秘められたご事情がおありだったのかもしれません。
業平さまはそれ以来、胸の内にずっと不安な思いを抱いておられました。世の安定のためには惟仁親王さまが春宮にお立ちになられるのがよいとお考えでございましたが、神意を尋ねれば惟喬親王さまが必ず春宮にお立ちになられ、また神意に基づく立太子であればすべての者が納得をすると信じておられましたのに、その神意が良房さまの謀で覆されてしまったのでございます。
惟仁親王さまの立太子は神意にかなったものではない、という思いに業平さまは大層お悩みでございました。近い将来、必ず良房さまの謀は世に現れ、神意を穢したとして惟仁親王さまの廃太子の動きが始まる、とお考えになっておられたのでございます。業平さまも円仁さまも、戦は避けねばならないとお考えでした。いっそ良房さまの一件が世に漏れぬようにともお望みになりましたが、それは叶わぬこととも感じておられました。
文徳帝が良房さまに、惟仁親王さまがご成人なさるまで惟喬親王さまを皇位に就けたい、とお申し出になられたのはこの頃のことでございます。
業平さまは帝のこのお申し出に対して、心から賛意をお示しでございました。このようになされば惟喬親王さまのお命もご安泰でございましょうし、また良房さまのお立場に傷をつけることもないとお考えだったのでございます。
業平さまは良房さまにお会いして、このようにお話しになりました。
「右大臣様、この度の帝のお申し出、まことに理に適っております。惟仁親王はあまりに幼く、将来は帝になられるお方としても、この度は惟喬親王にお譲りになられることが、宮中のすべての者たちの理解を得られる最も優れた方法なのではありませぬか。
このような道筋をお通りになられれば、将来皇位にお就きになられる時にも、世の祝福を一身にお受けになられましょう。このままでは右大臣様にまであらぬ噂が立とうかと。現に宮中にはすでに不穏な動きもあると聞いております。
宮中にどのような動きがあろうとも、右大臣様にはいかほどのことでも、とは存じますが、世を束ねておられる右大臣様の周辺にそのような動きがあること自体、避けねばなりませぬ。どうか御一考を。」
しかしながら、良房さまは業平さまのお言葉をお聞き入れにはなりませんでした。良房さまは、惟喬親王さまが惟仁親王さまに簡単に皇位をお譲りになられるとは、お考えになれなかったのかもしれません。あるいは譲位後、上皇としてご権勢をお振いになられるのかと。
業平さまのご心痛はこの時にも消えることはありませんでした。
それでも一年経ち、二年が経ち、時が経つにつれて業平さまのご心痛は少しずつ消えていくように思われました。ところが、もしかするともうこのまま何事もなく事が終わるのではないか、とお思いでおられたやさきのことでございます。惟喬親王さまがお住まいになられておられた有常さまのお屋敷の周りに、不審な侍や下人たちが見かけられるというお話しをお耳になさったのでございます。
業平さまはすぐに有常さまのお屋敷に人を向かわせ、その者たちを調べさせました。そして侍たちが検非違使庁に出入りしているとの報告をお聞きになり、良房さまのご命令によるものとのご確信をお持ちになられたのです。
とうとう良房さまが動き始めたとお感じになられた業平さまは、同時に惟喬親王さまのお命が危ういとお考えになり、有常さまのお屋敷に出向き、御自ら惟喬親王さまの警護に当たられました。けれども業平さまがお屋敷にお入りになられたのちも、不審な侍や下人の数はさらに増えていったのでございます。
ついに業平さまは惟喬親王さまにご出家をお勧めするご決意をなさいました。惟喬親王さまには皇位をお嗣ぎになられるご意思はないと世に示すことで、惟喬親王さまのお命をお救いすることができるのではないか、とお考えになられたのです。
業平さまは有常さまのお屋敷で、惟喬親王さまの御母三条町更衣静子さまにお会いになりました。そこでこのようにお話しをされたのでございます。
しかしながら、惟喬親王さまが良房さまにお命を狙われているかもしれないということはお伏せになりました。侍たちが検非違使の庁に出入りしているという以外、確かな証しもございませんでしたし、それ以上に、静子さまにご不安を抱かせないように、というご配慮からのことでございます。
「惟喬親王の御出家をお認めいただきたく。惟仁親王が春宮にお立ちの今、惟喬親王が帝のお傍におられることで、世に戦乱の種が蒔かれることになりかねませぬ。
公卿の中には、惟仁親王が春宮にお立ちになられたことに納得をせぬ者もいまだ多くおります。折を見て惟喬親王を春宮に、とすでに謀を巡らしている者がおるとも。その者たちは確かに惟喬親王のお味方でございましょう。しかしながらそのような者たちが行動を起こしても、良房様のお力には到底敵いませぬ。一蹴され、踏み潰される。仮に惟喬親王がそうした者たちにご同意なさってはおられずとも災難は降りかかり、高岳親王や恒貞親王のようにご不幸に見舞われる。
また惟喬親王に心から従っている者たちが死罪、あるいは流刑に処されることになりましょう。それを避けるには惟喬親王の御出家しかありませぬ。どうかお聞き入れを。」
静子さまは、惟喬親王さまが春宮にお立ちになられることで、紀氏が再び宮廷の中央に戻ることができるとお考えでしたので、業平さまのお言葉にお従いにはなられませんでした。やはり宮中には惟喬親王さまに心を寄せておられる公卿たちや、良房さまに対するご不満をお持ちの方々の中に、惟仁親王さまを廃して惟喬親王さまを春宮に、とお考えの方々がまだ多くおられたようでございます。静子さまはそうした方々に支えられておられたのでございましょう。また静子さまは、まだ幼い惟喬親王さまをご出家させることを不憫とお思いになられてもおられました。
ところがその後、静子さまのもとにこの噂が届いてしまったのでございます。良房さまが惟喬親王さまのお命を奪おうとなさっておられる、という噂でございます。現に、病の床にお就きになられておられた文徳帝を惟喬親王さまがお見舞いにいらした帰り道、親王さまが不審な侍たちに襲われるという事件が起きました。幸い業平さまのご機転で事なきを得ましたが、静子さまは恐ろしさに震え、惟喬親王さまの立太子をお諦めになられたのです。もしその噂が本当ならば、惟喬親王さまのお命をお守りすることなどできないと、お考えになられたからでございます。
静子さまはどなたかにご相談をなさったそうにございます。そしてその後、惟喬親王さまのお命が狙われることはなくなりました。静子さまはそれでもご心配だったのでございましょう。内裏からお下がりになられて、ずっと惟喬親王さまのお傍にお付きになっておいででございました。
静子さまは帝に、惟喬親王さまを春宮にお立てになることはお諦め下さい、と強くお求めになられました。けれども帝は融さまと同様に、惟喬親王さまが皇位に就くことが皇統を守るうえで大切なことだとして、お取り上げになられませんでした。
文徳帝が良房さま咒殺の修法をお始めになられたのは、御門跡さまのお話しにもございましたように、天安元年のことでございました。業平さまはそのことをご存じでした。どなたからお聞きになられたのか、その頃業平さまは高子さまとの御仲がお進みでございましたので、高子さまからかとも思われましたが、高子さまがそのようなことをご存じであるはずもなく、業平さまもそのことについては何もお話しにはなられませんでしたので、ついにわからずじまいでございます。
業平さまは時を移さず、ひそかに帝にお会いになりました。世を支えておられる帝が臣下を咒殺するという尋常ならぬお振舞に、業平さまは強い危惧をお持ちになられたのでございます。また同時に、咒法に傾倒なさっておられる帝に強い不安を抱かれたためでもございます。
業平さまは帝を強くお諫めになりました。咒は必ず放った者に返ると申します。たとえそれが帝でございましょうとも。しかしながら帝はそのご諌言もお聞き入れにはなられず、業平さまにこのようにお話しになられました。
「私にはもはやこの世の希望はない。生きていたいとも思わぬ。しかしながら皇位にある者として、良房をこのままにはしておけぬ。時間はさほど残されてはおらぬ。その短い時間のすべてをかけて、私は良房を国の怨敵として調伏せねばならぬ。咒が返されることなど、今の私には何ほどのことでもない。
これは私や惟喬のためばかりではない。惟喬も惟仁も私の子である。どちらがより可愛いなどということはない。ただ、幼い惟仁が皇位に就けば、良房の力はより大きくなるであろう。皇位は空洞となるに違いない。そして皇位が空洞化すれば国もまた空洞となる。それは受け継がれてきた国の心が亡びることを意味している。
惟喬ならばその虞はない。私は、私が受け継いだ皇統の意思を断絶させるわけにはいかぬ。またそれを正当な皇位継承者に引き継がねばならぬ。これは皇祖から皇統を受け継いだ者の絶対の責務なのだ。
業平、そなたは惟喬の身内でもある。そなたも惟喬の立太子を望んでおったではないか。良房を誅し、皇位を正当な皇位継承者に継がせようとする私の試みに、なぜ異を唱えるのだ。
だが誰が異を唱えようと、私はこのことばかりは成し遂げねばならぬ。
皇位にある者として、黄泉返ってでも、これだけは成し遂げねばならぬ。」
業平さまは帝の強いご意思をお知りになり、お考えをお変えいただくことはお諦めになりました。そして帝の咒を帝に気づかれぬようひそかに封じ込める手立てをお探しになられたのでございます。
業平さまは再び円仁さまにお会いになりました。お会いになり、咒を封じ込める手立てをご相談されたのでございます。
円仁さまは、帝の後生のために自分が修法をなす、と業平さまにお話しになりました。けれども業平さまは円仁さまのご提案には当初、ご同意なさいませんでした。当時、帝のご依頼による良房さま咒殺の修法僧は円仁さま、という噂も立っておりましたゆえ、円仁さまが何か修法を行っていることが世に知れますと、ますますその噂が真実味を帯びるからでございます。
おふたりは天台・真言、あるいは雑密・修験道・陰陽道、さらには咒言道の流れを汲む行者をも、ひとりひとり挙げてご検討をなさいました。そうした中に修法に長けた行者が何人かはおりましたが、それぞれの宗派での立場もあり、また帝や良房さまとのご関係も複雑で、これぞという者は見当たりませんでした。そして結局、やはり円仁さまが修法をなさることになったのでございます。
この修法はとても難しいものございました。御門跡さまのご推察通り、帝のご依頼を受けた僧は太元帥御修法を行じておりましたが、これは大変強力な咒でございます。生半可な修法ではとても対抗できず、さりとて理由もなく大壇を設けるわけにもまいりません。そこで円仁さまは朝廷に、帝のご健康を祈祷させていただきたい、と願い出たのでございます。帝のご健康に対する加持・祈祷はあちこちの寺で行われておりましたので、円仁さまのお申し出も許されました。
円仁さまは叡山に大壇を設え、七仏薬師法を修することになさいました。帝ご自身のお力の源である薬師如来さまのお力をもって、相手の修法者の咒を抑え込もうとなさったのです。
しかしながらそれでも、この修法の難しさに変わりはありませんでした。何と言っても、帝に気づかれぬよう咒を抑え込むことが極めて難しかったのでございます。万にひとつでも帝に気づかれますれば、帝に咒を送っているとして咒詛の罪に問われましょう。
そこで円仁さまはまず、相手の修法者をこの世の外側に封じ込めることになさいました。円仁さまのお話しによれば、その場所とはこの世の外側にぽっこりと膨らんでできた、小さな毬のようなところだそうにございます。そこはこの世ではなく、さりとてあの世でもない場所とか。この世の一部分を裏返せばそのような場所が生まれるのだそうです。相手の力と円仁さまのお力が正面からぶつかり合い、この世に歪みが生じた瞬間にこの世の外側に毬ができ、敵対する修法者を封じ込める姿を観想することで、本当に封じ込めることができるそうです。ここにおりますわたくしが突然この世の外に封じ込められ、姿が見えなくなるなど、わたくしには想像もつかないことでございます。
円仁さまは、相手の修法者を毬の中に封じ込めさえすれば、たとえ帝が修法者のもとに行幸なされてもその修法者とお会いにはなれず、事情はおわかりにはなられぬとお考えでした。そして相手に強力な咒を送ったのです。ところが円仁さまの咒は行き先を見つけられず、虚しく戻ってまいりました。相手の修法者が咒を送っていると感じるところに何度送っても同じことでした。
ついに円仁さまはその修法者を調伏するご決意をなさいました。帝をお救いするためにはやむを得ないとお考えになったのです。そして一字金輪法をお選びになりました。それはこの調伏法が国のためというより、どちらかと言えば個人の願いをかなえる法だからでございます。円仁さまはこの修法によって仏罰がくだるのなら、ご自分おひとりで引き受けようとなさったのです。
円仁さまは不眠不休で咒を送り続けました。元々痩せてはおられましたが、さらに一層お痩せになり、眼ばかりがギラギラと輝いておりました。その姿は恐ろしく、弟子たちもお傍に近寄れないほどでございました。
しかしながらやはり時間が足りませんでした。帝は良房さまに恨みのお心をお持ちになられたまま、崩御なさってしまわれたのでございます。
円仁さまはひどく落胆され、その後、病の床に伏せてしまわれました。
数日後、叡山をお訪ねになられた業平さまに、円仁さまはこのようにお話しになりました。
「業平殿、小僧の力及ばず、帝をお救いすることができませんでした。しかしながら一つ不思議なことがありました。修法の闘いであると小僧は考えておりましたが、いや、確かに修法の争いではあったのですが、小僧の咒が相手の咒と奇妙にすれ違うのです。強力な咒が放たれていることはわかるのですが、互いの咒が真っ向から組み合っているようには感じられなかったのです。
普通ならば咒が正面からぶつかり合って虚空が歪み、修法をなしている行者にも尋常ならざる圧力がかかるのですが、この度の闘いではそれを感じることはありませんでした。どのように咒を送っても、どのように相手の咒を受け止めようとしても、肩や胸の辺りが軽い感じがいたしました。文徳帝に侍していた行者は小僧さえ知らぬ何か特別な修法をなしていたか、あるいは僧ではなかったのかもしれませぬ。
とはいえ、今となっては小僧に為し得ることはただ一つ、帝の黄泉返りを阻むことだけです。帝が黄泉返られるまでには、これから先まだ何年かは必要となることでしょう。病が癒えますれば、その時には、黄泉返りを阻む修法をただちに始めましょう。」
けれども円仁さまの病は、なかなかご回復には向かいませんでした。業平さまはご健康を考え、円仁さまのご提案を結局はお退けになりました。
「円仁殿、この度の修法においても、円仁殿の修法にあらぬ疑いを掛けていた者が多くいたとか。再び修法をなせば、円仁殿のお立場が危うくなりましょう。またお体を考えますと、円仁殿に再び修法をお願いするのはご無理かと。どなたか、円仁殿、どなたかおられませぬか。」
おふたりは度々お会いになられてご相談をなさいました。そして年が改まった天安二年の水無月晦日の会合の折、円仁さまはあるお名前をお挙げになりました。御門跡さまのお名前でございます。
「業平殿、小僧も随分と長くお目にかかってはおりませぬが、お一人おられました。恒貞親王、今はご出家なさり恒寂法親王と名のっておられます。十年ほど前に俗世をお捨てになり、数年の間は都の近くで修行をなさっておられましたが、その後東国へ向かわれました。確かな話ではありませぬが、今は陸奥におられるようです。
このお方なれば、ご法力においてもお人柄においても、業平殿の願いに添いましょう。ある事件により春宮の地位を廃され、代わって道康親王が春宮にお立ちになられたときにも、道康親王をお恨みするどころか、ご苦労を心から心配なさっておられたほどのお人柄です。
小僧はこれからすぐに陸奥へ立ちましょう。恒寂法親王とお会いして事情をお話しし、お力をお借りいたします。病などと言ってはおられませぬ。この身がたとえ陸奥で果てましょうとも、悔いはありませぬ。」
「いや、病を抱え、さらに齢六十を越えた円仁殿に、この東下りはご無理かと。また、天台の宗門で重要なお立場になっておられる円仁殿が陸奥へお出かけになる名分がありませぬ。帝が良房様調伏のために御復活をなさろうという意図をお持ちであることを、今はまだ良房様に知られるわけにはいきませぬ。円仁殿が陸奥へお出かけになるということが知られれば、あの良房様のことです、きっとそのわけをお調べになる。
恒貞親王ならば私も存じています。私の話ならばきっと耳を傾けてくれることでしょう。また何より、私ならば都を離れる理由を作ることができます。良房様が髪一筋もお疑いになることなくご納得なさる理由を。私にお任せ願いたい。」
業平さまが御門跡さまにお会いになりましたいきさつは、御門跡さまのお話しの通りでございます。
御門跡さまは都にお戻りになられたのち、真っ直ぐに業平さまのお屋敷にお入りになりました。必要な法具を揃え、三角壇を設え、師走の中頃には真済さまの咒に対抗すべく、修法をお始めになりました。けれども真済さまが帝の御復活を支えておられる修法がおわかりにはならなかったゆえ、まずは良房さまへの咒を返そうとなさいました。
真済さまはその頃、すでに出羽国にお移りでございました。出羽から都の良房さまへ咒を送っていたのでございます。その咒はさすがに大変強力なものでございました。また誰かがご自分の咒を返そうとしていることに、真済さまはすぐにお気づきになりました。真済さまは御門跡さまに咒を送り始めたのです。もちろん最初は咒を返しておられるのが御門跡さまとはお気づきではなかっただろうと思います。
それからの修法の闘いは壮絶なものでございました。
業平さまのお屋敷の持仏堂にお籠もりになられておられた御門跡さまは、度々御堂の壁や床に叩きつけられました。時にはそのまましばらくの間意識を失っておられたこともございました。血に塗れ、這うようにして再び三角壇の前にお戻りになると、さらに心を籠めてご祈祷をなさいました。大声で真言を唱え、様々な印契を結び、その印契を裂帛の気迫で、掛け声とともに、勢いよく中空に突き出したりしておられました。
正月が過ぎ、二月に入り、御門跡さまには日ごとにお窶れが目立ち始めました。ほとんどお食事はお摂りにならず、もちろん、お休みになられることもございませんでした。僧衣は破れ、お顔の色も黒ずんできておられました。それでも御門跡さまの気力は衰えることはありませんでした。手応えをお感じになっておられたのでしょうか、ますます迫力が増してきたようにさえ感じられました。
けれども二月二十五日の早朝、御門跡さまは大きな音とともに壇の前にお倒れになられたのでございます。業平さまとわたくしは大急ぎで御門跡さまのお傍に駆け寄りました。よもや真済さまの咒に当てられて闘いに敗れ、お亡くなりになられたのかとの思いが、一瞬頭をよぎりました。
業平さまが御門跡さまを抱き起し、大声でお名前を呼びますと、御門跡さまは微かに笑みをお泛べになられて、「終わりましたぞ。」と一言呟かれました。そしてそのまま深い眠りに入ってお行きになられたのでございます。
これで帝の御復活はなくなった、と業平さまはお考えになりました。ところが二日後にお目覚めになられた御門跡さまは、業平さまにこのようなお話しをなさいました。
「業平殿、真済は確かに死んだ。じゃがこれで帝の御復活を阻めたわけではないようじゃ。闘いが始まるとすぐに、真済は相手がこの僧じゃと気づいた。そして果敢無くなる寸前に僧にこのようなことを伝えてきよった。
真済は死ぬことを望んでおったようじゃ。死なねば帝の黄泉返りを支えられぬと言うての。じゃがただ死んだのでは帝のお傍には行けぬ。生きたい、生きて良房様を咒殺したいという思いを持ったまま死んでこそこの世への執着が残り、また恨みも残って、魔界におられる帝のお傍に行けると言うておった。僧は真済に利用されたのやもしれぬ。染殿后や惟喬親王の危険は、まだ去ったわけではないようじゃ。
生きておった真済の法力ですらあれほどのものじゃった。黄泉返った帝の力がどれほどのものになっておられるか。
染殿后や惟喬親王をお守りするためにも、僧はまだまだ修行を続けねばならぬ。業平殿、僧はもう一度山に籠もろうと思う。」
数日ののち、業平さまとお別れをして都を離れ、御門跡さまは南へ向けてご出立なさいました。
業平さまは都にひとりお残りになり、染殿后さまをお守りする手だてを考えておられました。そして何も手掛かりを得られぬまま半年ほど経ちました、中秋の名月の夜のことでございます。真済さまが大天狗となって転生し、染殿に現れたのでございます。
帝の黄泉返りはお考えでございましたが、真済さまの転生など考えてはおられなかった業平さまは、大層驚かれました。すぐに山に籠もっておられた御門跡さまに文をお遣わしになり、都にお戻りになるようご招請をされたのでございます。
御門跡さまがお籠もりになっておられた山は、都の南にある金剛山でございました。はい、ご推察のとおり、あの金剛山の聖人は、姿を変えた御門跡さまでございます。
業平さまは都にお戻りになられた御門跡さまに、このようにお話しになりました。
「法親王殿、真済が大天狗に転生して、ついにこの世に現れました。おそらくは帝の先導を務める覚悟。大天狗は染殿后に憑りつき、今染殿后はご正気を失っておられるとか。
いよいよその時が来たようです。法親王殿、染殿に入って染殿后をお守りしていただかねばなりませぬ。これは以前真済を調伏した法親王殿にしかできぬこと。
法親王殿はこのところずっと金剛山にお籠もりです。都でも、優れた行者が金剛山に籠もって修行をしているという評判が立ち始めております。それを利用し、法親王殿は雑密の優れた行者として染殿に入り、染殿后に憑りついている大天狗を調伏していただきたい。
染殿に入り込む手立ては、この業平にお任せください。」
こうして業平さまは、家人や郎党たちを使って、金剛山の聖人の評判を都中に広め始めたのです。まずは町人たち。次に侍たち。そしてお公家の方々。
御門跡さまのご法力は間違いのないものでございましたから、金剛山の聖人の評判は瞬く間に都に広まりました。染殿后さまに憑りついた真済さまに困り果てておられました良房さまがそのお噂をお耳になさいましたのは、それから間もなくのことでございます。
十年以上もの間都を留守になさっておられましたが、お顔をご覧になればむろんのこと、良房さまは聖人が御門跡さまであることにお気づきでしょう。それで御門跡さまはお顔を頭巾で隠して良房さまにお会いになられたのでございます。お声は長年の修行ですっかり潰れておいででしたので、そのことはご心配をされてはおられませんでした。
御門跡さまは染殿の座敷牢で真済さまとご対決をなさいました。ところが真済さまのご法力は、御門跡さまがお考えになっておられたものよりはるかに強力なものでございました。真済さまの羂索印で全身を縛られたときには、死を覚悟なさったそうにございます。それでも痛みに耐えながら大日如来さまを観想なさり、真済さまを何とか正気に引き戻そうと語りかけられたのです。
真済さまも魔道に堕ちたとはいえ、まだご自分を完全に見失っておられたというわけではなかったのでございましょう、御門跡さまのお言葉に羂索印を解いたのでございます。御門跡さまはそのことを大層お喜びでございました。その一事をもって、文徳帝と真済さまを魔界からお救いするご希望を、お捨てにはならなかったのでございます。
その後の御門跡さまのご焦燥は計り知れぬものでございました。真済さまのご法力に勝る修法が何であるのか、なかなかおわかりにならなかったのでございます。円仁さまや業平さまとも頻繁にお会いになられて、ご相談をなさっておいででした。業平さまに連れられ、わたくしもいくたびかその場に同席させていただきましたが、明王界の頂点にお立ちの不動明王尊を眷属とする真済さまを調伏する修法があろうとは、どなたにも思えなかったのでございます。
優れた法力を備えていると言われる僧の噂をお耳にされると、御門跡さまはそれがどこであろうとお出向きになられ、不動明王法の修法較べをなさいました。しかしながら御門跡さまのご法力を越える行者はおりませんでした。
そのような時、御門跡さまは天台の円珍さまから、無動寺の相応さまのお話しをお聞きになられたのでございます。相応さまは円仁さまから不動明王法や儀軌護摩法などを授かった、円仁さまのご高弟でございましたが、当時延暦寺を離れ、無動寺に籠もって修行を続けておいででした。また孤高の僧と言われ、世に出ることを嫌い、どなたとお会いすることも拒んでおられました。円仁さまがお名前をお出しにならなかったのは、そのためかと思われます。
御門跡さまはすぐに無動寺に向かわれました。しかしながらご身分を隠し、雑密の行者としてのご面会のお申し出でございましたゆえ、相応さまはお会いになることをなかなかお許しにはなりませんでした。御門跡さまは食を断ち、門前にて何日も、ご面会を果たすまでと、座して相応さまをお待ちになられました。
その甲斐があったのでございましょう。二十日ほどのちに、ようやく相応さまはご面会をお認めになったのでございます。それでも相応さまは、金剛山の聖人は密教の正統な僧ではないとお考えでございましたので、御門跡さまのお申し出をお聞きになっても、まずは無動寺で正統な密教僧となり、伝法灌頂を授かるまで修行をするように、と勧めるばかりでございました。
御門跡さまは致し方なく、円仁さまや業平さまとのご関係を相応さまに告げ、さらにご身分をお明かしになられたのでございます。
その頃、相応さまも染殿后さまのことでお心を痛めておられたそうで、御門跡さまがご身分をお明かしになられたのちは、御門跡さまのお話に親身になってお応えくださったそうです。そして真済さまと不動明王尊とのご関係をお話しになりました。しかしながら御門跡さまのご身分をもお知りになられたため、御門跡さまのお命を危険にさらすことはできないともお考えになり、大威徳明王法を避けるようお勧めになったのでございます。
相応さまは御門跡さまのお話しをお聞きになると、すぐに金峯山寺に文をお遣わしになりました。どの修法をお選びになられるのか、最後のご決断は御門跡さまがお下しになられるといたしましても、金峯山寺の行者にはあらかじめ多少の事情は伝えておく方がよいとの、相応さまのお心遣いでございます。
御門跡さまは最初、明王界の第一位におられる不動明王尊を持している真済さまに対して、大威徳明王法が効験を現すのか、お疑いのご様子でございました。よほど金峯山寺へ出かけて雑密の行者に教えを乞おうかとお思いになられたほどでございます。 染殿を辞してすでに数年を経ておりましたので、ここでまた多少時間を費やしたとしても確かな修法を会得する方がよい、ともお考えになられたのです。けれども染殿后さまのあの、恐れながら、あさましいお姿を思い起こされて、そのお考えをお捨てになりました。たとえ命を落とすことになっても、一刻も早く染殿后さまをお救いしよう、とご決意をされたのでございます。