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恒寂法親王の物語(その2)

 ところが修法の争いから五年後、宮中にこのような噂が流れた。それは三条町更衣静子様の御実家紀氏が惟喬親王を立て、惟仁親王を廃太子に追い込むというものじゃった。その噂は根も葉もないものじゃったが、これに乗じようとする者が大勢おるとも言われておった。良房様に冷遇されておった貴族たちの名前がまことしやかに囁かれ、その者たちはしばしば惟喬親王のもとに集い、計画を練っておるとまでいわれておった。もちろん実際にはそのようなことはあらなんだ。良房様を誰もが恐れておったからの。惟喬親王のもとを訪ねておったのは、業平なりひら殿などごくわずかな者だけじゃった。

 じゃが良房様はそうは思わなんだ。いや、その噂を利用し、ご自分の意思を貫くために、全ての因を断とうとお考えになったのじゃ。惟喬親王の殺害じゃ。検非違使の別当を染殿そめどのに呼び、惟喬親王を亡き者とせよとのご命令をお出しになった。惟喬親王が生きておられると必ず戦が起きると、あらためてお感じになったのじゃろう。

 検非違使けびいしの別当は下人どもを惟喬親王のもとに送り、様子を探らせた。そしてこのことが帝のお耳に入ってしまったのじゃ。

 帝のお怒りは尋常のものではなかった。そして一気にお心をお決めになられたのじゃ。皇統の権威と惟喬親王のため、良房様を咒殺じゅさつなさることをな。同時に良房様の目をらすため、良房様を親王以外では初めての摂政せっしょうの任にあたらせ、また太政大臣に任命されたのじゃ。天安元年二月のことじゃった。そしてその年の夏、帝はとうとうその修法をお始めになられた。

 咒殺のための僧が誰であったのか、しかとはわからぬ。真言院に出入りする者はすべて網代輿あじろこしに乗り、姿を見ることは誰にもできなんだのじゃ。立太子の神意を尋ねる節会せちえで敗北した真済しんぜいであったとも、仲介の際、良房様に軽くあつかわれた円仁であったとも言われておる。じゃが修法の結果からして、修法僧はおそらくこの二人ではなかったろうと、僧は思うておる。

この二人のうちのどちらかであったならば、またあるいは、宗派が違うておるでなかなかあり得ぬことじゃが、この二人が一緒に修法を行ったのであれば、結果は違っておったじゃろう。この二人なら修法の末まで見据えて、最小限の犠牲でことが終わるよう図ったであろう。あの二人にはそれだけの法力ほうりきが備わっておったと、僧は思うておる。

 それに真済はこの修法が行われておる頃もたびたび内裏に参上しておったし、文徳帝がお倒れになられた折には、帝への延命えんみょう・息災の修法を行っておったからの。それにそもそも、この二人が咒詛のための修法僧になることを受けるはずがないと、僧は思うておる。この二人ならば命を賭けても、必ず帝をおいさめしたであろう。

 立太子の修法の闘いの折に恵亮えりょうの血でけがれた内裏の真言院をあらためて浄め、そこに調伏のための三角壇が設けられた。じゃが表向きは春宮惟仁親王の息災を祈願するものじゃったで、大壇の上に火爐かろを据えた護摩壇が真言院の中央に据えられた。そして誰にも見えぬようその奥を仕切り、そこに調伏のための赤い三角壇が据えられたのじゃ。

 行われたのは太元帥御修法だいげんすいみしほじゃったとも、熾盛光法しじょうこうほうじゃったとも言われておるが、秋篠寺あきしのでらから水瓶を積んだ牛車が度々御所に入っておったことから、太元帥御修法に間違いはなかろう。太元帥御修法の加持香水かじこうずいには、秋篠寺の井戸の水を用いねばならぬのじゃ。

 太元帥御修法というのは天台僧常暁てんだいそうじょうぎょうが唐から持ち帰った、髑髏どくろを頭に飾った太元帥明王尊だいげんすいみょうおうそんを本尊にして行う国家安泰のための修法じゃ。敵対するものはすべて調伏され、死に至ると言われておる。良房様は帝に国の怨敵おんてきと見なされたのじゃ。

 表では春宮の息災と国家安泰のための修法、奥では良房様咒殺のための修法が、昼夜を問わず続けられた。御修法みしほは十七日間を一区切りにして、効験こうげんが現れるまでと何度も続けられた。修法のことじゃでやむ無きことかもしれぬが、長すぎたのじゃ。良房様への咒詛が行われていることが漏れてしもうた。 

 春宮息災のための修法とあって、当初は良房様もお喜びであったのじゃが、実は自分を咒殺するものであったことをお耳にされ、良房様はひどくふさぎ込んでおられたそうじゃ。そして側近の者にこのようにお漏らしになった。

「帝はどうして私の思いをわかってはくださらぬ。なにゆえわざわざいくさを引き起こそうとなさるのか。平城帝の長岡京建設とその頓挫とんざ、そしてこの平安京への遷都で民は疲弊し、今でも苦しんでいる。ここで戦が起こればさらに苦しむ。戦などあってはならぬ。

 むろん民のためばかりではない。民が豊かであってこそ、我らもこのような暮らしを続けることができる。どうしてわかってはくださらぬ。ましてや私を咒殺なさろうとは。国をお滅ぼしになろうといわれるのか。何をお迷いになられたのか。今この良房をおいて、ほかにこの国を守れるものが、どこにいるとお考えなのだ。

 民にとって、春宮など惟仁親王これひとしんのうでも惟喬親王これたかしんのうでも、どちらでもよい。仮に皇統などつながらなくとも民は生きていく。民こそが国のいしずえなのだ。守らねばならぬのは皇統などではなく、民なのだ。だからこそ、この良房が支える惟仁親王が帝にならねばならぬ。

 国のため、我一門のため、私はいかなることでもなそう。いや、いかなる者とでも闘わねばならぬ。そして勝たねばならぬ。たとえその相手が帝であってもな。

 まだ死ぬわけにはいかぬ。国と藤原の礎を盤石ばんじゃくにするために、何としても咒に対抗する手だてを考えねばならぬ。

 修法を行っているのは真済か、それとも円仁か。いずれであっても、もう修法などという目に見えぬものに任せておくことはできぬ。それに修法であの二人に必ず勝つと言えるほどの者は都にはおらぬ。修法での闘いに持ち込むことはできぬ。

 しかし、ならばどのような手だてがあるか。」

 数日後の朝、良房様は典薬頭当麻鴨継てんやくのかみたいまのかもつぐ染殿そめどのの奥にお呼びになった。鴨継は内裏に勤める薬師の長で、お身体のお弱い文徳帝もんとくのみかどに日々薬湯を作っておった。

 人払いをされた染殿の奥で、良房様が鴨継に何をお話しになったかはわからぬ。じゃが鴨継は真っ青な顔をして、おこりかかったように、ぶるぶると震えながら染殿を下がっていったそうじゃ。

 鴨継が内裏に再び出仕するようになったのは、それから十日以上もたってからじゃった。げっそりと痩せ、顔つきまでもが以前と異なっておった。元来無口な性分じゃったがさらに一層口数が減り、人を避けるようにいつも薬草蔵に籠もっておったそうじゃ。

 

 僧はこの頃都にはおらなんだ。健岑こわみね逸勢はやなりの変事で春宮を廃され、その六年後に世を捨て、僧となって山に籠もって修行に励んでおったからの。惟仁これひと親王立太子の二年前のことじゃ。都周辺の東山や北山、高尾、また箕面みのう、そして高野山から金峯山きんぷせんまで修行の足を延ばしておった。俗世がつくづく嫌になっておったのじゃ。それゆえ都でこのようなことが起こっておったことは、まったく知らなんだのじゃ。

 それから数年後、僧は東国へ向かった。空海様の御足跡を訪ねるためにの。実際に空海様が全国を行脚あんぎゃなされたわけではないことはわかっておる。じゃが空海様の御威徳がどこまで行きわたっておるか、この目で見ておきたかったのじゃ。

 修行を続けながら陸奥むつに入ったのは、十年ほどのちのことじゃ。僧が思いもかけず業平殿に再びお会いしたのは、この陸奥でのこと、貞観じょうがん元年の夏のことじゃった。この時、文徳帝はすでに崩御され、春宮惟仁親王が清和帝としてお立ちになられておられた。

 業平殿は都に戻ったある修験道から僧が陸奥におることを聞き、僧に会うためにはかりごとをなして都を離れたとのことじゃった。

 業平殿は僧に会うと涙を流して喜ばれ、僧に頼みがあるとお話しになった。このような遠国までわざわざ僧に会いに来られたことを思うと、業平殿の頼みがどのようなものであろうと、僧にできることならば何なりともお引き受けしようと思うた。

 都の事情にうとかった僧に、業平殿はこのようなことをお話しになったのじゃ。

恒寂法親王こうじゃくほっしんのう殿、今都では恐ろしいことが起ころうとしております。是非法親王殿のお力をお借りいたしたく。

 昨年崩御された文徳帝の魂魄こんぱくがいまだ成仏なさらず、この世に御執着され、黄泉返よみがえりを図っておられるのです。その目的は良房様のお命とか。確かに良房様の帝に対するなされ方を考えれば、帝のお心もわからぬわけではありませぬが。

 できれば帝御存命のうちに法親王殿にお会いして、帝の御復活の御意思をお変えいただく方策を御相談するつもりでしたがそれは叶わず、今は帝の御復活を阻み、速やかに成仏していただくことが私の願いです。また都を出立したあとにわかったことですが、帝の黄泉返りを支えているのは真言僧真済しんごんそうしんぜい。これは円仁殿のお言葉です。

 実は陸奥へ出かけて法親王殿にお会いし、お力をお借りするようにと申されたのも円仁殿。円仁殿はすでによわい六十を越え、文徳帝の魂魄と修法の闘いをするには歳を重ねすぎたとお話しになり、この件を解決に導くのは恒寂法親王殿をおいてほかにはおられぬと申されました。

 真済は嘉祥かしょう三年の立太子抗争の折、惟喬親王これたかしんのうについて修法をなし、そして敗れた。また、その七年後の帝の御病気の際にも修法をなしたが効験こうげん現れず、帝は崩御され、結果真済は隠居を余儀なくされた。

こ のため真済は、良房様を初めとする藤原北家一門をことのほか恨んでいるとのこと。確かに、真済が修法に敗れたのは真済の修法の効験が現れなかったためではなく、その修法の効験が現れる前に、良房様がはかりごとをもってその修法を封じ込めたため。

 真済は自分の法力を誹謗ひぼうされたことのみならず、空海殿から伝法灌頂でんぽうかんじょうを受けた身であるにも関わらず敗れたことで空海殿までおとしめられたと考え、そのことに耐えられなかったようです。

 帝が崩御されたあと、真済は仏菩薩に祈ることなく、ただひたすら良房様への恨みを晴らすことのみを念じていると。

 円仁殿によると、帝は良房様のお命を奪うことのみならず、染殿后明子そめどののきさいあきらけいこ様と惟喬親王のお二人を、この世からお連れ去りになられるおつもりとか。

 私はこのような御意思をひるがえしていただきたい。それができぬとあらば、せめて染殿后と惟喬親王だけでもお救いしたい。

 今こうしている間にも、都で何かが起こっているやもしれませぬ。

 帝の黄泉返りを成就じょうじゅさせてはなりませぬ。そのためには法親王殿の御法力がどうしても必要なのです。帝の御復活を支えている真済を調伏ちょうぶくできる御法力をお持ちの法親王殿のお力が、何としても必要なのです。

 私にその御法力をお貸し願いたく、私とともにすぐに都に向かっていただきたく、この地に参りました。」

 業平殿のお話しは意外なものじゃった。

 僧は迷った。まだ俗名でおった頃、僧はある人物のためにその地位を追われた。そうじゃ、春宮の地位じゃ。その地位に執着しておったわけではない。何度も春宮辞退の奏上をしておったくらいじゃからの。じゃが奏上を認めず、いや、握り潰したまま謀をもって僧をその地位から追い落とした人物を、当時は恨んでおった。

 僧が都に戻り、染殿后をお守りするために修法をなせば、それは帝と闘うことになり、ひいてはその人物を守ることになる。そのことに戸惑いがあったのじゃ。帝は僧と二つ違いで、幼いころにはともに心を許して遊んだ仲じゃったでな。

 僧はしばらく考えさせてほしいと業平殿に伝え、大日如来様を安置してあった御堂に籠もった。

 大日如来様の前で、僧は何度も自分に問いかけた。俗界におった頃の恨みに囚われておる自分は、まだ俗世への執着しゅうちゃくが抜けぬのか、とな。また執着しておる自分をそのまま受け入れ、陸奥で修行を続けるべきか、それともこの執着と闘うために陸奥むつを離れ、もう一度世の埃にまみれるべきか、とな。

 七日七晩考え抜いた。人に後れをとらぬ荒行をなし、それなりにこの世への執着を捨てたと思っておった自分にまだこれほどの執着が残っておったことが、僧は悔しかった。そしてさらに、悔しいという思いや執着から抜け出そうとする思いが、また執着になっていきおった。迷路に踏み込んだ思いじゃった。

 八日目の朝、僧は考えることを止めた。長年の修行にもかかわらずこの世への執着を捨てきれぬ自分をそのまま受け入れ、同時にその執着と闘うことにしたのじゃ。身の周りに起こることはすべて有為無常ういむじょう。因縁から逃れられぬと思ったのじゃ。業平殿が僧を訪ねてこられたのも因縁。ならば無常の中に身を置くことが大日如来様の御心にかなう一番の方法じゃろう、流れてみよう、とな。そして業平殿のお言葉に従うことにしたのじゃ。

 業平殿と僧が都に戻ったのは、その年の十月のことじゃった。

 

 少しばかり話が先に進みすぎたようじゃ。もう一度、僧が都におらなんだ頃に話をもどそうかの。

 良房様は真言院での修法がご自分を咒殺するものであったことをお知りになると、文徳帝に、体調がすぐれぬゆえしばらくの間朝廷への出仕を控えたい、と願い出て染殿にお籠もりになった。

 むろん体調がすぐれぬなどというのは方便じゃった。良房様は帝と宮中で顔を合わせることをいとわれたのじゃ。帝も同じ思いでおられたじゃろうがな。

 一方、生来ご病弱だった帝は、これまでにもしばしば病の床にお就きになられておられたのじゃが、修法が行われるようになってさらにご体調がすぐれなくなられたようじゃった。真言院での修法が始まったころは、帝もたびたび真言院にお出向きになられたが、次第にその回数も減っていったのじゃ。

 公卿たちは帝のお身体を心配して日々の薬湯の種類を増やし、また都のうちの主だった寺に、帝のご健康のご回復を祈祷きとうするよう命じた。

 帝はこの頃少しおあせりになられておられたようじゃった。ご自分のご健康にご不安を感じておられたばかりでなく、惟喬親王の周りに危険な気配を感じておられたためじゃった。

 惟喬親王はご幼少のころから、御生母三条町静子様の兄にあたる紀有常きのありつね殿の屋敷にお住まいになっておられた。その屋敷の周りに、不審な、普段は見かけぬ者どもがしばしば見受けられるようになった。有常殿の屋敷の中をのぞき込んだり、使いの者が出かける折にはあとをつけたりしておったらしい。屋敷の者は随分と気味悪く思っておったと言う。

 有常殿はその時分、但馬介たじまのすけとして地方に左遷されておったため、自分では親王をお守りできぬことを歯がゆく思っていたのじゃが、親しかった有常殿の娘婿むすめむこ業平殿が有常殿の屋敷を頻繁ひんぱんに訪れて、有常殿に代わって親王をお守りになった。

 業平殿にとって惟喬親王はお身内筋にあたるとともに、親王が乳飲み子であったころから有常殿の屋敷でお暮しじゃったで、たびたび遊び相手などして、とりわけ身近に感じておられたようじゃったからの。また業平殿は立太子抗争の折には惟喬親王側じゃったで、それ以来良房様に出世を阻まれておったし、また帝が良房様に惟喬親王の、いわば期限付きの皇位継承のご要請をされたこともご存じじゃったから、惟喬親王のお命が危ういかもしれぬともお考えじゃった。業平殿は、敵と見なした者への良房様の仕打ちをよくご存知じゃったからの。そんなこともあって、親王がお出かけの折には必ず数人の家人けにんを常より多く付けておられた。

 そしてその夏のある宵のこと、文徳帝のお見舞いの帰り道、惟喬親王は顔を頭巾で覆った数人の侍に襲われたのじゃ。家人が三人切り殺された。

 その時は胸騒ぎのした業平殿が郎党衆ろうとうしゅうを引き連れてお向かえに行かれたため、親王はご無事であった。乗っておられた御車は血で真っ赤に染まり、あちこちに刀傷が残されるくらい悲惨なことになっておったそうじゃがの。親王は数日の間床に伏せっていなければならぬほど、心に大きな傷を負われたご様子じゃった。切り殺された家人の姿を目の当たりにされたことがいつまでも忘れられぬと、後々までもお話しになっておられた。

 じゃが惟喬親王が襲われたのはこの時限りじゃった。有常殿の屋敷の周りを伺っておった不審な者どもも、いつの間にか消え失せたのじゃ。

 業平殿は有常殿の家人たちに、今後はこのようなことは二度と起こらぬ、安心せよ、とお話しになったとのことじゃ。家人たちは不審に思ったそうじゃが、事実、惟喬親王の周りではこれ以降何事も起らなんだ。業平殿も安心されたご様子で、有常殿の屋敷に親王をお訪ねすることも心持ち間遠になった。もちろん親王はこれ以後、帝をお見舞いされる時以外、お出かけはなさらなかったそうじゃ。


 文徳帝は惟喬親王が襲われたことをお耳にされると、病をおしてすぐさま真言院にお出ましになられた。

 この頃、帝はひどくお痩せになられ、蒼ざめ浮腫むくんできておられた。朝晩の薬湯も効果がなく、お含みになられた直後にお戻しになられることも度々じゃったそうじゃ。痛ましいことじゃが、お優しかったお顔も病のためか、鋭くきつくおなりじゃった。

 惟喬親王が襲われたのはただの一度じゃったが、帝は必ず次があるとお考えになっておられた。帝は惟喬親王を良房様から守るためにと、咒をお急ぎになられたのじゃ。もうあまり時間がないと仰せになられての。自ら真言院の奥にお籠もりになり、咒をお念じになられた。それはそれは胸に迫るお姿じゃった。

 じゃが修法というものは行じる者をも酷く損なうものじゃで、帝は日に日に、目に見えてご衰弱され、何度も床にお倒れになられた。お付の者がその度に御寝所にお連れしようとしたのじゃが、帝はそれを厳しくお断りをされた。じゃがやはりお身体が酷く弱っておいでだったのじゃろう、ひと月ほどのちに、真言院に向かう途中でお倒れになられ、結局そのまま御寝所に運ばれてしもうた。

 御寝所にお戻りになり、起き上がることもおできになれない帝は、惟喬親王と真済を御寝所にお呼びになられた。親王はご自分と真済がともに呼ばれたことを不審に思われたそうじゃが、帝の次のようなお言葉で納得をされたそうじゃ。帝は苦しそうに次のようにお話しをされた。

「聞くがよい。惟喬、真済、私の命はもうさほど、残されては、おらぬ。これは御仏がお決めに、なられたことゆえ、いたし方がない。いたし方はないが、しかしそれでも、私は無念の思いを、払い捨てることが、できぬ。良房は、帝である私を軽んずるばかりか、惟仁の皇位安泰こういあんたいを願って、惟喬の命までも、狙っている。

 先日、惟喬が、侍どもに、襲われた。良房の手の者に、違いない。これは明らかに、私に対する、謀反むほんである。しかし、謀反には違いないが、それを誰も、止められぬ。

 良房は私の死後、必ず惟喬を、亡き者とするよう、画策するであろう。今の私には、もうそれを、止めることは、できぬ。だが今の私にはできぬが、手だてが、ないわけでは、ない。

 二人とも、よく聞け。まずは惟喬。そなたは私の亡き後、良房にひたすら、恭順きょうじゅんの姿勢を、示すのだ。世を捨てるも、よい。だが出家すれば、もう二度と、還俗げんぞくすることはできぬと、覚悟せよ。おそらく地方の、大寺の門跡もんぜきとして、生涯を過ごすことに、なる。二度と都の地を、踏むことができぬやも、しれぬ。しかし、こうすれば、良房もよもや、そなたの命までも、奪おうとはせぬで、あろう。

 いま一つは、そなたが、地方の官を願い出て、できるだけ遠国に、おもむく、ことだ。業平の父、阿保あぼが赴いた、大宰府だざいふあたりも、良いかもしれぬ。そなたが遠国にいる間に、世が変わるやも、しれぬ。

 私は遠国に、赴くが良いと、思う。それならばいつか、そなたが都へ戻る機会が、訪れるで、あろう。いや必ず、訪れる。

 そこで真済、そなたに頼みたい。そなたに私の、延命えんみょう・息災の祈祷を、行ずる僧に、なってほしい。ただしそれは、形のみの、ことだ。私の命が、今少し延びるならば、私の力で、惟喬を守ることが、できるやも、しれぬ。しかし、私への延命の、祈祷には、必ず良房の邪魔が、入り、おそらく、そなたの修法は、うまく、いかぬ。いや、うまくいかなくて、よいのだ。そもそも、延命の祈祷など、なさずとも、よい。私は、死ぬが、よい。死して初めて、私の望みは、果たされる。

 そなたは惟喬・惟仁の、立太子の折の、修法といい、この度の私への、延命・息災の、修法といい、どちらも、良房に、さまたげられたことに、なる。これで、そなたは堂々と、良房をうらむことが、できる。良房に、しゅを送ることが、できる。

 良房に、咒を送るのだ。良房を、降伏ごうぶくせよ。これが私の、最初の頼みだ。

 そして、もう一つ。私は、良房への、果たせぬ恨みを抱いて、魔界へ、ちる。そなたもまた、魔界へ、堕ちよ。堕ちて、私の魔界からの、復活を、支えよ。

 私は、私と惟喬の運命、ひいては、この国の運命を変えた、良房をちゅうさねば、ならぬ。黄泉返って、良房を、滅ぼさねば、ならぬ。しかし、そのためには、私は、死なねば、ならぬ。死して鬼と化し、その上で、黄泉返らねば、ならぬ。これが二つ目の、そなたをここへ呼んだ、本当の、目的だ。

 そして、最後にもう、ひとつ。私は、后明子きさいあきらけいこを、魔界へ連れて、行く。

 明子は、大嘗会だいじょうえの夜、ある秘法により、第一の后となり、私と、婚合くながった。そのことにより、明子は、水神の巫女みこと、なった。水神の巫女は、代々の帝の御霊みたまの、憑代よりしろとなり、当代の帝に、力を伝える重要な、役割を果たす。魔界から、私が咒をもって、この世を守るためには、水神の巫女となった、第一の后の存在が不可欠、なのだ。皇祖より、代々受け継がれた、帝の霊力を、私の魂魄の中に、繋ぎ止めておくためには、魔界においても、水神の巫女、である皇后と、一体と、なり続けねば、ならぬ。これによって、帝としての霊力は、私のもとに、留まる。

 これは、皇位にある者が、死に臨んで、春宮とうぐうに伝える、一子相伝いっしそうでんの、秘法である。だが、私は惟仁に、これを伝えようとは、思わぬ。惟喬が皇位に就くか、あるいは将来、皇位に相応しい者が、現れた時、その者に、この秘を魔界から、伝えよう。

 真済、そなたは皇后を、魔界へ導く、先導となるのだ。命を奪っては、ならぬ。命が果てる前に、魂魄を、魔界へ、導くのだ。その力はそなたが、魔界へ堕ちたなら、その時に、与えよう。

 真済、そなた、私に従っては、くれぬか。」

 帝は真済に頭を下げてお頼みになられた。

 真済は涙を流してそれをお受けし、そのあかしに、常に手首に掛けて持しておった空海様から伝えられた念珠を引きちぎり、必ず御供いたします、とその場で誓ったのじゃ。

 

 文徳帝もんとくのみかどはその後もご体調がお戻りになられることなく、翌天安二年葉月二七日に崩御ほうぎょされた。夜中に多くの血を吐き、酷くお苦しみののち亡くなられた。じゃが、亡くなられたあとの帝のお顔には笑みがうかんでおったそうじゃ。お苦しみの最中、帝は典医も薬師もお断りになり、むしろ死を望んでおられたかのようじゃったと、帝の死に立ち会っておられたあるお方が話しておられた。

 そして文徳帝が崩御されて三か月後、霜月七日に春宮惟仁親王が即位された。清和帝じゃ。御歳わずか九歳じゃった。惟喬親王はその年の春には、すでに大宰府権帥だざいふごんのそちとして九州に旅立っておられたゆえ、文徳帝崩御の折には都にお戻りにはなれなかった。帝の御意思とはいえ、さぞお寂しかったことじゃろうな。

 帝の延命・息災の修法を命じられておった真済は、御寝所の脇に籠もりきりで修法をなしておったが、それは帝の延命のための修法ではのうて、帝とのお約束通り、良房様への咒詛の修法じゃった。

 帝のお側の者たちは、使われておる壇が三角壇であることに不審を抱いたそうじゃが、これは帝に害をなす悪霊を調伏させるための修法である、との真済の言葉を誰もが信じたそうじゃ。良房様でさえ、帝の御寝所の脇で自分への咒詛が行われているとは思わず、時折供物や衣などをお届けになったほどじゃった。

 文徳帝崩御の後、朝廷は真済の修法が効験を現さなかったと厳しく批判し、隠居を申付けたのじゃが、真済はもちろん何も不平めいたことは言わずに受け入れた。

そして真済は隠居の直後から、良房様に修法を妨げられたため帝をお救いすることができなかったと、公然と良房様への恨みの言葉を述べ始めた。世の人々はそんな真済を嘲笑あざわらっておったが、一人良房様だけはそんな真済の言動を警戒されておられた。密かに真済の周りに人をつかわし、真済の行動を逐一報告するようにと、指示をお出しになったのじゃ。

 同時に、差しさわりのないいくつかの事情を真雅にお話しになって染殿に招き、自分の周りに結界を巡らし、真済から咒が送られておるようならばその咒を返せ、とお命じになった。場合によっては真済を咒殺しても構わぬとも仰せじゃった。

 じゃがさすがに真雅も、真済を咒殺する気にはならなかったようじゃ。真済とは同じ空海様の弟子どうしであったし、それよりなにより、真雅には、たとえ良房様の御命令でも、咒殺する理由がわからなかったのじゃ。良房様はその理由をはっきりとはお話しにならなかったし、また真済はすでに隠居しておったからの。

 良房様に咒を送っている行者は真済ではないと、真雅は考えておったのかもしれぬ。それで真雅はあらゆる咒から良房様をお守りするために、染殿の周囲に結界を張り巡らせはしたが、それ以上のことはせなんだのじゃ。

 真済はその後都を捨てて出羽国に移り住んだ。小松の山に小さな寺を建立こんりゅうしてそこに籠もり、そこから良房様に咒を送り続けた。出羽国に移り住んだのは、良房様が真済に刺客を送ったという噂があったからじゃ。

 良房様に咒を送り続けることと、死後帝に従って魔界に堕ちるという帝とのお約束を守るために、真済は人であることを捨てた。獣の肉を喰らい、近隣の村の娘を無理やり犯し、『大日経』を逆さに読むなど、あらゆる仏道の戒を犯して咒を送り続けたのじゃ。何としても、帝とのお約束を果たしたかったのじゃろう。

 総髪を振り乱し、あかまみれでぼろぼろに破れた衣をまとって辺りを歩き回る姿は、餓鬼そのものに見えたそうじゃ。

 真済は文徳帝崩御の二年後、貞観二年如月二五日に入滅にゅうめつした。両の眼を見開いて都の方角を睨み付け、唇が裂けるほど大きく口を開け、そこからは舌がだらりと垂れ下がり、両の手で印契いんげいを結んだまま木乃伊みいらのように枯れ果てて死んでおったそうじゃ。

 じゃが良房様はご無事じゃった。真済の咒は良房様には届かなかったのじゃ。真雅の張った結界が、良房様をお守りしたのじゃろうな。


 ところがその翌年の夏のことじゃった。大きな月が夜空に浮かび、染殿では名月をでる宴が開かれておった。遠くの山寺から後夜の鐘の音が聞こえたその時、空がにわかにき曇り、月が隠れると大風が吹きだした。庭の立木が騒ぎ、あげられておった蔀戸しとみどから風が吹き込み、灯りはすべて消えて周囲は闇に包まれた。

 やがて高い闇の奥から大きな笑い声が降ってきた。良房様のお屋敷染殿に、蜥蜴とかげに羽が生えたような奇怪な魔物に乗った大天狗が現れたのじゃ。

 大天狗は毛をむしられた鶏のようなおぞましい姿をした大勢の邪鬼どもを引き連れ、夜空高くから軽々と染殿の大屋根に飛び移ると大声で叫んだ。 

乃公おれ愛宕山あたごやまの大天狗。お前たちの謀により現世の名誉すべてを失った、真済転生しんぜいてんしょうの姿だ。良房とともに謀をなしたお前たちを残害すべく、ここにやってきた。

 良房、その身内の者ども、そして良房に加担する小人ども、乃公がお前たちを必ず阿鼻灼熱地獄あびしゃくねつじごくに突き落とす。

 良房、お前は最後だ。お前がしいした文徳帝もんとくのみかどが鬼となり復活する時まで、必ずお前を生かしておかねばならぬ。帝はお前がなしたすべてを知っている。帝も乃公もお前の所業を決して許さぬ。

 帝は今、魔界にて復活の準備を進めている。乃公がそれを支える。

 お前の命はすでに文徳鬼もんとくきに握られている。逃げることは叶わぬ。たとえどこに逃げようとも、乃公たちから身を隠すことはできぬ。お前は、お前の身内の者どもが次々に狂っていく様を、なすすべもなく眺めることとなる。

 文徳鬼は必ず復活する。そのしるしみささぎに現れ、火炎ののちこの世に転生する。良房、それまではこの乃公がお前に、存分の苦しみを味わわせてやろう。」

 その顔は確かに真済のものであったが、とても生きておった頃の枯れた穏やかな顔つきではなかった。真っ赤に燃え上がって飛び出した両の眼は吊り上り、口は耳の近くまで大きく裂け、唇は鷹のくちばしのような形に変わり果てておった。山伏の姿をした真済の背丈は一丈を超えていたであろう。

 大天狗は邪鬼とともに庭に飛び降りると、武器を手に集まって来た良房様の家来衆十数人を、持っておった錫杖しゃくじょうで瞬く間に殴り殺した。庭は立ってはおられぬほどのぬるぬるした血糊で真っ赤に染まり、血溜まりには頭を潰された侍どもが、牛車に踏み潰された野良犬のようになって倒れておった。溜まった血にまん丸な月が映って、赤くきらめいておった。

 大天狗は薄笑いを浮かべて死体を眺めておったが、やがて邪鬼どもの中央に仁王立ちになると蜥蜴の化け物を呼び、再び背に飛び乗って夜空の奥に舞い上がって消えた。あとには獣の死骸が発する腐臭のような、嫌な臭いが立ち籠めておった。

 染殿に集まっておった公卿たちは恐れおののいてただ震えておったが、良房様だけは、多少お顔の色は蒼ざめておったが、大天狗の消えていったかたにらみ付け、ただ一言「真済が、何をたわけたことを。」とお漏らしになった。

 染殿にお下がりになられておられた染殿后明子様に御変調が見られるようになったのは、染殿に大天狗が現れたその夜からじゃった。

 

 この頃都では、金剛山こんごうさん聖人しょうにんの評判が、あちこちで聞かれておった。聖人自身は金剛山のいおりに籠もりきりで、都に出てくることはなかったのじゃが、物の怪にりつかれた者の家人が除魔の祈祷を頼みに行くと、山の庵で修法をなして物の怪を退散させた。除病・除魔・息災・増益・調伏・訴訟なんでも思いのままに行い、うまくいかなかったためしはなかった。

 この噂を良房様がお聞きになり、染殿に招いた。

 真雅は真済の入滅後病を得て染殿から下がり、一の長者として東寺に戻っておった。染殿に張られておった結界はすでに解かれ、良房様は真済の大天狗が染殿に現れたのは、そのことが原因とお考えじゃった。良房様は何度も真雅を呼び、真雅も染殿に行こうと試みたのじゃが、病はことのほか長引き、とても染殿に出かけて行くことはかなわなんだ。真雅の弟子たちも、出かけようとする真雅を必死で止めたそうじゃ。それで大天狗と法力を競える僧はいよいよ見当たらなかった。

 良房様は金剛山に使いの者を遣わし、都に来てある高貴なお方を守ってほしいとご招請になった。じゃが金剛山の聖人は、自分はまだ修行中の身ゆえ山を下ることはできぬ、と断った。使いの者が都と山を何度か行き来し、結局金剛山の聖人は良房様のご招請を受け、翌貞観四年の春、都に出てきたのじゃ。

 染殿に現れた聖人は薄墨色うすずみいろの僧衣をまとい、顔をすっぽりと頭巾で覆っておった。

 良房様は聖人と対面するとこのようにお尋ねになった。

「そちの噂は耳にしている。随分と修法にけているとのこと。名は何といい、師は誰で、どこで修行をしたのか。またなにゆえ顔を隠しているのか。重大な修法を頼むゆえ、そちのことを知っておかねばならぬ。答えよ。」

「名はありません。俗世に住まいいたしておりました頃にはあったように思われますが、修行を続けるうちに失念いたしました。

 師は、強いて申し上げれば、役小角えんのおづぬ様でございます。師の足跡を辿たどり、ただ一人修行をしてまいりました。あるいは山で出会うすべての修験道の者たちも、師と言えるかもしれません。

 修行の場は山でございます。都周辺はいうに及ばず、西は四国・九州、東は陸奥まで、日本中の山が私の修行の場でございました。

 顔を隠しているのは他でもございません。若き頃、加持・祈祷の真似事を見様見真似で行っておりましたところ壇の火が衣に燃え移り、その炎が顔を焼きました。修行の至らぬ行者への仏罰でありましょう。それ以来顔に醜い火傷の跡が残り、人々に不快な念を抱かせぬようこうして顔を頭巾で覆っております。ご無礼とは存じますが、どうかお許しください。」

 良房様はこの話を聞くと、聖人にこのようにお話しになった。

「そちも存じていることと思うが、先頃愛宕山に大天狗が現れた。真済の生まれ変わりと申している。その大天狗が二年前に崩御された文徳帝の皇后、私の娘でもある明子様に憑りついた。真済は立太子をはか節会せちえの折、私が真済の修法をはかりごとをもってさまたげたとして、私に恨みを持っているとのこと。しかしあれは恵亮えりょうの命懸けの修法が効を奏したというべきもの。

 以来皇后は正気を失い、あらぬことを口走り、奇矯ききょう・乱暴をなし、とても人とは思えぬ所業。何人もの僧に祈祷をなさしめたが効験現れぬ。今は奥の座敷にお籠りいただいているが、皇后の地位におられたお方をこのままでお預かりしておくことはできぬ。大天狗に命を奪われるやもしれぬ。

 そこでそちの法力ほうりきを借りたい。そちの法力をもって大天狗を調伏ちょうぶくせよ。」

 金剛山の聖人は、都に出てくる前からそのことを聞いておったようじゃ。

「太政大臣様、私には真済が染殿后そめどののきさい様をり殺そうとしているとは思えません。染殿后様は帝の御寵愛を人一倍お受けになられておられたお方。真済が帝御復活の支えをしているのであれば、その真済が染殿后様のお命を奪うなど、帝がお許しになられるとは思えませぬ。

 これは太政大臣様のもっともお近くにおいでになられる染殿后様に憑りつくことによって、太政大臣様御自身をお苦しめするためのものでありましょう。染殿后様のお命が目的ならばいざ知らず、そうでないなら、お救いする手立ては必ずあると思われます。

 しかしながら染殿后様は太政大臣様の大切なお方。染殿后様をご覧になられておられる太政大臣様の、また染殿后様御自身のお苦しみもいかばかりか。少しでも早くお二人のお苦しみを除くため、全力で修法に励みましょう。真済の法力ならばおおよその見当はついています。

 まずは私を染殿后様のもとへお連れください。」

     

 染殿の家人に連れられて、金剛山の聖人しょうにんは広い庭に面した長い廊下を辿り、いくつもの角を曲がり渡殿わたどのを通って、染殿后明子様が閉じ込められておった、東北対とうほくのたいの一角に作られた座敷牢に向かった。

 座敷牢の前に控えておった侍たちを下がらせると、金剛山の聖人は真済の魂魄こんぱくが外界に逃げ出さぬよう、座敷牢をすっぽりと囲い込む形に結界を張り巡らせ、静かに錠を開けた。薄暗い十二畳ほどの部屋の隅に、力の抜けた両手をだらりと両脇に垂らして、染殿后が静かにお立ちになられておられた。 

 つややかな御髪おぐしが鼻筋の通ったお顔にはらりとかかり、黒目がちの両の眼がうっすらと開かれ、遥か遠くをぼんやりと眺めておられるご様子じゃった。ご正気を失われておられるとはいえ、お立ちになられたそのお姿は、ほんにお美しいものじゃった。

 金剛山の聖人はそのあまりにも高貴なお顔立ちと、大天狗に憑りつかれたご不幸に思わず涙をこぼした。じゃが染殿后は入ってきた聖人に気付くと、忽ち夜叉やしゃのようなお顔に変貌へんぼうされ、いきなり聖人につかみかかろうとされたのじゃ。羽織っておられた純白の襦袢じゅばんの前がはだけ、美しくまどやかな両の乳房が零れ出た。

 聖人は不動明王尊の、魔を縛る印契である羂索印けんさくいんを結び〝ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン〟と真言しんごんを唱えると、染殿后を刺し貫かんばかりに両手を鋭く突き出した。染殿后は一丈ほども後方に飛ばされ、畳の上に仰向けにお倒れになられた。

 しばらくの間、聖人は両腕を突き出した形のまま、倒れた染殿后を見つめておった。じゃが染殿后はお倒れになられたままじゃったで、聖人はゆっくりとお傍へ歩み寄ったのじゃ。ところが聖人がお顔を覗き込むと、染殿后は薄笑いを浮かべておられたのじゃ。そして低いかすれた声で聖人にこう囁いた。

「無駄だ。三世諸仏さんぜしょぶつが出現せぬ限り、乃公おれを調伏することはできぬ。ましてやお前などに乃公は倒せぬ。不動明王は今や乃公の眷属けんぞく。乃公に向けられた咒は向けた者に返される。見よ。」

 染殿后が飛び上がるように立ち上がると、聖人の体は天井近くまで一気に浮きあがり、まとっておった僧衣と頭巾が聖人の全身を締め付け始めた。息ができず、まして体を動かすことなどできなかった。やがて全身の骨がぎしぎしときしみ始めた。

「これが役小角があやつった羂索の法というものだ。動けるものなら動いてみよ。」

 聖人は即座に咒を返す真言を唱えたのじゃが、締め付ける衣のために印契すら結べず、染殿后には何の効験も現れなかった。そこで聖人は必死の思いでこう語りかけたのじゃ。

「真済様、あなたはこのようなことをなさる方ではありませぬ。あなたは空海様の御法統を、もっとも正しくお継ぎになられておられた方です。実慧じつえ様亡きあと、真雅様とともに、もっとも崇敬すうけいをお受けになられていたではありませぬか。」

 染殿后はふっと笑みをうかべられた。気を失いそうになっておった聖人でさえ思わず笑みを返しそうになったほど、美しい笑顔じゃった。その笑みを見ながら、聖人は自分の意識が遠のいていくのを感じた。

 じゃがその瞬間、突然羂索印が解かれ、聖人は畳に叩きつけられた。聖人が痛みにあえぎながら目を開けると、すぐ目の前に恐ろしい目をした、じゃが限りなくお美しい染殿后のお顔が迫っておった。

「乃公の邪魔をするな。この次乃公の前に姿を現したなら、たとえお前でも容赦ようしゃはせぬ。去れ。」

 染殿后は聖人の耳元でこう囁くと再び部屋の隅に下がり、遠くをぼんやりと眺める姿に戻ってしまわれたのじゃ。もう何を話しかけても染殿后はお返事をなさらなかった。魂がこの世からどこか遠くに連れて行かれたかのごときご様子じゃった。

 聖人は座敷牢から出ると良房様の御前に行き、このように語った。

「太政大臣様、真済の法力は魔界にてはるかに強力になっているようでございます。私の知っておりました真済の力とは全く違っております。今の私の力では真済には通じません。勝手ながら今しばらく時間をお与えください。必ず染殿后様から真済を退散させる手立てを見つけてまいります。

 また、真済には染殿后様を害する意思はないものと思われます。染殿后様のお命はご無事でございましょう。しかしながら、真済の悪しき魂が長く留まりますれば、今後染殿后様のお心に悪い作用を及ぼさぬとも限りません。これからすぐに思い当たりますところを訪ね、真済を調伏する修法を会得してまいります。」

 聖人はこう言って染殿から下がっていったのじゃ。良房様は怪訝けげんそうなお顔をしておられたが、聖人はそのまま染殿をあとにした。


 これ以後、聖人は都や都周辺の主だった寺を一つ一つ訪れ、修法較べを行いながら不動明王尊の修法に長じた僧を訪ね歩いた。そしてやっと無動寺の天台僧相応てんだいそうそうおうに出会ったのじゃ。聖人が染殿を辞して、既に四年が過ぎてしまっておったがの。

 染殿后はこの間、時折ご正気に戻られることもおありじゃったが、大きくお変わりになられることはなかった。ずっと座敷牢の隅に立ち尽くし、御食事も御睡眠もまったくお摂りにはなられなかったそうじゃが、それでもお痩せになられることも、ご体調をお崩しになられることもなかったそうじゃ。

 相応は比叡山で修行しておった時代に、文徳帝もんとくのみかど女御多可幾子にょうごたかきこ様にりついた悪霊を不動明王法で退散させたことのある、天台の高名な僧じゃった。また表に立つことを嫌う僧で、自ら延暦寺を離れ、無動寺で修行を続けておった徳の高い僧じゃった。

 金剛山の聖人は、相応に真済が染殿后に憑りついた経緯を話し、真済を染殿后から退散させるための修法を尋ねたのじゃ。相応は聖人しょうにんの話を聞くとこのように語った。

「真済様は生前から不動明王尊の明咒みょうしゅを持しておられました。ゆえに不動明王尊の咒が真済様に通じることはありません。ましてや魔界にて不動明王尊を御眷属ごけんぞくに得られたのであれば、どのように強く不動明王尊の咒を当てられようとも、真済様に効験が現れることはありますまい。いえ、咒を当てられれば当てられるほど、真済様はその咒を取り込み、御自身の咒力はますます強力になっていくものと思われます。

 真済しんぜい様を降伏なさろうとするならば、大威徳明王法だいいとくみょうおうほうを修するしか手立てはないのではありますまいか。しかしながら大威徳明王法は、かつて恵亮えりょう様がそうであったように、聖人様のお命を奪うことにもなりかねません。でき得るのならば、ほかの修法をお探しになられるのが良策かと存じます。

 直接には存じませぬが、なんでも金峯山寺きんぷせんじには修験道の流れをくむ、雑密ぞうみつの修法に長けた行者がおられるとかお聞きいたしております。」

 じゃが聖人は染殿后をお救いするためには、自分の命など取るに足らぬと考えておったのじゃ。金峯山寺に出かけていっても、その行者が修行の旅に出ておれば、また何年も待たねばならぬからの。不動明王法が通じぬとあらば、大威徳明王法であろうが降三世明王法ごうさんぜみょうおうほうであろうが、命と引き換えにしてでも修する覚悟を決めたのじゃ。

 そして再び染殿を訪れた。

 良房様を通じて清和帝のお許しを得ると、内裏の真言院から空海様が嵯峨帝に寄贈された大威徳明王尊像を借り受け、修法に必要な仏具や五穀・香・蘇油そゆなどを染殿に取り寄せた。そして真済の名の書かれた乳木を百八枚こしらえたのじゃ。

 聖人はこの時、この修法を修することで命を失うことになると思うておった。じゃがたとえそうであっても、真済を退散させねばならぬと固く心に決めて修法に臨んだのじゃ。

 赤みがかった黒の衣を纏い、不動明王尊の真言を唱えながら、座敷牢の錠を外して中に入った。厨子ずしに納まっておった大威徳明王尊を本尊として牢の北に据え、三角壇をしつらえた。この時、厨子の扉は固く閉ざされたままじゃった。

 染殿后は獣のようにお体を丸めてお休みになられておられ、その脇にはもてあそばれて食い千切られた鼠の死骸が散乱しておった。染殿后は聖人がそこにおることなど気にも留めないご様子で大きな欠伸あくびなどなさり、その後ゆっくりと体を起こすと四つん這いになり、初めて聖人の方をお向きになられた。そのお口の周りにはところどころ鼠の赤い血がこびりついておった。

 聖人は壇の前に座ると不動明王尊の真言を止め、黙って厨子の扉を開いた。そしてゆっくりと大威徳明王尊の印契いんげいを結び、大声で大威徳明王尊の真言を唱え始めたのじゃ。

ーオン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ

ーオン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ

 その途端、染殿后は両の眼をかっと見開き、獲物を狙う狼が飛び跳ねるように立ち上がると、両腕を肩の高さに持ち上げ両手を開き、指を立てて掴みかからんばかりのご様子で聖人を睨みつけられたのじゃ。

 聖人は積み上げられた十一本の段木に火をつけると念珠を両手に掛け、袖のなかで珠を一つ一つまさぐりながら真言を唱え、再び大威徳明王尊の印契を結び直し、心を集中して大威徳明王尊が仏敵を調伏ちょうぶくするお姿を観想した。

 染殿后は両腕を掲げたまま、ゆっくりと一歩ずつ聖人に近づいてきた。

 聖人は再び目を開けると、大威徳明王尊の真言を唱えながら、用意して

あった真済の名の書かれた乳木を立て続けに火に投じた。

 乳木は炎を上げて勢いよく燃えあがった。乳木が燃え上がると同時に、染殿后は美しいお顔を急に苦しそうに歪め、上を向いて大きく、狒狒ひひのようにえた。

 お美しいお顔が細かく震え始め、その下から真済の顔が微かに、二重写

しに現れたのじゃ。真済の顔は苦痛に歪んでおった。

 染殿后のお口から、真済の苦しげな声が聞こえた。

 「なにゆえお前は良房に力を貸すのか。良房には恨みがあれこそ文徳鬼もんとくき、いや道康親王に恨みはないはずだ。今すぐその修法をやめろ。そしてここから出ていけ。お前に乃公おれの気持ちがわからぬはずはない。」

 聖人はさらに数本の乳木を火に投じ、大威徳明王尊の真言を唱え続けた。

 真済の顔がはっきりと染殿后のお顔の上に現れた。その顔はまぎれもなく真済のものじゃったが、禍々(まがまが)しさに溢れておった。とても人の顔と言えるものではなかった。

 真済は染殿后のお口から煙のように抜け出すと大天狗の姿に戻り、金剛山の聖人に向き合った。染殿后は支えを失い、床に崩れ落ちた。

 聖人は大威徳明王尊の印契を結んだまま立ち上がり、渾身こんしんの気を込めて、近づいてくる大天狗にその印契を投げつけた。大天狗は大きな叫び声とともに後ろに飛ばされ、染殿后の上に倒れこんだ。そして染殿后を抱きかかえると聖人を睨みつけ、掠れた声でこのように叫んだ。

「やめろ。乃公は文徳鬼が復活するまで魔界に戻るわけにはいかぬ。文徳鬼復活の道筋をつけねばならぬのだ。

 修法をやめ、結界を解け。乃公はこの女の命を奪うわけにはいかぬ。だがお前が修法を続け、結界を解かぬならやむを得ぬ。乃公は女を殺す。

 さあ、修法をやめろ。結界を解け。結界を解くのだ。」

 聖人はやむなく修法を中断し、結界を解いた。大天狗は霧のように姿が薄れ、消えて行った。

 残された染殿后はもとの優しいお顔にお戻りになり、うっすらと眼もお開きになられたが、何も見えてはおられないご様子じゃった。

 

 その後染殿后のお心は落ち着かれ、静かなお暮しをされておられた。大天狗の噂も聞かなんだ。

 ところが大天狗が染殿から退散した三年後、貞観じょうがん十年の秋のことじゃった。文徳帝の御命日の日、野火によって帝の御陵ごりょうが火に包まれた。このことが都の人々に大天狗の言葉を思い出させた。〝復活の徴がみささぎに現れ、火炎ののちに帝が鬼となって復活する〟という言葉をな。

 都の人々は再び息をひそめ、おののきながら暮らすようになった。公卿たちもあちこちの主だった寺に加持・祈祷をなさせ、帝の御霊みたましずめようと躍起じゃった。

 じゃがその願いは叶えられなかった。

 貞観十四年葉月二十七日、崩御から十五年後の御命日の日、ついに文徳帝は鬼となって黄泉返られたのじゃ。

 その夜は櫛の歯のような細い月が昇っておった。満点の星の下で、真っ赤な紅葉が冷たい銀色に煌めき、異様な雰囲気をかもし出しておった。この世のものとは思えぬほどの、不気味な静けさじゃった。

 帝の御陵が火に包まれて以来、良房様は華美な管絃の宴を控えておったのじゃが、そのような染殿の庭に微かに横笛の音が響いた。染殿の家人どもが何事かと思い庭に出てみると、広い庭の中央に濃い霧の柱が立っておったのじゃ。高さはおよそ十丈(約三十メートル)、幅は三丈ほどもあったかの。笛の音はその霧の中から聞こえておった。

屋 敷の者たちが息をひそめて見守っておると、夜空に黒い雲が現れ、辺りは闇に覆われた。雲が切れ、再び銀色の光が戻ると霧は消え失せ、真済の大天狗と、その後ろにほうを羽織った全身真黒な毛に覆われた鬼が立っておったのじゃ。文徳鬼じゃった。文徳鬼の身体は大天狗の二倍はあったろう。二つの大きな眼をき、左の手に一振りの剣を携えて辺りを睨め回した。この世の全てがてつき、月さえもが震えておるように感じられた。

 その場におった者は誰も口もきけず、中にはその場に倒れたまま息絶えた者もおった。文徳鬼はその場の主だった者たち一人一人を指さすと、夜空に向かって大きく吼えた。染殿が大きく揺れた。誰もがもう助からぬと思うた。

 その時のことじゃ。染殿后そめどののきさいがお出ましになられ、裸足のまま庭にお立ちになられた。両の眼から涙が溢れておった。染殿后は涙を隠そうともなさらず、真っ直ぐに文徳鬼を見つめられたまま歩み寄り、その胸に縋り付いたのじゃ。

「道康さま、お久しゅうございます。この日をどれほどお待ち申し上げておりましたことか。」

 あとはもう言葉にならなんだ。染殿后は長い間文徳鬼の胸に顔を埋めたまま、肩を震わせておられた。そうして文徳鬼は染殿后に連れられて、染殿の奥の御寝所に消えて行ったのじゃ。

 それから丸三日の間、お二人は御寝所からお出ましになられることはなかった。染殿后の絶え入るようなお声が夜も昼も続いておった。

 大天狗は御寝所の前で、お二人をお守りすべく立ち尽くしておった。

 文徳鬼が御寝所からようやっと出てきたのは、四日目の朝のことじゃった。文徳鬼は袍を羽織った姿で庭に降り立つと天を仰ぎ、何か二言三言呟くとやがて次第に姿が薄らぎ、朝の光の中に溶けて消えてしもうた。良房様も染殿に詰めておった公卿たちも、これで文徳鬼は退散したと思うた。

 じゃが文徳鬼が消えて五日目の朝のことじゃ。宮中から急な使いがやってきた。典薬頭当麻鴨継てんやくのかみたいまのかもつぐが変死したという知らせじゃった。鴨継の死体は御所の紫宸殿ししんでんの屋根の上に投げ捨てられておったそうじゃ。

 紫宸殿の屋根から血が滴り落ち、それに気付いた蔵人所くろうどどころ雑色ぞうしきが屋根に登って見つけたそうじゃ。手足は千切れ、頭は捩じ切れ潰されておった。脇には壊れた薬草箱が投げ出されており、辺りに種々の薬草が散らばっておった。その中には猛毒の毒空木どくうつぎの実や、附子ぶすの根もあったそうじゃ。

 良房様がご体調を崩されたのはそれからのことじゃった。召し上がったものを全て戻すようになった。何かお召し上がりものがさわられたのではと皆が心配しておるうちに、良房様のお身体が痙攣けいれんし始めた。痙攣が始まる前の数日間は高熱が続き、熱気で傍にも寄れぬほどじゃった。息をなさるのも難儀そうで、叡山や東寺の高僧たちが延命の修法をなしたのじゃが、良房様の症状はひどくなるばかりじゃった。時折熱にうなされておられた。

「なにゆえお分かりいただけぬのでしょう。これが我が国にとっても民にとっても、最善の策なのです。」 

 痙攣の始まった翌日、貞観十四年長月二日、良房様は薨去こうきょされた。

また鴨継に続き、鴨継の息子を初め当麻の一族は、次々に狂い死にをしたのじゃ。

この時、聖人はすでに染殿に入っておった。文徳帝の御命日の十日前、貞観十四年葉月十七日、金剛山に使者が遣わされたのじゃが、聖人は金剛山にはおらなんだ。使いの者は虚しく都へ戻ったのじゃが、その時聖人はすでに都におったのじゃ。聖人の方から染殿に出向き、染殿后をお守りしたいとの申し出があって、使いの者が金剛山に出かけた直後に染殿に入っておった。

 良房さまが薨去されて二日目の夜、染殿に再び文徳鬼が現れた。

 文徳鬼は先の日と同じように、染殿后と御寝所に籠もった。お二人のむつまじい声がしばらくの間聞こえておったが、それが聞こえなくなってしばらくすると、染殿后のかすかなあえぎ声が聞こえ始めた。その声は翌日の夕暮れまで続いた。染殿に詰めておった者どもは、ずっと息をつめて見守っておった。

 お二人が几帳きちょうの後ろからお出ましになられたのは、夕陽が山のに隠れる少し前のことじゃった。文徳鬼は弓手ゆんでに剣を一振り持っておったが、お二人とも何もお召しになられておらず、じゃがそれを露ほどもお気になさるご様子もなく、皆の前に現れたのじゃ。

 お二人は並んで庭にお降りになると、落葉した紅葉が敷物のようになっておった大きなかえでの樹の下にお座りになられた。染殿后は文徳鬼の胸にお体をお預けになり、じっと両の眼をつむっておられた。そのお顔はいかにも幸せそうで、また、たとえようもなくお美しかった。染殿后が文徳鬼の体に身を寄せると、文徳鬼はもとの帝のお姿にお戻りになられた。

 帝は時折染殿后のお肌を優しく撫でたり、染殿后を抱き上げて膝に乗せたりしておられた。染殿后はその時、安らいだお顔で、お心もお体もすべて文徳鬼にお預けになられておられるご様子じゃった。

 やがてお二人は紅葉の敷物の上に体を横たえ、お二人だけの世界に入ってお行きになられた。それは理趣経りしゅきょうに書かれた十七清浄句じゅうしちせいじょうくの世界そのものじゃった。男と女の営みがこれほど清らかで美しいものじゃったとは。人間の心が、身体が、そのまま菩薩のお姿を映したものということを、僧はこの時つくづく思い知った。皆、思わず手を合わせたのじゃ。

 帝は染殿后のお耳にお口をお近づけになられると、何ごとかをささやかれた。染殿后はすっと立ちあがり、楓の枝に掛けられておった純白の絹のはたを肩から掛け、そして帝の前で舞を舞われたのじゃ。『迦陵頻かりょうびん』と呼ばれる、極楽の霊鳥迦陵頻伽れいちょうかりょうびんがが遊ぶ姿を模した舞じゃった。純白の布が迦陵頻伽の翼のようになびき、染殿后の手足は菩薩の祈りの姿のように神々(こうごう)しく、優雅な形を作っておった。美しかった。帝も純白の絹を纏うと、染殿后とともに舞い始められた。

 お二人は近づいたり離れたりを繰り返しながら、優美に舞い続けられた。お二人の舞は雅楽寮のどの舞師の舞よりも美しく、気高く気品にあふれ、そして楽しげで、何より心を打つものじゃった。周りの者たちはその舞に魅了され、涙を流しておる者さえおった。そして舞を見ておった者の耳には、『迦陵頻』の楽曲が、確かに聞こえておった。

 舞い終わった時、人々の口から大きなため息が漏れた。舞い終わると同時に、帝は再び鬼の姿に戻ってしまわれたのじゃ。

 染殿后は純白の布を肩にかけたまま文徳鬼と向かい合い、こうお話しになられた。

「道康さまと離れていることに、わたくしはもう耐えられませぬ。

もしも道康さまが再びこの世をお去りになられるのなら、どうかわたくしもご一緒にお連れくださりませ。道康さまとご一緒ならばどちらへ参ろうとも、それだけでわたくしは幸せでございます。」

 そして文徳鬼はこのように答えた。

「そのように思ったこともあった。だがそれはできぬ。惟仁これひとのことも、また惟喬これたかのこともそなたに託したい。二人を守ることはそなたにしかできぬ。

 そなたが惟喬のために力を尽くしてくれたことを、私も今は知っている。心から嬉しく思う。そなたはもう少しこの世に残り、二人の行く末を見守ってやってほしい。

 私は真済しんぜいを連れて魔界へ戻る。そなたがこの世を去らねばならぬ時が来たならば、必ずそなたを迎えにこよう。そしてまた二人で睦まじく暮らそう。

 この世に復活して、なすべきことはすべてなし終えた。今はもう心残りはない。

私の姿が消えても、私の魂魄こんぱくは常にそなたの傍にいる。心安らかに暮らせよ。」

 話し終えると文徳鬼の姿は次第に薄らぎ、濃さを増す闇に溶け入るように消えてしもうたのじゃ。あとには帝が手にしておられた剣が一振り残されておるばかりじゃった。

 染殿后は意識を失い、その場にお倒れになられた。お気づきになられたのは数日を経てのちのことじゃった。

 金剛山の聖人もその場におったのじゃが、なすべきことは何もなく、ただお二人を見守っておった。文徳鬼の姿が消えたとき、初めて聖人は自分が泣いていることに気付いたのじゃ。


 尼よ、これが僧の知っておる文徳鬼復活のすべてじゃ。 

 染殿后はその後、すべてをお忘れのご様子で、何事もなかったように穏やかに過ごしておられる。周りの者たちも事件については口を閉ざしておる。

 この文で、染殿后が事件について知る必要のない事までお知りになられることは本意ではないのじゃが、十年以上も前の出来事ゆえお許しくださるじゃろう。

 今では染殿后も事件について多少はご存じであろうが、噂などではなく真実を、帝の本当のお心をお知りになられても、もう良いのではないかの。

 清和帝も四年前に崩御ほうぎょされ、どこにおいでになられるかはわからぬが惟喬親王も出家され、今はおそらく修行に専念されておられることじゃろう。

 それでは尼よ、この文を染殿后明子そめどののきさいあきらけいこ様にお届けするのじゃ。しかと頼んだぞ。

 叶わぬこととはいえ、染殿后にはもう一度お会いしたかったの。それだけが心残りじゃ。


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