序章および恒寂法親王の物語(その1)
(主な登場人物)
尼・・・・・門跡寺院嵯峨山大覚寺で修行中の尼。座主恒寂法親王の身の回りの世話をしており、死期の迫った恒寂法親王の物語を染殿后に届ける。
恒寂法親王・恒貞親王。五三代淳和帝と五二代嵯峨帝の皇女正子内親王の間に生まれる。仁明帝の春宮(皇太子)となるも伴健岑・橘逸勢の陰謀(承和の変・八四二年)に連座して廃太子となりのちに出家。嵯峨山大覚寺開山座主。
染殿后・・明子。文徳帝の女御。父は藤原良房。文徳帝の死後、良房の屋敷である染殿で暮らしたため染殿后と呼ばれる。清和帝の母。
藤原良房・・右大臣。その後人臣最初の摂政太政大臣。その住まいが染殿であったため染殿と呼ばれる。藤原冬嗣の子。藤原北家の長者。文徳帝の女御として娘明子を入内させ、のち養女の高子も明子所生の清和帝に入内させる。
文徳帝・・・五五代天皇。道康親王。五四代仁明帝と女御藤原順子(五条后。藤原良房の妹)との間に生まれる。恒貞親王廃太子後春宮となる。嵯峨帝の孫。
惟仁親王・・五六代天皇。清和帝。文徳帝と明子との間に生まれる。
在原業平・・五一代平城帝の孫。父は阿保親王。臣下に下り在原姓を名のる。妻は惟喬親王の生母静子の兄紀有常の娘。 惟喬親王とは義理の従兄弟。歌人として有名。
惟喬親王・・文徳帝と三条町更衣静子との間に生まれる。惟仁親王との立太子抗争に敗れ、落飾後素覚法親王と名のる。
三条町更衣・静子。紀名虎の娘。文徳帝の更衣で惟喬親王の母。業平の義父紀有常の妹。
染殿内侍・・藤原良房の弟藤原良相の娘。業平との間に滋春をもうける。
金剛山の聖人・金剛山で修行をする高僧。染殿后が物の怪に憑かれたとき、祈祷のため染殿に赴く。
二条后・・高子。清和帝の后。父は藤原長良。基経の同母妹。父長良の死後良房に引き取られる。入内前後に業平と恋愛関係にあった。所生の陽成帝譲位のあと二条院(陽成院)で暮らしたため二条后と呼ばれる。
藤原基経・藤原冬嗣の長男藤原長良の子。長良の死後良房の養子となり長者の地位を引き継ぐ。
恵亮・・・天台宗の僧侶。義真から戒を受け円澄の弟子となるが、のち円仁の弟子となる。惟仁親王(清和帝)の護持僧。惟喬・惟仁両親王の立太子抗争の際、惟仁親王のために修法を行う。
真済・・・真言宗の僧侶。紀氏出身。空海の弟子で東寺(教王護国寺)の一の長者。惟喬・惟仁両親王の立太子抗争の際、惟喬親王のために修法を行う。「性霊集」の編者。
真雅・・・弘法大師空海の実弟。惟仁親王誕生の折に修法を行う。また惟喬・惟仁両親王をめぐる立太子抗争の際には恵亮とともに惟仁親王のために修法を行う。
円仁・・・天台宗第三代座主。慈覚大師。唐から天台・真言・禅などを伝える。文徳帝の許しを得て帝の本命道場である惣持院を比叡山に建立し、わが国で最初の熾盛光法を行った。
序の章
御門跡恒寂法親王さまが、御仏のもとへ旅立たれました。この夏から病を得、ずっとお部屋で伏しておいでだったのでございます。
病のためお辛かったことと思われますが、そのようなことを周囲に感じさせることもなく、お亡くなりになられましたあともとても穏やかな、笑顔ともお見受けできるお顔でございました。
御門跡さまはいくたびも、染殿后さまにもう一度お会いしたいとお話しをされ、それだけがお心残りのご様子でございました。そして立秋を迎えました頃、染殿后さまにお伝えしておきたいことがあるとわたくしをお傍にお召しになり、御門跡さまのお話しを書き取るようお申し付けになられました。
御門跡さまはすべてを話し終えられたのち、晴れ晴れとしたお顔で、この書付を染殿后明子さまにお届けするようにと、わたくしにお言いつけでございました。御門跡さまが染殿后さまに深いかかわりがございます事件について、わたくしなどになぜお話しをされ、また染殿后さまへのご使者にわたくしなどをなぜお選びになられたのか、何かお考えがおありのご様子ではございましたが、けれどもそれにつきましてお話しをなさいますことはございませんでした。
わたくしなどがこのような場所に参上いたしますのは恐れ多いことではございますが、御門跡さまのお言いつけでございますので、どうぞお許しくださいませ。
またこの書付を御門跡さまのご遺言と思召して、お納めくださいませ。ご一読のうえどのようにご処分なされましても、それはそれでお心のままに、という御門跡さまのお言葉でございました。
壱の章(恒寂法親王の物語)
時の流れるのは早いものじゃ。今ではあの血なまぐさい事件の実相を知る者はおそらくもう、この僧一人だけになってしまったじゃろう。
文徳帝も清和帝も、良房様、業平殿もすでに西方に旅立たれ、惟喬親王はあの事件の直前に落飾、素覚法親王となられて事件のあとまもなく身をお隠しになられた。染殿内侍も事件の七年後に何者かに連れ去られ、行方しれずとなってしもうた。
今をときめく太政大臣基経殿は、なにか恐ろしい事件が内裏で起きていたことは、おそらくご存じじゃったろう。じゃが良房様のご性格からして、まだお若かった基経殿には詳しいことはお話しになってはおられなんだじゃろう。
そして染殿后明子様。今はお健やかにお過ごしのようじゃが、しかしあのような異様な事件の渦中にあって、御正気を保っておられたのかどうか。おそらくは何もご記憶されてはおられぬじゃろう。あれほどのことがあったあとも、事件について何かをお話しになられることもなく、何事もなかったかのように、昔どおりの静かなお暮らしをされておられるご様子じゃ。
尼よ、僧はこの夏に病を得て、起き上がることもままならなくなった。じゃがあの事件をこのまま墓に持っていくことを、御仏がお許しになられるとは思えぬのじゃ。
文徳帝と良房様の命がけの闘い、それはお二人にとって正義を貫く闘いであった。この国の未来を、国のあり方をかけた闘いでもあったのじゃ。じゃがそれにしても、この事件のために多くの人々が死んでしもうた。
僧は自らの知りえたすべてを語りつくそうと思うておる。それが御仏に与えられた、最後の使命のように思えてならぬのじゃ。どちらが正しく、どちらが間違っておったのか、もう僧にはわからぬ。
始まりは嘉祥二年の、染殿后の御懐妊じゃった。
良房様は当時右大臣で、春宮道康親王の次にお立ちになられる春宮について、何かをお口になさることはあらなんだ。できる限り春宮のおそばにつき従い、会う者を威圧するほどのあの堂々たるお体にもかかわらず、優しく春宮と物語などしておられた。お体がお弱かった春宮は、体の大きな良房様に深いご安心をお感じになられておられ、父親のようにお思いのご様子じゃった。御父仁明帝もご病弱じゃったで、余計にそうお感じになられたのであろうのう。
春宮にはすでに三条町更衣静子様との間に惟喬親王がお生まれじゃった。そして春宮も当初は、良房様が惟喬親王を支えてくれるものとお考えじゃったから、良房様に大きなご信頼をお寄せになっておられた。春宮は惟喬親王を次の春宮にとのお考えをお持ちで、周りにもひそかに、そのようにお話しになられておられたのじゃ。
ところが染殿后の御懐妊をお知りになった良房様は、春宮に直々に、また春宮の母君にあたる五条后順子様を通じて、染殿后に皇子ご誕生の折には、その皇子を春宮に立てるよう強くお求めになった。順子様は良房様の妹君にあたることは、尼も存じておるよのう。
これをお聞きになられた春宮は、ご気分をひどく損なわれたご様子じゃった。良房様に裏切られたようなお心持になられたのじゃろうな。ましてやまだ皇子なのか皇女なのかもわからぬ時に、お心を逆なでするようなお話しをされたことを、とてもお恨みになられておられたようじゃ。春宮はご幼少のころからとてもご聡明な皇子じゃったで、ご不快を表にお現しになることはあらなんだが、良房様がそのお話しをするといつも、すっと奥にお入りになられた。おそらく春宮は御母五条后様にお心配りをなさり、それではっきりとはお断りをなさらなんだのじゃろう。今にして思えば、それが間違いのもとになったのかもしれんの。良房様はお断りのお言葉がなかったために、反対にお認めになられたとお考えになったのじゃ。はっきりと物を言うことは品なきことじゃが、お言葉にはなさらなくとも、相手に分かるようお示しになられれば、このような誤解は生まずにすんだのじゃろうが。
そして翌嘉祥三年弥生、桜の花の蕾が微かに色づき始めた頃、染殿后は皇子惟仁親王を無事に御出産された。
良房様は心からお喜びになり、お祝いの品々を牛車に何台も春宮のもとにお届けになった。またひそかに春宮のもとに自ら参上し、立太子の件のご確認をされたのじゃ。
じゃがその場でも、春宮は確たるご返事をなさらなかった。春宮の御父君仁明帝が崩御されてわずか四日目のことじゃったで、春宮はこのような時に立太子の話をする良房様にお怒りを感じておられるご様子じゃった。
じゃが帝の崩御ののち、間をおかずに新帝の即位の大節会が行われ、また即位後早い時期に立太子もされるわけじゃから、良房様にすれば事は急がねばならなかったのじゃ。親王のうちどなたが春宮にお立ちになられるかは、帝がお決めになられることじゃからの。
これまでのいきさつから、その場ではっきりとしたご返事がいただけるものとお思いじゃった良房様は、春宮の曖昧なお振舞に、何か釈然としない思いを抱かれたそうじゃ。
良房様はその後もたびたび使者をお立てになり、惟仁親王の立太子を急き立てられた。
そしてついに春宮は、惟喬親王を次の春宮に立てたいという文を、良房様にお遣わしになられた。
その理由はこんなことじゃった。
一つ、立太子は皇位にある者の専権事項である。
二つ、惟喬は正当な皇位継承者の地位にあり、それを排する理由はない。
三つ、私は幼少より病弱であり、ゆえに年長である惟喬を春宮に立てたい。
仁明帝が崩御されておよそ一か月後の嘉祥三年卯月一七日、春宮道康親王は帝として登極された。文徳帝じゃ。そしてまた同時に、この日が帝と良房様の七年にわたる闘いの始まりの日でもあったのじゃ。いや、良房様が薨去なさるまでこの闘いが続いたのじゃから、この日から二十年以上にもわたる長い長い闘いが始まったと言えるのかもしれぬ。
御即位の大礼が行われた日の宵、良房様は内裏の奥で文徳帝にお会いになり、ご自分が惟仁親王を春宮に推挙する理由を丁重に述べられた。それはこのようなものであったのじゃ。
「私が惟仁親王を御推挙いたしますのは、決して親王がわが孫であるからではありませぬ。それは皇室の安定と民の安心、すなわち世の安寧のためにございます。わが藤原北家一門は父冬嗣の時代からそれを願い、力を尽くしてまいりました。しかしながら今もなお、内裏に巣食う奸臣どもを完全に排除できたとは申せませぬ。しかしわが藤原北家一門が力を合わせ、世の安寧のためにいっそう力を尽くせば、必ず、世の中は安定いたしましょう。
もし惟喬親王を立太子なされば、わが一門の中にも不満を持つものが必ず現れます。そしてそれに乗じて、今は内裏の隅の闇に潜む奸臣どもがまた、おのれの私利私欲のために跳梁し始めると思われます。
平城帝の御代に現れた薬子と仲成の変事、さらには八年前の、春宮恒貞親王の廃太子の契機となりました健岑・逸勢の謀をお考えくださりませ。」
良房様はこのように申し上げ、ふたたび帝に惟仁親王の立太子を強くお求めになったのじゃ。
じゃがそれでも文徳帝は首を縦には振らなんだ。
帝は良房様に次のようにお話しをされて、良房様のお言葉に御反論された。
「良房、そなたが私欲のために惟仁を推挙しているのではないことは、よくわかっている。惟喬を春宮にすればそなたの一門の中に不満が芽生えることもわかっている。しかしこのことばかりは譲れぬ。
皇位に就く者は、即位灌頂など様々な秘儀によって神仏と一体となり、神仏の意思によって世を治める。春宮にどの親王を立てるかについても同様だ。そなたら臣下の意思・進言によって春宮を決めるなどありえぬ。
この世にあるものはすべて移りゆく。それが仏の教えだ。そなたら一門の力も移りゆく。
そなたの力は私も頼りにしている。私の後ろ盾として力を尽くしてほしい。しかしその力が、そなたの子孫に永久に受け継がれてゆくとは思えぬ。いずれの時にか、その力は失われるであろう。
しかし皇統のみは、何があろうとも、移ろってはならぬのだ。皇位に就く者は神仏と一体になれる資質を持つ者でなければならぬ。そして春宮になるべきは、皇位にある者のみが知る。春宮になるべきは惟喬だ。生まれたばかりの惟仁に春宮になる資質があるか否かはまだわからぬ。惟喬を越えてあるやもしれぬ。だが少なくとも、惟喬にはすでにその資質が見える。
私が春宮に立つ前、嵯峨上皇と淳和帝のご事情により、恒貞が春宮に立った。しかし恒貞は立太子後も、先の帝に、重ねて春宮辞退の申し出をしていた。それは宮中の不穏な動きのためもあったが、なにより、自分には皇位に就く資質が不足していると感じていたからだ。そして結局、健岑・逸勢の謀反の謀が発覚し、それを機に廃された。
恒貞にとってそれは不幸な出来事であった。春宮の地位を廃されたことではない。恒貞を取り巻く諸々の事情により、春宮に立ったことだ。
このようなことを繰り返してはならぬ。惟仁が春宮に立てば、そしてまた惟仁にその資質がなければ、またこのような不幸が繰り返される。
そなたは惟喬が春宮に立てば戦が起きると言うが、それを防ぐのがそなたの、藤原の長者の役目ではないか。」
良房様はこれをお聞きになって、黙って帝の御前から退出された。じゃが良房様は納得をされたわけではなかったのじゃ。
数日後、良房様は染殿に一人の僧を招いた。当時東大寺別当で、後に東寺の一の長者となった真雅じゃ。尼も知っての通り、真雅は空海様の実弟で、惟仁親王御誕生の折、良房様の御依頼で修法を行じたほど、良房様の信頼の篤い僧じゃった。
良房様は家来どもを下がらせると真雅をお傍近くにお召しになり、声をひそめてこのようにお話しになった。
「真雅、そちも存じておるように、わが藤原北家一門は父冬嗣殿が嵯峨帝の御信任を得て以来、三代の帝に仕えてきた。今上の帝を含めると四代に亘ることとなる。
このたびそちの修法の甲斐もあって、帝に新たに皇子が御誕生になられた。惟仁親王だ。私の孫でもある。そして孫であるがゆえに、世の安寧のため、次の春宮に立っていただかねばならぬ。
帝は三条町更衣静子様との間にお生まれの惟喬親王を春宮にお立てになられるお考え。そしてその御意思はお固い。だが、お固いが翻していただかねばならぬ。
もし惟喬親王が春宮にお立ちになれば、必ず戦が起きる。わが北家の中から噴き上がる不満を、たとえこの私でも抑えることはできぬ。
惟喬親王の後ろ盾は三条町静子様の御実家、紀氏であろう。しかし式家を初めとする藤原三家や、朝廷での復権を狙う貴族どもがたとえ紀氏に加勢しようとも、紀氏など今やわが北家の相手ではない。必ず惟喬親王は廃され、また戦によって朝廷の風紀も乱れる。薬子のような輩が現れぬとも限らぬ。いや、必ず現れる。
真雅、これは何としても防がねばならぬ。そちの修法で帝の御意思を変えていただくことはできぬか。」
真雅はしばらく目を瞑って考えておったそうじゃ。やがて眼を開けるとこのように述べた。
「右大臣様、拙僧の修法によって帝の御意思をお変えいただくことはできましょう。しかしそのようなことがたとえ万にひとつでも他へ洩れますと、帝に咒を送ったとして、おそらくは拙僧ばかりでなく、右大臣様も御無事ではいられますまい。まずはお手続きを踏まれていただきたく存じます。
第一に、朝廷の皆様に惟喬親王様立太子の是非をお諮りください。おそらく朝廷は二つに割れましょう。そこで次に、帝は惟仁親王様の春宮としての資質は不明であるとお話しされたとのこと。惟喬・惟仁両親王のどちらに春宮としての資質がより多くお有りになるか神意を尋ねたい、と御奏上なさればよろしいのでは。
拙僧の修法をお用いになられるのは、その折でよいのではないかと思われます。」
「帝は、春宮を決めるのは皇位にある者の専権事項だ、と御言明された。たとえ朝廷の重臣たち全員が惟仁親王を推挙しても、おそらく帝は御意思をお変えになられることはない。それにもし、朝廷で惟喬親王が春宮に相応しいとの結論が出た場合、なおさらに惟仁親王を推挙することが難しくなる。朝廷に諮ることは無益である。」
「恐れながら、さようではございませぬ。
右大臣様が朝廷の皆様にお諮りになられれば、左大臣源常様と御兄君の大納言信様、弟君の融様は必ず惟喬親王様を御推挙なさいます。しかしながら右大臣様のお身内の方々はそれに異をお唱えになられましょう。朝廷の御詮議はきっとまとまりませぬ。朝廷がまとまらぬ間は、帝といえども、強引に惟喬親王様を立太子なさることはできませぬ。
右大臣様はそれを眺めておられればよいのです。ご意見めいたお言葉をお述べになってはなりませぬ。後々禍根を残すようなお言葉はお控えください。どちらの意見ももっともであるというように、ゆったりとお構えになっておられればよろしいのです。さすればどちらからともなく、神意を尋ねよう、という流れが生まれてまいりましょう。
右大臣様はその頃合いをお測りになって、帝に、どちらの親王様が御適切か朝廷を納得させるためにも神意を尋ねたい、と御奏上なさいませ。
帝は神仏に深く帰依なさっておられます。神意を尋ねることに異をお唱えになられることはおできにならないと思われます。」
良房様は立太子の件を朝廷に諮り、真雅の述べたとおり、朝廷は大きく二つに割れた。
さらに時を見計らい、良房様は帝に、立太子の神意を尋ねる旨の奏上をされた。そして惟喬親王の御資質を深くお信じになられておられた帝は、お認めになられた。
嘉祥三年長月、神意を諮る節会が行われた。
惟喬親王には真済、惟仁親王には恵亮がついて修法をすることが決まった。
真済は高尾で十二年間苦行を行った高僧で、東寺の一の長者じゃった。
真済には東寺の真如がつき従うておった。
真如は平城帝の第三皇子じゃった。嵯峨帝の春宮であった高岳親王で、薬子・仲成の変により春宮を廃され、のち空海の弟子となった僧じゃ。
一方、恵亮は修法に優れ、将来天台座主になるやもしれぬと目されておった僧の一人じゃった。そこで恵亮が修法を行い、真雅がそれを脇から支えた。
真済は東寺に護摩壇を設け、恵亮は内裏の真言院に壇を設けたのじゃ。ともに不動明王尊を本尊として祀った。
神意はまずは十番の競馬、続いて相撲の節会で確かめられることになっておった。
真済には源常様・信様からの供物が、恵亮には良房様からの供物が、壇の周りにところ狭しと並べられておった。
黄の衣を着けた僧の前の大護摩壇に火が入り、護摩木が焼べられた。
炎が上がり、白い煙が仄暗い堂内に充満した。
二人の僧は不動明王尊の大咒真言を低く呟きながら不動根本印の印契を結び、次々に護摩木を壇に投げ入れていった。周囲を取り巻く大勢の衆僧たちの経を唱える声が、鉦や太鼓の音とともに堂の内外に低く響いておった。
ーノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボケイビャク・サラバタ・タラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキ・ギャキ・サラバビキンナン・ウン・タラタ・カン・マン
真済には少しばかり余裕があるように見えた。真言を唱える声は嗄れておったが、落ち着いたものじゃった。それにひきかえ、恵亮は少しばかり緊張しておったようじゃった。声が上ずっておった。
護摩木の炎が格天井を舐めんばかりに燃え上がり、熱気があふれ、護摩木とともに供物が次々に投げ入れられた。そのたびに護摩木の焼け崩れる音が、嵐に騒ぐ波のように聞こえておった。揺れる炎が憤怒の形相の不動明王尊を照らし出し、今にも動き出しそうに見えた。
ーノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボケイビャク・サラバタ・タラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキ・ギャキ・サラバビキンナン・ウン・タラタ・カン・マン
二人の僧の真言を唱える声が次第に高くなり、衆僧たちの読経の声や念珠を揉む音とともに、東寺の境内や内裏の庭に響き渡った。
ちょうどその頃、右近の馬場では競馬の節会が始まった。七歳におなりじゃった惟喬親王は、ご自分の御車の中からじっと節会を見つめておられた。一方惟仁親王は乳母に抱かれて、御車でぐっすりとお休みになっておられた。ほかの親王方や公卿たちは手に数珠を持ち、それぞれ心を寄せる親王側についてお祈りをしておった。なかには相手の馬にあからさまに咒を投げつける者もおったがの。
初めの四番は、なかなか難しい勝負もあったのじゃが、とにかく結果は惟喬親王側の勝ちとなった。
このままでは負けると見た惟仁親王側の公卿は、真雅に使いを送った。真雅はすぐにそれを恵亮に伝えた。
使いの言葉を受けた恵亮は、護摩木を一掴み壇に投げ入れ、力いっぱい念珠をこすり合わせると十を越える印契を順に何度も繰り返し結び、供物を火に焼べ、さらに大声で大咒真言を唱えた。
ーノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボケイビャク・サラバタ・タラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキ・ギャキ・サラバビキンナン・ウン・タラタ・カン・マン
その甲斐があったのじゃろう。右近の馬場の最後の一番も、また左近の馬場の五番も、逆に惟仁親王側の勝ちとなったのじゃ。
こ れで惟仁親王がやや有利になった。じゃがまだまだ互角の闘いと言えるほどの差、すべては相撲の節会次第じゃった。
惟喬親王側は紀名虎殿のご家来で右兵衛督、惟仁親王側は善男の少将が立ち会った。右兵衛督は六十人力の大男。善男の少将は小柄で容貌美しく、雅男というにふさわしい男じゃった。とても右兵衛督と相撲を取るべき者とは思えなんだ。夢にお告げがあったとかで、自ら名乗り出てきたそうじゃ。
当初は右兵衛督と同じく頑健な体を持った武者が選ばれておったのじゃが、惟仁親王についておった公卿たちは、善男の少将が自ら名乗り出てきたことから何か秘策があるのじゃろうと考え、不安を抱きながらも異を唱えることはなかったそうじゃ。
二人は向かい合うとそれぞれ足の位置を定め、互いに腕を取り合って押しあった。じゃが右兵衛督は人並みならぬ大男じゃ。善男の少将はじりじりと押され、ついには担ぎ上げられて二丈ばかりも投げ飛ばされた。ところが善男の少将は猫のように身を翻すと、二本の足で地に降り立った。そればかりでなく、右兵衛督にすっと身を寄せると、投げ倒そうとばかりに右兵衛督に足をからませたのじゃ。じゃが相手は見上げるような大男じゃで体の重さに耐えきれず、やがて全身が小刻みに震えだし、からめておった足が外れると、善男の少将の腰が次第に崩れていった。顔を真っ赤にして堪えておったが、限りが見えてきたようじゃった。
惟仁親王側の公卿たちは浮足立ち、次々に恵亮に使いを送った。もっと強力な修法を施せ、さもないとお前の首が飛ぶやもしれぬ、とな。実際、もしこの修法の闘いに敗れれば、恵亮の首は飛んだであろうな。首は飛ばずとも、少なくとも、誰かに密かに殺されるようなことにきっとなっておったじゃろう。
恵亮はこの時ついに、大威徳明王法を修する決心をしたのじゃ。大威徳明王法はもっとも危険な調伏の修法の一つで、一つ間違うと行者の命さえ奪ってしまうほどなのじゃ。じゃが修行を積んだ僧が作法通り行えば、すべての願いが叶う。人の命を奪うことはもちろん、死人を生き返らせることもできるほどの、秘法中の秘法じゃ。
恵亮は赤みの強い、くすんだ黒い僧衣にすばやく着替えると良房様に使いを送り、大威徳明王尊の納められた厨子を大急ぎで取り寄せた。恵亮は厨子と赤の三角壇を真言院の北に据えてその前に座り、大威徳明王尊の印契を結んだ。そして明王の真言を大声で何度も唱え、供物を一気に壇に投げ入れたのじゃ。それでもなかなか大威徳明王尊は現れなんだ。焦り窮した恵亮は真言を唱えながら、いきなり独鈷杵を自らの蟀谷に突きたてた。
蟀谷から滴り落ちる自らの血と、血に塗れた脳味噌を掬うと、恵亮はそれを右兵衛督の名の書かれた護摩木に塗りつけ壇に焼べた。恵亮の眼には血が流れ込み、白目は血に染まって赤く裏返り、ほとんど倒れる寸前じゃった。それでも恵亮は最後の力を振り絞って、大威徳明王尊の真言を唱えた。
ーオン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ
ーオン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ
死体を焼いたときと同じ、嫌な生臭い黒い煙があたりに漂った。すると突然、稲妻とも見まごう、目も眩むような光が一筋、恵亮の頭を貫いたのじゃ。同時に真言院が割れるかと思われるほどの、獣の雄叫びに似た大音声が堂内に響き渡った。恵亮はどうと三角壇に倒れこみ、燃え盛る炎に包まれて焼け死んだ。恵亮は炎の中で、死ぬ直前まで、大威徳明王尊の真言を唱え続けた。
恵亮の体はぷつぷつと音を立てて焼け、その煙は床を這って真言院の外に流れ出し、蛇が這うごとくうねうねとくねりながら相撲場へと流れていった。真言院の周りにおった者たちは、その煙の異様な臭気と何者かに操られているような動きを見て、恐怖のために声も上げられず、ただただ立ち竦むばかりじゃった。
真言院の中におった者の目にはその時、水牛に跨った大威徳明王尊が護摩壇の火の中を駆け抜ける姿が、一瞬見えたそうじゃ。首には髑髏の瓔珞をかけ、頭が六つ、手足はそれぞれ六本。腕には長剣・弓矢・五鈷杵などを持ち、大きく口を開けて雄叫びをあげる姿じゃった。
真雅は恵亮が焼け死んだことを確かめると、すぐさま真如に恵亮の死を伝えた。恵亮が焼け死んだことで惟仁親王の勝ちがのうなったと思い、これ以上の修法争いを避けようと考えたのじゃな。
じゃが恵亮が護摩壇に倒れ込んだことを聞いた良房様からも、真如に使いが出された。
良房様からの使者は真如にこのように伝えた。
「真済の修法、見事であった。さすがに東寺の一の長者。恵亮ほどの者でも真済にはかなわなかった。
これで神意は定まった。速やかに修法を解け。」
これを聞いた真如は、恵亮が真済に咒を送られて果敢無くなったと思うたのじゃ。真如は真済にこの言葉を伝え、真済は修法を解いた。じゃが実際にはまだ修法の闘いは終わってはいなかったのじゃ。恵亮を焼いた炎から立ち上った煙は、その時まだ相撲場には届いてはおらなんだ。真済が修法を続けておったなら、煙が相撲場に着くことをも防げたであろうに。
そして生臭い煙が相撲場にたどり着いたその時、善男の少将が右兵衛督を一気に押し返し、ついに投げ飛ばしたのじゃ。頭を地に強く打ち付けた右兵衛督は、そのまま動かなくなってしもうた。だらしなく開いた右兵衛督の口と鼻からは、生臭い黒い煙が立ち昇っておったそうじゃ。
この瞬間、逆に惟喬親王の立太子がのうなった。
これで神意は定まった。良房様のご希望通り、その年の霜月、惟仁親王は御誕生後わずか九か月で、春宮にお立ちになられたのじゃ。
ところが数日後、奇妙な噂が都に流れた。死んだはずの恵亮が修法争いに勝った褒美として次期天台座主に推され、じゃが恵亮はこれを断り、叡山の西塔に籠もったというものじゃ。噂のもとはわからぬ。そしてその後、何年にもわたって恵亮の名の入った文書が世に現れておった。年に一度の叡山の分度者の願文が恵亮の名で出された年さえもあった。そしてあろうことか貞観元年、恵亮は西塔宝幢院の検校に任命されたのじゃ。
恵亮の姿は誰も見てはおらぬ。いや恵亮の姿を見たという者はおった。じゃがその姿は遠目であったり、頭巾を被っておったりして、確かに恵亮じゃったとは言えぬのじゃ。
業平殿は親しくしておった天台の円仁にその真偽を確かめた。じゃが円仁でさえ、雲の上には我々には窺い知れぬ種々の事情があるようでございます、とゆうて笑っておったらしい。業平殿は腑に落ちぬ思いを抱きながらも、それ以上円仁に尋ねることはできなんだそうじゃ。結局恵亮の入寂法要が行われたのは、惟仁親王立太子の十年後、貞観二年のことじゃった。
惟仁親王立太子の翌年、嘉祥四年の春、暖かな陽射しが都にふりそそぐ日のことじゃ。文徳帝は円仁を御所にお召しになられた。
円仁は文徳帝の御即位ののち勅許を得て、帝のための修法道場である惣持院を比叡山に建立し、熾盛光法を初めて修したほど帝の帰依の篤い僧じゃった。そしてまた良房様とも昵懇の間柄じゃった。
帝は良房様とのあいだの仲介の労を取るよう円仁に御依頼された。その内容はこのようなものじゃった。
「円仁、私は昨年十一月、惟仁を春宮に立てる詔を発した。これで皇統は安定したことになるが、私の不安はいまだ消えてはおらぬ。
一つは私の死後の惟喬の処遇。知ってのとおり、私は幼いころから病に伏せることが多かった。そなたたちが私のために様々な加持・祈祷をしてくれていることは知っている。が、それでも長くは生きられぬであろう。私という後ろ盾を失った惟喬が、私の死後どのような扱いを受けるか、それが気がかりなのだ。
惟仁が皇位を嗣いだのち、良房は謀反の疑いをかけるなど何らかの理由をつけ、惟喬に死を申し付けるというようなことがないとも限らぬ。いや、良房ならば、惟仁のために必ずそうするであろう。それでは惟喬があまりにも不憫である。
そしてもう一つ。そのような良房を諌めるだけの力のある者が朝廷におらぬことだ。惟仁が皇位に就き、良房が外戚として力を発揮するようになればなおさらのこと、誰も良房には逆らえぬ。常や信、融ならば良房に申し述べることはできるやもしれぬ。しかし常や信らと良房との間柄を考えると、おそらく、良房はそれを受け入れるどころか、惟喬の排除を無理やりにでも推し進めるであろう。
そなたは良房とも昵懇の間柄と聞いている。そこでそなたに頼みがある。密かに良房に会い、私の言葉を伝えてはくれぬか。」
円仁は帝の御胸中を思い、御依頼をお引き受けしたのじゃ。
「ご心痛、もっともと存じます。右大臣様も、よもやそのようなことを惟喬親王様にお申し付けになるとは思われませぬが、それでもそれを未然に避けうる手だてがおありになられるのであれば、何なりとお申し付けくださいませ。小僧が必ず右大臣様にお伝えいたしましょう。」
帝は声をひそめ、良房様に直接に話をするようにと御確認をされると、このようにお話しになられた。
「円仁、惟仁が春宮になったことで世が治まるのなら私は反対はせぬ。しかし惟仁はあまりにも幼い。私に何かあっても帝としての務めはできぬ。世が乱れたときに、それを治める修法を身につけることも、神仏に祈ることさえもできぬ。それはきっと世の乱れを導く。
そこで円仁、良房にこのように伝えてほしい。惟仁が成人するまでの間、惟喬に皇位を嗣がせたいと。そして惟仁が成人したならば、必ず惟仁に譲位させると。私はこのことを誓書にしたためることもいとわぬ。」
帝は、惟喬親王が皇位を惟仁親王にお譲りになられたのち上皇として御退位なされば、いかに良房様でも手をお出しになることはできぬとお考えじゃった。
円仁は後日、吉日を選び良房様に会ったそうじゃ。そして帝の御希望を伝えた。しかしその時にはしかとした返事をもらえなんだ。円仁が言うには、良房様のお顔には不快の色がありありと見えたそうじゃ。
ところがその後、思いもよらぬところからこの件に反対の声が上がったのじゃよ。左大臣源常様から帝に奏上があったのじゃ。どこからこの件をお耳にされたのか、常様ははっきりとはお話しをなさらなんだが、おそらくは常様が良房様のお屋敷に潜ませておった間者によるものであったじゃろう。お二人は朝廷の中でもとりわけきつく対立しておられたからのう。しかしこの件にかぎって、お二人の意見は一致しておった。
常様は帝にこのように諌言された。
「惟仁親王がご成人なさるまでの間、惟喬親王様に皇位を御譲りなさりたい旨、右大臣殿にお話しになられたとか。それはきっとなりませぬ。二つの皇統が現れることに常々御懸念を抱いておられたのは主上ではありませぬか。
主上もご承知のとおり、かつて嵯峨上皇と淳和帝の二つの皇統が出現いたしましたとき、そこに争いが起こりました。そのため逸勢や健岑どもが流罪となり、また死を賜った者もおりました。そして時の春宮恒貞親王が廃されるなど、皇統が乱れました。
惟喬親王様、惟仁親王様という二つの皇統が並び立つことはできませぬ。それは世の乱れのもととなります。どうかお考え直しくださいませ。」
帝にとって常様は、臣下に下ったとはいえお身内のお一人じゃったし、また心から頼みにしておられたお方でもあったので、それでもなお、との強い御主張はおできにならなかった。
そしてちょうどその時、良房様からの使者が文を携えて到着した。
その文にはこのように書かれておった。
「お気持ちは無理からぬことと存じます。しかしひとたびお発しになられた詔を御撤回なさることは、帝としての御権威を損なうことになりましょう。この度ばかりは御意思を曲げていただかねばなりませぬ。
さらに、惟喬親王に皇位をお譲りいただくためには、惟喬親王をただちに立太子せねばなりませぬ。そのためには今の春宮惟仁親王を一度廃さねばなりませぬ。そして帝が皇位を惟喬親王にお譲りになられたのち、再び惟仁親王に立太子していただく必要があります。そのような前例はいにしえよりありませぬ。
どうか詔を御撤回なさることなどお考えにならず、この良房にすべてをお任せくださいませ。これは朝廷の総意でもございます。」
この文をご覧になられ、文徳帝は、すでにご自分の動きが良房様によってすべて封じられているとお感じになられたのじゃ。
帝はそれ以来、全てをお諦めになられたご様子で、写経などをしながら静かにお暮しじゃった。