翠緑の涙 と 白いワンピースの少女
薄汚れた夕焼けの空から零れ落ちた涙。
鞄の中から折り畳みの傘を取り出して柄のトリガーを引く。
金属同士が擦れあう短い音がして、地上にまた一つの黒い花が生まれた。
視線を上げると、建物の影へと足早に身を隠す者達の姿が視界に映る。
『翠緑の涙』
子供でも知っている。
この雨が今や人類にとって恵みをもたらすだけの存在ではなく、世界を徐々に蝕む忌むべき存在であるという事実を……。
それなのに、俺は幻でも見ているのか?
町外れに位置するレンガ造りのアーチ橋。その中腹で佇んだまま動かない白い少女が目に留まった。
純白と呼ぶに相応しい真っ白なワンピース。
華奢な体つきで、袖から伸びた腕もまた驚くほど白い。
肩よりも長く伸ばした黒髪は雨に濡れ、街灯の光を得て艶やかに煌いていた。
少女はこの雨の中、傘も差さずに川面に寂しそうな瞳を投げかけたまま微動だにしていない。
ありえない。
……だって、白いワンピースの少女なんて絶滅したと思っていた。
俺と少女の時間だけが止められている。
そんな錯覚さえ覚える。
静止した空間の中、ただ雨だけが少しずつ激しさを増し、少女のワンピースを染めていく。
柔らかだった布地がぺたりと体に張り付き、やや小ぶりな胸の曲線が描き出された。
肌が透けて胸と腰にフリルの付いた白い下着のラインが浮かびあがっていく。
目を見張り、ごくりと唾を飲み干す。
見てはいけないものを見てしまったような気がする。
純粋無垢な白い少女が、妖艶に染められていくようで目を逸らすことができない。
心臓の鼓動が早鐘を打つ。
……それは、ずっと昔に作られた物語のワンシーンのようだった。
この世に運命の出会いというものが存在するというのなら、きっと今をおいて他にない。
不意に少女が橋から身を乗りだしたかと思うと、柵を跨いで欄干の外側に降り立った。
足を滑らせたら一貫の終わりというその場所に……。
慎重に体を反転させて、少女は再び川面に視線を向ける。
どこか遠くを見つめる虚ろな瞳。
その瞳に吸い込まれるように、氷づけになっていた俺の足が動いた。
自殺なんて、それほど珍しいものじゃない。
だけど……。
俺は傘を投げ捨て、石畳を蹴る。
数ヶ月ぶりの全力疾走だ。
しかし、雨音が邪魔しているのか、周囲のことなど気にも止めていないのか、少女がこちらに気付く様子はない。
くそっ、間に合え!
腕を伸ばし最後の一歩を大きく踏み出して、一気に距離を詰める。
今にも手が届くというその瞬間、
「待っ……うぉ」
橋の継ぎ目で足を滑らせた俺は咄嗟に少女の肩を掴んでバランスを保つ。
「!」
こちらを振り返ろうとした少女が片足を滑らせた。
沈んだ体をもう片方の足だけで浮き上がらせようとするが、力は橋の外側に逃げている。
少女の体がゆらりと後ろへ流れた。
伸ばした手は橋の欄干を捕らえることが出来ず、少女がわたわたと手を回転させても、その体勢を持ち直すことはできない。
俺は身を乗り出してその手を掴もうとする。
少女も気づいて手を伸ばす。
お互いの指先が触れ合う。
が……。
驚くほどに冷たかった少女の指に、反射的に手を引っ込めてしまった。
少女の唖然とした瞳が俺を見つめ、
「きゃぁぁぁぁーーーーー」
と、断末魔? の叫びを上げて、少女は川面へと落ちていった。
水面までの高さは、優に十五mはあるだろう。
叩きつけられ、水しぶきを上げるその音は、ここまで届くことさえなかった。
雨脚とともに、水の流れもまた勢いを増しつつある。
今から人を呼んだとしても、助かる可能性は絶望的な気がした。
体が震える。
この光景を俺はきっと忘れることはできないだろう。
ああ、俺は人を殺してしまった。