第8章 禍々しきもの
<8-1 雨>
その日は朝から激しい雨が降っていました。おじいさんは畑の様子を見てから権汰を家の前の軒先につなぎなおしました。ここなら雨には濡れないですみます。
臆病なタヌキは最初、おじいさんが何をしようとしているのかわかりませんでした。もしかしたら、このまま皮をはがれてしまうかもしれないと怯えましたが、おじいさんの優しい目を見てすぐにそうではないとわかりました。
「ボクなんかのためにありがたいんだなぁ」
臆病なタヌキは自分が権汰であることに感謝しました。
「どうかウサギさんが冷たい雨に濡れませんように」
権汰は山のほうを見ながら、ただただ白いウサギのことを思いました。
「いいよ……いいねぇ、キミ」
取残されたウサギは、遠くからその様子を眺めていました。
「ボクはもう、こんなにびしょ濡れなのに……クックックッ」
あまりに激しい雨は、泥水を跳ね上げてウサギの白い毛を土色に染めていきます。
「ボクはもう、こんなに汚れてしまっている」
そう言いながらも、狂気のウサギの目は笑うとも、睨むとも、見つめるとでもない、何かうつろで冷淡で生暖かい視線を、じっと送り続けました――じっと、じっと、じっと、じっと、じっと、自分を置き去りにしたモノたちに向けて……
禍々しい空気が狂喜のウサギの周りを取り囲み、あたりの景色を歪んで見せていました。カチカチ山の空は、凶器になったウサギに恐れおののき、泣いているようでした。やがて雨はいっそう激しく降り始め、大粒の雨が草木を叩きつけ、大地を削っていくようでした。白いウサギの姿は雨の中に溶け込み、やがて姿が見えなくなるかと思うほどに気配が消えていきました。
ただ、ウサギの赤い目だけが、禍々しい鬼火のように浮かんでいるようでした。
<8-2 雨上がりの夜空に>
その日の夜――
昼間降った雨はやみ、静寂が闇を支配していました。権汰はおじいさんとおばあさんの家の軒先に繋がれたまま、夜空を眺めていました。雲ひとつない空は、たくさんの星が瞬き、それはまるで星と星がなにかひそひそ話しをしているように見えました。
「……今日はお月様はいるけどウサギさんはいないんだなぁ」
瞬く星空の中に、宵月が浮かんでいる。
満月まではあと5日ほど。
そしたら、まん丸に輝くお月様に、ウサギさんが飛び跳ねる。
宵月はウサギの姿が胸の辺りまでしか見えません。
「……ウサギさん、今頃どうしているのかなぁ」
権汰は考えました。やさしいおじいさんとおばあさんなら、きっと白いウサギと一緒に暮らしてくれるにちがいない。それはどんなに素敵なことだろうと……
「ウサギさんが今度来たら、そのことをはなしてみるんだなぁ。そした、きっと、おじいさんとおばあさんは素敵な名前をくれるんだなぁ……あぁ、どんな名前だろう。」
くーーん、くーーん。
権汰は泣きました。満月の夜が待ち遠しくて、夜空に向かって泣いていたあの頃のように。まだ愚鈍なタヌキだった頃のように。
「なんて情けない声なんだい」
不意に物陰から声がしました。その声はよく聞き覚えのある声――権汰が間違えるはずはありません。それは大好きな、大好きな白いウサギの声でした。
「あー、ウサギさん、ひどい土砂降りだったから、心配していたんだなぁ」
権汰はうれしさのあまりに、目に涙を浮かべていました。
「隠れていないで、姿を見せて欲しいんだなぁ」
権汰は懇願しましたが、ウサギは姿を現そうとはしませんでした。
「キミは元気そうだね……えーと、ゴンタっていったかな」
愚鈍な権汰には、ウサギの居る場所がわかりませんでした。なぜなら狡猾なウサギは、話をするたびにすばやく移動し、ウサギがどこにいるか愚鈍なタヌキに関わらないようにしていたからです。
「ウサギさんは大丈夫なのかなぁ?」
愚鈍なタヌキは、白いウサギの姿を探して、あちこち覗くようにうろうろしましたが、縄につながれているので、思うように回りを見ることができません。
「いいかい、キミ、よく聞くんだ。じっとして、静かにね」
狡猾なウサギは、ささやくように、諭すように、誘うように話しかけます。
「もう少ししたら満月だよね」
また、違うところから声がします。
「満月になったら、キミを迎えに来る。だからそれまで、おとなしくしているんだ。」
「えぇと、ウサギさん。それ、どうゆうことか、わからないんだなぁ。迎えに来るってどういうことなのかなぁ?」
「しー、黙って、しゃべらないで。いいかい。ボクはキミを助けたいんだ。だけどいろいろと準備が必要でね。それよりキミ、人に化けたりできるのかい?」
愚鈍な権汰は考えました。
「できるけど、今は無理なんだなぁ、いろいろと必要なものがあるんだなぁ」
「どんなものが必要なんだい?」
「えーっと、それは――」
愚鈍なタヌキの右側でささやいていたウサギの声は、今度はすぐ後ろから声が聞こえました。
「そのまま、動かないで。じゃぁそれがあれば、キミは化けられるんだね……たとえばボクを人間――たとえばおじいさんやおばあさんに化けさせることもできるのかな?」
一瞬権汰はゾクっとしました。それは野生の警戒心のようなもの――まるで、肉食の獣に背後から襲われるような感覚。だけど、後ろに居るのは白いウサギさんのはずでした。
「あ、あああ、あのぉ……そういうことも、できるんだなぁ」
「よろしい。じゃぁ、詳しく聞かせてくれるかな……でも、決してこっちを振り向かないでね」
<8-3 約束>
「――そうかい。じゃぁ、満月の夜でいいね」
白いウサギは、権汰の首筋がむずがゆくなるような甘く、湿った声で言いました。
「それまでに、キミは必要なものをそろえられるかい?」
愚鈍なタヌキが答える前に狡猾なウサギは付け加えました。
「いや、ちがうなぁ。これは絶対にやってもらわなければならない……でないと――」
まるで空気の流れが一瞬凍りつくような静寂のあと白いウサギは続けました。
「でないと、ボクはもう、生きてはいけないよ」
「う、ウサギさん、やっぱり、僕がおじいさんの野菜を採ってこられなくなったから、や、やっぱり、何も食べてなかったのかい?」
権汰はとても恐ろしく思いました。
白いウサギが食べられなくなったのは自分の責任。
そして生きていけなくなるのも自分の責任。
権汰はとても幸せなのに、おじいさんとおじいさんに愛されているのに……
「う、うさぎさん、ぼ、僕は……心配しないで、必ず用意するんだなぁ」
「そうかい、そうしてくれるとうれしいよ……だってボクには、キ・ミ・し・か……いないんだよ」
君しかいない――「なんて素敵な言葉なんだろう」と感激し、権汰は鳥肌を立てました。しかし実は狸の身体は、ウサギの声の禍々しさに恐れおののき、悲鳴をあげているということに、愚鈍なタヌキは気付きませんでした。
「じゃぁ、5日後、満月の夜にまた来るよ。じゃぁ……約束したからね」
白いウサギはそう言い残して、スーッと姿を消したようでした。
それまの張り詰めたような空気が急に軽くなり、夜風が遠くの虫の鳴く声を運んできます。
「あー、全部僕がいけないんだなぁ、ウサギさんの姿を満月まで見られないのは、僕がウサギさんを一人きりにしたせいなんだなぁ」
きゅーん、きゅーん
愚鈍なタヌキは闇夜に鳴きました。
権汰が空を見上げると、そこには月が弱々しく浮かんでいました。
そこにウサギの姿はありませんでした。
<8-4 咆哮>
「あぶない、あぶない、危うく――」
白いウサギは、まるで稲光のような速さで山を登っていきました。
「危うく、本音が出そうになった……あの馬鹿が!なにが僕のせいだ!」
狂気のウサギは、激しい怒りに満たされていました。
アイツはなんにもわかってない……わかってない……わかってない!」
白いウサギは今の自分の姿を愚鈍なタヌキに見せるのがイヤでした。自分でもわかるくらい禍々しい光を放つ赤い目は、「決してその者を信じてはいけない」と思わせるに十分なものでした。「少しばかり感がいいやつなら、すぐに気付くだろうが……もっともあの馬鹿なら気付かないだろう」
そして、たとえ、気付いたとしても……
だからこそ、白いウサギは腹立たしかった
だからこそ、白いウサギは姿を隠した
だけど、それだけ?だけど、それだけ?
「えーい、うるさい、うるさい、うるさい!」
狂気のウサギは自分の心の中から問いかけてくる声を一蹴しました。
「俺は狂わされたんじゃない!自ら狂ったんだ!」
だけど、それだけ?だけど、それだけ?
「キー!キー!キー!きこえねーよー!」
耳をふさごうにも、ウサギの耳はあまりにも大きく、ウサギの前足はあまりに短すぎました。
「キー!キー!キー!きこえねーよー!」
ウサギは大きな声で叫ぼうとしましたが、ウサギの口は叫ぶのには余りに小さく、ウサギの耳をさえぎることはできませんでした。
「俺はぁー、俺様が……なんでタヌキなんかに……なんでカメなんかに!」
ウサギの脳裏には、カメに負けたあの日のこと、そしてタヌキに出し抜かれたあの日のことが、走馬灯のように蘇ります。
ですがウサギの目は赤かったので、過去の記憶が真っ赤に染まってみえました。
それはまるで……
「まるで血の雨が降ったようだー!血の雨ー!」
ふと白いウサギは足を止めました。
狂気のウサギが夜空を見上げると、そこには愚鈍なタヌキが見上げたのと同じ月がありました。
「クックックックッ……今夜も月は真っ赤だなぁ!ゴ・ン・タ……お前の月も真っ赤に染めてやる」
白いウサギは大きな声で叫びました。
ウサギの叫びはあまりに暗かったので、闇に解けてしまいました。