第7章 変わりゆく月
<7-1 景色>
夜が明けて、狂気のウサギはおじいさんの家の見える茂みの中で、じっとタヌキの様子を伺っていました。ウサギの目には昨日と変わらない風景が写っていましたが、ウサギの目は赤かったので、すべてが憎悪の対象に見えていました。
「あんな畑は滅茶苦茶にしてやる」
お昼になると、おばあさんが家から出てきました。おばあさんはお昼の支度をした際にでた残飯をタヌキに与えていました。おばあさんはたいそうタヌキを可愛がっています。
「タヌキくん、そんなに人間がいいのかい」
ですが、ウサギはちっとも寂しくありませんでした。なぜならウサギの心は欠けていたからです。
「……いいよ、いい、そうやって可愛がっていればいい……愛情が深ければ深いほど……クックックッ、ケッケッケッケ」
そこにおじいさんがやってきて、何やら楽しげに話しています。
タヌキはとっても幸せそうでした。
おじいさんは楽しそうでした。
おばあさんはうれしそうでした。
ですが、ウサギはちっとも羨ましいと思いませんでした。なぜならウサギの心は満たされていたからです。
「何もかもだ。何もかも奪ってやる。そして、すべては満たされる……すべてを黒く塗りつぶす」
ウサギはなんだか、とってもうれしくなりました。
キミの幸せはボクの幸せ、ボクの悲しみはボクだけのもの
キミの幸せが大きければ大きいほど、僕の悲しみも大きくなる
ボクはもう、満たされた。
だからキミももう満たされただろう?
キミの大好きな満月のように
でもね、月はだんだん欠けていき、やがてなくなってしまうんだよ
真っ黒に染まって、闇に解けていくんだ
それはとっても素敵な気分なんだ
ボクは思わず踊りたくなって闇の中を飛び回る
息が切れるほど跳び回る
ウサギはとてもとてもうれしくなったので、居ても立っても居られなくなりました。
「……嗚呼、ボクは自分を抑えきれないよ……嗚呼、早く壊したい。何もかも、何もかも……」
ウサギは我慢できなくなり、闇の中に踊るように消えていきました。
ウサギは息が切れるまで野山を駆け巡りました。
ウサギの表情は恍惚に悶えていました。
<7-2 囲炉裏>
夜、おじいさんとおばあさんはいつものように囲炉裏を囲み夕飯を食べていました。
「ありがたや、ありがたや、こうしてご飯が食べられるのは、おじいさんのおかげですよ」
「なんも、そんなぁこたーねー、ワシらがこうして食べていけるのも山の神様のおかげじゃて。ワシら二人が食べていくのには、まぁ、まぁ、こまるこたぁ、ねぇからよ」
「うんだなぁ、時折川の魚や山菜が届けられるのも、山の神様のおかげにちげぇねぇ」
「ばぁさんや、オラ前によ、そりやー見事な白いウサギを見たことがある。ありゃー、まちがいねぇ、山の神様のお使いだべ」
おばあさんはすぐには応えませんでした。おばあさんは囲炉裏の火の様子を見ながらビバサミで薪をはさみながら言いました。
「わたしゃ、てっきり、あのタヌキの仕業かと思っていましたよ」
「あー、なんでぇ、あんなイタズラタヌキが、山の神様の使いなわけなかんべよー」
おじいさんは笑いながら言いました。
「まぁ、あのイタズラっ子が、鍋にして食っちゃろーと思ったけんどよ」
おばあさんはおじいさんの顔を覗き込むようにして言いました。
「おじいさんもすっかり、タヌキがめんこくなってるもんなぁ」
「かっかっかっかっ、そう言うばぁさんが一番めんこいと思っているじゃろーに」
おばあさんは少し遠くを見るような目で言いました。
「ワシらもとうとう子供さ、授からなかったからよー、きっと山の神様が寂しくねーよーにって、あのイタズラ坊主をよこしてくれたんじゃねーかと、そんな風に考えたんよ」
おじいさんはそっとおばあさんの手を握りながら言いました。
「そーゆーことも、あるかもしんねーなぁ」
見詰め合う二人の目には、わずかながら潤んでいるようでした。
誰の上にも同じように時は流れます。おじいさんにも、おばあさんにも、二人に可愛がられる愚鈍なタヌキにもただひとり、狂気のウサギだけは、どこか歪んだ時間の中に迷い込んでしまったようでした。
「さてさて、ゴンタもお腹空かして待っているから」
そう言っておばあさんは、自分が食べ残しと料理の残飯を別の入れ物に移しました。
「あー、なんじゃい、ゴンタって?」
「あら、いつまでも名無しのごんべいじゃ、こまるでしょ」
おばあさんはうれしそうに、そしてどこか恥ずかしそうにしながら、ゴンタの餌を持って立ち上がろうとしました。が、まだ、足が痛むので、少しよろけてしまいました。
「これこれ、無理するんじゃぁねー」
「すいません、大丈夫ですよ、こうして、少しでも動こうと思えるのは、あの子のおかげなんですから」
おじいさんはおばあさんを支えて、一緒にゴンタのところに行きました。おじいさんは少し不満でした。なぜならおじいさんはおばあさんに内緒でイタズラタヌキのことを「タヌ吉」と呼んでいたからです。
<7-3 権汰>
「ふん、いつもどおりだな」
おじさんの家を遠くの茂みから狂気のウサギがみています。
「まったくあの二人、どういうつもりなのか」
ウサギにしてみれば、それはあまりに意外な出来事でした。人間に捕まったウサギの仲間は、ほとんどその日のうちに皮をはがれ、無残な姿でばらばらにされ、人間の食料として食べられてしまいます。
そしてそれは、ウサギに限ったことではありません。
「くっ、くっ、くっ……人間、自分だけが常に食べられる側だと思うなよ」
人間がタヌキを捕まえた場合は、まず皮をはいで毛皮にし、残った肉は狸汁にして数日の間に食べてしまいます。しかし、どうやらこの老夫婦はタヌキをすぐには食べるつもりはないようすでした。ウサギはどうしても気になって、おじいさんとおばあさんの声が聞こえるところまで忍び寄りました。
「ゴンタ、ほれ、食べー」
「おー、おー、おー、そんなに腹をすかしていたかぁ」
「めんこいのー、ほんに、めんこいのー」
おじいさんとおばさんはまるで自分の子供か孫のように狸を可愛がっていました。
「ゴ、ゴンタだって!なんだよそれ……それって『名前』ってやつか!」
冷酷なウサギもさすがに驚きを隠せませんでした。
「まるで……まるで人間みたいに」
ウサギの全身の毛は逆立ち、両目は真っ赤に染め上がりました。
「……そうかい、そうやって遊んでいるのかい――そういうことか。タヌキめ、なんて抜け目のないヤツなんだ。お前はいつも……いつもそうやってオレのことを……」
ウサギは恨みました。それは人間のおじいさんでもなく、おばあさんでもなく、そして狸でもありません。
ウサギは『愚鈍なタヌキ』を恨みました。
愚鈍なタヌキを可愛がる『あの老夫婦』を恨みました。
そしてこのような場所に迷い込んだ己の不幸を呪いました。
愚鈍なタヌキに気を許した己自身を呪いました。
ウサギの中で満たされた何かがあふれ出しました。
ウサギの中で欠けていた何かが壊れました。
ウサギは白く、そして赤く、かつ黒くなりました。
「……ゴンタ、いいよ、ゴンタか。いい名前だよ……そうかい、キミはゴンタなんだね」
ウサギの中で愚鈍なタヌキは狸ではなくゴンタになりました
ウサギの中の狸は消えました
ウサギの中の愚鈍なタヌキは消えました
「……キミが居ない世界はとてもさみしいよ。でもね、キミは本当は最初からいやしなかったのさ。キミは『愚鈍なタヌキ』なんかじゃなく、最初から『ゴンタ』だったのさ」
わずかばかり残っていた白いウサギの中の大事なものは壊れてしまいました。
壊れた破片はウサギの中からあふれ出たものによって流されてしまいました。
今夜は月が見えません。
月はあまりにウサギが恐ろしかったので、雲の向こうに隠れてしまったようでした。
<7-4 名前>
おじいさんとおばあさんは愚鈍なタヌキに「権汰」と名づけました。
だから愚鈍なタヌキは権汰になりました。
「おじいさんおばあさんありがとう。僕に名前をつけてくれえて」
権汰はとてもうれしく思いました。
「ゴンタ、僕はゴンタなんだなぁ」
「僕」であった愚鈍なタヌキは「権汰」と言う名によって「僕」から解放されました。
「『ゴンタ』はもう『僕』じゃないんだなぁ」
名をつけられた愚鈍なタヌキは、おじいさんとおばあさんの「権汰」になりました。
権汰はとてもともてうれしく思いましたが、とてもとても心配になりました。
「ウサギさんは、君は、一人ぼっちになっちゃったんだなぁ」
「綱」によっておじいさんに縛りつけられていた愚鈍なタヌキは「名」によっておじいさんとおばあさんの「権汰」として、この畑に縛りつけら得ました。
「ウサギさん、ゴンタには何もしてあげられないんだなぁ」
権汰が見上げた夜空には月の姿はありませんでした。
月はあまりに権汰が羨ましかったので、雲の陰に隠れてしまったようでした。
「お月様、どうかウサギさんを独りぼっちにさせないで欲しいんだなぁ」
きゅー、きゅーー。
権汰は泣きました。
うれしかったからでもなく、さみしかったからでもなく、ただただ、白いウサギのことを考えると悲しくなってしまったのです。
そんな思いをよそに、分厚い雲が夜空に流れ、闇を覆います。闇はより一層深まり、生暖かい風が権汰の鼻を湿らせます。
「明日は雨になるんだなぁ」
月隠れ
流れる雲の
隙間から
かすかに見える
君の面影