第6章 すれちがい
<6-1 密会>
次の日、慎重なウサギは昼間からタヌキの様子を見におじいさんの畑のそばまで行きました。
「どうやら今日も安心みたいだ」
おじいさんは畑仕事の合間を見ては、ときどきタヌキになにやら話しかけているようようでした。
「いったい何を話しているんだ?」
慎重なウサギは、話の内容が気になりましたが、人間に見つかるわけには行きません。夜になると、昨日と同じように食事を終えたおじいさんとおばあさんが、タヌキになにやら食べ物を与えているようでした。
「いったい人間は何を考えているんだろう?」
おじいさんとおばあさんはタヌキに食べ物を与えると、なにたら楽しげに話をしています。
「二人が寝静まったら、様子を見に行ってみるか」
慎重なウサギはおじいさんとおばあさんが明かりを消して眠るのを確認してからそっとタヌキのそばに近づきました。
「声を出さないで、タヌキ君」
愚鈍なタヌキは慎重なウサギが近くに来たことに気付かなかったので、ウサギの声にビックリしました。
「ああ。ウサギさん」
「しーーーっ、静かに」
慎重なウサギはあたりを見回しましたが、おじいさんとおばあさんはすっかり眠ってしまっているようでした。
「よかった……キミ、大丈夫そうだね」
慎重なウサギはタヌキのそばに来てささやくように言いました。
「キミ、なんでこんな無茶なことをやらかしたんだい?」
愚直なタヌキは目を潤ませながら言いました。
「ウサギさん、僕、怖かったよぉ、でも、おじいさんとおばあさんはやさしくしてくれて……」
今にも泣き出しそうなタヌキを見て、慎重なウサギはタヌキを落ち着かせようとしました。
「大丈夫、大丈夫だよ、タヌキくん、だからお願いだから鳴くのはよしておくれ、おじいさんに気付かれたら大変だ」
慎重なウサギはあたりを見回しながら言いました。
「大丈夫なんだなぁ、おじいさんもおばあさんもやさしいんだなぁ」
少し落ち着きを取り戻した愚直なタヌキは、ウサギと同じように小さな声で言いました。
「ウサギさんこそ大丈夫かい?昨日も今日も何も食べてないんじゃないかい?」
慎重なウサギは、驚きました。驚いたと同時に、無性に腹が立ちました。
――なんだよ、こいつ、なんで、俺の心配なんかできるのさ!
「ボクのことはいいんだよ、タヌキくん、それよりキミ、これからどうするんだい?」
慎重なウサギはタヌキに自分の感情を気取られないように落ち着いたフリをして言いました――もっとも狡猾なウサギは愚鈍なタヌキが気付くはずはないと確信していました。
<6-2 漆黒の闇>
「ウサギさん、僕は思うんだなぁ」
愚直なタヌキは語り始めました。
「僕は里の掟を破って、しかもあのおじいさんとおばあさんを苦しめてきたんだなぁ。こうして縄に繋がれて、今は十分なご飯を食べさせてもらっているけど、いつか食べ物がなくなったとき、あの二人のためなら僕はこの身を捧げるつもりなんだなぁ」
「ただ、僕は君のことが心配なんだなぁ、ウサギさん。このままだと君は月の世界に帰れなくなってしまうだなぁ。ウサギさん、何か僕にできることがあったらなんでも言ってほしいんだなぁ」
「タヌキくん、キミは……」
用心深いウサギは、それでも自分の感情を気取られないように苦心していました。
……なんだ、こいつ、なんなんだ!なんで、そこまでまっすぐになれるんだ!なんで、人間なんかのために!
ウサギは生まれてはじめて、嫉妬しました――自分よりも優れた存在、美しい存在、神々しい存在に。
……お前は、俺を苦しめるために生まれてきたのかい?人間のためにボクを一人きりにする気なのかい?お前はボクを……ボクを滅茶苦茶にするために生まれてきたのかい?
白いウサギは息を殺し、目を真っ赤にして泣いていました。
愚鈍なタヌキにはわかりませんでした――白いウサギが何を悲しんでいるのか?
愚鈍なタヌキは知りませんでした――人が涙を流すのは悲しい時だけではないことを。
「ウサギさん?どうしたんだい?何がそんなに悲しいの?僕、どうすればいいんだい?」
愚鈍なタヌキはウサギに聞きました。なぜならタヌキにはそれ以外に白いウサギの涙のわけを知る術がなかったからです。
「タヌキくん……キミはなんて優しいんだい?」
……ボクは絶対に許さない
「今日は、これで、失礼するよ……そう、また明日、このくらいの時間にキミに会いに来る。」
……お前は、お前は、俺を狂わせようというのか?
「だから、ぜったいに無茶はいけないよ。人間に気を許してはいけない。いいいね?」
……お前なんか、人間に喰われちまえばいい
白いウサギは真っ赤に充血した目でタヌキを見つめました。愚鈍なタヌキにはそう見えました。
「わかったよ、約束する。だからウサギさんも、もう、泣かないでほしいんだなぁ」
……ウサギさん、大丈夫なんだなぁ、おじいさんも、おばあさんもとってもいい人なんだなぁ。
「ああ、わかった……じゃぁ、さようなら」
……泣いてなんかない、オレは泣いてなんかいないぞ!
白いウサギはそういい残して、山の中に帰っていきました。それはまるで稲光のような速さでした。
「ウサギさん、かっこいいんだなぁ、早いんだなぁ、素敵なんだなぁ」
愚鈍なタヌキは白いウサギの後姿を、ただただ見つめていました。
「畜生!畜生!畜生!」
「あんなヤツ……あんなヤツーッ!」
赤眼のウサギは、そう叫びながらものすごい速さで野山を駆け回りました。
「認めない。認めるものかよ!」
白いウサギの心の叫びがカチカチ山の漆黒の闇に木魂し、狂気の渦となって全てを飲み込んでいきました。もう、白いウサギには自分を止める術はありませんでした。
<6-3 狂気の月>
狂気のウサギは赤い目を爛々と輝かせながら野山を駆け巡りました。その有様はまるで二対のどす黒い鬼火が闇夜に漂うようでした。木々を避け、岩を飛び越え、やがてその禍々しい炎は、白いウサギが愚鈍なタヌキと出会ったあの大きな岩のある、開けた場所にたどり着きました。
「ハァ、ハァ、ハァ……チクショウ……チクショウ……」
息を切らし、酸素が足りなくなった白いウサギの両目の炎は、青白く、そして弱々しくなっていました。
薄れてゆく意識の中で、ウサギが目にしたもの。それは上弦の月でした。
「ハァハァ……ハハハッ……クックゥクックゥ」
愚鈍なタヌキはこの場所から月に語りかけていましたが、狂気のウサギには、上弦の月に語りかけるべきものは、何も思い浮かびませんでした。あるのは怒号と誹謗と中傷でした。
「俺の月は欠けている。見事に欠けている。俺の月は……ヤツとは違う」
もしもそこに満月があったのなら、ウサギは正気でいられたのでしょうか。それはウサギにもわかりません。でも、ウサギの見たものは、まるでウサギの首がはねられ、夜空にさらされているような上弦の月でした。
その禍々しい光は、ウサギの狂気を昇天させました。
嗚呼、何もかも壊したい
嗚呼、滅茶苦茶にしてやりたい
どうせ満たされはしないのだから――この月のように
狂おしい
思いにまかせ
駆け抜ける
見上げてみれば
上弦の月
ウサギは泣いていました。
――ウサギは笑っていました。
ウサギは憎んでいました。
――ウサギは焦がれていました。
ウサギは沈んでいました。
――ウサギは昇天しました。
ウサギは消えそうでした。
――ウサギは燃えていました。
ウサギは白でした。
――ウサギは赤でした。
ウサギは欠けていました。
――ウサギは満ちてきました。
ウサギは狂喜しました。
――ウサギは狂気しました。
そしてついに――ウサギは凶器になりました。