第2章 おじいさんの畑
<2-1 ウサギの目>
「そうかい、キミはずっと長い事ひとりぼっちだったんだね」
白いウサギはおじいさんの畑の野菜を食べながら、愚鈍なタヌキの身の上話を聞いていました。
――こいつ、なんて、マヌケでウスノロなんだ。聞いているだけでイライラする!
白いウサギは愚鈍なタヌキが許せませんでした。白いウサギにとって愚かなこと、鈍いことはもっとも嫌いなことであり、カチカチ山のタヌキは、今まで出会ったどんなタヌキよりも愚かで、お人好しでした。
「キミは今日、とってもいいことをしたんだね。おばあさん、怪我をしてるんだね……」
――これはいい話を聞いた。あのおじいさんはオレのことを山の神の使いと勘違いしているらしいが、おばあさんはどうかな?タヌキの仕業だということを気づいているのかもしれない。ばあさんには、うかつには近づかないほうがいい。
人間の作った作物に手を出してはいけない――カチカチ山の里にも他の里と同じような掟がありました。
でも、愚鈍なタヌキには、掟の意味がわかりませんでした。
愚鈍なタヌキにとって掟とは、ただただ、守らなければならないものであり、そのことを疑うこともなければ、意味を考えることもしませんでした。
自分が食べているものは人間の作ったもので、人間が白いウサギに贈ったもの。そしてそれを二人で食べている。タヌキにとってはそれだけのことでした。
――こんなにおいしいものを食べたのは初めてなんだなぁ。これも全部ウサギさんのおかげなんだなぁ。
野菜がおいしければおいしいほど、愚鈍なタヌキは白いウサギをありがたく思うのでした。
「そうかい、キミ、人間の作った野菜を食べたのは初めてなんだね」
――これは、使えるなぁ。よし、役に立て。どうせお前なんか、このまま生きていたって、何もなすことなどできない。人間に捕まってタヌキ汁になるのがオチだ。オレ様の役に立ったほうが、死ぬまでの間、うまいものが食えるだけありがたいと思うんだな
白いウサギはすっかり高揚していました。それは愚鈍なタヌキのささやかな喜びとはちがう、身を震わせるような快楽のようなものでした。
白いウサギの目は、爛々と赤く輝いていました。
<2-2 カチカチ>
カチッ、カチッ……カチッ、カチッ……
野菜を食べているウサギの首の辺りから、妙な音がします。
「ウサギさん、なんか音がするんだなぁ」
愚鈍なタヌキにも、その音がウサギの首の辺りからしていることはすぐにわかったようです。
――ちぃ!まったく!こいつだけは!
それは白兎が里から追放された際に、戒めとして白兎の首にかけられた念珠。人間の食べ物に手を出した報い。人間の作った食べものを口にすると、首にかけられた念珠がカチカチと音を鳴らす。これでは人間に見つかってしまいます。だから白兎は、わざわざ重たい思いをして野菜を山の中まで運んだのでした。
「あー、これは……その……月に帰る為のお守りみたいなものさ」
――これはあのタヌキが作ったもの。いくらマヌケでも、さすがにこれが何かわかるか?
一瞬白いウサギは心配になったが、愚鈍なタヌキはもっとよく見せて欲しいとは言いませんでした。
――あれはウサギさん大事なものなんだなぁ。きっとあれがなくなると、月に帰れなくなっちゃうにちがいないんだなぁ。
でも、ボクは帰って欲しくないんだなぁ
タヌキはウサギの首にかけられた念珠が、ウサギの白い毛の中に隠れるくらいに、しっかりと巻き付いていたので、あまり人に見せたくないものだと思ったのでした。
――こいつ、本当に鈍いヤツだ!なんて愚かなんだ!
白いウサギはその場で殴りかかりたいという衝動に駆られるほど、愚鈍なタヌキが許せませんでした。白いウサギにとっては『愚か』なことは罪であり、『鈍い』ことはこの世を生き抜くための真剣さに欠けると思っていたのでした。それこそが白兎の価値観であり、絶対に信じて疑わない『正義』でした。
――いずれにしても、念珠がある限り、あのじいさんの畑には近づけない。このウスノロを利用して、畑から野菜を採るか、それともこの念珠をはずさせるか?
白いウサギは考えをめぐらせました。
――念珠を外す方法をこんなマヌケなヤツが知っているとは思えんしなぁ。まぁ、いい。いくらでもやりようはある。
「ボクはね、人間の作った作物を食べないといけないんだよ。このお守りの力が失われると……ボクは月に帰れなくなって、いずれ死んでしまうんだよ」
カチカチ山のタヌキは、哀しくなりました。
――ウサギさんが死んでしまうのは、とても悲しいんだなぁ。でも、ウサギさんが月に帰ってしまうのも、いやなんだなぁ。
「いいよ、僕、ウサギさんのために、おじいさんの畑の野菜をもらってきてあげる」
「ダメだよ。キミ、命を粗末にするものじゃない。人間はそう簡単にボクたちなんかに食べ物を分けてくれやしないよ。」
白いウサギは少しだけタヌキに近づいて小さな声で言いました。
「ボクにいい考えがあるんだ。キミ、協力してくれるかな?」
タヌキはうれしくなりました。誰かが自分を頼ってくれる。こんな僕が誰かの役に立つことができるなんて、なんて素敵なことなんだろう。
――僕、うれしいんだなぁ。ウサギさんの役に立てるんだったらなんでもするんだなぁ。
もしも白兎が正直に愚鈍なタヌキに事情を話していたとしても、カチカチ山のタヌキは、同じ事をしたかもしれません。なぜなら愚鈍なタヌキにとって、白いウサギさんは、お月様の贈り物なのですから。
<2-3 赤い目>
「いいかい、よく聞いておくれ」
まん丸だった白いウサギの目を少しだけ細めていった。
――どうせお前には複雑なことはできやしない。だから俺様の言うことをよーく聞くんだな。
「人間には、ボクやキミの言葉は通じない。『困っています。食べ物を分けてください』なんていっても無駄さ。逆にこっちが人間の餌になってしまう。だから、夜中にこっそり人間の畑に行って、野菜を盗って来るんだ、ボクの分とキミの分と。いいかい、必ずキミの分も取ってくるんだよ。」
「でもそれは、やっちゃいけないだなぁ。里のみんながそう言ってたんだなぁ。」
愚鈍なタヌキは里の掟の意味など考えたことはありませんでした。だけど、守らなければならないものは守らなければならない。タヌキは愚かで鈍感でしたが、律儀で実直でした。
「里の掟?なんだいそれは?そんなことに何の意味がある?」
白いウサギは信じられないという表情でタヌキを見た。
――こいつ、馬鹿か!
「ここにはキミしかいない、そして、ボクがいる。キミを捨てて里を出て行った連中の決めた掟なんて、いったい何の意味があるんだい?」
白いウサギは苛立っていました。
――お前は黙って俺の言うことを聞いていればいいんだ!
「でも僕は自分の食べる分はいらないんだなぁ。だから、ウサギさんの分だけ持ってくるよ。だってウサギさんは人間の作ったものを食べないとだめなんだなぁ。僕は今までの食べ物で十分なんだな。」
白いウサギにとっては、愚鈍なタヌキが飢え死にしようが、なんだろうが、一向に構わないと思いました。白いウサギの分だけ盗って来るというのなら、それでいいと思いました。だけど白いウサギには、そんな愚鈍なタヌキの従順さ、実直さが無性に腹立たしく思いました。この時はまだ、白いウサギにもわかりませんでした。
なぜ苛立つのか?
なぜ腹立たしいのか?
――タヌキに畑の野菜の味を覚えさせて、自分から進んで野菜泥棒をするように仕向けようと思ったのだが……コイツはいったい、何を考えているんだ!
自分の策にすんなり乗ってこないことへの苛立ちもありました。白いウサギには、愚鈍なタヌキが守る必要のない掟を守ろうとしたり、他人のことを心配したりするような自分にない価値観をもっていることが疎ましくもあり、うらやましくもあったかもしれません。
少しでもタヌキのような心を持っていれば……
少しでも従順さや人を思いやる心を持っていれば……
――ちがう!ちがう!断じて違う!
白いウサギは心の中でそう叫びながら頭を振りました。
「キミはわかっていないよ、タヌキ君。ミはボクを困らせたいのかい?」
白いウサギはわざと悲しそうな顔をしながら言いました。
「どうしてなのウサギさん?」
タヌキは白いウサギの悲しそうな顔を心配そうに覗き込みます。
「ボクだけ食べるなんて、そんなことできると思うかい?キミが食べないのなら、ボクも食べない。だって、食べられるわけないだろう。ボク一人で。食事は同じものを同じだけ食べる。キミとボクは友達じゃないか!」
その言葉を聴いてタヌキはハッとしました。
――友達……友達って言ってくれたんだなぁ。ウサギさんが僕を友達って言ってくれたんだなぁ。
タヌキはあまりのうれしさに目が真っ赤に充血し、大粒の涙を流しました。
「僕たち友達なんだね」
――クソー、なんで俺はこんなヤツのこと友達だなんて!畜生!畜生!
白いウサギは、愚鈍なタヌキとは違う理由で目を真っ赤に染めていました。
<2-4 畑荒らし>
こうして愚鈍なタヌキは白いウサギのために、ウサギの分とタヌキの分の野菜をおじいさんの畑から盗むようになりました。最初のうちは、おじいさんに迷惑がかからないように、少しだけしか盗りませんでしたが、白いウサギの喜ぶ顔が見たくて、タヌキが盗み出す量は日に日に増えていきました。
愚鈍なタヌキは困り果てていました。
――おじいさんとおばあさん、食べるのに困っていないかなぁ?
愚鈍なタヌキは白いウサギに内緒で、薬草のほかに今まで自分が食べていた木の実や小川で捕れた魚をこっそりおじいさんとおばあさんの家に置いていきました。家にいたおばあさんは時々見かけるタヌキの姿を不思議に思っていました。畑を荒らすのもタヌキ、薬草やほかの食べ物を持ってくるのもタヌキ。おばあさんが、この話をおじいさんにするべきかどうか考えているところに、おじいさんが畑仕事から帰ってきました。
「まったく!タヌキのやつ、今度という今度は許さねー」
おじいさんはすごい剣幕で怒っています。
今までタヌキは出来上がった野菜を少しずつ持っていっているようでしたが、せっかく植えた野菜の種を掘り返して、持って行ってしまったのです。
「ちっとや、そっとなら、目をつぶることもできっけどよぉ。種まで手ぇ出すんじゃあ、放ってもおけねー」
愚鈍なタヌキはどんなに愚かでも、畑の種を掘って持って行きはしませんでした――これはおじいさんの勘違い。前の日の夕方、おじいさんが畑仕事を終えてすぐに、いたずらカラスが、おじいさんが植えたばかりの種をついばんでいたのですが、カラスの歩いた後に、夜中にタヌキが足跡をつけてしまったので、おじいさんはカラスの仕業だと知らずに、タヌキがやったと思い込んでしまったのです。
「罠をさ仕掛けて、タヌキさ、とっ捕まえねばよー」
おじいさんは軒先でタヌキを捕まえる罠を作り始めました。
おばあさんはおじいさんに話しかけました。
「おじいさん、ほれ、今日もどこぞの、どなた様が、また川の魚を持ってきてくれましたよ」
おじいさんは手を止めて桶に入っている川魚を眺めました。
「おー、おー、これは山の神様がまた遣いをよこしてくれたかのー、ありがたい話じゃ。」
「そう言えば、いつぞや地蔵様にお礼の品をお供えしたときに、きれーな真っ白いウサギが顔をだしたなぁー」
「もしかしたら、あの白いウサギが山の神様の遣いかもしれんのー」
「あら、そうですか、白いウサギ…・・・それはありがたいですね」
おばあさんはどこか気になりましたが、おじいさんが言うことを否定する気にはなれませんでした。
二人は長い間、こうして苦楽を共に過ごしてきたのですから。