第1章 月光の白兎
<1-1 ウサギの里>
白兎が生まれ育った里は、カチカチ山から人の足で10日ほどの距離にある、かちかち山よりもずっとずっと豊かな里でした。食べるものには困っていませんでしたが、白兎は人間が畑で作った野菜が大好きでした。人間が一生懸命育てた野菜はどれも、野山で採れる草木とは比べ物にならないほど甘く、瑞々しくておいしいのでした。
白兎は、始めのうちは人間に見つからないように、こっそり隠れて、少しだけ食べていましたが、そのうちに思う存分食べて見たくなりました。ついに白兎は誘惑に負けて、昼も夜もお構いなしに手当たり次第に畑を食い荒らしはじめました。例え人間に見つかっても、白兎の足は速いし、ウサギの耳は遠くの音を聞き分けられるので、人間に捕まるようなことはありませんでした。
しかし、怒った村人は、あちこちにウサギを捕らえるための罠を仕掛けました。
頭のいいウサギは、そんな罠には引っかかりませんでしたが、ウサギほど早く走れず、ウサギほど賢くない里のタヌキやイノシシたちが村人たちの仕掛けた罠の犠牲になりました。
里の掟を破り、人間の畑を荒らした白兎のせいで仲間や家族を失ったほかの動物たちは、みんなで話し合い、ついに白兎を里から追い出すことに決めました。
「お前が二度とこの里で暮らせないように、追放の烙印として禁欲の念珠を与える」
里の長、年老いた猿は、そう言うと丸い小さな珠が連なった飾りのようなものをどこからか取り出すと白兎の首にかけました。念珠は、白兎の首にかける前には、余裕で兎の頭を通りましたが、白兎の首までくると、ぐいぐいと白兎の首を締め付けはじめました。白兎は、あまりの苦しさに念珠をかきむしり、必死で念珠を外そうとしました。
「無駄じゃ、それは特殊な念珠。うぬがちからでは、到底、外すことはできん」
しばらく白兎がもがき苦しんでいると、念珠は徐々に緩みだし、やがて苦しくなくなりました。
「この念珠は無理やり取るろうとすれば、うぬが首を締め上げる。再びこの里に戻ってもお前とわかるための追放の印」
「そしてうぬが他の里でも同じ悪さを働かないように、人間の作った作物に手をつければ、お前の居場所を知らせるようにカチカチと音が鳴るように術をかけておいた」
白兎は信じられないという顔をしながら他の誰かに助けを請いました。
「お願いです。これはあまりにむごすぎましょう。この里からはすぐにでも出て行きます。 しかし、これでは生きていけません。どうか、この念珠をはずしてはもらえないでしょうか?」
「何を今更!」
白兎の声を遮るように、震えるような大きな声で誰かが怒号を上げました。
<1-2 念珠>
「貴様がしたこと、わかっているのか!貴様のせいで、ワシの息子は……息子たちは……」
怒りの声を上げた古狸の3匹の息子たちは、白兎の悪さに怒った村人たちが仕掛けた罠にかかり、村人たちに捕らえられてしまったのでした。
「ワシの息子らがどうなったか……貴様、その赤い目で見るがいい!」
そう言って差し出した狸の手には、古狸の子供たちのしゃれこうべが握られていました。
「お前が里の掟を破り、人間の食べ物に手を出したばっかりに、ワシの子供たちが人間に食われちまったんだ!」
ですが、白兎は何も感じませんでした。
――そんなの俺のせいじゃないね。だいたいお前ら狸は間抜けでのろまなのさ!
古狸はまるで白兎の目のように、両目を真っ赤に染めながら声を震わせながら言いました。
「その念珠は我が一族に代々伝わる秘術により、我が息子のなきがらから取り出した骨と 毛皮から作ったもの。この里ではどんな罪を犯した者でも、死罪、敵討ちはできないのが掟。せめてお前が、別の里でこれに懲りずに同じ過ちを犯し、我が秘術、我が息子の魂によって、その報いを受けることとなることを望むばかり!」
――ちぃっ!なんて余計なことをしやがる!このうすのろが!
「なんと禍々しい瞳、なんと邪な目つきよ。うぬのような輩は、この場で突き殺すが、世のためというもの」
古狸と同じように、仲間を失った猪は、今にも白兎に飛びかかりそうでした。
「わ、わるかった、悪かったよ……長老様……私は今すぐここから出で行きます。どうか、どうか命だけは!」
――なんだい、なんだい、なんで俺様がこんな目にあわなきゃならないんだ!あんな罠に引っかかる奴が悪いんだ!
「もうよい、もうよいから、そやつを里の外れまで連れ出せ!」
里の外れまで来ると何羽ものカラスが白兎に怒号を浴びせます。
「カァ!カァ!カチカチ、カチカチ、兎の首には追放の印、カチカチ鳴ったら危ないぞ、 カチカチ鳴ったら離れろよ、カァ!カァ!白い兎には近づくな、カチカチ、カチカチ、近づくな!」
こうして白兎は里を追われることになりました。白兎は行く先々で、疎まれ、嫉まれ、誰も白兎を相手にしてくれませんでした。里を追放された白兎の噂は、おしゃべりなカラスによって、すでにあちこちに広まってしまっていたのです。どうやらこのあたりの豊かな里には暮らせそうにありませんでした。いくつもの山を越え、川を超え、人目を避けるように歩き続けるうちに、白兎はカチカチ山にたどり着いたのでした。
「こんな人気のないところで人間の作った野菜にありつけるとは、なんてオレは運がいいんだ!」
白兎の目は、さらに赤く、爛々と輝いていました。
<1-3 月に焦がれて>
月明かり
カチカチ山に
独りきり
思い焦がれる
いとしき君よ
今日は満月。
タヌキはわずかな食べ物で飢えを凌ぎながら、それでもちっともつらくはありませんでした。なぜなら今夜は満月の夜。愛しい人に会える日なのですから。
――おばあさん、元気になるといいんだなぁ。
タヌキは昼間、薬草を届けたおばあさんのことを考えていました。タヌキが独りで暮らすようになって、もう何年もの月日が経っていました。
小鳥のさえずりや、虫たちの歌を聴くことはあっても、誰かと話をしたり、誰かのために何かをしてあげたり、逆に誰かに何かをしてもらったりするような「人とのふれあい」を長いことしていませんでした。だからタヌキは、なんだかとってもうれしい気分いなっていました。たとえそれが人間であっても、タヌキはとてもいいことをしたと思っていました。
――月のウサギさんにもなにかしてあげられることがあるといいんだなぁ。
うれしかったはずのタヌキの気分は、いつの間にか急にさみしい気分に変わって行きました。
――月のウサギさんと会いたいんだなぁ、お話したいんだなぁ。
「キミ!キミはそんなところで、何をしてるんだい?」
誰かがタヌキに話しかけました。
――ぼ、僕は、お月様とお話してるんだなぁ。ぼ、僕は……ひとりなんだなぁ。
あまりの急なことに、タヌキは驚き、声の主がどこにいるのか、わかりませんでした。
「ここだよ、キミ、ボクはここさ、キミの下だよ」
タヌキがいる大きな岩のすぐ下、声のする方向を覗いてみると、そこには爛々と赤く輝く二つの目。タヌキがこれまでに見た事がないような美しく白く輝くもの――月の明かりに照らされて銀色に輝く、それは、それは美しい、白いウサギが立っていました。
<月からの贈り物>
「あー、そんなぁ、君は、ウサギさん?ウサギさんなのかい?」
「キミは、おかしなことを言うね。ボクがウサギ以外に見えるとしたら、キミの目は、よっぽど悪いか、そうでなきゃ、月明かりに目が眩んでしまうほどの寂しがり屋なのかな?」
タヌキは驚きました。そして、とてもうれしくなり、泣き出しそうになりました。
――これは、きっと、お月様からの贈り物なんだなぁ。いいことをしたから、僕の願いを かなえてくれたんだなぁ。うれしいんだなぁ。とってもうれしいんだなぁ。
――もう、ひとりじゃないんだなぁ
「あー、ウサギさん、そうだ、君はウサギさんなんだなぁ。本当に、本当にウサギさんなんだなぁ」
タヌキが目に涙を浮かべながら、まるで、神様でも拝むような従順な目つきでウサギを見ていることに白ウサギは困惑しました。
――いったい、この里はどうなっているんだ、まるで他の里とは違うぞ。まぁ、いい。なんだかわからないが、ここは調子を合わせておいたほうがよさそうだ。
「そーだよ、いかにもボクはウサギさ。どうだい?今夜の二人の出会いを祝して、ご馳走を一緒に食べよう!ちょうどここに、おいしい野菜がある。これはさっき里の人間が、ボクにくれたものなんだ。キミ知ってる?人間の作った野菜は本当においしいんだぜ」
――あー、やっぱり、ウサギさんはお月様が遣わせてくれたすごい方なんだなぁ。人間も敬うような尊いウサギさんなんだなぁ。
その夜、タヌキは久しぶりにおなか一杯に食事にありつけました。でも、何よりタヌキがうれしかったのは、おなか一杯食べられたことよりも、誰かと一緒に食事ができたことでした。こうして、タヌキは白いウサギことを、すっかり月の遣いと思い込んでしまったのでした。