第9章 変身
<9-1 わらじ>
昨日の雨が嘘のように晴れた次の日の朝のこと。
おじいさんが畑仕事をしようと、土間まで行くと、昨日まで履いていたわらじがなくなっていました。
「ばあさんや、ここに置いてあったわらじ、知らんかの?」
「いーやー、さーて、どーしたかなぁ?」
「しかたねぇーなぁ、いたずらネズミにでも、もってかれたかなぁ」
「ほーれ、新しいのさ持っていけぇ」
「あー、そーだなぁ」
あたりをいくら探しても見つからなかったので、おじいさんは仕方がないのでおばあさんに新しいわらじを用意してもらうことにしました。おじいさんは不思議に思いましたが、新しいわらじを履いて外に出るといつものように権汰に声をかけました。
「権汰は寝坊助じゃのおー、夜中さおきて、お月様でも眺めめてたかぁ?」
おじいさんの声に一瞬ドキッとしましたが、権汰は耳だけ動かして寝たフリを決め込みました。
「かっかっかっ、呑気じゃのおー、権汰は」
おじいさんはニコニコしながら畑のほうへ向かっていきました。
おじいさんの足音が遠のくと、権汰はそうっと、薄目を開けておじいさんの後姿を確認しました。
「ごめんなさいなんだなぁ、おじいさん……」
おじいさんのわらじを盗み出しのは権汰でした。
昨日の夜、ウサギが姿を消した後、自分で縄を噛み切り、家の中にこっそり入っておじいさんのわらじをくわえて外に出ると、軒先に穴を掘ってそこにわらじを隠したのでした。ですから、権汰の眠っているお腹の下には、穴を掘った跡があり、それをおじいさんに見つからないよう覆いかぶさるように寝たフリをしていたのでした。
「これさえあれば、たぶんうまくいくんだなぁ」
おじいさんの姿が見えなくなると、権汰は穴を掘っておじいさんの使い古したわらじを通りだして、その上にちょこんと座りました。
『ひょい!』
権汰が鼻先で前足を交差させるようなしぐさをすると、次の瞬間、狸の姿は見る見るうちにおじいさんの姿に変わっていきました。
『ひょい!ひょい!』
権汰は、おじいさんとそっくりな――というよりはおじいさんの生き写し、『軒先につながれたおじいさん』になりました。
「さて、さて、どうかの……まずまずじゃなぁ」
『軒先につながれたおじさん』は、首に結び付けてある縄を解き、かわりに権汰が盗み出したおじいさんの使い古したわらじをしっかりと足に結び付けました。
「うん、うん」といいながらおじいさん或いは権汰は、自分の身なりを一通り確認しながら考え込みました――うーん、問題はこれからなんだなぁ。
「さて、ばあさんをうまいことごまかせるものかのぉ」もう一度身なりを確認しながら、申し訳ない気持ちで一杯になりました――おばあさん、ごめんなさいなんだなぁ。
<9-2 針と糸>
おじいさん或いは権汰は、家の扉の隙間から家の中を覗いてみました。おばあさんは家の中でなにやら縫い物をしているようでした――なるほど、おばあさんはいつもあれを使っているんだなぁ。
おじいさん或いは権汰は、戸口に立ち、顔だけ家の中を覗く様にして、おばあさんを呼びました。
「ばあさんや、すまんが、ちょっと畑まで来て手伝ってくれんかのぉ」
「あー、ちょっとまっとくれ、今すぐいくからよー」
「あー、じゃぁ、先にいっとるから」
そういうとおじいさん或いは権汰は、戸を閉めると両手をパン!と叩いて、あっという間にもとのタヌキの姿に戻りました。権汰は急いで軒先に戻り、何食わぬ顔でタヌキ寝入りを始めました。少しするとおばあさんが、扉を開けて出てきました。
「ちょっくら、畑までいってくっからなぁ」
先ほどまでおじいさんの姿をしていた権汰に向かってそういうと、おばあさんはおじいさんの畑のほうに歩いていきました。権汰はおばあさんの姿が見えなくなるとすばやくおじいさんの姿に変身し、家の中に入りました。
「えーっと、どれどれ、うん、これじゃこれじゃ」
おじいさん或いは権汰は、先ほどまでおばあさんが使っていた針と糸を見つけると、急いでそれを取り出して、予め用意していた木の葉に針と糸を通しました。
「これで、ばあさんにも化けられる」
おじいさん或いは権汰は、外に出ると軒先の小石の下にその針と糸を通した木の葉を隠し、すばやく縄を首にくくり付ける両手をポン!と叩いてもとの姿に戻りました。
「ふー、これで後は満月を待てばいいんだなぁ」
しばらくすると、おばあさんが畑から戻ってきました。
「おかしいのぉ、確かにおじいさんの声がしたと思ったんだがのぉ」
そうつぶやきながらおばあさんは家の中に入り、また縫い物を始めようとしましたが、先ほどまで使っていた針と糸が見つかりません。
「なんだかなぁ、狐か狸に化かされたみたいじゃなぁ……」
一瞬おばあさんは権汰がいたずらしたのではと思いましたが、「もっとも、権汰にはそんなことできねーだろうけどなぁ」とブツブツといいながら、別の針と糸で縫い物を始めました。
<9-3 満ちゆく月>
夜になると、おじいさんとおばあさんは「不思議なこともあるもんじゃのぉ」と、今朝のことを話しましたが、二人とも権汰の仕業だとは思いませんでした。なぜならおじいさんとおばあさんにとっても権汰は愚鈍な狸だったからです。
おじいさんとおばあさんが寝静まった後、権汰は隠してあった針と糸を通してある木の葉を取り出し、自分の頭の上に置きました。おじいさんになったときと同じように目足を鼻先で交差させると見る見るうちにおばあさんの姿に変身しました。
「さてさて、まぁ、こんなもんかねぇ」
『軒先につながれたおばあさん』は『軒先につながれたおじいさん』がそうだったように身なりを一通り見直してうなずきました。
「よしよし、これならきっとおじいさんもわからんじゃろうなぁ」そういいながらも、やっぱり権汰は申し訳ない気持ちで一杯になりました――おじいさん、おばあさん、ごめんなさいなんだぁ
パン!とおばあさん或いは権汰が両手を合わせると、みるみるうちに元の権汰の姿に戻っていきます。
「これを使えばウサギさんで、もおじいさんとおばあさんに化けられるんだなぁ」
そう思いながら権汰は昨日の夜のことを思い浮かべ、身震いをしていました。
『満月の夜にまた来るよ。じゃぁ……約束したからね』
「ウサギさん、僕を心配してくれてたんだなぁ……うれしいんだなぁ、でもおじいいさんとおばあさんをだますのはいやなんだなぁ」
愚鈍なタヌキは気付いていませんでした。自分が震えていたのは、白いウサギの好意を感じたからでもなければ、おじいさんとおばあさんをだますことへの罪悪感でもありませんでした。その感覚は、狸が天敵の犬やイヌワシなどに襲われそうになったときに感じるザワザワとした嫌な感覚と同じだということを……そして、今まさにこの瞬間、肉食獣が獲物を狙うときの、冷酷で貪欲で狡猾で執拗な視線が、愚鈍なタヌキに向けられていることを。
「クックックックッ……あいつ、なかなか仕事が速いじゃないかぁ、やればできる子なのかなぁ、いつもはノロマなフリをして、俺様のことをあざ笑っていたんじゃないのか?」
狂気のウサギは、飢えた獣のように口から唾液を流しながら卑屈な笑みを浮かべます。
「ケッケッケッケッ……いいさ、いいさ、お前たち狸は、いつもそうやって遊んでいるんだろう。今のうちに楽しんでおきなよ」
狂気のウサギは空を見上げました。
「……あと4日で満月だぁぁぁ」
狂気のウサギの禍々しさは、冷酷や貪欲、狡猾といった言葉では表現できないような、それは、それは恐ろしいものでした。狂気のウサギの影は、月が満ちていくにしたがって、どんどん、どんどん深く、暗くなっていくようでした。
愚鈍なタヌキ、或いは権汰には
夜空に浮かぶ、少しだけ欠けた月の中に
満月が待ち遠しくて踊り跳ねるような
愛しい人の姿が見えました
狡猾なウサギ、或いは狂気のウサギには
夜空に浮かぶ、満たされない月の中に
満月が待ち遠しくて踊り狂っているよな
獣の姿が見えました