今なら若気の至りで誤魔化せます、多分
リリエッタ・モルディスとアドニス・バードナーの婚約が結ばれたのは、政略的な意味が半分でもう半分はお互いの両親に交流があり、互いに年齢も近い事から成ったものだった。
他にもっといい相手がいるんじゃないか。
そんな風に高望みして結局見つからなければその頃には最初の頃に妥協してまで……なんて思っていた相手すら婚約を結んでしまって行き遅れる、なんて可能性もある。
勿論上手い具合に良い縁談を結ぶ事ができる場合だってあるけれど、上手くいくより失敗する方が多いので互いの両親はそれなら……とさっさと決めてしまったのだ。
下手に相手を決めないせいで厄介なのに目を付けられる、なんて事故みたいな事があるかもしれないし……
その厄介なのが今現在いないのであれば考えすぎだと互いに両親に言えたかもしれないが、社交界の噂を耳にする限りいないとは言い切れなかったので。
リリエッタもアドニスもまぁそういうものか、と受け入れる事になったのである。
両家は領地を行き来する際の道を整えたりそれ以外でも互いの領地で作っている――所謂名産品のような物を加工したりすることでどちらもそこそこの利益を出していた。
別に二人が結婚しなくとも互いに上手くやっていくつもりではあるが、余計な横やりが入らないとも限らない。
まぁそこら辺はビジネスとしての契約を結んでいるのでそう簡単に面倒な事にはならないと思いたいが、それでも両家が婚姻で結びつくのならより安泰――というのが政略的な部分だ。
「二人にはとりあえずこれを」
リリエッタの父がそう言って渡してきたのは、至ってシンプルなネックレスである。
「これは?」
お揃いで、小さな石がついている。
小さいながらも綺麗な石……なんてリリエッタが思っていれば、アドニスはその石を凝視してから、
「魔石ですか?」
眉間にしわを寄せながら聞いた。
「そうだ。両家の事業に関しての契約は魔法契約として結んでいるし、二人の婚約に関しても同様ではあるのだが……」
アドニスの父が少しばかり困ったように言った内容はこうだ。
貴族の婚姻は契約である。
だがしかし、それでも時折その意味を違える者も現れる。
魔法契約を結んだ上でやらかした場合、当然やらかした側は大損害だ。
やらかした側の家の人間がことごとく愚かな者であれば自業自得だが、しかし中には個人が勝手に暴走した結果、なんて事もあるわけだ。
「具体例を出すと、政略結婚であるという事を内心不満に思っていた所で、他に目移りしてそっちに乗り換えようとした、だとか」
「あぁ、真実の愛だのトチ狂った事を言うだけならまだしも、中には何の瑕疵もない婚約者を有責に仕立て上げようと冤罪をかぶせたり」
「まぁ、そんな……娯楽小説でもそういった話がありましたけど、あんな明らかにやったら破滅確定するような愚かな事をする人が本当に?」
「事実は小説より奇なりと言うだろう。今まで自分の周囲にそういった愚か者がいないからとて、だから世界にそういった愚か者が存在しないと思ってはいけない」
「そうだとも。愚か者というのは我々の予想をはるかに超えてやらかすものだ。
予想の範囲内であれば事前にこちらで対処もできるが、予想外の事をやらかすからやった時点で後手に回り対処しきれず更なる傷を負う形になる」
「これは大きな声では言えないが、三年ほど前に潰れた家があっただろう。
あれがそうだ」
「そうだったのですか!?」
リリエッタが驚くより先にアドニスが驚いている。
リリエッタは三年前に潰れた家、と言われてもすぐに思い出せなかったので即座に反応したアドニスに、知ってるの? と問いかければ、彼は親戚の友人のそのまた友人だ、となんとも遠い答えを返してきた。
リリエッタにとっては完全に赤の他人で関わりも無い人だが、アドニスは友達の友達の話、という感じでふわっと噂を聞いていたらしい。
「もし二人がこの先、王都の学院へ通うようになって知り合いが増えて。
世界が広がったような気がして、色々と目移りする事もあるだろう。
だが、その時に婚約者を蔑ろにして契約を台無しにするくらいなら、その前にこちらと話し合うという選択をとってほしい」
「と言ってもそれでも暴走した結果やらかす奴がいるのだよ……悲しい事に」
「勿論、二人がそんな事はしない、と私たちも思っている。
いる、のだが……恋に浮かれて普段と違う思考になった場合は……なぁ?」
「あぁ、普段はマトモでも酒に酔った時みたいなものだからな……そういう時にマトモな思考回路でマトモな判断を下せるか、となると……うん」
リリエッタとアドニスはお互いの父親が言葉を選んでいるのを理解した。
恋は盲目とか言われてるし、今は絶対そんなやらかしなんてしませんよ、と言えるけど。
だが恋にうっかり落ちた時、果たして本当にやらかさないか、と問われるとリリエッタにはわからない。
恋に落ちた事がないから、というのもあるし、本当にそうなった時、思考回路がどんなふうに暴走するかもわかっていないからだ。酔ってる人が酔ってないと言い張るのと同様に、恋に落ちて暴走してる時に自分は冷静だと思い込んだまま突き進む可能性は否定できない。
「それ故の、これだ」
ネックレスには小さいが魔石がついている。
契約を違えた場合にペナルティが発生する魔法をかけてある、と言われてアドニスは更に眉間の皺を深くした。
「つまり、浮気をした場合に何らかのペナルティが発生する、と」
「そういう事だ」
「これを外して浮気をするかもしれない場合は」
「そうならないように、この場で二人にはまずペナルティの内容を決めてもらい、それからお互いの首にそのネックレスをつけあってもらう」
「結婚式で指輪の交換以前にある種の呪いをかけた首輪の交換って事か……趣味が悪いな」
「そう言うな。場合によっては身を守る手段にもなるのだから」
「ペナルティの内容はこの場で知らせておいた方が良いのですか?」
「あー、うん、まぁ、そうだな」
「あくまでも一方的な婚約破棄を大々的に宣言したりしないような抑止力とか、そういう意味も兼ねている。
婚約を解消したいというのなら話し合いをしてからだ。
ちなみにその魔石の大きさを見てわかる通り、そこまでの威力のある条件はつけられない。
だから浮気をしたら即死亡とかそういうのは無理だ」
「過激すぎませんかそれはそれで」
「下手人が死んでしまえば確かに手っ取り早くはあるがな……」
アドニスが婚約者を下手人呼ばわりしている事にリリエッタはそれはまぁ、確かにそうなんですけれども……とつい頷いてしまった。相手が死ねば確かに婚約破棄だのなんだのといった事はなくなるし、浮気だの蔑ろにして冷遇だのという事もされていた事実は残るが相手が死んでしまえば確かにそれ以上の事は起きない。
「ちなみにそれは付けた相手じゃないと外す事ができないようになっているから、相手を冷遇した上で外せとか命令したらペナルティが発生するようになってる」
「蔑ろにしてきた相手に外せと命令されて従う方、おります?」
「いないだろ、普通は」
「ですよねぇ……」
魔石を握ってそこに自分の魔力を流しつつペナルティの内容を刻むように願えばいい、と言われて二人は少しだけ考えた。
リリエッタもアドニスも一応それなりに互いの事は知っている。
だからまぁ……仮に恋に落ちて暴走したとしても、なんて言うかそこまでの事をやるかなぁ……? と思うのだ。今までの付き合いも忘れて一方的に恋のお相手との仲を邪魔する奴、とか思うところまではいかないのではないか。そうなる前に話し合いでもなんでもして穏便に婚約を解消する流れに持って行く方が余程手間が少ないと思うくらいだ。
事業関連の契約は婚姻で更に強固に結べるとはいえ、絶対に両家の婚姻が必須というわけでもないのだから。
「じゃあ、まぁ、俺はリリがもし浮気をしたり俺を蔑ろにしたりするような事が起きた場合、リリの姿が周囲にとても恐ろしいものに見えるようにするよ」
「それでは私は……そうね、嫌な匂いでも発生するようにしようかしら」
そんな風に言いながら、手にしていたネックレスをお互いにつけあう。自分で自分につけるのではなく、相手につけるのはなんだか新鮮な気分だなぁ……なんてのんきに思いながら。
「恐ろしい姿って具体的にどんなもの?」
「さぁ? 周囲にそう見えるってだけだから、リリには見えないかも」
「えぇ……鏡がある場所でやっても?」
「試してみる?」
「試すも何も……ドニを蔑ろにするにしてもそれってどのあたりから? 声をかけられても私が聞こえてなかったら蔑ろにしたとは言い難いし、意図的に無視した場合? でもそれだってその場の状況次第で仕方のない事もあるでしょ?」
「そこら辺は魔石に込められた魔法次第な気がする。
ところで嫌な匂いって?」
「えっ? 浮気を仮にしようとしたとして、そんな相手から悪臭が漂ったら冷めない?
いくら美男美女でも悪臭漂わせてる相手と恋してときめける?」
「それは難しいな……風邪でも引いて鼻が詰まってるとかでもなければ」
「でもどっちかっていうと、その悪臭、浮気相手が嗅ぐ事になるのよ。ドニだけじゃなくて」
「成程な」
お互いの会話から二人の父親は本当にわかってるんだろうか……なんて少しばかり不安に思ったけれど。
ペナルティってどんな時に発生するんだろうね? という方に興味が傾いていたので、リリエッタもアドニスもそんな父親の心配などこれっぽっちも気付いていなかった。
――そんなこんなで。
二人は王都にある貴族学院へ通う事となった。
学習自体は各家で家庭教師を雇いある程度済ませているとはいえ、それでも足りない部分はあるしそれ以外にも通う利点は存在する。
普段関わる事のない家との繋がり。人脈を広げるという点においては成人し社交界に出るようになってからよりは、早い段階で形成した方がいい場合もある。
だがそれは同時に、あの家と今後関わるのはちょっと……と周囲に思われる事もあり得るのだが。
家の名を知らしめるという部分でも学院は利用されている。
その他にもいくつかの理由や事情はあれど、学院を卒業する事で一人前と見なされる事もあるので余程の事がない限りはどの家も学院に通う事になっている。
単身子だけで王都にやってくる者もいれば、家族と共にタウンハウスへ移動する家もある。
リリエッタとアドニスは家族と共にタウンハウスへとやってきた側だ。
領地から離れられない事情がある家などは、学院の寮を使うのだと聞いているが二人はどちらもタウンハウスから通う事となっている。
学院に通うようになると交友関係がぐんと広がり、また領地には無かった珍しい物も多く見る事もあって、二人は世界が広がるような感覚を確かに覚えていた。
そうはいっても、互いにどちらも蔑ろにするような事はなかった。タウンハウスへ戻れば二人の家は近いのもあり、時間があれば互いにあれこれ話をしていたので学院で話す事がなくとも何も問題はなかったのだ。
問題と言えそうな事が起き始めたのは、学院に通うようになってそろそろ一年が経とうという頃だった。
人脈作りの場となっている学院では、未だ婚約者が決まっていない相手が自ら相手を見つけるという事もある。実際そうやって相手を見つけ、婚約をした、という者がリリエッタの友人にいるので、それは何もおかしな話ではない。
ただ……最近とある家の令息にリリエッタはやけに言い寄られていたのだ。
家柄はリリエッタの家とそこまで離れているわけでもない。
見た目もまぁ良い方なのだろう。
ハッキリと目に見えて一発でわかるような悪い部分がなさそうな点は、婚約者を探している令嬢からすればとても優良物件に見える。
けれどリリエッタにはアドニスがいるので、言い寄られたところでホイホイ誘いに乗るつもりはなかった。
いや、一瞬もし自分がこの誘いに乗ったとしたら、魔石に込められた魔法が発動するわけだから周囲に自分の姿がどう映っているのかを聞けるチャンスかな、とは思ったのだ。
だが好奇心で契約を台無しにするような真似などするはずがない。
そもそもの話、魔石に込められた魔法はどうやら装着者の精神状態を感知した上で発動するようなので、浮気をするつもりがない状態でやっても発動しない可能性の方が高いのだ。
そこら辺の感知はどういう判定でされているのか、リリエッタは詳しくは知らない。魔法学は専攻ではないので。リリエッタやアドニスといった貴族の多くは魔力を持っているけれど、その魔力は微々たるものだ。
故に魔法契約に関しても、魔石などの媒体を必要とする。
それすらない状態で魔法を使おうと思っても、魔法は発動しないだろう。
そして同じようにアドニスの方でも似たような事態が起こっていた。
こちらもとある令嬢に言い寄られ、アドニスとしても困っていた。
家柄は良い。見た目も可愛い。
けれど、だからといってリリエッタを捨ててそちらを選ぶか、となると選ぶつもりは全然なかったのである。
文字だけで、事実だけを羅列されたものを見れば良い感じではある。
あるのだが……リリエッタもアドニスも言い寄ってきている相手とお互いに上手くやっていけるか、と問われると首を横に振る。
こちらとしては婚約者もいるから節度を持った距離感でいたいのに、向こうがグイグイ来るのだ。
一方的と言ってもいい。
互いを尊重する気はない、と暗に言われているようだし、かといって面と向かってハッキリ断るにも微妙なところであった。
言い寄る、と言っても向こうもあからさまにハッキリとした事は言ってきていないのだ。
それなのにこちらが拒絶した場合、友人として仲良くしたいだけだった、とか言われてしまえばこちらがとんだ自意識過剰扱いにもなりかねない。あんな婚約者捨てて自分と、なんて言う風に決定的な事でも言えばハッキリ断る事もできるのだが……現状どちらもそれが難しい状況であった。
学院での授業が終わり、それぞれが帰ってからお互いに情報交換をしてみてもどちらも手詰まり状態。
困り果ててクラスメイトにそれとなく相談してみても、確かに周囲から見て積極的に仲良くなろうとしている節はあるけれど、しかしそれが男女の仲としてなのか、と問われるととても微妙なラインを攻めているために反応に困るなんとも言えない状況だと言われてしまった。
相手の家は爵位としてはこちらとそれほど変わらないのだが、しかし領地も王都に近い場所にあるせいか中央の貴族たちとの繋がりも強く、扱いを間違えると周囲の家が敵に回る可能性もゼロではない。
自分と仲良くなると人脈面で良い部分がありますよ、というような売り込みはされていない。けれどそれは逆に考えると敵に回せば余計な敵が増える可能性も秘めていた。
結局のところリリエッタとアドニスができるのは、周囲に下手な誤解を招かないようのらりくらりと相手をするくらいで。そんな二人の友人たちもそれとなく助けを出したりしていたのもどうにかなっていた事に繋がっている。そうでなければ今頃どうなっていた事やら……
正直内心ではこれもう完全に狙われてるな、と思えるのに相手は決して決定的な事を言わずに距離を詰めてくるせいで、言質が取れない。これが中央の貴族のやり方なのかと戦慄さえした程だ。
結婚相手なのか、それとも単なる学生時代の遊び相手としてなのか。はたまた家の何かがお相手の家にとっての狙いであるのか。それすらわからないままに、このままいけばうっかり何かを貪られてしまいそうな感覚だけはしっかりとあって。
困り果てたところで、派閥も違えばリリエッタにとって接点が全くなかった公爵令嬢が声をかけてきた。どうやらリリエッタの友人経由で事の次第を知ったらしい。
そしてアドニスの方も同じように侯爵家の令息から声をかけられていた。
どちらもリリエッタとアドニスが身につけている魔石のネックレスを見て、それは契約の証かと問うた。
それに頷いたリリエッタとアドニスに対して、令嬢も令息も少しだけ考えるように視線を動かし――
「それを用意したのは?」
「父です」
「良い御父上だな。問題ない」
「えっ?」
なんてやりとりをして、令嬢も令息もいい笑顔で立ち去っていった。
残された二人はぽかんとしたままである。
えっ、それだけ……!?
そんな気持ちでいっぱいだった。
特にこれといった助言も何もないために、この先もどうにか互いにやり過ごしていくしかないのだと思っていたものの、しかし事態はそこから変わっていった。
今の今までのらりくらりと躱していたからだろうか。
リリエッタに言い寄っていた令息がまず最初に焦れた。
歯が浮くような甘い言葉と共にリリエッタを本気で口説き始め、それに対しリリエッタは自分には婚約者がいるから、と勿論断っていた。
当然そんな風に言い寄ってくる相手と二人きりだったわけではない。
少し離れたところには、いざという時のために友人たちが助けに入る方と助けと言う名の教師を呼びに行く側とで分かれて様子を見守っていた。
だからこそ誓って言える。リリエッタは浮気などしていないと。浮気をするつもりだってこれっぽっちもないと。
いくら見た目が良くても今の今まで面倒な事に巻き込んできているも同然な相手だ。ぐらっと心が揺れた事もない。
しかし――
「――それでも一度さ、考えてみてほしいんだ。後悔はさせないか、ら……ひっ、うわっ!?」
婚約者の乗り換えを仄めかすような事を言いだしていた令息が、少しだけ視線を逸らし、それから渾身の決め顔でリリエッタの方を向いた途端悲鳴を上げた。
リリエッタにしてみれば、何に驚いているのかさっぱりわからない。足元にカエルでもいたのかしら? なんて思ってふと視線を地面に向けてみたけれど、特に何がいるわけでもなかったし、周囲を蜂が飛んでたのだろうかと見回しても別段そんな気配も羽音もしていない。
「ば、化け物っ……!」
なんとも情けない悲鳴をあげながら令息はリリエッタからよろける足取りでもって逃げ出していった。
「まぁ酷い」
「靡かないからってあんな暴言を吐くお方だったなんて」
遠くでそっと様子を窺っていた友人たちがここぞとばかりにやってくる。
「気にしちゃ駄目よリリエッタ。あの方の目がおかしいのよ」
「それか頭がおかしいのね」
ぼろくそである。
友人にしてみても、令息のリリエッタへの態度は本当に微妙なラインだったのでハッキリ言っておやりなさい、とも言えなかったのだ。下手にそんな風に強気に言ったところで、相手はいくらでも言い逃れができるような逃げ道をいくつも残していたために。
そうなった時、きっと令息はリリエッタが自意識過剰で困るだのなんだのと周囲に吹聴しリリエッタを笑いものにするのかもしれない。そんな最悪の状況を考えれば、友人たちもリリエッタにはどうにか躱し続けるしかないわとアドバイスにもならない事しか言えなかったのだ。
ところがそんな令息がうっかりでは済まないレベルのボロを出した挙句逃げ出したので。
リリエッタの友人たちはてきぱきと最初から段取りをしていましたけれど何か? とばかりにこの話を振りまいた。いくら家柄がそれなりに良くて見た目も良いからといっても、今回の一件は流石に失礼すぎる話だ。
リリエッタに非が無い事を強調しつつ、あの男の甘い言葉に乗ってはだめよ、と事情を知らない他の令嬢たちにも周知させていった。
それと同じくして、アドニスの方も距離を詰めようとしていた令嬢から誘惑なのかどうなのか微妙に判断がつかない状況に置かれていた。
こちらも少し離れた位置でアドニスの友人たちがそっと様子を窺っていた。
大勢で一人の令嬢を囲むような真似をすれば、何を言われるかわかったものではない。
かといって、二人きりになった時にアドニスに襲われたなんて言われた時、無実を証明するのは相当難しいだろう。流石に傷物にされました、なんて言い出せば令嬢の人生もある意味で終わりを迎えるので、まさかそこまではやらないと思いたいが、しかし世の中には自分の予想をあっさりと上回る愚かな事をやらかす者がいるので油断はできない。
いざとなればアドニスの無罪を主張するべく、友人たちはギリギリ二人の話し声が聞こえる範囲でじっと様子を窺っていたのである。初っ端から話に割り込むような事をすると余計話が拗れそうな予感がしたので。
令嬢は家同士の付き合いを持ち出し、うちと縁付くのは悪い話ではない、というような事を今までも言っていた。確かにそうなのかもしれない。だがそういう話はそれなら家の当主同士での話とすればいい。アドニスは一応父親にそういう話を通しはしたが、しかし令嬢の家から何らかの話が直接やってきたわけではない。
あくまでも令嬢が言っているだけで、家としては無関係。現時点ではそう言えなくもない状況であった。
そんなわけで、アドニスとしても令嬢とそれ以上の話などないのだが、しかし令嬢はそこから更にアドニスとの距離を縮めようとしているようにも見受けられる。
ここまでくれば家の話は口実でしかない、とアドニスだってわかっていたが、しかしそこで突き放して本当にその後家同士での話し合いになった時拗れる可能性を考えると、内心面倒で面倒で仕方なかったくらいだ。故にアドニスも令嬢と距離を取りつつ穏便に話をやり過ごす必要があった。
リリエッタと比べるとアドニスは男性である以上、女性側がアドニスに酷い事をされた、なんて噂を立てられた時それが嘘であると証明するのは本当に苦労するので。
身近な友人たちは信じないとわかっている。
しかし、そういった噂というのは当事者から程遠い相手が何故か身近にいるようなツラをしてさも知ったような口を叩く事もあるからこそ、アドニスはリリエッタ以上に慎重にならなければならなかった。
だがそんな風にのらりくらりと躱し続けていたことで、令嬢の方も段々と焦れてきたのか物理的に距離を縮めようとしてアドニスへと無遠慮に近づいて。
そのまましなだれかかろうとでもしたのだろう。
アドニスもそれを察知して躱そうと思ったが、そのまま支えを失って倒れるような事になれば別の意味で面倒な事になりそうだ……と友人たちへ何かあった時の無実を証明してくれ! と念を押すように視線を送り、仕方なしに最低限支えられなくはない程度の距離を保つ事にした。
目の前で勝手に倒れたところで令嬢の自業自得であったとしても、至近距離にいてどうして支えてあげなかったのか、なんて事情をロクに知らない者から糾弾されるのも面倒だったからだ。
ところが――
「うっ、なんですのこのにおい……くっさ!」
突如ピタリと動きを止めた令嬢はそんな風に呻くと、すたこらとアドニスから距離を取って逃げ出していった。
至近距離にいて臭いと言われたアドニスは何が起きたのか理解しきれず思わず硬直していたが、令嬢の姿が完全に見えなくなってから友人たちが恐る恐る近づいてくる。
「大丈夫か?」
「あぁ、ところで俺ってそんなくさいか?」
「いいや? むしろ爽やかな香りにちょっと甘い感じの匂いがするけど」
「どっかで嗅いだ匂いなんだよな、なんだっけ」
「あぁ、それは庭で大量発生してるハーブだと思う。虫除けの効果もあるからって使用人がポプリにしてあちこちに置いて俺の部屋のそこかしこにも置かれたから」
「あぁ、あれか」
「安眠効果もあるって話だよな」
「そうだな。毎日ぐっすりだぞ」
「俺も試してみようかなぁ」
友人たちの会話から、令嬢のような反応は見受けられない。
無理をして気遣っているわけではない、と理解してアドニスは内心で安堵の息を吐いた。
身だしなみに気を使っているけれど、そういった意識は男女で大きな差が出てしまう。
だからアドニスが気を付けていても他の令嬢たちからは実はあの男最低ですわ、臭くて、なんて思われていたかもしれないのだ。令嬢の先程の態度から、そういった想像がありありとできてしまってほんのり落ち込んでしまったのである。
これがリリエッタにやられたなら間違いなく立ち直れない。
だが周囲の反応から少なくともそうではないと思う事にして。
リリエッタとアドニスは学院からタウンハウスへ戻り、そうしてそれぞれが今日あった事を報告しあったのである。
その後、リリエッタとアドニスに関して噂が流れたが、その噂は広まる前にあっさりと終わりを迎えた。
噂は『リリエッタがおぞましい化け物に見えた。あれは姿を誤魔化している』というものと、『アドニスは耐え難い程の悪臭を漂わせてとても不快だ』というものだった。
けれども周囲はリリエッタの姿が化け物に見えた事など一度たりとてなかったし、アドニスだって香水を大量に振りまいたりしたわけでもなく、むしろ控えめながらもいい匂いがすると周囲は思っていたくらいなのでその噂を流している相手が悪意を持って二人を貶めようとしたのだと判断した。
実際にもし魔法を使って姿を変えているのだとしても、そういったものを判別する道具が学院には存在していたし――これはかつて姿を偽って別の生徒になりすました者が代理で試験を受けた事があったりそれ以外にもあったため――リリエッタにその道具を使っても特に何の反応もなかった事で『リリエッタ・魔法で外見を変えている説』は即座に消えた。
それでもまだ言い募ろうものなら、学院の魔法道具にいちゃもんをつけているも同然になるし、その魔法道具の開発には王家も一枚噛んでいたため最終的に王家批判につながりかねない。
面白半分の噂に乗っかるにしても、大半は乗るかどうかを選んでやる。今回の件は乗っかる方が最終的に自分の家の不利益につながりかねないと言う事でほとんどの家はその噂を口にする事すらなかった。
そしてアドニスに至っても、一応念のため教師が身だしなみのチェックをする事にはなったけれど、学院に通うようになってから今の今までアドニスはそういった事で注意を受けるような事すらなかった。
たまたまその噂を流された時に香水をつけすぎたかどうかの確認もされたけれど、アドニスも周囲の友人たちも香水は使っていないと証言し、教師の方もアドニスの身だしなみに特に問題はないと判断して終わった。
それでもリリエッタに言い寄ろうとしていた令息は納得がいかないように、あいつは魔法で姿を誤魔化していると大っぴらではなくとも令息の友人たちに言っていたようで、問題が大きくなりつつあった。
だが令息の友人たちもリリエッタを見ても別に何の問題もない、可憐で可愛い令嬢じゃないか、としか言えなかった。彼女を化け物呼ばわりは失礼すぎるだろう、謝れ、と言った者もいたとか。
アドニスに近づいていた令嬢の方も、彼の悪臭が酷いと言っていたようで、早急に対処か処分をするように教師に訴えていたようだが、確認した教師いずれもアドニスに問題はないと判断する結果だ。
そのように告げても令嬢も令息も納得がいかないようで、なおも何やら言っていたようではあるのだが――
最終的に意味もなく他者を陥れようとしている、と判断されてか親に連絡がいったらしい。
その時に我が子がそこまで愚かな事をやらかすとは思えない、と思った親も念のためリリエッタやアドニスにそっと面会を申し出て確認してみたが、どちらも問題なしという結論に至った。
だが……二人が身につけているペンダントを見て、何かに気付いた様子ではあった。
令嬢の親は彼女にはマトモな縁談を望めないものと知れと伝え、納得のいかない令嬢は食ってかかったようだが令嬢の親は一先ず娘の休学手続きをとり一時的に学院から距離を取る事にしたらしい。
そのまま学院を去る事になるのか、それとも復学する事になるのかはリリエッタにもアドニスにもわからない。
やむを得ない事情があっての休学ならいざ知らず、特にそういったものでもないのに休学をするという時点で確かにマトモな縁談は望めないだろうな、とは納得したがそれ以上何を言えるでもなかった。
令息の方もやはり休学手続きを取られる形となった。
こちらはお前を後継にするには問題があるようだ、と令息の父が重々しく言っていたようなので、こちらも未来は明るいとは言えないものになるらしい。
後日それぞれの家から二人の家に謝罪の手紙と詫びの品が届けられた。
リリエッタもアドニスも今後あの二人が近づいてこないのであればそれでいいやと思っていただけに、ここまでしっかりとした謝罪が来るとは思っておらずちょっとだけ驚きはしたけれど。
とにもかくにも平穏が戻ってきたのだ、と思えばようやく安心できたのである。
「――神に選ばれた聖人をあの手この手で堕落させようとする悪魔の話を知っているか?」
そう言われたのは、すっかり事態が落ち着いて安心しきったある日の事だ。
アドニスは侯爵令息に言われた言葉を理解するのに一瞬遅れたが、それでも神話の一説にあったなそんなのが……と思い出したので真面目そうな顔で頷いた。
「契約の証として使われる魔石に込められる魔法は大抵装着者が契約を違えようとすると魔法が発動するようになっているが、たまにそれを逆手にとって契約を破らせようとする相手が現れる事があってね。
君たち二人の魔石はそういった悪意を持った相手にも発動するものだ」
「そうだったんですか!?」
「見た目に大きな違いはないが、値段は大違いだ。信用されているし、愛されているな」
誰に、とは侯爵令息は言わなかったが、誰の事を示しているのかわからないはずもない。
アドニスもリリエッタもどちらも親に愛されているという事実を改めて嚙みしめる。
「契約を違えた場合発動する魔法は、本来当人がやった場合であれば勿論周囲にそう見えるよう効果が発動します……が、今回どちらも契約を違えるつもりはなかった。むしろそう仕向けようとしていたあの二人だけに効果が発動して、結果としてあの方々には契約違反をした時の魔法がかかった。
蓋を開けてみればとても単純な真相ですわ」
公爵令嬢に言われて、あぁそういう事だったのか……と二人揃って納得する。
確かに契約を違えた時、リリエッタは化け物、というか周囲に恐ろしい姿に見えるような罰が発動するようにアドニスが決めていたし、アドニスはなんか嫌なにおいがするようになる、とリリエッタが決めていた。
その効果が二人に言い寄っていた相手にだけ発動した。
そう言われれば納得しかない。
「でも、どうしてお父様はそんな大事な事を伝えて下さらなかったのかしら」
リリエッタの疑問に公爵令嬢が答える。
「それを相手にもし伝えて、相手が素直に信じて退いたとして、そうしたら次は別の誰かが犠牲になるかもしれません。それが貴方に無関係の人である可能性は勿論あるけれど、貴方のご友人である可能性もありますわ。
そうなった時、貴方が助けに入ろうとしても難しいでしょう。
それにそんな効果を持つ高価な魔石を使っていると吹聴したらそれはそれで家にお金がたっぷりあると思った相手が群がってくる事もありますもの。
そういった相手が群がると本当面倒極まりありませんわ。
知らなければ、言いようがない。でしょう?」
「確かに……!」
リリエッタのネックレスはアドニスにしか外せないし、アドニスのネックレスはリリエッタにしか外せないようになっているとはいっても、魔石以外にも高価な物があるに違いない、なんて思われて金目当ての犯罪に巻き込まれる可能性をわざわざ作る必要はどこにもない。
そんな高価な魔石だなんて気付かなかったから、リリエッタもアドニスも特に気負う事もなかったのだ。むしろ今高価な魔石であると知って、正直ちょっと慄いている。
「家に帰ったらお父様にいっぱいお礼を言わなくちゃ」
「だな。この魔石のおかげで命拾いした」
「休学手続きをしたあの二人は……まぁ、どうなるかは存じませんが性根を矯正できそうにない場合は復学できないでしょうね」
「あぁ、ちょっと周囲と違う事を言って注目を集めてみたかった、とかちょっと相手に嫉妬して嫌がらせをしたいだけだった、くらいにおさめてしまえるなら若気の至りだのと言って戻ってこれなくもないかもしれないが……それでも今までのようにはならないだろうよ」
「えぇ、大人になっても当時の事を当てこすられる可能性はありますものね。むしろ子供が生まれてそちらも思春期やら反抗期やらでやらかした時、親の失敗を第三者からばらされて……なんて事も」
「あるある、叔父上が未だに私の幼い頃の失敗をしみじみ語ってくる事があるけれど、憶えてないんだよなぁ。何分物心つく前の話だから。それくらい幼い頃の話であれば周囲も微笑ましく受け流せるけど、今回の件は流石に忘れてたら問題でしかないし、子が成長した頃に暴露されたらと考えたら今から恥ずかしさで憤死しかねんな」
軽快に交わされる言葉に、リリエッタとアドニスも想像してみる。
確かに大人になってから若かった頃の失敗談を語られるのは、今はあまり想像がつかないけれどそれでもちょっと恥ずかしいなぁ、と思えてくる。
復学できたとして、今回の件については噂になるだろうし、それがその後も続くとなれば心を入れ替えたといってもあっさりと切り替えられるはずもない。
今まで以上に身の振り方に苦労をするのは間違いないだろう。
……まぁ、どちらもリリエッタとアドニスにとってはあまり関係がないはずだ。
学院を卒業した後、二人は王都で暮らすわけでもなく領地で生活するのだから。
あちらが出向いてくるような事もないだろうし、そうなれば今後関わる事はほぼ無いと思っていい。
だからこそ二人は授業が終わりタウンハウスへ戻った後、事の顛末を報告し、両親にたくさんの感謝の言葉を伝えた。普通の魔石であったならこうはならなかっただろうし、そうなれば事態の解決にもっと時間がかかっていたに違いないので。
その後は特に事件と呼べるような事に巻き込まれる事もなく、二人は卒業し領地へ戻って結婚式を挙げた。
その際一度は外したネックレスであるけれど、改めてお互いに付け直す事にした。
かつてネックレスをつける前、ある種の呪いのアイテム扱いをしていたが今は違う。
幸運のお守りとして、ネックレスは末永く二人の胸元で輝く事となったのである。
次回短編予告
とある令嬢が修道院へ行く事になったらしい。
そう言えばそのご令嬢にちょっと言われた事があったっけ……
次回 特に何をするでもなく終わっていた話
でもまぁ、もう終わった話なのよね。




