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婚約破棄された完璧令嬢、最底辺からやり直したら“嘘を暴く力”で全部ひっくり返しました。――今は戦場帰りの男と対等に並んでいます  作者: 慈架太子


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第8話:どん底② ――「……どうして、立てませんの」

膝を折るということ

夜の帳が王都下層区を包み込む。

頭上、遥か高みにそびえる王城の明かりは、雲に隠れた星のように遠く、届かない。

下層区の夜は深い。安物の油が燃える悪臭と、絶えずどこからか聞こえる争いの気配が、湿った空気と共に肌にまとわりつく。


「……」


エルディアは、路地の湿った石壁に身を預けていた。

視界の端が暗く縁取られ、鼓動の音だけが頭蓋の内でやけに大きく響く。


立っている。

――いや、立っているはずだった。


だが、身体の芯から力が抜けていく。支えにしている壁の感触が、遠ざかっていくような錯覚。

自分の身体が、自分のものではない別の物体に変質していくような、奇妙な剥離感。


(……おかしいですわね)


意識は、まだ鮮明だった。

今の自分に必要な栄養素、休息の時間、そしてこの場から離脱するための最短ルート。頭脳はいつものように最適解を導き出し、実行を命じている。

それなのに。


足が、石畳に縫い付けられたように動かない。

膝が、壊れた振り子のように小刻みに震え、制御を拒んでいる。


「……っ」


エルディアは奥歯を噛み締めた。

不甲斐ない肉体に、自らの矜持を叩きつける。

立てますわ。当然ですわ。立てない理由など、どこにもありませんもの。


私は、レッドグレイブの名に恥じぬよう、幼少から過酷な訓練に耐えてきた。

魔導戦術を学び、剣を振り、誰よりも厳格に己を律し続けてきた。

たかが三日間の絶食。たかが数時間の彷徨。

その程度で、私の積み上げてきたものが崩れるはずなどない――。


「……」


しかし、一歩を踏み出そうとした瞬間、視界が大きく反転した。

重力が横からかかったかのような感覚。


「……どうして」


小さく、掠れた独白が漏れる。


「どうして、立てませんの……」


その言葉は、もはや問いですらなかった。

自らが信奉してきた論理が、現実という無慈悲な重圧に完膚なきまでに粉砕されたことへの、絶望的な拒絶だった。


現実の距離

腹部を、鋭い痛みが突き抜ける。

締め付けられるような、焼けるような苦痛。

エネルギー不足による低血糖、内臓の異常収縮。

冷静な分析はできる。だが、その知識が今の苦しみを一分子も和らげてはくれない。


(……それだけ、ですの?)


違う。分かっている。

動けないのは、栄養が足りないからだけではない。

「自分は正しい」という唯一の支柱を奪われ、世界の全てに否定されたという事実が、毒のように全身に回っているのだ。


「……」


壁を支えていた手を、離してみる。

支えを失った身体が、ゆっくりと、しかし抗いようもなく傾いていく。


「……っ」


慌てて壁を掴み直そうとするが、指先が石の表面を無力に滑った。

バランスが崩れる。

重力に引かれ、エルディアの身体は崩れ落ちた。


膝を、冷たい泥の混じった地面に打ちつける。

そのまま、壁に背を預けるようにして座り込んだ。


視線が下がる。

今まで、一度も見たことのない高さからの景色。

泥、ゴミ、這い回る虫。

常に高い壇上から世界を見下ろしてきた彼女にとって、それは未知の領域だった。


(……低いですわね)


当然だ。座っているのだから。

だが、それ以上に。


(……近い。現実が、すぐそこにありますのね)


いつもは靴の下で踏みつけていたはずの地面。

その冷たさと、硬さと、汚らしさ。

それが今の自分と地続きであることを、彼女は初めて理解した。


カツン、と乾いた音がした。

誰かの足音。

暗闇の中から、一人の男が姿を現す。

エルディアは顔を上げようとするが、首を持ち上げるのさえ億劫だった。


「……大丈夫か?」


低い、落ち着いた声。

聞いたことがある。

いや、知らないはずの男だ。

しかし、その声には、この下層区の住人らしからぬ静かな響きがあった。


「……問題ありません」


反射的な拒絶。

泥の中に座り込み、肩で息をしながら、なおも彼女は「完璧」を演じようとする。


「そうは見えねぇな」


男は皮肉るでもなく、ただ事実を指摘した。

エルディアは言い返そうとしたが、喉が渇ききっていて、言葉の代わりに咳き込んだ。


「……」


沈黙が流れる。

その間にも、彼女の腹は無慈悲な音を立て続けた。

隠しようのない、生物としての飢えの叫び。


男が何かを差し出した。

茶色の紙で包まれた、小さな袋。


「……いりません。施しなど、受ける謂れはございませんわ」


「金は要らねぇよ。……ただの余り物だ」


「そういう問題では――」


言いかけて、彼女の意識が、袋から漏れ出る香りに吸い寄せられた。

焼きたての小麦の、香ばしい匂い。

それだけで、脳が、胃が、狂いそうになる。


「……」


視線が、無意識に袋を追う。

だが、理性がそれを必死に繋ぎ止める。

(違いますわ。私は、そんな浅ましい存在ではありません。施しを受けて生き延びるなど、屈辱ですわ)


「食え」


短く、淡々と言われる。

そこには同情も、憐れみもない。

ただ、目の前に空腹の者がいて、そこに食べ物がある。

その二つの点を結ぶだけの、簡潔な事実。


「……」


エルディアの右手が、震えながら動く。

止めようとする。

動く。

指先が、紙の感触に触れる。


だが、そこで力が尽きた。

掴み取ることができない。

指先に力が入らず、手はそのまま力なく地面に落ちた。


(……取ることさえ、できませんの?)


衝撃だった。

拒絶するという意思表示すら、肉体が維持できない。

プライドを守るための「拒絶」という贅沢さえ、今の彼女には許されていない。


崩壊と受容

男は何も言わなかった。

ただ、そこに静かに立っていた。


「……」


エルディアの瞳から、ぽろりと何かがこぼれ落ちた。

石畳に落ち、小さな跡を作る。


(……?)


それが何であるか、理解するのに数秒を要した。

涙。

十七年の人生で、彼女が最も遠ざけてきた、無能と甘えの象徴。


一度溢れ出したそれは、止まることを知らなかった。

一つ、また一つ。

頬を伝い、泥にまみれた衣服を濡らしていく。


「……違いますわ」


声が震える。


「これは……その、目に入った塵のせいで……」


理由を探す。論理的な弁明を構築しようとする。

だが、言葉が形をなさない。


「……」


嗚咽が漏れた。

自分でも驚くほど、小さく、醜い、赤ん坊のような泣き声。


「……こんな、はずでは。私は……正しかったはずですわ……」


初めて、言葉が内側から溢れ出す。

「私は……何を間違えたというのです。……最善を尽くし、秩序を守り、……それなのに……!」


続かない。

言葉はそのまま、形のない慟哭へと変わった。

自分が何であったのか。これまで築いてきた「エルディア」という名の虚像が、何の意味も持たなかったことへの、魂の叫び。


男は何も言わなかった。

ただ、袋を彼女の目の前の地面に置くと、無言で数歩後ろに下がった。

彼女が泣き止むまで、その醜態を正面から見ないように。

干渉せず、かといって見捨てず。

その距離こそが、今の彼女にとって唯一の救いだった。


ひとくちの真実

しばらくして、激しい呼吸が落ち着きを取り戻した。

涙は止まり、後に残ったのは、魂を削り取られたような深い虚無感。


そして。

目の前にある、袋。


(……私は)


理解する。

自分は強い人間ではなかった。

地位に守られ、名誉に支えられ、周囲の忖度に甘んじていただけの、脆い子供。

今、この泥の中に座り込む姿こそが、一切の虚飾を剥ぎ取られた「エルディア」という一人の人間の正体だ。


(私は、弱者ですわ。……完全に)


事実を認めた瞬間、皮肉にも指先に少しだけ感覚が戻った。


手を伸ばし、袋を掴む。

今度は動いた。

震えながら、泥のついた手で袋を開ける。


中には、堅く焼かれた簡素なパンが二片。

それだけだ。

かつての彼女なら、食卓に並ぶことさえ許さなかったであろう代物。


彼女はそれを手に取り、ためらうことなく口に運んだ。


「……」


噛みしめる。

飲み込む。

喉を通る熱が、食道の形を自覚させる。

味がする。

塩気と、小麦の素朴な甘み。


「……」


止まらなかった。

一口、また一口。

涙の味が混じったパンを、彼女は貪るように食べた。

気づけば、袋は空になっていた。


顔を上げる。

男は、もういなかった。

いつの間にか、闇の中に消えていた。


「……」


静寂が戻る。

お腹の奥に、確かな重みがある。

それは、彼女が「生」を繋ぎ止めたという、最低限の、しかし決定的な証。


「……助けられましたのね。私」


事実を口にする。

屈辱は、まだある。だが、それ以上に重い「現実」がそこにあった。

「三流」の施し。名もなき者の情け。

それを拒めなかった自分。


エルディアは、壁に手を突き、震える足に力を込めた。

膝が鳴る。視界が明滅する。

それでも。


一歩。

足が、前へ出た。

ふらつき、倒れそうになりながらも、彼女は地面を蹴った。


「……問題ありません」


声はまだ、死にかけの小鳥のように弱々しい。

だが、その瞳には、絶望を通り越した先の、昏い光が宿り始めていた。


「問題ありませんわ。……私はまだ、生きておりますもの」


彼女は夜の路地を、ゆっくりと歩き出した。

かつての完璧な姿勢ではない。

ふらつき、汚れ、惨めな姿。

だが、それは初めて彼女が、自らの足で、自らの生を歩き始めた瞬間だった。


この夜。

理想の令嬢は死に、一人の「人間」が、どん底の地から這い上がり始めた。







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