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婚約破棄された完璧令嬢、最底辺からやり直したら“嘘を暴く力”で全部ひっくり返しました。――今は戦場帰りの男と対等に並んでいます  作者: 慈架太子


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第2話:理想の令嬢 ――「それが当然ですわ」

黎明の静寂と鉄の規律

王都の北側に位置する貴族街。その中でも一際広大な敷地を誇るレッドグレイブ侯爵邸の朝は、静寂という名の支配から始まる。


朝日がステンドグラスを抜け、長い廊下に鮮やかな幾何学模様を描き出しても、そこに浮き足立った空気は微塵もない。使用人たちはまるでお互いの呼吸の音さえも消し去るかのように、音もなく、迅速に、かつ正確に己の職務を遂行している。この館において「乱れ」は許されない。それが主である侯爵の意志であり、何より、この屋敷の若き象徴であるエルディア・ヴァレンティナ・レッドグレイブが体現する「秩序」そのものだった。


午前六時。


エルディアは、寸分の狂いもなくその一日の始動を迎える。


広々とした食堂。磨き抜かれた長テーブルの端に、彼女は座っていた。背筋は定規を当てたように垂直を保ち、その姿勢は朝食の席であっても、王城の謁見の間と何ら変わりはない。


「本日の予定を」


視線を上げることなく、静かに告げる。その声は低く、しかし屋敷の隅々まで染み渡るような冷徹な響きを持っていた。


傍らに控えていた筆頭侍女が、流れるような動作で一歩前に出た。


「はい、エルディア様。午前は室内練習場にて剣術の定時稽古、その後、書斎にて魔導戦術の特別講義。午後は王城へ登城され、白薔薇の間にて開催される春の定期茶会、並びに――」


「承知しましたわ。午後の講義の資料は、移動の馬車の中で確認します。準備を」


最後まで聞く必要はない。エルディアの頭脳の中には、すでに今日、そして向こう一週間、一ヶ月のスケジュールが寸分の狂いもなく構造化されているからだ。


彼女の手元では、ナイフとフォークが音もなく動く。

銀食器が皿に触れる音さえしない。肉を切り分け、口に運ぶ。その一連の動作には一切の無駄がなく、食事という生命維持の営みさえも、洗練された儀式の域に達していた。


それを見守る侍女たちは、密かに息を呑む。

彼女の美しさは、見る者を圧倒し、同時に窒息させる。

乱れぬ髪、乱れぬ服、乱れぬ心。

――理想の令嬢。

社交界で彼女を指すその言葉は、もはや称賛を超え、一種の呪いのようにさえ響いていた。


「……エルディア様。一つ、お耳に入れておくべきことが」


侍女の言葉に、エルディアは一瞬だけ手を止めた。顔は上げない。だが、その場の空気がわずかに鋭利さを増す。


「言いなさい」


「昨日、審議会でガイウス殿に下されたご判断の件。すでに王都の若手貴族たちの間で、様々な噂となって流れております」


「……そうでしょうね」


当然だ、というように、エルディアは再び手を動かし始めた。


「三流の案を三流と指摘しただけのこと。事実を口にしたまでです。それに対して、私に何を配慮せよと言うのですか?」


「いえ、決してご判断が誤りだなどと……。ただ、ガイウス殿の家門もそれなりの影響力を持ちますし、何より周囲の反発が――」


「不要ですわ。配慮とは、真実を歪めるための言い訳に過ぎません。甘さは誤りを温存し、不備を見逃させ、結果として戦場に死を招く。それを見過ごすことこそ、戦術に携わる者としての、そして貴族としての怠慢ではありませんか?」


冷たい。

そして、あまりに正しい。

だからこそ、反論の余地がない。


「……失礼いたしました」


侍女は深く頭を下げるしかなかった。

エルディアは、残りの食事を静かに終えた。何もなかったかのように。彼女にとって、正しさを貫くことに葛藤など存在しなかった。


白薔薇の間の仮面劇

王城、白薔薇の間。

そこは、王国の高位貴族たちが集い、優雅な言葉の裏で権力闘争を繰り広げる社交の最前線だった。


華やかなドレスの擦れる音。

甘い香水の香り。

計算された微笑。


その空間に、エルディアが足を踏み入れた瞬間、さざ波のようにざわめきが広がった。


「レッドグレイブ侯爵家の……」

「今日も、完璧だな」

「まるで行き届いた芸術品のようだ」


囁き。それは称賛であり、同時に深い敬遠でもあった。

人々は彼女の美しさを讃えるが、その円の中に踏み込もうとする者はいない。彼女の周囲には、物理的な壁などないはずなのに、誰もが数歩手前で足を止めてしまう。


「お待ちしておりましたよ、エルディア」


その「壁」を、事もなげに踏み越えてきたのは、一人の青年だった。

金髪を完璧に整え、上質な絹の正装を身に纏った彼は、いかにも名門貴族の嫡男という風貌をしていた。


アルベルト・フォン・グランシル。

彼女の婚約者であり、グランシル公爵家の次期当主。


「遅れてはいませんわね、アルベルト様」


「もちろんだとも。君が時間を違えるはずがない。それは日没の時間を疑うようなものだ」


アルベルトは柔らかな笑みを浮かべた。その言葉は甘く、一見すれば完璧な恋人同士の会話だ。だが、その瞳の奥には、どこか冷めた、あるいは獲物を観察するような光が潜んでいる。エルディアはそれに気づいているが、あえて言及することはない。彼もまた、この「完璧な社交」という舞台を構成する一部に過ぎないからだ。


「本日の席は、君の隣だ。君の横に立つことが、私にとって最大の誇りだよ」


「当然ですわ。私たちはそのように教育され、そのように契約しているのですから」


情緒を排したエルディアの言葉に、アルベルトの眉がかすかに動いた。

二人は並んで茶会の席へと向かう。周囲の貴族たちは、その姿を「最高傑作の並び」として眺めていた。欠けたところのない、理想の二人。だが、その間に流れるのは温かな愛情ではなく、高純度の冷気だった。


「昨日の審議会の件、聞いたよ」


アルベルトが紅茶を口に運び、小声で切り出した。


「随分と手厳しかったらしいね。相手は騎士団でも将来を嘱望されていた男だ。少しは、柔らかく包む表現もあったのではないかな?」


「必要ありません」


エルディアは即答した。彼女の持つカップの中の液体は、波一つ立っていない。


「柔らかい表現は、相手に『自分はまだ許されている』という錯覚を与えます。戦術の欠陥は死に直結する。その重大さを理解させるためには、徹底的な否定こそが最大の慈悲ですわ」


「……相変わらずだ」


アルベルトは苦笑した。だが、その笑みは口元だけで止まっている。


「だが、社交とは“正しさ”だけでは回らないものだ。人は感情で動く生き物だよ。あまりに正論ばかりを突きつけては、味方をも遠ざけることになる」


「存じております。ですが、私は“正しいこと”を優先いたします。味方に嫌われることと、味方を殺すこと。どちらが罪深いかは、考えるまでもありませんわ」


エルディアの視線が、アルベルトを真っ向から捉える。

揺るがない。妥協しない。一切の逃げ道を自らにも他者にも許さない、鉄の意志。


「……君は、本当に変わらないな」


「変わる必要がありませんもの。私は私の役割を、完璧に遂行するだけです」


「完璧すぎるんだよ、君は」


アルベルトのその言葉は、もはや賞賛ではなかった。それは、理解を拒絶した者への、あるいは人間としての欠落を憐れむような響きを含んでいた。


だが、エルディアはそれを「最高の褒め言葉」として受け取った。


「ありがとうございます。アルベルト様。当然のことを当然に行う。それが私に課せられた義務ですから」


孤高の帰路と微かな揺らぎ

茶会はその後も滞りなく進んだ。

エルディアは、自分に向けられる複雑な視線をすべて無視し、一分の隙もない振る舞いで、侯爵令嬢としての務めを終えた。

誰一人として彼女の内側に触れることはできず、彼女もまた、誰かを招き入れるつもりはなかった。


帰り際、王城の長い廊下を彼女は一人で歩いていた。

護衛や侍女は数歩後ろを歩かせ、静寂を保つ。


カツン、カツンと、ヒールの音だけが規則正しく響く。


ふと、彼女は窓の外に目を向けた。

日は傾き始め、王都の街並みがオレンジ色に染まっている。整然と並ぶ石造りの建物、家路を急ぐ人々、広場で遊ぶ子供たちの声が、遠くから微かに聞こえてくる。


すべては、秩序の中にある。

彼女が守るべき世界。彼女が正しく管理し、導くべき社会。


「……問題ありませんわね」


エルディアは、小さく呟いた。

自分に言い聞かせるような、確信に満ちた言葉。

自分の判断は正しい。

自分の生き方も、言葉も、価値観も。

すべては「最善」を目指して設計されており、そこに間違いなど入り込む余地はない。


――はずだった。


だが、夕闇に溶けていく街を眺めていた彼女の胸の奥に、ほんのわずかな、爪先ほどの小さな「違和感」が残っていた。


それは、昨日の審議会。

自分の断罪を受けながら、なおも真っ直ぐに自分を見返してきたあの男――ガイウスの瞳。


『……あります。嫌というほどに』


死の恐怖を。損耗の重みを。

理解した上で、あえて「正解」を外そうとした、あの不可解な思考。


「……三流の、戯言ですわ」


彼女は思考を打ち切るように、窓から視線を外した。

分からないものは、排除すればいい。

秩序を乱す不確定要素は、正論という名の剣で切り捨てればいい。


今までそうしてきた。

これからもそうしていく。

それが「理想の令嬢」としての、彼女のアイデンティティーなのだから。


廊下を歩む彼女の背中は、夕陽を背負ってどこまでも凛としていた。

だが、その影は、彼女が思うよりもずっと、長く、深い孤独を引きずっていた。


「さあ、帰りましょう。明日の準備が待っていますわ」


彼女の声は再び鋼の硬度を取り戻し、屋敷へと向かう馬車へと吸い込まれていった。

完璧な世界の、完璧な住人。

その殻が、内側から誰かに叩かれる日が来るなどとは、この時の彼女はまだ、微塵も考えていなかった。




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