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婚約破棄された完璧令嬢、最底辺からやり直したら“嘘を暴く力”で全部ひっくり返しました。――今は戦場帰りの男と対等に並んでいます  作者: 慈架太子


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第17話:再起 ――「私はもう、逃げませんわ」

黎明の静寂と、残響

夜明け前。

王都下層区を支配するのは、重く湿った沈黙だ。

煤煙と湿気が混じり合った冷気が、石造りの迷宮を這うように流れていく。

人の気配はまだ希薄で、遠くで聞こえる野犬の遠吠えだけが、この街が死んでいないことを辛うじて証明していた。


「……」


エルディアは、ひび割れた壁に預けていた体を、ゆっくりと引き剥がした。

衣類が石の表面と擦れ、乾いた音が響く。

その動作一つにさえ、昨夜の戦闘の代償が伴っていた。


(……動けますわね。筋組織の損傷、並びに各関節の摩耗。……許容範囲内ですわ)


彼女は自己の肉体を、あたかも他人の持ち物であるかのように冷徹に検分した。

昨夜、路地の暗がりで受けた衝撃の残響が、ズキズキと肩や脇腹を叩いている。

空腹による倦怠感は消えず、視界の端にはまだ疲労の滓が溜まっていた。


だが。

彼女は、立っている。

昨日までの、ただ風に流されるだけの木の葉のような脆さは、そこにはなかった。


汚れと現実の受容

視線を落とすと、自分の手が見えた。

かつて、白磁のように滑らかだと謳われた指先。

今は、爪の間に泥が入り込み、昨夜の回避の際に作った小さな擦り傷が、赤黒いかさぶたになりつつある。

外套の裾はボロボロに裂け、高貴な紋章などどこにも見当たらない。


「……」


かつてのエルディア・ヴァレンティナ・レッドグレイブなら、この光景を直視することさえできなかっただろう。

完璧でない自分。汚れた自分。無様な敗走を演じた自分。

それらはすべて、彼女が定義する「正しさ」の外側にある、忌むべきバグに過ぎなかった。


だが。

今の彼女は、その汚れを、痛みを変に厭うことはなかった。


(……これは、現実。私が今、立っている場所そのものですわ)


否定したところで、傷が消えるわけではない。

目を背けたところで、腹が満たされるわけでもない。

事実は事実として、ただそこに存在している。


「……勝てませんでしたわね。昨夜の、私では」


ぽつり、と。

誰に聞かせるでもなく、事実だけを口に放り出す。

そこには湿っぽい悔恨も、自己嫌悪もなかった。

ただ、戦術シミュレーションの結果を報告するかのような、無機質な確認。


思い出すのは、自らの動きの遅さだ。

脳が「右」と命じても、肉体がそれに反応するまでに数瞬のラグが生じる。

筋力の絶対的な不足。そして、暴力という理不尽な重圧に対する、経験値の欠如。


(……不十分。私の構築した戦術は、この泥にまみれた実戦においては、あまりに机上の空論に過ぎませんでしたわ)


結論は、あまりにも明確だった。


「……ですが」


言葉を続ける。

冷たい空気の中に、白い息が混じる。


「……逃げ切りましたわね。私一人の知恵と、この傷だらけの足で」


もう一つの事実。

それは、どれほど無様であろうとも、彼女が自力で「生」をもぎ取ったという、決定的な勝利の断片だった。


交わる過去と現在

エルディアは、一度だけ目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、自分を構成してきた二つの世界だ。


一方には、王城の輝かしい広間。

完璧な論理。非情な合理。

「最大多数の幸福」のために、切り捨てられるべき端数を冷徹に切り捨ててきた、かつての自分。


もう一方には、下層区の泥濘。

鳴り止まない腹の虫。自分を襲う悪意。逃げ出す際の必死な心拍音。

切り捨てられる側の「端数」として、今日一日の生存に怯える、今の自分。


交わるはずがなかった、二つの極点。

しかし今、彼女はその両方を、自分自身の体験として所有している。


(……同じですわね。どちらも)


静かな理解が、彼女の脳内を駆け抜けた。


玉座の隣で策を練るのも、ゴミ捨て場の陰でパンを噛むのも。

それはどちらも、必死に「生きるため」の選択の結果。

形が違うだけで、根底にある生存への渇望には、一分子の差もないのだと。


「……私は」


彼女は、自分を定義するための言葉を、慎重に紡ぎ始めた。

バラバラになった自分の一部を、新しい糸で縫い合わせるように。


「……間違ってはいませんでした。あの時、私が導き出した結論も、守ろうとした秩序も。それは、あの場所における一つの真実でしたわ」


過去の自分を、全否定はしない。

そうすることでしか守れなかったものがあったことを、彼女は知っている。


「……ですが。足りませんでしたわね。……圧倒的に」


はっきりと、自分に宣告する。


「……見えていなかったのですわ。弱い者の現実。その足音の重さ。……そして」


視線を上げる。

まだ暗い路地の先、薄明かりが差し込み始めた空へ。


「……自分自身もまた、その弱さから逃れられない、ただの人間であるということを」


沈黙。

だが、その沈黙はもう、彼女を蝕むことはなかった。

それは、新しい戦術を立案するための、静かな思考の時間だった。


積み上げる意志

「……ならば」


言葉に、力が宿る。

氷のような冷徹さではなく、鋼のようなしなやかな強さ。


「……補えばよろしい。足りないのなら。……また、一つずつ。この手で積み上げればよろしいだけですわ」


単純な、そして究極の結論。

名誉や家柄という「与えられた支柱」が失われたのなら、自らの血と汗で、新しい支柱を打ち立てればいい。

その作業に終わりがないとしても、彼女はもう、立ち止まるつもりはなかった。


一歩、踏み出す。

地面を踏みしめる感覚。

石畳の凹凸、泥の感触。

それらすべてが、彼女の神経を通って「生きている」という実感に変換される。


もう一歩。

足は重い。肩は疼く。

だが、足が止まることはない。


「……逃げる理由は、ありませんわね」


静かに、断じる。


「……逃げても、何も解決しませんもの。論理的に見て、撤退戦の継続はリソースの無駄遣いですわ。必要なのは――再編。そして、反攻。……違いますかしら?」


自分への皮肉めいた問いかけ。

それに応えるように、彼女の唇に微かな笑みが浮かんだ。

それは、高慢な令嬢のそれではなく、泥の中に勝機を見出した、真の戦術家の不敵な笑みだった。


顔を上げると、空の端が白んでいた。

夜が終わり、また新しい一日の、過酷な現実が始まろうとしている。


エルディアは、自分の胸にそっと手を当てた。

規則正しく刻まれる鼓動。

それは、どんな不条理の中でも、休むことなく自分の命を運び続けている。


「……私は、もう逃げませんわ」


誰に聞かせるでもない、それは自分自身との契約。

公爵家の看板でも、戦術学院の首席という肩書きでもない。

ただ一人の「エルディア」として、この地平に根を張り、生きていくという宣言。


その言葉は、冷たい朝の空気を震わせ、彼女の背骨を真っ直ぐに叩き直した。


視線を前へ。

道は見えない。敵も、味方も、まだ闇の中。

だが、彼女の瞳には、かつての「裁定」の力が、より深く、より静かに宿っていた。


「……問題ありません」


小さく、だが確固たる響きを持って。


「……進めば、見えますもの。見えないのなら、見えるようになるまで、目を凝らせば良いだけのことですから」


一歩。

踏み出す。

迷いはない。


この瞬間。

エルディア・ヴァレンティナ・レッドグレイブは、本当の意味で生まれ変わった。

家から与えられた理由ではなく、自分自身で見出した「戦う理由」を抱いて。

彼女の真の反撃が、この夜明けと共に、静かに幕を開けた。








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