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婚約破棄された完璧令嬢、最底辺からやり直したら“嘘を暴く力”で全部ひっくり返しました。――今は戦場帰りの男と対等に並んでいます  作者: 慈架太子


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第13話:小さな成功 ――「……感謝、ですの?」

観察眼の変容

王都下層区。正午を過ぎ、太陽が天頂から泥に塗れた石畳を容赦なく照らし出す。

立ち上る湿気と饐えた匂い、人々の怒号。その喧騒は相変わらずで、ここには優雅な休息などという概念は存在しない。


「……」


エルディアは、その雑踏の中を歩いていた。

外套はさらに汚れ、指先には消えない煤がこびりついている。だが、その歩調はどん底に落ちた当初のような、闇雲に彷徨うものとは一線を画していた。


今、彼女の瞳に映る世界は、これまでとは決定的に違っている。

かつての彼女なら、この光景を「修正すべき非効率な群れ」として“評価”していただろう。だが、今の彼女は、そこに生きる個々の存在を、ある種の敬意を持って“観察”していた。


一歩を踏み出すために、人々がどれほどの労力を割いているか。

一食を得るために、どれほどの不確定要素と戦っているか。

その「構造」が見え始めていた。


(……配置、動き、そして負荷の集中)


彼女は立ち止まり、通りの角を見据えた。

そこには、自分よりも遥かに小さな背中の子供がいた。


最小単位の戦術

子供は、自分の体格には到底見合わない巨大な布袋を抱え、必死に足を踏ん張っていた。

袋の中には、おそらく廃棄された端材か、あるいはどこかの店から頼まれた大量の洗濯物でも入っているのだろう。一歩進むたびに袋が地面を擦り、子供の細い肩が悲鳴を上げるように軋んでいる。


「……」


エルディアの足が動いた。

利害を計算するより先に、論理的な帰結を導き出すより先に、身体が反応していた。


「――それ、貸しなさい」


凛とした、しかしどこか落ち着いた声。

子供が弾かれたように振り向き、泥のついた顔でエルディアを睨んだ。

その瞳に宿るのは、下層区という戦場で生き抜く者特有の、鋭い警戒の色だ。


(……言い方。また、間違えましたわね)


エルディアは内心で、自らの舌を噛んだ。

命令に慣れすぎた口調。それはここでは、単なる略奪者か、不遜な闖入者の響きにしかならない。


「……持ちますわ。私の方が、少しは力がありますもの」


彼女は言い直し、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。

子供の目線に合わせ、可能な限り敵意がないことを示す。公爵令嬢として学んだ「慈悲」の演技ではない。ただ、目の前の過負荷を是正したいという、純粋な戦術家としての、そして一人の人間としての欲求だった。


「……重いでしょう。この距離を一人で運ぶのは、物理的に無理がありますわ」


「……大丈夫。一人でできるもん」


子供は意地を張る。だが、その指先は疲労で白くなり、細かく震えていた。


「……運び先はどちら? 効率的に運べば、あなたの体力も温存できますわ」


「……あっち。川沿いの、青い扉の家」


子供の声が、わずかに揺れた。拒絶の中に、微かな依存が混じる。

エルディアは黙って袋の端を掴んだ。


「……っ」


持ち上げた瞬間、予想以上の重量が腕に伝わる。

だが、今の彼女は、重さに対する「対策」を知っている。

腰を落とし、重心を自分の体幹に近づける。腕だけで支えず、全身の骨格を利用して荷重を分散させる。


「……問題ありません。行きますわよ」


ゆっくりと立ち上がり、エルディアは歩き出した。

子供が、呆然とした表情でその後ろをついてくる。


感謝という名の不確定要素

雑踏の中を進む。

エルディアの脳内では、かつて一万の兵を動かした時と同じレベルのシミュレーションが展開されていた。


(右からの荷車の動線を回避。左側の露店の突起に注意。子供の歩幅に合わせ、呼吸を同期させる……)


最短経路の選定。

障害物の排除。

疲労蓄積の抑制。


それは、彼女が最も得意とする「最適解の追求」そのものだった。

規模こそ最小単位だが、そこにある本質は変わらない。

自分が持てる全ての知見を、目の前の小さな目的のために注ぎ込む。


不意に、エルディアの口元がわずかに緩んだ。

皮肉ではない。

自分が培ってきたものが、こんな泥臭い場所でも「役に立つ」という事実に、名もなき充足感があった。


「ここ。……ここだよ」


子供が立ち止まった。

軒先が傾き、湿り気を帯びた小さな家。

エルディアは、昨日まで磨いてきた「丁寧な着地」の要領で、袋を慎重に地面へ下ろした。

中のものが傷まないよう、音一つ立てずに。


「……終わりですわ」


彼女は乱れた髪をかき上げ、腰を伸ばした。

額にはうっすらと汗が滲み、呼吸は少しだけ乱れている。


「……」


子供は動かず、じっとエルディアを見上げていた。


「……何かしら。まだ、何か不備がございましたか?」


いつも通りの、硬い口調。

だが、返ってきたのは、彼女の予測範囲外の反応だった。


「……ありがとう」


消え入りそうな、小さな声。

しかし、それは喧騒の雑音を突き抜けて、エルディアの胸に真っ直ぐに届いた。


「……え?」


「……ありがとう、って言ったんだ。お姉ちゃん」


子供は照れくさそうに鼻を啜り、小さな家の中へと駆け込んでいった。


評価ではない、心の重み

エルディアは、その場に立ち尽くしていた。

頭脳という名の歯車が、一瞬だけ噛み合わずに空転する。


(……感謝、ですの?)


言葉としての「感謝」なら、耳に胼胝たこができるほど聞いてきた。

軍を勝利に導けば王が褒め称え、予算を配分すれば官僚が頭を下げ、完璧な儀礼をこなせば貴族たちが賞賛の言葉を並べた。


だが、それらはすべて「評価」だった。

結果に対する対価。

地位に対する礼儀。

機能に対する称賛。


(……違いますわね)


エルディアは、自分が今受け取ったものの正体を探るように、胸に手を当てた。


(……あれは、私の“機能”に対する言葉ではありませんでした。ただ、私という“存在”が差し出した手に対する……)


評価と、感謝。

似ているようで、その根源にあるものは全く違う。

見返りも、利害も、上下関係もなく。

ただ、そこに救いがあったという事実だけを認める、純粋な心の響き。


エルディアは、自分の手を見つめた。

荷の重さで赤くなり、煤で汚れ、爪は短く欠けている。

かつて羽ペンを走らせ、優雅に扇を操っていた、あの美しく冷たい手ではない。


だが、この手は確かに、誰かの荷を軽くした。

盤上の駒ではなく、目の前にいる一人の生きた人間に、確かな結果を届けたのだ。


「……」


深く、息を吐く。

肺の中に残っていた、王城の冷たい空気がすべて入れ替わったかのように、身体が軽く感じられた。


「……問題ありません。……ええ、問題ありませんわ」


彼女は誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。

その声は、これまで自分を追い詰めてきた強がりとは違っていた。


「……出来ますわね、私にも。……正しく在ることの、本当の意味が」


自分に言い聞かせるのではない。

暗闇の中で、ようやく手に入れた小さな灯火を、確かめるように。


エルディアは再び歩き出した。

見上げる空は、相変わらず煤煙で濁り、どんよりと重苦しい。

だが、その濁りの中に差し込む一筋の光を、彼女は昨日よりもはっきりと感じ取っていた。


この日。

エルディア・ヴァレンティナ・レッドグレイブは、人生で初めて「役に立った」という実感に震えた。

それは、かつて手にした如何なる武勲よりも重く、彼女の新しい人生の礎となる「小さな成功」だった。








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