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婚約破棄された完璧令嬢、最底辺からやり直したら“嘘を暴く力”で全部ひっくり返しました。――今は戦場帰りの男と対等に並んでいます  作者: 慈架太子


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第11話:働く令嬢 ――「……出来ませんわね」

生き抜くための「構造」

王都下層区の裏通り。

朝の空気は肌を刺すように冷たいが、そこには王城の洗練された静寂とは正反対の、剥き出しの熱気が渦巻いていた。


重い荷車が石畳を叩く音。

商人と工夫が怒鳴り合う声。

わずかな日銭を求めて列を作る男たち。


人が動き、物が動き、金が動く。

それは、昨日までエルディアがマクロ経済の数値として処理していた「流通」そのものだった。だが、今の彼女にとってそれは学問ではなく、今日一日を生き延びるための唯一の綱渡りである。


「……」


エルディアは、壁際に立ってその雑踏を見つめていた。

泥に汚れた外套を整え、背筋を伸ばす。

地位を失い、家を追われ、一文無しになっても、彼女の芯にある骨格だけは変わらない。


(……まずは収入の確保。生存コストの逆算。最低でも今夜の宿と、二食分の対価を捻出しなければなりません)


当然の帰結。

感情に浸る時間は、すでに昨夜のスープと共に飲み込んだ。

今の彼女を動かしているのは、自分という一個体を維持するための冷徹な生存戦略だった。


視線を巡らせる。

荷運び。路地裏の清掃。食堂の雑務。

この泥にまみれた街にも、労働の機会は点在している。


(……効率が悪い。私の知見と論理を売る場所があれば、一時間で一週間分の生活費を得られるはずですが――)


言いかけて、自嘲するように唇を引き結んだ。


(……適した場所、ですの? 今の私に、職種を選ぶ資格などあるとお思い?)


自問。

答えは明白だ。今の彼女はただの身元不明の少女。

「三流」と切り捨てた現場に、今や自分自身が「最低の未熟者」として立っているのだ。


物理の壁、現実の重さ

「そこの嬢ちゃん」


不意に、濁った声が彼女を呼び止めた。

大柄で、腕の太さがエルディアの胴ほどもある男が、山積みの荷車を背に立っていた。


「働き口、探してんのか?」


「ええ。対価が得られる仕事であれば」


エルディアは淀みなく答えた。

男は彼女の細い腕と、場違いに整った顔立ちを眺め、鼻で笑った。


「日雇いだが、やるか? 重いぞ」


「内容は」


「荷運びだ。そこからあそこの倉庫まで」


単純。明確。

論理の介在する余地のない、純粋な物理作業。


「……問題ありません。承知いたしました」


即答。

「そうか。じゃあ、まずこれを持て」


指差されたのは、粗末な木箱だった。

それなりに大きいが、エルディアの計算では、中身が衣服や乾燥品であれば持ち上がるはずの体積だ。


(……軽量ですわね。重心さえ捉えれば支障ありません)


見ただけで質量を予測する。

彼女はスカートの裾を気にすることなく、その場に深くしゃがみ込んだ。

箱の底に手をかけ、一気に背筋の力で引き上げる。


「……っ」


動かない。

まるで地面と一体化しているかのように、重厚な抵抗が腕を伝う。


「……?」


もう一度。

今度は肺に溜めた息を吐き出し、全身のバネを使う。


「……っ、ぬ……」


持ち上がる。

――わずかに、数センチ。

だが、その瞬間に腕の筋肉が悲鳴を上げ、脳裏に火花が散った。


(……重い。想定、外。……なぜ?)


理解は遅れてやってきた。

昨日までの絶食。冷たい石畳の上での野宿。

蓄積されたダメージが、彼女の運動能力を著しく削ぎ落としていたのだ。

頭脳は最適な動作を命じている。だが、その命令を受け取る肉体というインフラが、すでに崩壊しかけていた。


「どうした、お嬢様。根性なしには務まらねぇぞ」


男の嘲るような視線。


「……問題ありません。……少し、踏ん張りが利かなかっただけですわ」


言い切り、無理やり膝を伸ばす。

視界が白む。

重力に抗い、箱を腹の高さまで保持する。


「よし、そのまま運べ。急げよ」


指示に従い、歩き出す。

一歩。二歩。


(……)


バランスが極めて悪い。

箱が自分の体格に対して大きすぎるのか。

それとも、腕の震えが止まらないせいか。


一歩出すたびに、視界がぐらりと揺れる。

脳が「これ以上は危険だ」と警告を発しているが、彼女はそれを意志の力で黙殺した。

ここでの失敗は、死を意味する。


「おい、ふらついてんぞ! 落とすなよ!」


「……分かって、おります」


答える。だが、その一言で呼吸が乱れた。

酸素が脳に足りない。

冷たい汗が額を伝い、目に入る。


「……っ!」


一瞬、足首が泥に滑った。

バランスが崩れる。

腕から力が逃げる。


――ガシャ、という鈍い衝撃。


箱が角から地面に叩きつけられた。

蓋が飛び、中から飛び出したのは、無骨な鉄製の部品。


「……あ」


乾いた声が漏れる。

沈黙。

周囲の工夫たちの視線が、冷ややかに彼女に集まった。


「……何やってんだ、てめぇ!」


男が歩み寄り、怒号を浴びせる。


「……失礼いたしました。すぐに片付けます」


エルディアは即座にしゃがみ込み、散らばった部品を拾おうとした。

だが、手が、思うように動かない。

過負荷をかけた指先が痙攣し、鉄の塊を掴むことさえままならない。


部品を手に取る。落とす。また拾おうとする。

その無様な動作を、男は容赦なく切り捨てた。


「……チッ。もういい、どけ。邪魔だ」


男がエルディアを突き飛ばすようにして、部品を奪い取った。


「……」


尻餅をついたまま、彼女は動けなかった。

何一つ、反論できなかった。


「使えねぇな。飯の種が欲しけりゃ、他を当たれ。死にかけの小娘に構ってる暇はねぇんだ」


背中を向けた男。

エルディアは、泥に汚れた自分の手を見つめた。

論理も、プライドも、ここでは何の意味もなさなかった。


汚れ落ちぬ、現実の冷たさ

通りを歩く。

先ほどの出来事が、呪いのように頭の中でリプレイされる。


(……非効率でしたわね。持ち方の角度、重心の移動。……それらを考慮していれば――)


分析。

いつもの、彼女の得意な「反省会」。

だが、すぐに彼女は首を振った。


「……ですが。それ以前の問題ですわね」


理屈ではない。

肉体がついてこない。

今の自分は、日雇いの荷運びすら完遂できない「無能」なのだという事実。


次に訪れたのは、小さな大衆食堂だった。

客足が途切れた、午前の終わりの時間帯。


「人手は足りてますの? 洗い物でも、雑用でもこなしますわ」


店主に問う。

「……お前、何か得意なことはあるのか」


「一般的な作業であれば。習得は早いつもりです」


「……あー、皿洗いでもやるか。ただし、割ったら給金なしだ」


「承知いたしました」


即答。

調理場の奥、薄暗い水場に案内される。

そこには、脂ぎった皿が山積みにされていた。


(……)


一瞬、貴族としての生理的な嫌悪感が鼻を突いた。

だが、彼女はそれを一秒で殺した。

今の自分に、汚れを厭う贅沢などない。


袖をまくり、冷たい水の中に手を入れる。

感覚が麻痺するような温度。

洗剤代わりの強い灰の混じった粉が、肌を刺激する。


「……」


洗う。一枚。

二枚。


(……落ちませんの?)


こすっても、こすっても、底にこびりついた脂が残る。

洗術の知識はある。だが、道具が劣悪で、力も足りない。


「早くしろよ、次が来るぞ!」


店主の怒鳴り声。

焦りが、彼女の動きを硬くした。


もっと強く。もっと速く。

滑る。

手から。


――パリン。


乾いた音が、狭い水場に響いた。

白い陶器が、三つに割れた。


「……」


「……は?」


店主が顔を出す。


「……失礼しました。今、片付けを」


「お前、さっきから見てりゃ、あかぎれだらけの手で……。おい、もういい。弁償できる金、持ってんのか?」


「……」


答えられない。

当然だ。

持っていれば、ここにいない。


「……出てけ。これ以上、被害を増やされたら溜まったもんじゃねぇ」


二度目。

同じ、拒絶。


殻を脱ぎ、人となる

外へ出ると、冷たい風が彼女の濡れた腕を打ちつけた。

拭う布もなく、水分が蒸発するたびに体温が奪われていく。


エルディアは、立ち止まった。

誰もいない、建物の隙間の路地。


「……出来ませんわね」


ぽつり、と。

自分の耳にしか届かないほど、静かな声で。


「……何一つ。何一つ、出来ていませんわ。……私」


事実。

否定しようのない、惨めな現実。

かつては王国全土の兵を動かし、王の隣で采配を振るった彼女が。

下層区の隅っこで、荷物一つ運べず、皿一枚満足に洗えない。


(私は……役に立たない存在でしたのね)


胸の奥が、氷を詰め込まれたように重い。

苦しい。

息をするのが、辛い。


だが。

彼女の瞳から、涙は溢れなかった。

泣くという行為もまた、今の自分にとってはエネルギーの無駄遣いでしかない。


「……」


彼女はゆっくりと、自分の濡れた手を見つめた。

赤く腫れ、汚れにまみれた、小さな手。

かつて羽ペンを走らせ、優雅に扇を操っていた手。


「……ですが」


言葉を続ける。


「出来ないことは、罪ではありませんわ。……ええ、そうですわ」


声に、僅かな響きが戻る。

論理の殻を、必死に繋ぎ止める。


「出来ないままでいること。……学ぼうとせず、停滞すること。それこそが、戦術家として……いえ、人間としての敗北ですわ」


結論。

彼女は、深く息を吐いた。


(私は、未熟者ですわ。……いいえ、未熟という言葉さえ生ぬるい。私は、この世界の構造を知らない、赤子も同然の存在です)


それを、認めよう。

否定せず、誇りに縋らず、ただの事実として。

自分は、何も出来ない「無能」として、ここに立っているのだ。


「……」


顔を上げる。

周囲には、まだ仕事の気配がある。

拒絶されても、追い出されても、世界はまだ動いている。


一歩。

再び、踏み出す。

今度は、さっきよりも慎重に。自分の肉体の限界を測りながら。


「……問題ありません」


小さく、確信を持って呟く。


「……出来るまで、やるだけですもの。……論理的に、不可能でない限り、達成の確率はゼロではありませんわ」


この日。

エルディア・ヴァレンティナ・レッドグレイブは、初めて「出来ない自分」を受け入れた。

それは屈辱ではなく、彼女が新しい世界で一歩を踏み出すための、最も重要な「前提条件」だった。


泥を噛み、恥を啜り、少女は学び始める。

かつて見下していたはずの、「三流」の生きる術を。






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