僕たちは、止まるのを忘れた事故だった
「ただいま!」
その声が我が家の静寂を切り裂いた。それは、僕の小さな娘が最も待ちわびていた周波数だ。「ママ!」と娘が歓喜の声を上げる。彼女は手にしていたおもちゃを放り出し、まるで戦地から英雄が帰還したかのように、小さな足取りで玄関へと駆けていった。
台所の湯気の向こう側で格闘していた僕は、木べらを置き、歩み寄った。作っていたバターチャーハンの香りが、腰に巻いたエプロンに深く染み付いている。
「おかえり」
台所と居間の境界線に立ち、僕は小さく呟いた。愛するその女性に視線を向ける。パリッとしたスーツに身を包んだ彼女は、疲労の色を見せつつも、どこか光り輝いて見えた。薄手のTシャツ一枚で、キッチン用具の匂いをプンプンさせている僕の姿とは、あまりにも対照的だ。
彼女は深く息を吸い込み、かすかに微笑んだ。「ふふ、いい匂い。悟くん、またチャーハンを作ってくれたの?」重そうな動作でハイヒールを脱ぎながら、彼女が尋ねる。
「うん! 今日はパパと一緒にチャーハン作ったんだよ!」娘が母親の背中にしがみつきながら、元気いっぱいに叫んだ。
妻は小さく笑って娘の頭を撫でたが、一瞬だけ僕と視線がぶつかった。そこには感謝の念が宿っていた。
けれど、僕の目に映っていたのは、自分自身の投影だ。外で糧を稼いでくる彼女のために、皿の上のご飯を冷まさないことだけが使命となった成人男性の姿。彼女を愛している。けれど同時に、彼女の成功という影の下で、自分がどんどん矮小化していくのを感じていた。
その夜、食卓は温もりに包まれていた。スプーンの当たる音と娘の笑い声が、僕の作ったチャーハンの香りと混ざり合う。
僕は、この「完璧な家族」を実感できる瞬間を愛していた。しかし、月が高く昇り、街灯が寂しげに点滅し始める頃、その温もりはすぐに蒸発してしまった。
僕は家を出て、刺すような夜の空気の中へと踏み出した。手にはクリーニングの預かり票。妻のスーツを受け取りに行かなければならない。
リストラで職を失い、新たなキャリアの扉を叩くたびに厚い壁に阻まれている男にとって、この時間にクリーニング屋へ向かう足取りは、まるで自分の敗北を世間に晒しているかのようだった。
日本において、この家事の時間帯にクリーニング屋へ歩いている人間の99%は主婦だろう。だが、ここに一人の成人男性がいる。妻の尊厳を象徴する一着のために闇を切り裂いて歩く僕。――一方で、僕自身の尊厳は、一体どこに置き忘れてきたのだろうか。
暗い道は、刻一刻と削られていく僕のプライドの舞台のようだった。家事そのものには、何の不満もない。本当に。けれど、沈黙する電柱や僕自身の影が、ずっと耳元で囁き続けている。お前は「異常」な存在だと。
僕は「養われている」男なのだ。その事実を、僕は潔く受け入れているつもりだった。
それでも、それは毒のようにゆっくりと、僕の男としての矜持を麻痺させていった。
店に入ると、入り口の小さな鈴が無機質な音を立てた。辺りは静まり返り、壁の向こうで稼働する洗濯機の唸り声だけが響いている。
「少々お待ちくださいね」
クリーニング屋の店員は、こちらを振り返ることもなく、山積みの衣類を仕分けながら言った。
僕は力なくうなずき、冷たいプラスチックの椅子に腰を下ろした。
目の前では、ドラム式の洗濯機が催眠的なリズムで回転している。その丸いガラス窓に映る自分の顔をじっと見つめた。激しく揉まれる衣類と混ざり合い、歪んだ僕の顔。それは惨めで、直視するにはあまりに耐え難いものだった。
まるで、自分のプライドが粉々に粉砕され、洗い流されていく様を見せつけられているようだった。
そんな絶望の最中、再びドアが開いた。
一人の女性が入ってきた。年齢は妻と同じくらいだろうか。彼女は急ぐ様子もなくレジへと歩み寄り、僕と同じ引換券を差し出した。おそらく、彼女も夫の服を取りに来たのだろう。
僕は視界の端で彼女を観察した。その肩には僕と同じような疲れが滲み、濃密な「生活感」が漂っていた。そう、違いはたった一つ。彼女はこの国の「日常」であり、僕は「異常」だということ。彼女はこの国における一般的な主婦の肖像であり、一方で僕は、妻のジャケットをまるで首を絞める手綱か何かのように握りしめている男なのだ。
けれど、洗剤の化学的な匂いが立ち込めるこの静寂の中で、なぜか彼女の存在から目を逸らすことができなかった。僕たちは同じ周波数の中にいた。不自然な時間帯に、この疲れ果てる作業をこなしている。
女性は僕のすぐ隣の椅子を選んだ。二人の距離は、彼女の服から漂う冷たい洗剤の残り香を感じ取れるほど近かった。
しかし僕たちは、見えない深い淵に隔てられた赤の他人のように座っていた。
「お客様、お預かりのお品物です」
店員の声が静寂を破り、ビニールに包まれた妻の黒いジャケットが差し出された。
僕は立ち上がり、ぎこちない動作でハンガーを受け取った。
ビニールがカサリと音を立てる。まるで、他人の仕事着を手にすることしかできない僕の無骨な指先を嘲笑っているかのようだった。店を出ようと背を向けたその瞬間、すべてが止まった。
僕たちの視線が、ぶつかった。
ほんの一瞬のことだった。しかし、その瞳の奥に、僕は恐ろしいほどの鏡像を見た。彼女の眼差しは僕を裁くものではなく、僕の目と全く同じ色をしていた。家事という息苦しいルーチンに飲み込まれ、自尊心の輝きを失った者の目。
その瞳は、声もなく語っていた。耐え難い疲労を。ただの「家を守る者」ではなく「何者か」でありたいという渇望を。そして、正気をじわじわと蝕む「家族」という名の鎖から解き放たれたいという、原始的な欲望を。
自己紹介も、説明もいらなかった。僕たちは理解してしまった。
僕たちは、間違った時間に、間違った場所に囚われた二つの「異常値」なのだ。その時、心の奥底で警報が鳴り響いた。
取り返しのつかない大きな事故が、今、始まったのだ。
そして僕たちは、自らの意志でその破滅の中心へと歩みを進めている。
朝の陽光が肌を刺すが、僕の心は凍てついていた。予期していた破滅の「頂点」が、重力に引かれるように刻一刻と近づいてくるのを感じる。
その朝も、ルーチンは変わらなかった。娘の小さな手を引き、保育園へと向かう。しかし、色とりどりに塗られた木の門の前で、僕の足は止まった。
そこに、彼女が立っていたからだ。彼女もまた、僕の娘と同じ年頃の男の子を連れていた。
「ユウキくん!」
突然、娘が歓喜の声を上げた。僕の手を振り切り、その男の子の方へと駆けていく。
世界がスローモーションになった。僕たちの子供同士が仲の良い友達だったという事実は、本来なら安堵すべきことなのに、今の僕には吐き気すら催させた。
公衆の面前では「献身的な親」を演じながら、その実、昨夜からの忌まわしい秘密を共有している二人。
この悍ましい関係は、抗いがたい衝動から始まった。まるで僕の口が意志を持っているかのように、抑えきれない言葉が溢れ出した。
「ああ……昨夜、クリーニング屋にいた方ですよね?」
自分の声が、ひどく掠れて重苦しく響く。彼女は振り返った。息子のカバンを整えていたその瞳が、僕を射抜く。驚きの色はなかった。そこにあったのは、僕たちが同じ枝を蝕み合う「共生関係の寄生虫」であるという静かな肯定だけだった。
無邪気な子供たちの笑い声の前で、家事という日常の屈辱から生まれた不倫が、正式に産声を上げた。
彼女——里美は、一瞬沈黙した。しかし、恥じて目を逸らすどころか、苦い勇気を孕んだ眼差しで僕を見つめ返した。母親としての形式的な微笑みの裏側には、壊れた者にしか見えない「亀裂」が走っていた。
「あなたは……昨夜、ジャケットを受け取っていた方?」
彼女が問い返した。子供たちはすでに園舎の中へと走り去り、僕たち二人だけが校門の前で息苦しい沈黙に取り残された。周囲では他の母親たちが活気に満ちた挨拶を交わしているが、僕たち二人は、忘れ去られた「敗北者の記念碑」のように突っ立っていた。
「僕は、悟です」
この暗闇に名前を付ける必要があると感じ、僕は口を開いた。「僕は……家を守る者です。もっと言えば、数年前に会社からゴミのように捨てられて以来、どこにも行き場のない男です」
すると、彼女も自己紹介をした。
「私は里美。以前はデザイナーをしていたの、悟くん。今は? 私の仕事は、夫が大切なクライアントに会う時にシャツがシワ一つないように整えることだけ。
部屋の隅で埃を被り始めた調度品のような気分だわ」
里美は小さく笑ったが、その声に喜びは微塵もなかった。それは自らの境遇に対する、冷笑的な嘲笑だった。
その瞬間、この「おぞましい」惹かれ合いは確信へと変わった。
彼女が美しいからではない。彼女が僕の「鏡」だったからだ。僕たちは二人とも、キャリアが死に、野心が潰え、パートナーの成功に寄生して生き長らえている存在なのだ。
「僕たちは、同じですね」
アスファルトの上で僕たちの影が重なるまで、一歩近づいて囁いた。
「枯れかけた枝で必死に生き延びようとしている、二匹の寄生虫だ」
里美は退かなかった。それどころか、飢えたような危険な瞳で僕を見つめた。
「それなら、悟くん……。自分の宿主に飽きた寄生虫は、一体何をすればいいのかしら?」
その問いかけが、僕の中に残っていた道徳の残骸を打ち砕いた。僕たちは恋に落ちたのではない。二つの家族を同時に壊滅させる事故を、計画しているのだ。
そして奇妙なことに、その破滅の予感の中でこそ、僕は自分が再び「生きて」いるのを実感していた。
人通りの少なくなった歩道を、僕たちは並んで歩いた。僕たちのような人間——失業中の家守にとって、時間とは退屈であると同時に、拷問のように長く広がる荒野だ。パートナーが自らの命の時間を切り売りして金を稼いでいる間、僕たちは「休む」という贅沢を享受している。
「『There There』っていう本か曲を知ってる?」
僕はあえて平坦な声で沈黙を破り、尋ねた。
里美が小さく振り向く。朝の風に彼女の髪がなびいた。「あまり知らないわ」彼女は嘘偽りなく答え、ひび割れたアスファルトに視線を落とした。
「説明させてくれ」
芽生え始めた狂気に、理論的な土台を築く必要があると感じて僕は続けた。
「冷え切った関係性のナラティブにおいて、僕たちの立場は寄生虫と同じだ。法律や社会的なステータスの上では、パートナーと対等だと見なされている。
けれど、『糧を与える者』ではない僕たちの声は、いつだってか細い。軽んじられ、大きな決断からは疎外される。……不公平だと思わないか? 明らかに、対等じゃない」
僕の問いかけは、普通の人間には奇妙に聞こえただろう。けれど、僕と同じ影を背負う者にとっては、それは抗いがたい招待状だった。
里美はふと足を止めた。僕の言葉が、彼女の胸の防壁を貫いたようだった。
「……ええ、その通りね」
彼女は僕がずっと求めていた承認を与えてくれた。「家の中で、自分の声がただの残響にしか聞こえないことがよくあるわ。私の存在なんて、透明な家政婦と同じ。多分……私は人間として、もう失敗してしまったからかしら?」
彼女は僕を見つめた。返報としての承認を——彼女の卑屈さは彼女自身のせいではないという肯定を求めて。
「ああ、僕たちは失敗作だ」
僕は濁すことなく、苦い真実を空中に放り出した。「僕らのような人間は、他人の生存を支える『添え木』としか思われていない。主導権なんてないんだ。だからこそ、自分たちだけの自由を作り出さなきゃいけない。たとえそれが、表の生活の隙間から盗み出したものだとしても」
晴れ渡った朝空の下で、僕たちは暗闇へと足を踏み入れることに合意した。僕たちの言う「自由」とは、美しいものではない。共倒れになりながら、自分たちを破壊していく自由だ。
僕たちは路地の隅に隠れた小さなレストランに入った。ネオンの光が弱々しく、秘密を孕んだような場所だ。
「お腹は空いてる?」
僕が尋ねると、里美は小さく頷いた。この逃避の時間を引き延ばそうという、無言の誘いだ。「ええ、空いてるわ。……先に食事にしましょうか?」
僕たちは向かい合って座り、パートナーがオフィスで数時間必死に働いて稼ぐ額に相当する料理を注文した。テーブルの上に広げた財布には、自らの汗で稼いだわけではない紙幣が詰まっている。僕たちは、裏切っている相手からの「補助金」で宴を始めようとしていた。
「あなたの奥さんのこと、知ってるわよ、悟くん」
里美が切り出した。その声は低く、外科用メスのように鋭い。「彼女、すごく野心家でしょう? 息苦しくない? 今のあなたの状況で、あんな人の影に隠れて生きるのは」
彼女が餌を投げ、僕は喜んでそれに食いついた。僕は(おそらく)まだ妻を愛している。けれど、傷ついたプライドは、愛よりも強烈に「承認」を飢えさせていた。
「正直……きついよ」
自分に食事を与えてくれる女性を貶めるために、僕は口からゴミのような言葉を吐き出した。「時々、彼女は自分がすごく高潔な存在だと思い込んでる。『これは私のお金よ』なんて言葉が平気で飛び出すんだ。まるで僕が夫ではなく、ただ居候している置物であるかのようにね」
里美は毒々しい連帯感を込めて、かすかに微笑んだ。
「同じね。私の夫も、掃除が完璧じゃなかったり、給仕が遅れたりするとすぐに激昂するわ。私は過剰に支配されるのが大嫌いなのに。あんなゴミみたいな態度を取られて、もう本当に、家に居場所なんて感じられない」
言葉はさらに荒れ、僕たちは自分たちの卑劣さを正当化するために、互いのパートナーの醜悪さを剥き出しにしていった。閑散としたレストランで、僕たちは嘘の集積体で記念碑を築き上げていた。
自覚はあった。僕たちのような敗北者には、独自の「権力」の振るい方があるのだ。それは、自分たちの人生に君臨する「優れた者たち」を、自分たち以上に無価値な存在に仕立て上げることだった。
これが破滅の始まり——慈しみという土台の上ではなく、憎悪と「負け犬の共感」という堆積物の上に築かれた関係の幕開けだった。
レストランの中はさらに静まり返り、モノトーンな空調の音だけが響いていた。テーブルの上、僕たちの皿は空になり、乾き始めたソースの跡が残っている。それは、さっき僕たちが投げ捨てたプライドの残骸のようだった。
「私たち、本当に哀れな二人ね……」
里美が囁く。彼女の瞳は僕を真っ直ぐに射抜き、僕の中に残っていた最後の防波堤を突き崩した。
くすんだ木製のテーブルの上を、彼女の手がゆっくりと動く。
そのしなやかな指——今朝、夫の靴下を洗ったばかりかもしれないその指が、僕の指先へと這い寄ってくる。肌が初めて触れ合った時、美しい電撃などは走らなかった。ただ、馴染みのある「冷たさ」を感じただけだった。
彼女の手は、僕の手と同じように、洗剤の残り香で荒れていた。
僕は手を引かなかった。それどころか、その手を強く握り返した。その感触はひどく忌まわしいものだった。僕たちの薬指には、かつての希望と共に購入され、今や踏みにじられた結婚指輪がまだ光っていると知っていたから。
「悟くん……」
彼女の声が震える。愛ゆえではなく、自己破壊への渇望が混じった恐怖のせいだ。「私に触れて……。自分がただの家政婦だってこと、忘れさせて」
僕は立ち上がり、店員の視線が届かない薄暗い隅へと彼女を引き寄せた。唇が重なった時、ひどく苦い味がした。
安物のコーヒーと、さっき築き上げた嘘が混じり合った味だ。そこに慈しみなどない。あるのは怒りだけだ。僕たちは、お互いの肌にこびりついたパートナーの残り香を消し去ろうとするかのように、激しく貪り合った。
これが、あの「事故」だ。僕たちの論理は死んだ。汚れきった接吻の合間に、僕は確信した。僕たちは幸せを探しているのではない。ただ、泥沼の底へと共に沈んでくれる誰かを探しているだけなのだと。
「……僕たちは、壊れてしまうよ」
荒い息の合間に、僕は囁いた。
「わかってる」
里美は、恐ろしいほど空虚な瞳で答えた。「……でも、そんなことどうでもいいわ」
家の階段を上る足取りは重かったが、顔にはすでに「献身的な夫」の仮面を張り付かせていた。ズボンのポケットには、里美の感触の残滓がこびりついている。布地の裏側で、不潔な秘密が脈打っていた。
ドアが開く。妻が仕事鞄を置いたところだった。彼女の顔はひどくやつれ、額には疲労の皺が刻まれている。
「……ただいま」
消え入りそうな声で、彼女は言った。
僕はすぐに歩み寄った。躊躇うことなく、彼女の頬にキスを落とす。数時間前に他の女と貪り合ったばかりの唇でする、純粋な裏切りの接吻。それは愛しさからではなく、毛穴から漏れ出す罪悪感の匂いを掻き消すための儀式だった。
「おかえり。疲れただろう」
僕が出せる限りの、最も甘く偽善的な声で言った。
彼女をソファに座らせ、僕はその後ろに回った。さっきまで里美を弄んでいたその手で、妻のこわばった肩を揉み始める。
この家族を、そして僕を養うために彼女が背負っている重荷を、さも心から労っているかのように、正確にツボを突いていく。
「ああ、すごく凝ってるね。僕たちのために、頑張りすぎだよ」
耳元で囁く。洗練された言葉の操作だ。
彼女の緊張が解け、夫の「献身」によって警戒心が崩れた瞬間、僕は最後の一撃を見舞った。
「そうだ、ねえ……少し多めにお金を貰ってもいいかな? 娘が新しいスケッチブックを欲しがっていて。それに……急な物入りもあってね」
声は穏やかなまま、どこまでも優しく。
彼女は目を閉じたまま、小さく溜息をついてバッグの中の財布を探った。
「バッグから取って、悟くん。……いつも家を守ってくれて、ありがとう」
僕は震える手で、その紙幣を抜き取った。恐怖からではない。吐き気がするほどの「勝利の快感」に震えていたのだ。野心的で疲れ果てた妻が血に滲む思いで稼いだこの金は、明日、僕が里美と再会するためのコーヒー代やランチ代、あるいはホテルの部屋代へと消える。
僕は完璧な寄生虫だ。彼女の血を吸うだけでなく、吸っている間、彼女に微笑みさえ浮かべてみせるのだから。
保育園の門の前で、朝の陽光が僕たちを迎えた。娘とユウキくんが純粋で屈託のない笑い声を上げて駆け出していくと、僕たちの「仮面」もまた完璧に装着される。端からは仲睦まじく挨拶を交わす模範的な両親に見えるだろうが、その裏側で、僕たちの心臓はどす黒いリズムを刻んでいた。
「また、楽しみましょうね。悟くん」
他の保護者たちが去り際、里美が歩み寄り、耳元で囁いた。
「ああ、行こう」
短く答え、僕は彼女の指を絡め取った。なぜかその朝は、通りがひどく静まり返っているように感じられた。まるで、公共の場で野蛮に振る舞うことを、世界が許しているかのように。
初恋を知ったばかりの思春期の少年少女のように、僕たちは奔放にデートを重ねた。モールを歩き回り、ろくに観もしない映画を流し、味も分からないまま高級な食事を胃に流し込む。
そのすべては、パートナーが血の滲むような思いで稼いだ金を使い果たす、というただ一点の目的のために。手から手へと渡る千円札の一枚一枚が、オフィスで身を粉にして働く彼らへの、甘美な侮辱に思えた。
やがて、里美は微かに発光する看板の前で足を止めた。彼女は僕のシャツの裾を掴み、潤んだ、けれど強欲な瞳で僕を見上げた。
「……するの?」
それは問いかけというより、命令に近かった。
「ああ、しよう」
僕は冷徹に答えた。
防音の施されたその部屋の中で、最大級の裏切りが幕を開けた。長年の劣等感に埋もれていた欲望を互いにぶつけ合っている最中、僕の意識は別の場所を彷徨っていた。
果てることのない情事の最中、仕事のプレッシャーでこめかみを押さえているであろう妻の顔が浮かぶ。彼女がどれほど苦労して糧を得ているか、あるいは、保育園でお昼寝をしている娘がどれほど無垢であるか。
しかし、その罪悪感こそが燃料だった。どうでもいい。
自分が悪に染まれば染まるほど、僕は「自由」を感じた。ホテルの冷たいシーツの上に、僕たちは人間性の残骸をぶちまけた。家族の未来すべてを質に入れ、世界から盗み出した数時間の「偽物の自由」を貪った。
僕たちは、ついに自分たちの宿主を食い破り始めた二匹の寄生虫だった。そしてその破滅の中で、僕は初めて、自分が本当に「生きている」と実感した。
嵐のような情欲が過ぎ去った後、そこには重苦しい静寂だけが残った。乱れたシーツの中で、汗ばんだ肌を重ね合わせる。
「ああ……ずっとこうしていたい」
里美が僕の胸に頭を預けて囁いた。「でも、息子を迎えに行かなきゃ」
彼女の体温と、じわじわと這い寄る疲労感。この「自由」が、数時間のレンタルに過ぎないことを思い出させる。
僕たちは気乗りしないまま衣服を拾い集め、「模範的な親」の制服を再び身に纏い、顔から罪の痕跡を拭い去った。
保育園の門の前で、僕たちは再び赤の他人へと戻る。
子供たちは喜んで僕たちに駆け寄ってくるが、自分が握っているその手が、つい先ほどまで自分たちの未来の土台を切り刻んでいたことなど知る由もない。
僕たちはそれぞれの家へと別れ、再び「従順な寄生虫」の役割へと戻っていった。
その夜、いつものように妻の肩を揉んでいると、彼女が呟いた一言に僕の心臓は黒く脈打った。
「悟くん……明日から数日間、韓国へ出張に行くことになったわ」
その言葉は、僕の耳には「自由の鐘」のように響いた。彼女は気づいていないだろうが、僕をこの鎖から完全に解き放つ許可を与えたのだ。
「本当かい? ……すごく寂しくなるよ」
僕は、醜悪な本心を隠した仮面の裏で、これ以上なく甘く偽りの中の微笑を浮かべた。
彼女のうなじにキスをする。
今や空虚となった慈しみのジェスチャー。僕の頭の中では、すでに計画が組み上がっていた。妻が異国の地で家族のために糧を稼いでいる間、僕は彼女が代金を支払っているこの家へ、里美を招き入れる。
事故はもう、起きるのを待ってはいない。それは猛スピードで滑走を始めており、僕にはブレーキを踏むつもりなど、毛頭なかった。
街の反対側、いつも僕を「失敗」という現実へと引き戻す香りの漂う居間で、夫が年終ボーナスで買い上げた高価なソファに身を沈め、大きく背伸びをした。
「ねえ、明日から数日間、北海道へ行かなければならなくなった。会社の監査を直接チェックする必要があってね」
夫は淡々と言った。その視線は、自身の成功の証である数字を並べたタブレット端末に釘付けのままだ。
数時間前、安ホテルの部屋で残りの自尊心を売り払ったばかりの妻として、私は深く息を吸い込んだ。そして、これ以上なく整った「献身」の仮面を被る。私は歩み寄り、夫の腕に優しく触れた。
――その手には、まだ悟くんの感触が残っているというのに。
「本当? あなたがいない間、きっとすごく寂しくなるわ」
私は囁いた。それは、人生で最も滑らかに吐き出された嘘だった。寂しさ? そんなものは、彼が長い間放置し、腐敗させてきた慢性疾患のようなものだ。
そして今、私はその特効薬を悟くんという存在の中に見つけた。
私の頭の中では、計画が蟻の行列のように整然と組み上がっていた。夫が空港へ向けて一歩踏み出した瞬間、私は悟くんをここへ招き入れる。
夫の仕事椅子に彼を座らせ、夫がお気に入りのクリスタルグラスで酒を飲み、彼が「家長」としての地位を誇示するために買い与えたベッドの上で、私たちは愛を交わすのだ。
ただ裏切るだけでは足りない。彼が金で買い漁ったすべての品々を辱めてやりたい。彼が築き上げたこの「城」を、私たちが抱える不潔な澱みで汚してやりたい。これまで私をただの給仕として扱ってきたこの家で、悟くんこそが最高の賓客となるのだ。
破滅という名の事故は、今や専用の舞台を手に入れた。私たちは、この崩壊劇を最後まで演じきるのが待ちきれなかった。
その朝、パートナーたちが去っていく車のエンジン音は、まるで解放の音楽のように響いた。一人は韓国へ、一人は北海道へ。
僕たちはそれぞれの玄関先に立ち、突然自分たちのものとなった酸素を深く吸い込んだ。――少なくとも、これからの数日間は。
いつものように、完璧な偽りの微笑みで子供たちを保育園へ送り届ける儀式を終えると、この「事故」は正式に舞台を移した。
『君の家にするか、僕の家にするか。どっちを先にする?』
僕は里美にメッセージを送り、すぐに削除した。
『私の家よ』と彼女から返信が来た。『夫が替えたばかりのシーツを、汚してやりたいの』
僕たちの計画は単純だが、野蛮だった。僕たちは「裏切りのツアー」へと繰り出したのだ。
まず、僕たちは里美の家を襲撃した。夫のボーナスで支払われたベッドの上で、僕たちは溢れんばかりの怒りと共に抱き合った。喘ぎ声の合間にその男を貶め、彼の趣味を嘲笑い、彼が成功の祝杯のために貯蔵していた高級ワインを煽る。
次に、舞台は僕の家へと移った。
そこでは、野心家な妻が座る仕事椅子に里美が腰掛け、僕は彼女の前に跪いた。僕たちは同じことを繰り返した。いつも僕を萎縮させるこの部屋のあらゆる隅々で、狂気の情事を重ねる。
この家で、僕はもう「養われている夫」ではない。裏切りの同盟者と共に、自らの城を略奪する王なのだ。
僕たちは何もかもを捨て去った。枕に残るパートナーの香水の残香すら、アドレナリンを煽る起爆剤となった。
道徳などすべて放り出し、子供たちを迎えに行き、日常の仮面を再び被らなければならないその時まで、この自由を最後の一滴まで絞り尽くす。
一時的に、この世界は寄生虫(僕たち)のものとなった。本来の所有者が戻ってくる前に、この家のあらゆる場所に僕たちの腐敗した記憶を刻みつけてやるのだ。
僕の物ではないベッドの上で「冒険」に耽っている最中、里美のスマートフォンが悲鳴を上げた。画面に表示された名前は——『夫』。
「嘘、どうしよう……」
里美がパニックに陥り、僕の腕の中で身を硬くした。
微睡んでいた彼女の瞳が、震え続ける端末を見て一気に剥き出しになる。
僕は止めなかった。それどころか、こみ上げてくる闇の衝動に身を任せ、冷笑を浮かべた。
「出ればいい」
彼女の耳元で、荒い吐息を混ぜて囁く。「喘がないように、僕がリズムを落としてやる。……君の支配権を見せてやれよ、里美。今はもう、あいつの所有物じゃないってことを」
僕の言葉は、彼女の怒りの炎にガソリンを注いだ。里美は深く息を吸い込み、声を整えようと試みてから、画面をスライドさせた。「……ええ、出るわ」
彼女はまるで昼寝から覚めたばかりのような声を演出し、その背後で僕が依然として彼女の中にあり、極めてゆっくりと、だが執拗に動いているという事実を隠蔽した。
『里美か? あと数時間でそっちは嵐になるらしい。ユウキの迎え、忘れるなよ』
スピーカーから夫の声が響く。
冷淡で、命令的で、まるで部下に言い聞かせているかのような口調。その見下したような響きに、僕の中の怒りが再燃した。無意識のうちに、彼が話しているその瞬間に、深く、危険な一撃を叩き込んだ。
「あ……っ!」
里美が短く喘ぎ、突発的な快感に耐えるように目を閉じた。
『里美? どうした?』
電話の向こうで夫の声が疑念に変わる。
里美は下唇を噛み締め、指関節が白くなるほどシーツを掴んだ。
「……ん、ううん、なんでもないわ。ちょっと……足が攣っちゃって。ええ、わかってる。これからすぐにユウキを迎えに行くから」
『ああ、ならいい』
夫はいつもの高圧的な態度に戻った。「この監査が終わったら、お土産を買って帰るよ」
プツリ、と通話が切れた。
里美はスマホを床に投げ捨て、完全に壊れてしまった瞳で僕を振り返った。
「お土産?」
彼女は、嗚咽に近い悲鳴のような笑い声を上げた。「私を家庭の備品(在庫)みたいに扱っておいて、物を与えれば買い叩けると思ってるのね……!」
「だったら」
僕は再び、不潔な抱擁の中へと彼女を引き寄せた。「このベッドの上で、あいつに本当の『土産』を用意してやろう」
「子供たちのことなんて、どうだっていい!」
狂気が頂点に達し、僕は枯れた声で叫んだ。「僕の種が尽きるまで、脈動が止まるまで、この自由を完遂してやる!」
僕は主寝室へと押し入り、クローゼットから妻の高級な服を次々と引きずり出した。シルク、仕事用のブラウス、彼女の野心の象徴であるドレスの数々を、無価値なゴミのように床へぶちまける。彼女が誇りにしていたこの家から、彼女の存在証明を消し去りたかった。
「嵐だろうが津波だろうが、知ったことじゃないわ!」
里美もまた、同じ怒りに目をぎらつかせた。挑発的な動作で、彼女は散らばった僕の妻のブラを拾い上げ、まるで戦利品であるかのように身に纏った。
僕は彼女の体をひったくり、衣類の残骸の中で乱暴に口づけを交わした。僕たちは怒りと崩壊の奔流に流されるだけの、二つの魂だった。
外では、世界もまた憤怒しているかのようだった。
対馬海峡の上空、黒い嵐が空を飲み込んでいた。僕の妻は、激しく揺れる機体の中で顔を青ざめさせ、鋼鉄の翼を打つ雷光を凝視していた。
北海道へと向かう北の海では、里美の夫が甲板で呆然と立ち尽くし、海面を切り裂く巨大な竜巻を目の当たりにしていた。――死が、彼らの扉を叩こうとしていた。
保育園の隅。薄暗い部屋の中で、僕の娘とユウキくんが身を寄せ合って震えていた。雷鳴に悲鳴を上げ、僕たちの名前を呼んでいる。自分たちを守ってくれるはずの両親の名を。
だが、僕たちは?
知ったことか。
家の明かりが消え、完全な闇が部屋を飲み込んでも、僕たちは止めなかった。
窓ガラスを震わせる風の咆哮の下で、僕たちはただ堕ちていく。この嵐が屋根を突き破り、僕たちの頭上に崩れ落ちるその瞬間まで、僕たちはこの破滅を謳歌し続けるのだ。
家の明かりは絶たれたが、僕たちの脳裏で燃え盛る火は、いかなる嵐よりも激しかった。もはや寒さも、羞恥も感じない。
居間の窓ガラスを打ち砕く風の咆哮の中で、僕は崩壊していく世界を嘲笑った。
「外へ出ましょう」
里美が囁く。その瞳は空虚で、理性の輝きは疾の昔に情欲と復讐心の中に流し去られていた。
「彼らが代金を支払ったこの『箱』の中で死ぬなんて、真っ平だわ」
一糸纏わぬ姿のまま、散乱した妻の服や床に伏せられた家族写真など目もくれず、僕たちは踏み出した。
玄関のドアは大きく開け放したまま。偽りの家庭生活の残骸を、嵐が蹂躙するに任せた。
叩きつけるような雨の中、僕たちは歩いた。アイデンティティを失った、二つの裸の肉体。世間の目には、怪物か狂人に映っただろう。だが僕たちにとって、これこそが最も純粋な「誠実」だった。
もう家を守る必要も、子供を送り届ける必要も、寄生虫である必要もない。僕たちはただ、歩き続ける「虚無」そのものだった。
遠くで嵐のサイレンが鳴り響き、振動を始めた線路の軋む音と重なり合う。
「見て、悟くん……あれが私たちの、本当の自由よ」
里美が指差した先、嵐の闇を切り裂く列車のヘッドライトが迫っていた。
線路の傍らに辿り着いた。そこにはもう、「糧を与える者」と「与えられる者」を隔てる壁など存在しない。
保育園では、娘とユウキくんが最期に僕たちの名を呼んで泣いているかもしれない。けれど、その声は近づいてくる鋼鉄の唸りに掻き消されていった。
僕たちは手を繋いだ。爪が互いの肌に食い込むほど、強く。白光が僕たちの視界を焼き尽くした時、僕はもう韓国にいる妻のことも、北海道にいる里美の夫のことも考えていなかった。
ただ、誰に寄りかかることもなく「壊れる」ことの美しさだけを感じていた。
「いち……に……」
鉄の車輪が悲鳴を上げた瞬間、僕たちは跳んだ。
ついに、あの「事故」が起きたのだ。もう待つ必要はない。猛り狂う嵐の下、二匹の寄生虫はついに宿主を啜るのを止め、最も永遠で、最も忌まわしい自由の中で、土へと還っていった。
(完)




