第5話:嵐の前の静寂と研鑽
夜の帳が下りた『紅蓮庵』の離れ。女将である香が心を砕いて整えたその静謐な空間で、朔夜たちは明日からの死闘に向けて、それぞれの牙を研ぎ澄ませていた。
庭に面した縁側。朔夜は、膝の上に妖刀『紅時雨』を横たえ、白濁し始めた視界を無理やり引き戻すように目を閉じていた。
(……砂の味だ)
何度唾を飲み込んでも、舌の上に広がるのは乾いた砂の不快な感触ばかりだ。20年前のあの日。紅時雨を手にして呪いに蝕まれた朔夜には、香が腕によりをかけて出した料理の繊細な味さえ全く届かない。五感が死に、世界が砂漠へと変貌していくような恐怖。だが、その絶望感こそが、今の彼にとっては「ろみなを救わねばならない」という狂おしいほどの原動力となっていた。
その傍ら、客間の畳の上では、桜猟が二振りの刀を静かに手入れしていた。『劫炎丸・朝梅』と『劫炎丸・夜桜』。時折、彼は懐の感触を確かめる。そこには、銀紙に包まれた一粒の苺飴があった。ろみなが拉致される直前に手渡してくれた、あの日以来一度も口にしていない宝物だ。
「……親父。刀、いつでもいけるばい」
桜猟の声には、かつての幼さはなかった。ろみなが注いできた愛情は、今や母を取り戻すための冷徹な意志へと変貌を遂げている。
「桜猟。……その飴は、ろみなに会うまで取っておけ」
「……ああ。分かっとる。母ちゃんに『ただいま』って言う時に、一緒に食べるっちゃん」
その時、離れの板場から鋭い音が響いた。 蹴鞠が、実戦を想定した足技の最終調整を行っているのだ。彼女の蹴りは、もはや空気を切り裂く刃そのものだった。紅蓮庵という場を汚さぬよう、その動きは極限まで無駄が削ぎ落とされ、静止と加速が交互に繰り返される。
三人はあくまで「客」としてこの場所に身を置いているが、その佇まいはもはや、安らぎを求める旅人のそれではない。
「……失礼いたします」
廊下から、女将・香の落ち着いた声がした。彼女は、一家の背負った事情を察しながらも、深入りせず、ただ最高の「もてなし」で彼らを支え続けてきた。
「朔夜さん、もしもの時はこれを。……どうか、ご無事で」
「……香さん。長居させてもらったな。礼を言う」
朔夜が立ち上がり、差し出されたものを受け取る。それは「赤い小瓶」。朔夜が正気を取り戻す為のトリガーとなる、香特製の激辛調味料の粉が入っている。礼をいう朔夜に呼応するように桜猟と蹴鞠も武器を手に取った。高級小料理屋としての温かなもてなしが、彼らの心を完全に折れさせないための「錨」となっていた。
「目的地はNEXUS。ろみなはそこにいる。……どんな地獄が待っていようと、俺たちが家族であることを思い出させてやる」
朔夜の言葉に、二人の子供が力強く頷く。紅蓮庵を包む夜気はどこまでも澄み、冷たい。夜明けとともに彼らはこの静寂を抜け、愛する者を取り戻すための血塗られた戦場へと足を踏み出すことになる。




