第4話:苺飴の約束と、流華の警告
嵐が去った翌朝。岐阜の山々は深い霧に包まれ、『紅蓮庵』の周囲は白銀の帳が下りたような静寂に満ちていた。望月蹴鞠は、客間の畳の上で目を覚ました。寝返りを打つたびに、スパイとして鍛え上げられた体が、慣れない安らぎを拒絶して軋む。
「……なんでうちは、殺しに来た相手の家で寝とるん……」
自分に毒を盛ることもせず、それどころか「雨宿りだ」と言って部屋を貸した53歳の死神・朔夜。そして、昨夜圧倒的な力でねじ伏せたはずなのに、今は階下で元気に掃除をしている23歳の若造・桜猟。
蹴鞠は警戒を解かぬまま、音を立てずに廊下へと出た。階段を降りると、そこには意外な光景が広がっていた。
「おい、そこはもっと丁寧に拭け。香さんに怒られるぞ」
「分かっとるばい! 親父こそ、朝からそんな辛か匂いのするもん食べんでよ」
桜猟が雑巾がけをし、カウンターでは朔夜が香の作った真っ赤なスープを啜っている。その光景は、戦いとは無縁の、どこにでもある不器用な父子の朝食に見えた。
蹴鞠が姿を見せると、桜猟が顔を上げた。
「……あ、ねーちゃん。起きたとね。腹減っとるなら、香さんの作った飯ば食いんね。あんたの分もあるばい」
「……うちは、あんたたちの隙ば狙っとる刺客よ。毒ば入れられとるかもしれん飯なんて食わん」
蹴鞠は毒づきながらも、カウンターの隅に腰を下ろした。香が無言で差し出したのは、朔夜の地獄のような料理とは対照的な、炊き立ての白米と、岐阜の特産である「赤かぶの漬物」、そして芳醇な味噌汁だった。 その香りを嗅いだ瞬間、蹴鞠の腹が小さく鳴った。
「……食べないって言ったのに……っ」
顔を赤くする蹴鞠を無視して、桜猟は懐から何かを取り出した。銀紙に包まれた、小さな丸い塊。
「……やるけん。これ食って、落ち着きんね」
桜猟が蹴鞠の前に置いたのは、古びた、けれど大切に保管されていたことがわかる銀紙の包み。――苺飴だった。その瞬間、蹴鞠の心臓が、まるで鐘を打ち鳴らされたような衝撃とともに跳ねた。
「……これ……これ、どこで……?」
「これね? 母ちゃんが20年前、最後にくれた宝物ばい。二粒あったっちゃけど、一粒は俺の分。もう一粒は……いつか、はぐれた姉貴に会えた時に渡そうっち思って、ずっと持っとるんよ」
桜猟は、照れくさそうに笑った。その屈託のない笑顔、そして差し出された苺飴の銀紙。蹴鞠の脳内に、封印されていたはずの、燃え盛る屋敷の記憶が鮮烈に蘇る。
『桜猟、これ持っとりゃあ。母ちゃんだと思って、ずっと持っとるんやよ』
あの夜、母・ろみなが自分と弟に握らせたもの。自分が失くし、忘れたふりをしていた「家族の証明」。
「……ああ……あ……」
蹴鞠の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それを見た朔夜が、箸を止める。白濁した視界の中で、彼は確かに、20年前に失ったはずの「娘」の泣き声を聞いた。
その時。 店の裏口から、場に不釣り合いな電子音が響き、漆黒のコートを纏った青年が、顔を青くして駆け込んできた。弓弦喜 流華だ。
「……朝から親子水入らずのところ悪いが、悠長に飴を舐めてる時間はないぞ。桜猟、朔夜さん」
流華は手に持ったタブレットをカウンターに叩きつけるように置いた。そこには、岐阜の空を覆い尽くさんとする、NEXUSの浮遊要塞の影が映し出されていた。
「流華、どうしたっちゃ。そんなに慌てて」
「NEXUSが動き出した。代表の浅葱が、ついに岐阜の旧御門領への降下を開始したんだ。……狙いは不明だが、一つだけ確かな情報がある。……要塞の最深部に、高エネルギー反応と共に、生体反応が確認された。……20年前、お前たちが失ったはずの、ろみなさんの波長と完全に一致する」
流華の声が熱を帯びる。情報屋としての冷徹さを超え、彼は親友である桜猟の目を見据えた。
「……生きてる。桜猟、彼女はそこにいるんだ!」
「……母ちゃんが……生きて、そこに……っ!」
桜猟の瞳に、眩いほどの希望が宿る。蹴鞠もまた、涙を拭い、戦士の顔を取り戻した。静寂が、紅蓮庵を包み込む。朔夜は静かに立ち上がり、傍らの『紅時雨』を手に取った。
「……香。留守を頼む」
「……はい、朔夜さん。……どうか、皆さんで、ろみなさんを連れて帰ってきてください」
香の切なる祈りを背に、宿命に導かれた四人は、霧の深い山道へと踏み出した。二十年の時を経て、家族が再び揃うという「希望」だけを胸に。
その先に、言葉を失うほどの「絶望」が待ち受けているとは、この時の彼らはまだ知る由もなかった。




